第7話 居場所のない空間
私が腰を下ろした場所は、この部屋の主が毎晩身体を横たえ、無防備な時間を過ごすための神聖な領域だった。
お尻の下で沈み込むマットレスは、想像していたよりもずっと柔らかく、私の体重を受け止めて不安定に揺れる。そのたびに、紺色のボックスシーツの繊維の奥から、先輩の匂いがふわりと舞い上がった。それは先ほど玄関で嗅いだものよりも遥かに濃密で、かつプライベートな、甘く重たい体臭の塊だった。私は自分が、先輩の残り香という目に見えない膜に全身を包まれているような錯覚に陥り、思わず膝の上で拳を握りしめた。ジャージのズボン越しに伝わるシーツの感触が、まるで先輩の肌に触れているかのように生々しく感じられ、太ももの内側が熱くなる。
先輩はローテーブルを挟んだ床の上に、リラックスした様子で胡座(あぐら)をかいていた。手にしたグラスを傾け、琥珀色の麦茶を喉に流し込む。ゴクリ、ゴクリと喉仏が上下する様が、私の位置からは見下ろす形ではっきりと見えた。汗ばんだ首筋に張り付く数本の髪、鎖骨のくぼみに溜まる影。ユニフォーム姿ではない、無造作な部屋着のようなTシャツ姿の先輩は、部活の時とは違う、無防備で雄々しい色気を放っている。
「……ふぅ。生き返るな」
先輩がグラスをテーブルに置き、大きく息を吐いた。カラン、と氷がグラスの壁に当たる音が、静まり返った部屋に涼やかに、そして鋭く響く。その音は、私たちが今、外界から隔絶された密室に二人きりでいるという事実を、冷徹なまでに再認識させた。
会話が途切れると、部屋の中は真空のような静寂に包まれた。聞こえるのは、部屋の隅にある冷蔵庫が時折立てる低い唸り声と、自分自身の早すぎる心臓の鼓動だけだ。私は何か話さなければと思うのに、言葉が喉に張り付いて出てこない。「赤本を見せてください」という本来の目的を口にするには、今の空気はあまりにも湿度が高すぎた。
逃げ場のない視線は、自然と部屋の中を彷徨うことになる。
私のすぐ足元、ベッドの脇の床には、黒い革のベルトが無造作に蜷局(とぐろ)を巻いて落ちていた。バックルの金属部分が鈍く光っている。その隣には、読みかけの週刊誌が伏せて置かれ、さらにその奥には、使いかけの男性用整髪料のボトルが転がっている。どれもこれも、私の部屋には決して存在しない、異性の生活の欠片たちだ。
本棚に目を向ければ、難解な法律用語が並ぶ背表紙の隙間に、いくつか映画のDVDが差し込まれているのが見えた。アクション映画や、少し大人びたサスペンス。先輩は夜、このベッドに寝転がりながら、あのスクリーンで映画を見ているのだろうか。その時、先輩はどんな格好をしているのだろう。誰かと電話をしたりするのだろうか。私の知らない先輩の時間が、この八畳間には層のように積み重なっている。私はその堆積した時間の中に、異物として紛れ込んでしまったのだ。
自分がひどく場違いな存在に思えてくる。汗と土埃にまみれたジャージ姿の女子高生が、こんな大学生の男の人の部屋に上がり込んで、ベッドに座っている。その構図自体が、どこか倒錯的で、許されないことのように感じられた。私は無意識に足を揃え、身体を小さく縮こまらせた。
「……そんなに緊張すんなよ。取って食ったりしねえから」
私の強張った様子を察したのか、先輩が苦笑交じりに言った。その口調は、部活の後輩をからかう時の軽さを装っていたけれど、私を見る瞳の奥には、どこか粘り気のある光が宿っているように見えた。
「き、緊張なんて、してません……ただ、なんか、落ち着かなくて」
「まあ、男の部屋なんて初めてだろ? むさ苦しくて悪かったな」
「いえ、そんなことないです。……なんか、先輩らしいなって思って」
精一杯の強がりを返すと、先輩は「なんだそれ」と笑い、テーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばした。
「暑いな。設定温度、下げるか」
ピッ、という電子音と共に、エアコンの風量が増した。ブォォーという送風音が静寂を埋めてくれることに、私は少しだけ安堵する。冷たい風が部屋の空気を掻き回し、私の汗ばんだ額を撫でた。
しかし、その風は同時に、私の身体の熱を奪うことで、自分が「汗をかいている」という事実を冷酷に思い出させた。首筋や背中が、冷やされた汗でじっとりと濡れている。制汗剤の香りはもう飛び、今はただの汗の匂いがしているのではないか。先輩の部屋の匂いに混じって、私の匂いが拡散されているのではないか。
そう考えると、再び羞恥心がこみ上げてきた。私は反射的に腕を組み、自分の匂いを閉じ込めようとした。けれど、先輩はそんな私の動作を、じっと観察するように見つめていた。
「……お前、顔赤いぞ。のぼせたか?」
「えっ? あ、いえ、外が暑かったから……」
先輩が膝立ちになり、テーブル越しに身を乗り出してきた。急に近づいた顔の距離に、私は息を呑んで背中をのけ反らせる。けれど、後ろは壁だ。逃げ場はない。
「どれ」
先輩の手が伸びてきて、私の額に触れた。
ひやりとした、大きくて硬い手のひら。さっきまで冷たいグラスを持っていたせいで、その手は氷のように冷たかった。火照った私の肌に、その冷たさが電流のように走る。
「……熱いな。結構、体温上がってるんじゃないか?」
先輩の顔が、さらに近づく。長いまつ毛の一本一本まで数えられそうな距離。彼の吐息が、微かに私の鼻先にかかる。そこにはコーヒーの香りと、隠しきれない雄の気配が混じっていた。
私は瞬きもできず、ただ固まっていた。触れられている額の熱が、そこから全身へと伝播していく。先輩の瞳に映る自分の顔が、熟れた果実のように赤くなっているのが分かった。これは熱中症の熱ではない。この部屋の空気と、目の前の捕食者が発するフェロモンに当てられた、情熱という名の熱病だ。
「汗、すごいことになってるぞ」
先輩の視線が、私の額から頬、そして汗が伝う首筋へとゆっくり滑り落ちた。その視線の動きは、まるで舌で舐め上げているかのように粘着質で、触れられていないはずの肌がゾクゾクと粟立った。
「……すみません、汚くて……」
消え入りそうな声で謝罪すると、先輩は口の端を吊り上げて、意地悪く笑った。
「汚いなんて言ってないだろ。……むしろ、そそるよ」
その言葉の意味を理解するよりも早く、先輩の手が私の額から離れ、頬を包み込むように滑り降りた。親指が、私の唇の端を軽く拭う。ザラリとした指の感触。それは、優しい先輩のタッチではなく、獲物の質感を確かめる男の手つきだった。
私は身動きが取れなかった。逃げたいのか、それとももっと触れられたいのか。自分でも分からない感情が渦を巻き、思考を白く塗りつぶしていく。ただ一つ確かなのは、この居場所のない空間こそが、私が無意識に望んでいた「檻」の中だということだけだった。冷蔵庫の低い唸り声だけが、変わらぬリズムで部屋に響き続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます