第8話 家族としての決断





佐藤さとうさーん。聞こえますか?」


大きな声に枝折しおりが目を開けると、紺色のケーシーを着た若い男性の医師が顔を覗き込んでいた。


「はい」

「佐藤さん、黄疸が出てるんですよ。

最近おしっことか便が変だなってことなかったですか?」


ピッピッ、という音の方へ振り向くと真横にモニターが置いてある。それを見ながら枝折はぼんやりした頭で医師の言ったことを反芻していた。


「尿は紅茶みたいな色でした。

便は白っぽくて」

「そうですか。今早急で血液検査に出してるんですけど黄疸が出るにはね、原因があるんですよ。

それをね、調べていかないとなんですけど、」

「あの、」


医師に伸ばした手にいつのまにか点滴の針が刺さっていて包帯のようなものでぐるぐる巻きにされている。

若いのにしっかりした医師は優しい笑みを浮かべて伸ばした枝折の手をまたストレッチャーの上に置いた。


「どうしましたか?」

「あの、あの…息子が…連れて来てくれたんですけどあの子には検査の結果とか言わないでほしいんです」


薄れていく意識の中で枝折はコナの泣きそうな顔を見た。

今まで辛く苦しいことばかりだったコナ。

心配をかけたくなかった。


「わかりました。結果が出たらまず佐藤さんにお伝えしてその後息子さんにお伝えする内容を一緒に考えましょうか」


普通ならダメと言われるところなのかもしれない。

しかしこの医師は快く枝折の願いを聞いてくれた。


「ありがとうございます。先生」


枝折が目を閉じる。だるくてだるくて仕方なかった体が点滴をしているからなのだろうか、病院に来たからなのだろうか。少し楽になった気がした。



救急外来の入り口は閉鎖されている。

守衛はいるが入院患者が勝手に外に出ないようにだ。

なので外から来る場合はインターホンを押さなければならない。


椅子に座っているが、倒れそうになっているコナの耳に割と大きめなブザーが聞こえた。


「はい。あ、お待ちください」


入り口の近くにいた守衛がそう言って自動ドアを開ける。

外から飛び込んできたのは篤子あつこだった。


「コナ!」

「篤子さん…」


消えそうなコナの声。篤子はヒールをカンカンと鳴らしながらコナのところへ行き、抱きしめた。


「大丈夫よ。どうせ飲みすぎてひっくり返ったんでしょ」


ううん、と篤子の腕の中でコナが小さく首を横に振った。

ひとりでは抱えきれなかったコナは外へ出た時に篤子に電話をした。

店はもう終わっていたが、客と飲んでいた篤子はあわててタクシーに飛び乗ってやってきた。

それぐらいコナの声が震えていたのだ。


「最近…枝折さん、ホントに飲んでなくて…

今思ったら、飲めなかったんじゃないかな」


守衛が篤子とコナをチラチラと見ている。

黒のシャツに黒のズボンのコナと、真っ赤なスーツを着た篤子は目立っていた。


コナを抱きしめながら篤子も隣に座る。

肩をさすっていると、コナの力が少し抜けてきた。


「もう。アイツ。調子悪いんなら早く言いなさいっての」


篤子はつとめて明るく話す。

枝折のことが心配でたまらないのは篤子も同じだ。

しかしコナのことも同じぐらい心配だった。



「佐藤さん」


うとうとしていた枝折のそばに先ほどの医師が来た。

起きあがろうとした枝折を制す。

枝折がまた横になると、近くにいた看護師が布団を掛け直した。


「血液検査の結果が出ました。これ見てもらえますか?」


血液検査の結果を印刷した用紙を医師が枝折に渡す。

仰向けのまま枝折は用紙を目に近づけた。


「ビリルビンというのがありまして、ここですね。これがやはり高いんですよ。黄疸が出ているともちろん上がるんですけど問題は…」


医師が胸ポケットにさしていたペンを取り出し、枝折が持っている用紙の一部を赤丸で囲んだ。


「直接ビリルビンというのがこれでして、これが高いと胆道系の閉塞が疑われます」

「胆道?」


医師が白い用紙に持っていたペンでササっと絵を描いて枝折に見せた。


「ヘタクソで恥ずかしいんだけど、これが肝臓です。肝臓から十二指腸に胆汁を流している管が胆管です。

胆管は肝臓の中にも外にもあって、佐藤さんは今、この胆管のどこかが詰まってる状態です」


胆汁が流れないから黄疸が出た、と医師は説明した。


「なぜ胆道が閉塞したのか。突っ込んだ検査をしていくのでこのまま入院になります」

「入院?何日ぐらいですか?」

「検査の結果次第ではそのまま治療に入ることも考えられますのでハッキリしたことは言えません。

でも佐藤さん。このままお帰りになってもたぶん辛くて動けないと思いますよ」


医師の言うことは当たっていた。少し楽になったとはいえ今から歩いて帰れ、と言われたら困っていたところだ。


「わかりました。先生、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。今の段階までなら息子さんにお話ししてもいいですか?」


原因はまだわからない。これから検査をするのであれば店は閉めないとならないのだ。

心配をかけさせたくなかったが、コナには話しておかなければならなかった。


「はい。お願いします」

「ではここに入ってもらいますね」


看護師が部屋を出て行く。すぐにコナと篤子が入って来た。


「篤子?」

「ごめん。俺が電話したの」

「あんた無理しすぎよ。もう若くないのよ?」


そう言って篤子は枝折の手を握った。

看護師がすぐに枝折が寝ているベッドの横に椅子を持って来て篤子とコナを座らせた。


医師がさっき枝折にした説明をもう一度コナと篤子にする。

入院、と聞いてコナがやっとホッとした表情になった。


「先生、入院したら治りますよね?」

「検査してから治療になると思いますよ」

「良かった。枝折さん、ゆっくり休んで早く良くなって…」


コナの目から涙がこぼれる。

枝折が手を伸ばしてコナの頬に触れ、大きく息を吸った。


「なに泣いてるのよ。入院が長引いたら店を開けるのよ。店賃払えなくなったら困るわ」

「え、俺が?」

「当たり前でしょ。コナしかいないんだから。

頼んだわよ!」


枝折の元気な声を聞いてコナと篤子が笑う。

今にも閉じてしまいそうな目をがんばって大きく開け、枝折も笑った。



三日後、検査が終わった。

看護師が病室に来て、枝折を車椅子に乗せた。


「歩いていきますよ」


看護師に申し訳ないと思った枝折が車椅子から後ろを振り向いた。


「画像見て説明しますから、少し遠いお部屋に行きます。大丈夫ですよ。私も同席させていただきますから」


息子には言わないでくれ、と枝折が頼んだことを共有してくれている。

今から枝折はひとりで検査の結果を聞くのだ。


看護師が枝折の肩をさすって、行きましょうか、と微笑んだ。



救急外来で診てくれた医師は偶然にも肝胆膵科の医師だったのでそのまま枝折の主治医になった。

毎日病室に顔を出してくれる主治医を枝折は信頼していた。


「佐藤さんどうですか?車椅子の乗り心地は」

「そっちですか。最高です。運転手がいいのかしら」

「もう、佐藤さん」


医師、看護師、枝折が笑う。

窓のない部屋の机に車椅子を近づけた看護師がその近くに座る。机の上のモニターには枝折のCT画像が映されていた。


「では説明していきますね。まずこれがCTなんですけど」


医師がマウスを動かして画像の一部分でポインターをくるくるとさせた。


「これは肝外胆管といいまして、肝臓の外にあるんです。佐藤さんはここが閉塞していることがわかりました」


モニターに顔を近づけている枝折の顔は三日前よりもさらに黄色かった。


「閉塞している原因はおそらくがんです。正式には肝外胆管がんと言います」

「そうですか」


がんだ、と言われても枝折は驚かなかった。

それぐらい体が辛かったからだった。


「で、これがエコーになります。わかりにくいんですけどこの胆管の中にがんがいますね。

5ミリもないんですけど元々胆管というのは細いのでそれでも詰まってます」


CT画像もエコー画像も枝折にはよくわからなかったが、医師が説明してくれたので原因はわかった。

店をどうしよう、と枝折は考えていた。閉めるとなるとコナはどうするのか。

コナには一人で開けなさいと言ったが、現実的には厳しい。


しかし本当はそれよりもコナをひとりにしてしまうことが枝折は苦しかった。

コナを置いて近いうちにこの世を去らなければならない。

篤子もだ。強そうに見えて脆い篤子は自分がいなくなったら大丈夫なのだろうか。


全くの一人なら枝折はここまで苦しまなかった。

愛する家族を置いていく気持ち。身を裂かれる思いだった。


「次に治療の話です」

「治療…できるんですか?」

「それを選択するのは佐藤さんなんですが、

その前に黄疸をどうにかしないとそれこそすぐに死んじゃいますからね」


医師が明るく話すので、枝折はくすくすと笑った。

医師の説明ではお腹から管を入れて溜まっている胆汁を外へ出す手術をして、それからがんの治療に入るということだった。


「よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。佐藤さんのがんは50代以降の男性の方に多く見られるんです」

「あら。私男ですけどまだ40になったばかりです」

「ですよね。失礼しました」


枝折が看護師と顔を見合わせて笑う。その間に医師はモニターの画像を切り替えた。


「胆管がんは転移していなければ手術します。

転移があるかないかはこれからPET-CTという検査をして結果を見てみます。

もし転移がなければ膵頭十二指腸切除術というのを佐藤さんの場合するんですが、ここをね、」


モニターには簡単に描かれた臓器が映っている。

医師がマウスを動かして結構な広範囲をぐるりと囲った。


「ここを全部取っちゃうんで術後は結構しんどいです。

かなり侵襲の大きな手術になります。

そして、手術で取っても、胆管がんは再発の可能性が非常に高いです」

「…治らないってことですね」


覚悟はしていたものの、枝折の頭の中にまたコナが浮かぶ。

自分のことを母だと言ってくれたコナ。

あの子はまた母を失うことになるのか。


「ゼロではありませんよ。なにが起こるかわかりません。

さっき、佐藤さんに決めていただく、と言ったのも佐藤さんの望みを聞きたかったからなんです」

「望み?」

「たとえば、手術をして抗がん剤をしながら働きたいとかもう治療はしたくないからこれから現れる痛みだけを取ってほしいとか。個人個人によって望みは違いますから」


枝折の中でコナが微笑む。

その笑顔のそばに一秒でも長くいたいと思った。


「息子のそばに少しでも長くいたいです。

あの子を泣かせたくない。幸せになってほしい」

「わかりました。それなら…息子さんにも真実を話す方が僕はいいと思いますよ」

「それは、」

「最初は悲しむでしょう。でも泣かせたくないのなら一緒に闘ってもらうべきです。

佐藤さんも息子さんとともに成長しましょう」


ともに成長する。病気のことはなにもわからない。

始まったばかりなのだ。コナとともにこれから一喜一憂しろというのか。

枝折は医師の言葉を必死で噛み砕いていた。


「それが家族ですよ」

「家族…」

「佐藤さん。僕はさっき完治の確率は低いと言いました。

手術しても再発する可能性が高いと言いました。

でも、僕は諦めませんよ。

佐藤さんが息子さんのそばにいたいという望みを一緒に叶えたいです」


かくん、と枝折が頭を垂れる。すぐに揺れ始めた肩を看護師が横から優しくさすった。


「…先生。私の息子…本当にいい子なんです」

「佐藤さんの息子さんですもんね」

「うう……」


今から息子さんに電話をしてきます、と看護師が席を外す。

よろしくお願いします、と枝折は医師に涙声で頭を深く下げた。








元々店にはコナひとりで住んでいる。枝折は店が終わると自分のマンションに帰るので常いないのだが、枝折が入院してからコナは淋しくて仕方がなかった。


あまり眠れないコナはこの日も朝早く目が覚めた。

起きてすぐに枝折にラインをする。

おはよう。どう?、と聞くと、枝折からは退屈よ、と返信があった。

そのひとことでコナは安心する。

昨日から食べていないことに気づいて、コナはあわててコンビニに行った。



【今日会えない?】


四季しきから来たラインにコナはなんて返信しようか悩んだ。

篤子から聞いていないのだろうか。

枝折のことに何も触れてない四季のメッセージ。

枝折の病院の面会時間は14時からなので、それまでなら四季に会うことはできる。


【14時から用があるけどそれまでなら】

【もうすぐしたらbranchに行く】


四季にしては早起きだ。しかもあわてている感じがする。

弁護士の蒼がなにか情報でも掴んだのだろうか。


枝折の検査の結果もまだ出ていないので、コナの心は重かった。


コンビニで買って来たごはんをかきこんでいると携帯が震える。見たことのない番号。病院かもしれないと思ったコナは画面をタップした。


「おはようございます。新橋中央病院五階東病棟の、」


看護師が名前を名乗る。枝折の入院している病棟からだった。


「はい。佐藤です」

「佐藤枝折さまの検査結果の説明と治療について医師からお話がありますので、15:00頃来られますか?」

「はい。行きます」

「では来られましたら佐藤さんの病室でお待ちくださいね」


検査結果が出た。コナの胸がグッとなにかに掴まれたように痛んだ。

しかし治療、と看護師は言っていた。治療できると言うことは、枝折は治るのだ。


いろいろ考えていたら頭が混乱してくる。

コナは無理やり残りのごはんを食べて気合いを入れた。


篤子もいるが、枝折を支えるのは自分だ。

顔を洗って髪を整える。

早く病院に行って枝折の顔が見たい。

こんな時に限って時間が経つのが遅かった。





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