第6話 男の部屋の匂い
重厚な鉄の扉が閉ざされた瞬間、世界から光と音が奪われた。
カチャリ、と内側から鍵が掛かる音が、私の退路を断つ決定的な合図として鼓膜を震わせる。外界との接続が切れた狭い玄関ホールは、昼間だというのに深海のような薄闇に支配されていた。目が慣れるまでの数秒間、私は視覚という情報を失い、代わりにその他の感覚が爆発的に鋭敏になっていくのを感じた。
最初に私を襲ったのは、圧倒的な「匂い」の質量だった。
それは、私の知っている家の匂いとは根本的に異なっていた。洗剤や柔軟剤、あるいは夕飯の支度といった家庭的な温かさは皆無だ。代わりに鼻腔を占拠したのは、澱んだ空気の中で熟成された、複合的な雄の生活臭だった。飲み残しのブラックコーヒーが酸化した酸味のある香り。本棚から溢れた古い紙とインクの乾燥した匂い。ドラッグストアで売られている安価な芳香剤の、鼻にツンとくる人工的なシトラス。そしてそれらを下地にして、最も強く主張してくるのは、目の前に立つ瀬戸啓介という個体から発せられる体臭だった。
汗と、微かな整髪料(ワックス)と、男性特有の少し獣めいた匂い。それらが混然一体となって、この狭い空間の空気をねっとりと重くしていた。私は息をするたびに、先輩の体内から吐き出された粒子を自分の肺に取り込んでいるような錯覚に陥り、軽い目眩を覚えた。酸素を吸っているはずなのに、体内に取り込まれるのは「先輩そのもの」のような気がして、胸の奥が甘く痺れる。
「電気、点けるから。そこで靴脱いで」
闇の中で先輩の声が響き、衣擦れの音がした。パチンというスイッチの音と共に、頭上の裸電球が灯る。突然の光に目を細めながら、私は足元を見た。
そこには、先輩が脱ぎ捨てたばかりのスニーカーが無造作に転がっていた。サイズは二十七センチか、二十八センチだろうか。私の足よりも二回りは大きいその靴は、泥汚れと擦り傷だらけで、持ち主が歩んできた活動的な時間を無言で物語っている。私はその隣に、自分のテニスシューズを揃えて置いた。並べてみると、その大きさの違いはあまりにも残酷なほど歴然としていた。
ゴツゴツとした巨大な男の靴と、幅の狭い小さな女の靴。
今までコートの上では「同じテニス部員」として並んでいたはずなのに、こうして玄関で靴を脱いだ瞬間に、私たちは「男と女」という絶対的な別の生き物であることを突きつけられる。私の靴は、先輩の靴に踏み潰されてしまいそうなほど頼りなく見えた。けれど同時に、その隣に自分の靴があるという事実が、奇妙な征服感を与えてもくれた。私は、先輩の家に帰ってきたのだ。まるで、この家の住人のように。
「お邪魔します……」
靴を揃え、一段上がったフローリングの廊下に足を乗せる。靴下越しに伝わる床の冷たさが、火照った足裏に心地よかった。廊下の右側には小さなキッチンがあり、シンクには洗っていないマグカップと、コンビニ弁当の空き容器が放置されているのが見えた。生活感というよりも、生活そのものの残骸。そのだらしなさが、完璧に見えた先輩の人間味を暴露しているようで、私は少しだけ緊張が解けるのを感じた。
廊下の突き当たりにあるドアが開いており、そこから部屋の全貌が見渡せた。
「散らかってるって言ったろ。足の踏み場はあるから、適当に入ってくれ」
先輩は部屋の中央まで進み、床に落ちていた雑誌を足で脇に追いやった。
八畳ほどのワンルームは、遮光カーテンによって昼光が遮断され、独特の閉塞感に満ちていた。壁際にはスチール製の本棚が並び、六法全書や分厚い法律の専門書がぎっしりと詰め込まれている。収まりきらない本は床に塔のように積み上げられ、今にも崩れ落ちそうだ。部屋の隅にはパソコンデスクがあり、画面には何かのレポート作成中の画面が光っている。そして、部屋の大部分を占拠しているのが、乱れたシーツが掛かったセミダブルのベッドだった。
これが、大学生の部屋。これが、男の人の城(デン)。
私は博物館の展示物を見るような目つきで、部屋の中を見回した。あちこちに脱ぎ捨てられた服、飲みかけのペットボトル、充電ケーブルの絡まり。その全てが無秩序に、しかし彼なりのルールで配置されている。この空間の全てが、瀬戸啓介という人間の思考と生活で構成されていた。
「へぇ……ここが、先輩の部屋……」
感嘆の溜息が漏れる。私の部屋のようなパステルカラーのクッションも、ぬいぐるみの類も一切ない。機能性と怠惰が同居する、無骨で飾り気のない空間。その殺風景さが、逆にどうしようもなく色気を感じさせた。ここには「女の子」が入り込む余地などないように思える。だからこそ、今ここに私が異物として立っているという事実に、背徳的な興奮を覚えずにはいられなかった。
私は恐る恐る、本の塔を避けて部屋の中へと歩を進めた。一歩進むごとに、あの匂いが濃くなっていく。特にベッドの周りは、匂いの発生源(グラウンド・ゼロ)のように濃厚な気配が漂っていた。先輩は毎晩ここで眠り、この匂いの中で朝を迎えるのだ。枕に顔を埋めれば、きっと脳が溶けるような匂いがするに違いない。そんな妄想が頭をよぎり、私は慌てて首を振った。
「そこ、適当に座ってて。麦茶でいいか?」
先輩は小さな冷蔵庫を開けながら、背中越しに言った。
「あ、はい。ありがとうございます」
座ってと言われても、床には雑誌や服が散乱していて、座るスペースを見つけるのは困難だった。唯一座れそうな場所と言えば、部屋の中央にある小さなローテーブルの前か、それとも……。
私の視線は、自然とベッドへと吸い寄せられた。高さのあるベッドの縁(へり)は、椅子代わりに腰掛けるには丁度いい高さに見える。しかし、そこは先輩の聖域(寝床)だ。いきなりそこに座るのは、あまりにも無遠慮で、意味深すぎるだろうか。
迷っている間に、先輩がガラスのコップに麦茶を注いで戻ってきた。カラン、と氷が回る涼やかな音が、張り詰めた空気を少しだけ緩める。
「ほらよ。……ん? どうした、座らないのか?」
「あ、その、どこに座ればいいかなって……」
私が困惑していると、先輩は「ああ」と苦笑し、ベッドの上に置いてあったトートバッグを床に放り投げた。
「ここ座れよ。床だと痛いだろ」
先輩がポンポンと叩いたのは、ベッドの端のマットだった。
「えっ、でも、ベッドは……」
「気にすんな。男の一人暮らしなんてこんなもんだよ。ソファーとか置くスペースねえし」
先輩は気にした風もなく、自分はローテーブルを挟んで反対側の床に、胡座(あぐら)をかいて座り込んだ。その無防備な態度に、私は断る理由を失った。これ以上突っ立ったままでいるのも不自然だ。私は覚悟を決め、「……失礼します」と小さく断りを入れて、ベッドの端に浅く腰を下ろした。
沈み込むマットレス。スプリングが軋む微かな音。お尻の下から伝わる柔らかさが、ここが寝具であることを強烈に意識させる。私の体重でシーツに皺が寄り、そこからまたふわりと、先輩の匂いが舞い上がった。
距離が、近い。
床に座る先輩と、ベッドに座る私。視線の高さは違うけれど、物理的な距離は一メートルもない。手を伸ばせば届いてしまう距離だ。密室。薄暗がり。そして二人きり。外の世界ではセミが鳴いているはずなのに、この部屋の中はカーテンとコンクリートの壁に守られて、真空パックされたように静かだった。聞こえるのは、冷蔵庫のモーター音と、自分の心臓の音だけ。
私は両手で冷たいコップを握りしめ、その冷気を指先から吸い取ることで、どうにか理性を保とうとした。先輩が赤本を取り出そうと体を捻るたびに、Tシャツの背中の筋肉が動くのが見える。その生々しい肉体の躍動が、ここがただの勉強部屋ではないことを、私の本能に警告し続けていた。
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