三つ編み美津子さんには三つ目があるらしい
Seabird(シエドリ)
三つ編み美津子さんには三つ目があるらしい
夏休みが明けた教室で、ひとつの噂が私の耳に触れた。
――転校生の美津子さんには、千里眼があるらしい。
長い前髪に覆われた瞳。丸い眼鏡と、肩を越えて落ちる三つ編み。
まるで季節の境界に置き去りにされた影のように、彼女は静かにやってきた。
美津子さんに頼めば何でも見つかるのだという。
それは財布や鍵といった形あるものだけでなく、失くした心や、忘れられた記憶までも。
私は、自分という存在が分からなかった。
なぜ今日を生き、なぜ昨日を越えてきたのか。
問いだけが胸の底に沈み、答えはどこにも見つからない。
不幸だと思ったことはない。けれど幸福とも言い切れない。
ただ平坦に続く日々の上を歩きながら、何かを成さねばという焦りだけが、部屋の隅に溜まる埃のように、静かに積もっていった。
もし噂が本当なら――
まだ形を持たぬ未来さえ、彼女は見つけてくれるのだろうか。
期待とも、祈りともつかぬものを抱き、私は席を立った。
放課後の図書館に彼女はいる。
その小さな手がかりだけを頼りに、私は廊下を歩いた。
図書館の扉を開けると、夕陽の光の中、窓際に彼女は静かに座っていた。
言葉より先に、心が震えた。
それでも声を絞り出す。
「……美津子さん。私の行き先を、知りませんか」
言ってしまってから、その言葉があまりにも異質で、愚かで、具体性のない幼稚な質問であることに気づき、頬が熱を帯びた。
「ここは図書館だから……外で話しましょう?」
彼女は唇に指を添え、そっとウインクした。
その仕草が、まるで合図のように、胸の奥で眠っていた何かが微かに動いた。
図書館を出て、私たちは人気のない廊下を歩いた。放課後の校舎は静かで、窓から差し込む西日の橙が床に長い影を落としている。
いくつかの教室の前を通り過ぎ、半ば物置のようになっている空き教室の扉の前で、美津子さんは足を止めた。
「ここでいいわ。誰も来ないから」
そう言い、彼女は鍵のかかっていない扉を押し開けた。
中は少し埃っぽかったが、机と椅子は整然と並んでいる。その一つを引き寄せ、彼女は迷いなく腰を下ろした。
私は向かいの椅子に座る。緊張のせいか、椅子の脚が床を擦って妙に大きな音が響いた。
しばらく沈黙が落ちた。
風が開け放たれた窓の隙間をくぐり、カーテンを揺らしていく。
先に口を開いたのは、美津子さんだった。
「あなたは、自分の未来を探したいのね?」
私は息を吸った。言葉にすること自体が、自分の弱さを認めるようで、少し怖かった。
「……そう、です。生きる理由とか、目的とか。そういうものがあるなら、知りたいんです。このまま流されて生きていくのが正しいのか、それとも……」
言いながら、自分でも何を言おうとしているのか曖昧になっていく。
美津子さんは、黙って私を見つめていた。逃げ場のない視線だったが、不思議と刺すような冷たさはなかった。
やがて、彼女はゆっくりと指先を机に置き、小さな声で言った。
「だったら、ひとつだけ教えて。あなたは今までに、本気でなにかを望んだことがある?」
その問いは、思いがけず鋭く胸に刺さった。
私は答えられなかった。
望み。
願い。
欲望。
それらはずっと、私の世界には存在しないものだと思っていた。
「……分からないです」
そう答えると、美津子さんは小さく息を吐いて、微笑んだ。
「なら、大丈夫。『分からない』って言える人は、まだ探せる人よ」
その言葉が、鼓膜よりも先に心に触れた気がした。
私は思わず、まばたきを忘れた。
「あなたの未来は、まだ隠れているだけ。見つからないのは、ないからじゃない。あなたがそれを『望んでいない』から」
美津子さんは、そっと手を差し出した。
「一緒に探してみましょう」
私は、自分の手が震えていることに気づきながら、それでも伸ばした。
「……お願いします」
指先が触れた瞬間、教室の空気が、わずかに揺れた気がした。
それから美津子さんは、『やりたいことをノートに書き出してみて』と静かに言った。
自分の欲を言葉にすることは、どこか気恥ずかしかった。
風の音だけが聞こえる放課後の空き教室は、厳しい残暑の気配をよそに、驚くほど静かで、適度な涼しさが満ちていた。
私はペンを握り、箇条書きで、ずっと胸の奥にしまい込んできた”行き先”を書き始めた。
ふと顔を上げると、美津子さんは小説を読んでいた。
私の存在など気に留めないような、けれどどこか、見守るような距離感で。
どれほど時間が経ったのか分からない。
ページをめくる小さな音だけが、時計代わりになっていた。
やがて、私は息を呑み、遠慮がちに声をかけた。
「……書いてみました」
私はノートをそっと彼女の前に置いた。
線はくしゃくしゃで、何度も書き直した跡が残る、読みづらい、どうしようもないページだった。
美津子さんはそれを見ると、微笑んだ。
「少し待っててね」
そして彼女は、一ページにも満たない箇条書きの言葉を、ゆっくりと読み始める。
まるで、有名作家の新刊を味わうように丁寧に。
息をする音すら遠慮したくなるほど、彼女の読み方は静かで真剣だった。
やがて本を閉じるように、ノートから視線を上げる。
「ありがとう。秘密を教えてくれたからには、私も教えないといけないわね」
「いえ……そんな、私が勝手に書いただけですし……」
「私のポリシーよ。気にしないで」
そう言って、美津子さんは小さく、いたずらっぽく笑った。
その笑みに不意を突かれ、私は前髪と丸眼鏡に隠れた彼女の瞳を、もっと、深く覗いてみたくなった。
美津子さんは指先でノートの端をそっと撫でた。
まるで、私の文章ではなく、そこに染み込んだ感情そのものを触っているように。
「あなたの言葉、すごく綺麗ね」
その声は褒めているというより、抱きしめるような響きだった。
私は少し背筋をのばし、けれど視線は机の木目から動かせなかった。
「ねえ、聞いていい?」
顔を上げると、美津子さんの丸眼鏡がこちらを向いていた。
前髪の影に隠れた瞳は見えないはずなのに、
視線がまっすぐ胸の奥へ突き刺さった。
「本当は、怖いんでしょう?」
「……え?」
「未来じゃなくて、”選ぶこと”が」
息が止まった。
書いたはずの言葉よりも、書けなかった思いの方が先に読まれていく。
私は笑おうとしたけれど、喉の奥がうまく動かず、ただ小さく頷いた。
「大丈夫。怖いって思える人のほうが、ずっと優しい」
美津子さんの声は、鈴が転がるように静かだった。
その視線……視線のように感じた何かから逃げられず、私は問いかけた。
「どうして、そんなこと分かるんですか?」
すると美津子さんは、そっと前髪をかき上げた。
露わになった額には、なにもない。
ただ白く、静かで、ありふれた額だった。
――けれど。
その瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。
視られている。そう、はっきりと。
鏡でも光でもない、もうひとつの視線。
言葉では触れられない心の傷や、言葉にできなかった願いの奥へ、そっと触れてくる視線。
私は、彼女の瞳をようやく”見た”と思った。
「みんな言うの。私には三つ目があるって」
美津子さんは、小さな秘密を誰かに預けるみたいに微笑んだ。
「ほんとうはただ、人の言葉の隙間を読むのが好きなだけなのに」
その笑顔はどこか謎めいていて、少し切なく、そして驚くほど優しかった。
「さて、話が逸れてしまったわね。最初に戻りましょう。あなた、行き先を知りたいと言っていたわよね」
美津子さんは、私のノートをそっと指先で叩いた。
「その答えなら、ちゃんとここにあるわ」
指先が止まったのは、ページの一番上。
そこには、黒く塗りつぶされた文字の跡があった。
「恥ずかしかったんでしょう? でも、最初に浮かんだのはこれだったはずよ」
私は息をのむ。
「大丈夫。隠したくなるものほど、本当なんだから」
彼女は穏やかに言い、ページを閉じる。
「その言葉を、人に言えるようになったとき、また相談しに来て。そのときは、次の道を一緒に探してあげる」
最後まで優しかった美津子さんの言葉は、まるで目に見えない手紙のように、胸の奥へ静かに届いていた。
校舎を出ると、夕焼けはすでに夜へと溶けはじめていた。
空気は少し冷たく、けれどその冷たさは痛みではなく、目を覚まさせる温度だった。
胸ポケットにはノートの切れ端。
触れるだけで、鼓動のリズムがわかる気がした。
黒く塗りつぶした言葉。
誰にも見られたくなくて、何度も線を重ねた跡。
それなのに、彼女は迷わなかった。
私のページの一番上を、そっと指で触れて言った。
『最初に浮かんだ言葉が、本当よ』
まるで心のドアノブに手をかけるような声だった。
私は歩きながら、そっとノートの切れ端を開く。
街灯が淡く照らすページの隅に、滲んだ黒が残る。
閉じ込めたはずの言葉が、今はもう隠しきれない。
私は息を吸い、その裏側の音を確かめるように、思い返した。
──生きたい。
簡単すぎて幼くて、言葉にしたら笑われると思った願い。
でも今は、胸の奥で静かに灯りのように揺れていた。
ふと、風が吹き、三つ編みの揺れる姿が脳裏に浮かんだ。
丸眼鏡の奥で笑う瞳。
そして、前髪の影に潜む、もうひとつの視線。
心を見透かす三つ目。
噂だけだったはずのそれが、今では不思議と嘘に思えなかった。
私は夜空を仰ぎ、小さく呟く。
「いつかまた、相談に行くね」
返事はない。
けれど、月が静かに微笑んでいた。
歩き出す足取りは、来た時よりずっと軽い。
『三つ編み美津子さんには三つ目があるらしい』
それはたぶん、本当だ。
だって私の心の奥に眠っていた言葉を、誰より先に見つけた人なのだから。
三つ編み美津子さんには三つ目があるらしい Seabird(シエドリ) @sea_bird
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます