第4話 アカデミックな散歩道


 公園の敷地を出て、大学の外周へと続く歩道に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わったような気がした。頭上を覆っていた鬱蒼とした木々の緑は、整然と植えられた街路樹へと変わり、足元の感触も土混じりのアスファルトから、洒落たレンガ敷きの遊歩道へと変化する。道路の向こう側には、国立静波大学のキャンパスを囲む重厚な赤レンガの塀が、どこまでも長く続いていた。それは単なる境界線ではなく、私のいる「子供の時間」と、彼らのいる「大人の時間」を隔てる城壁のようにも見えた。


 午後三時の日差しは依然として強く、私の肌をじりじりと焼き続けている。けれど、この通りを行き交う人々は、誰もが涼しげな顔をしているように見えた。講義の空き時間なのだろうか、それとも早めの帰宅途中なのだろうか。すれ違う女子大生たちは、柔らかな素材のブラウスや、流行のロングスカートに身を包み、ふわりと甘い香水の匂いを残して通り過ぎていく。彼女たちの足元は華奢なサンダルやパンプスで、泥汚れひとつない。


 私は無意識のうちに、自分の足元へと視線を落とした。使い古して薄汚れたテニスシューズ。マメを守るために何重にも巻いたテーピング。そして、汗を吸って重たくなった赤と白のチームジャージ。その姿が、この洗練された「アカデミックな散歩道」において、どれほど異質で滑稽なものかを突きつけられた気がした。まるで、舞踏会に迷い込んだ野良犬のような気分だ。恥ずかしさが全身の毛穴から吹き出し、新たな汗となって背中を伝う。


 私は自然と歩調を緩め、前を行く先輩の背中に隠れるようにして歩いた。先輩の広い背中は、この空間に完全に馴染んでいる。私の知らない「大学生」としての自信と余裕が、その歩き方一つにも滲み出ていた。先輩にとってここは日常の通学路であり、私にとっては未知の異国なのだ。置いていかれないように、けれど並んで歩くのが憚られるような引け目を感じて、私は一定の距離を保ちながら先輩の影を踏み続けた。


 塀の向こう側から、管楽器の音色が風に乗って流れてきた。


 低く、掠れたような、それでいて艶のある音。サックスだ。どこかのサークルが練習しているのだろうか。運動公園で聞き慣れた、勝利への執念がこもった叫び声や、金属バットの快音とは対極にある音色。それは気怠げで、どこか退廃的で、私がまだ知らない「夜」の匂いを含んでいるように聞こえた。ジャズなんてろくに聞いたこともないけれど、その音色は私の不安と高揚感を同時に掻き立て、心臓の鼓動を少しだけ速くさせた。


「……ん? どうした、そんな後ろ歩いて」


 不意に先輩が足を止め、振り返った。私が三歩ほど遅れて歩いていることに気づいたらしい。逆光の中で細められた瞳が、怪訝そうに私を捉える。


「あ、いえ……その、なんか場違いだなって思って。私だけジャージだし、汗臭いし……先輩と一緒に歩くの、恥ずかしいなって……」


 消え入りそうな声で言い訳を口にする。それは私の偽らざる本音だった。こんな泥臭い女子高生を連れ歩くなんて、先輩の品位に関わるのではないか。すれ違う大学生たちが、クスクスと笑っているような被害妄想さえ頭をもたげる。


 しかし、先輩はきょとんとした顔をした後、呆れたように、けれど優しく笑った。


「自意識過剰だって。誰も見てないよ。それに……」


 先輩は一歩、私の方へ近づいた。その動きに合わせて、微かに柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。


「俺は、そのジャージ姿、結構好きだけどな。今のこの通りで、一番健康的でいいじゃん」


「け、健康的って……子供っぽいってことですか?」


 唇を尖らせて反論するが、先輩は「違う違う」と手を振った。


「素材がいいってことだよ。着飾らなくても勝負できるっていうかさ。……まあ、お前にはまだ分かんないか」


 先輩は意味深な言葉を濁し、再び歩き出した。今度は歩調を少し落とし、私の隣に並ぶようにして歩く。逃げ場を失った私は、観念してその横顔を見上げながら歩くしかなかった。肩と肩が触れそうな距離。先輩が腕を振るたびに、私の腕とわずかな風圧を共有する。その距離感が、とてつもなくくすぐったい。


 歩道の脇に植えられたツツジの植え込みが、緑の帯となって続いている。先輩は、レンガ塀の向こうに見える校舎群を指差しながら、ガイドのように説明を始めた。


「あっちの古い建物が法学部の棟。いつもあそこで講義受けてる。で、その奥に見えるガラス張りのやつが図書館。あそこは冷房ガンガンで寝るのに最適なんだよ」


「図書館で寝ないでくださいよ……。でも、すごいですね。なんか、映画に出てきそう」


「だろ? 合格したら、お前もここを使うことになるんだぞ」


 合格したら。その言葉の響きが、甘い痺れを伴って胸に広がる。私がこのキャンパスを歩く未来。そこにはきっと、先輩がいてくれる。


「もし私が受かったら……先輩、構ってくれますか? 大学って、広すぎて迷子になりそうで」


 甘えるような響きを含ませて聞いてみる。先輩は歩きながら、横目で私をじっと見た。その視線が、私の顔から首筋、そして揺れるポニーテールへと滑り落ちるのを感じる。それは「後輩」を見る目ではなく、品定めをするような、少し熱っぽい「男」の目だった。


「構うも何も……」


 先輩は一度言葉を切り、少しだけ顔を近づけてきた。不意の接近に、私は息を呑む。


「この道を通れば、俺のアパートと大学はセットみたいなもんだからな。合格したら、毎日会えるぞ。……それこそ、昼も夜もな」


 冗談めかした口調だったけれど、その声のトーンは低く、私の鼓膜を直接撫で回すようだった。「夜」という単語に込められたニュアンスに、私の想像力が勝手に反応してしまう。顔が急速に熱くなるのが分かった。耳まで真っ赤になっているのが、自分でもはっきりと自覚できる。


「なっ、何言ってるんですか……! 真面目に勉強しますよ、私は!」


 慌てて視線を逸らし、早口で誤魔化す。けれど、心臓の音はうるさいくらいに高鳴っていた。毎日会える。昼も、夜も。その言葉は、私の頭の中で甘美な誘惑となって反響し続ける。それは、私が何よりも望んでいる未来だったからだ。


 先輩は私の反応を楽しんでいるのか、喉の奥でくっくと笑った。


「はいはい、頑張れ受験生。……っと、着いたぞ」


 先輩が足を止めたのは、大学の裏門に近い、閑静な住宅街の入り口だった。そこから少し入った場所に、先ほど公園から遠目に見えた、茶色い屋根のアパートが建っていた。


「メゾン・リベラル」。看板の文字は少し剥げかかっていて、築年数の古さを物語っている。鉄筋コンクリートの三階建て。ベランダには男物の洗濯物が無造作に干され、生活感があふれ出していた。きらびやかな大学キャンパスとは違う、リアルな「男の一人暮らし」の拠点。


 ここが、先輩の城。


 私はゴクリと唾を飲み込んだ。ラケットバッグのベルトを強く握りしめる。ここから先は、もう後戻りできない領域だ。先輩はポケットから鍵を取り出し、金属の冷たい音を鳴らして弄んだ。


「散らかってるけど、まあ入れよ。冷たいもんでも飲んでけ」


 その言葉は、あまりにも日常的な響きを持っていた。けれど、私にはそれが「おいで」という悪魔の招待状に聞こえた。これから起こるかもしれない何かへの期待と、取り返しのつかない一線を越える恐怖。その二つがない交ぜになり、私の足は一瞬だけ地面に張り付いたように動かなくなった。


 けれど、先輩は私の葛藤など気づかないふりをして、先にエントランスへと歩いていく。その背中が「来るだろ?」と無言で語りかけていた。私は深呼吸を一つし、意を決して地面を蹴った。ジャージの裾を翻し、先輩の後を追う。揺れるポニーテールの先が、私の背中をピシリと叩いた。それは、私の子供時代に対する、最後の手向けのように感じられた。

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