永遠のラベンダー畑で 【モノコン2025 】入選作品

tommynya

第1話 永遠のラベンダー畑で

 

 雨が窓を叩く音が、花たちの呼吸を遮っている。


 午後5時まであと10分、「Fleurs du Monde」の閉店時間が近づいていた。


 オランダのチューリップ、エクアドルの薔薇、ケニアのプロテア、フランスのミラベル。世界中の花たちが、この街角の小さなガラスケースで静かに眠ろうとしている。


 私、花恋かれんが最後の水やりを終えようとしていた時、扉のベルが鳴った。


 振り返ると、濡れたトレンチコートを着た男性が立っていた。水滴が床に小さな水たまりを作り、前髪から雫が滴っている。


 心臓が、一瞬止まった。


「いらっしゃいませ」


 声が少し震える。彼は私を見て、ほんの一瞬だけ表情を緩ませたが、すぐに他人行儀な顔に戻る。


「あの……ラベンダーの生花、ありますか?」


 悠斗ゆうと。間違いない。2年前にプロヴァンスで別れた、私の元恋人。


 頭の中でぐるぐると考えながらも、私は演技を始めることにした。


「申し訳ございません。ラベンダーの入荷は初夏が中心で……今は切らしております」


 彼は肩を小さく落とす。その落胆の仕方も、昔と変わらない。


「そうですか……」


「お風邪ひきますよ」


 私はタオルを差し出す。彼が受け取った時、指先がそっと触れる。


「雨宿りがてら、お茶でもいかがですか?奥にティールームがあるんです」


 悠斗は少し驚いたような表情を見せ、私の顔をじっと見つめる。


 この人、私に気づいてるのかな?


「お邪魔してもいいですか?」


「どうぞ」


 ティールームは店の奥にあるサンルームの中にある小さな空間だ。観葉植物や多肉植物で溢れかえっている。


 アンティークのテーブルと椅子が二脚。壁には世界各地から集めた花の写真が飾られている。その中に、紫の絨毯のように広がるラベンダー畑の写真もある。


 悠斗がその写真に気づく。


「プロヴァンスですね」


「ええ。ヴァランソル高原です」


 私は静かにお茶の準備を始める。そして、迷わずラベンダーティーを選ぶ。もし彼が本当に私を忘れているなら、この香りで思い出すはず。


 私たちの美しい恋は、まるでフランス映画のように深くて情熱的だった。


 このお茶を出すのは、私は覚えているというサインだ。


 ポットにお湯を注ぐと、ラベンダーの優しい香りが部屋中に広がった。その瞬間、私の記憶が蘇る。


 プロヴァンスの朝の空気、小鳥のさえずり、悠斗の髪に絡まったラベンダーの香り、彼が私の首筋に顔を寄せた時の温もり。


 悠斗が目を閉じる。彼もきっと、同じ記憶に包まれているのだろう。


「……懐かしい香りですね」


「そうですね」


 私は彼の横顔を見つめながら答えた。少し痩せた気がする。でも、あの頃と同じように美しい横顔だった。


「俺、プロヴァンスにいたことがあるんです」


 悠斗が私の顔をじっと見つめながら言う。まるで私の反応を確かめるように。


「へー、そうなんですね」


 私は知らないふりを続けた。心の中で「まだ続けるつもり?」と思いながらも、この猫と鼠のゲームが少し楽しくなってきている。


「大学の交換留学で。ヴァランソルのラベンダー畑で……」


 彼は一瞬言葉を止めて、私の瞳を覗き込む。


「大切な人と過ごした思い出があって」


 大切な人、か。その言葉に込められた意味を、私たちは両方とも分かっている。


「その人、今どうされているんですか?」


 悠斗は少し困ったような表情を見せる。


「……わからないんです。俺の勝手な判断で、お別れしてしまって」


「どうして?」


「彼女には夢があった。花屋を開くという。俺がフランスに残れば、彼女の夢を潰してしまうと思って……」


 お茶を注ぎながら、胸の奥がきゅっと痛んだ。


「君の夢、叶った?」


 ふと、悠斗が私を見つめて尋ねた。その瞳は、まっすぐ私を見ている。やっぱり私だと気づいてたようだ。


「……夢は人それぞれですからね」


 皮肉みたいになってしまった。ちょっと感じ悪かったかも。


「俺は、夢は叶ったけど、大切なものを失った気がするんです」


 彼の声に、微かな震えがあった。


 ティーカップの湯気が薄れ始める。時間が過ぎるのを忘れてしまいそうだ。とうとう我慢出来ずに私から切り出す。


「昔の彼氏に似てる人がいるんです」


 私は小悪魔な笑みを浮かべて言う。


 悠斗の目が少し見開かれる。


「……その人、今何してるんですか?」


「さあ?元気にしてるんじゃない?」


 私はとぼけて続けた。


「でも、私のこと忘れちゃったかも。男の人って、そういうものでしょ?」


 悠斗はカップを置いて、私をじっと見つめた。その視線の熱さに、頬が熱くなる。


「……忘れるわけ、ないだろ」


「え?」


「君の笑顔は今もラベンダー畑と一緒に記憶に刻まれてるよ、花恋」


 私の名前を呼ぶ彼の声に、心臓が大きく弾む。名前を呼ばれた瞬間、その二文字が、2年分の沈黙を溶かしていく。


「……ずるい」


「何が?」


「勝手に現れて、あの時も、今も」


 悠斗の目に、申し訳なさそうな光が宿る。


「ごめん。でも……」


「でも?」


「あの時、君のキラキラした瞳を曇らせたくなかった。花屋の夢を諦めて俺についてきて、もし後悔したらと思うと別れるしかなかった……」


 私は息を深く吸い、本心を話すことにした。


「私も悠斗を忘れられなかったんだ。夢だけでは生きていけないって、やっとわかったよ」


 ラベンダーティーの香りが、私たちの間で静かに漂っている。しばらく沈黙が流れ、外の雨音が、一瞬だけ遠くに溶けていった。


 窓の外には傘の群れが、滲んだ色彩の絵の具みたいに揺れている。


「でも、花恋の夢は叶ったよね?こんなに素敵な花屋を開いて」


「……そうだね。でも」


 私は壁のプロヴァンスの写真を見つめる。


「あの美しいラベンダー畑での日々が忘れられなくて。悠斗がいない景色は、どんなに美しくても色あせて見えたよ」


 カップの底を見つめ、言葉を探すが見つからない。短い沈黙が流れた。


 時計の針が、胸の奥を静かに刻んでいく。私たちだけの特別な時間が、終わりに近づいている。


 彼が来店してからたった10分間。それだけで、2年間の空白が溶け、眠っていた愛が目を覚まし始めた。


 悠斗が突然立ち上がる。


「茶番、やめようか」


 私は驚いて彼を見上げた。


「日本勤務が決まって、フランスから帰国した時、真っ先に君を探した。ラベンダーは俺たちの思い出の花だから……君なら、その意味をわかってくれると思って」


「悠斗……」


「俺たち、馬鹿だったね。お互いを思いやるつもりで、一番大切なものを手放してしまった」


 私は立ち上がり、彼に近づく。すると、本能のまま言葉が出てしまった。


「私も、プロヴァンスのラベンダー畑の写真をずっと飾ってるよ。悠斗の瞳に映った空の色が忘れられなくて」


 悠斗の手が、そっと私の頬に触れ、私たちの顔が近づいた。彼の息遣いを感じる距離まで。


 彼の指がゆっくりと私の頬から顎のラインを辿り、唇の端に向かって移動する。私の唇が少し開く。このまま…?


 私は目を閉じかける。


 でも、彼の指は私の唇に触れる寸前で止まり、再び頬を優しく撫でるだけだった。


「花恋、俺たち、やり直さない?今度は君の夢も俺の夢も、一緒に叶えよう」


 涙がこぼれそうになった。彼の瞳が、私をまっすぐ見つめている。


「それって……」


「今度は期限付きじゃない愛にしたい。君と俺の、永遠のラベンダー畑で」


 その言葉の重みに、涙が込み上げてくる。期限付きじゃない愛。それは私がずっと欲しかったもの。


 彼の手が、そっと私の唇に近づいてくる。


 私は息を止めた。唇が触れる距離で、彼の吐息が震えを伝えてくる。世界が音を失ったように静かだ。お互いの鼓動だけが、この空間に響いている。


 心の中で「キスして」と願っている自分がいる。


 でも彼は、私の唇にキスをする代わりに、額にそっと唇を寄せた。


「まずは、ちゃんと君を幸せにする準備をさせて」


 彼の震える声から、過去の過ちを繰り返さず、私の心を守ろうとする想いが伝わってきた。涙を堪えながら、私は頷く。


「うん」


 悠斗が私を優しく抱きしめた。彼のシャツからは、あの時と変わらないプロヴァンスハーブが香る。懐かしくて、切なくて、そして今はとても愛おしい香り。


 抱きしめられた瞬間、私たちの顔がまた近づく。今度こそ……と思った瞬間、彼がそっと私から離れた。


「焦っちゃだめだ」


 彼の呟きが、私の心をさらに揺さぶる。


 窓の外を見ると、雨が上がっていた。夕暮れの光が、濡れた街を黄金色に染めていく。


「今度は結婚届にサインしてもらいたい」


 悠斗が私の手を握りながら言う。


「早すぎない?……でも、仕方ないな」


 私は悪戯っ子のように笑って答える。彼の手の温もりがとても心地良い。


「結婚してくれる?一緒に暮らしたいんだ」


「2年ぶりに会ったばかりなのに、もう決めちゃって大丈夫?」


 悠斗は真剣な表情で私を見つめる。


「2年前はまだ子供で、間違った選択したけど、もう泣かせない。君のことずっと忘れられなかったんだ……花恋、結婚してください」


「うん、いいよ。でも、その前に連絡先交換しようか」


 彼が微笑む。


「今度は絶対に手放さないから」


 番号を交換している時、彼が呟く。


「プロヴァンスの写真、送るね。今度は花恋が笑ってる写真も一緒に」


「楽しみ。そして今度は……」


「今度は?」


「一緒にラベンダー畑をまた見に行こうね。今度こそ、約束だよ」


 悠斗の瞳が、夕暮れの光の中でキラキラと輝いている。


「約束する。今度は君を一人にしない」


 扉のベルが風で小さく鳴った。まるで私たちの新しい始まりを祝福してくれているみたいに。


 10分間で蘇った記憶と、10分間で生まれ変わった愛。


 ラベンダーティーの最後の香りが部屋に漂う中、私たちは新しい物語の扉を開く。


 今度は期限のない、永遠のラベンダー畑で。




          —fin—

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