硝煙の向こうに竜は眠る
@kossori_013
第1話 最凶の賞金稼ぎ
# 第一章:最凶の賞金稼ぎ
この大陸に西洋人が足を踏み入れてから、まだ百年と経っていない。
彼らは船でやってきた。最初は交易を求め、次第に土地を求め、そして今では、先住民族を森の奥へ奥へと追いやりながら、己の文明を押し広げている。開拓という名の征服は、血と硝煙の匂いとともに進んでいった。
だが、征服者たちは自分たちの社会でさえ統制できずにいた。
西部と呼ばれる辺境の地には、法も秩序もない。あるのは力だけだった。銃を持つ者が正義であり、速く抜いた者が生き残る。町には酒場と賭博場と娼館が立ち並び、夜ごと銃声が響き渡った。保安官はいても、その数は圧倒的に足りない。犯罪者は野放しにされ、賞金首となって荒野を逃げ回る。
そんな無法地帯だからこそ、賞金稼ぎという職業が成立した。
デッドオアアライブ――死体でも生体でも賞金が支払われる。多くの賞金稼ぎは、死体で運ぶことを選んだ。生かして運ぶのは面倒だからだ。反抗されるかもしれないし、逃げられるかもしれない。それならば、さっさと撃ち殺して、死体を馬の背に括りつけて運んだ方が楽だった。
だが、生体で引き渡せば報酬は跳ね上がる。なぜなら、捕らえられた賞金首は鉱山での強制労働に送られるからだ。貴重な労働力として、彼らは死ぬまで岩を砕き続ける。その価値を、保安局は知っていた。
賞金稼ぎたちの間では、いくつもの噂が流れていた。
ある者は言った。南の砂漠地帯に、伝説の宝が眠っているらしい。若返りの力を持つ宝石だという。それを手に入れた者は、永遠の若さを得られるのだと。
またある者は言った。先住民の森には、太古の昔から眠るドラゴンがいるらしい。百年ごとに目覚めようとするそれを、先住民たちは神聖な儀式で鎮めているのだという。
だが、そんな荒唐無稽な噂よりも、賞金稼ぎたちがもっと熱心に語るものがあった。
それは、一人の男についての噂だった。
*
セント・ジョージの町は、西部でも比較的大きな町だった。
大通りには雑貨屋、武器屋、宿屋、酒場が軒を連ね、人々が行き交う。馬車の車輪が乾いた土を踏みしめる音、馬のいななき、商人の呼び声。それらが混ざり合って、町独特の喧騒を作り出していた。
町の中心には保安事務所があった。木造二階建ての建物で、正面には「SECURITY OFFICE」と書かれた看板がかかっている。その看板は西日に照らされて、文字が長い影を落としていた。
事務所の前には、数人の男たちが集まっていた。
彼らはみな、腰に銃を下げている。服装はまちまちで、つば広の帽子を被った者、革のベストを着た者、埃まみれのコートを羽織った者。どの顔にも、荒野で生きる者特有の鋭さと疲労が刻まれていた。
賞金稼ぎたちだった。
「まだ来ねえのか」
一人が苛立たしげに呟いた。煙草を口にくわえ、マッチで火をつける。煙が風に流されて消えていく。
「来るさ。あいつは約束を違えたことがねえ」
別の男が答えた。腕組みをしたまま、街道の先を見つめている。
「しかし、本当に生け捕りにするつもりなのか。あの『血塗れのジェイク』をだぞ」
「信じらんねえよな。あいつは十人以上殺してる。保安官二人も殺した。そんな奴を生かして連れてくるなんて」
男たちの会話に、緊張と期待が混ざり合っていた。
血塗れのジェイク。この地域で最も凶悪な賞金首の一人だった。銀行強盗、駅馬車襲撃、殺人。ありとあらゆる犯罪に手を染め、追っ手を次々と返り討ちにしてきた。その首には、破格の賞金がかけられていた。
そして、そのジェイクを捕らえると宣言したのが、一人のガンマンだった。
「来たぞ」
誰かが声を上げた。
街道の先に、砂塵が舞い上がっているのが見えた。その中から、三つの影が現れる。
先頭を歩くのは、黒いコートを着た男だった。
つば広の帽子を深く被り、顔の半分は影に隠れている。だが、それでも分かった。その男が、並外れた美しさを持っているということが。日差しを浴びた横顔は、まるで彫刻のように整っていた。高い頬骨、引き締まった顎のライン、そして鼻梁の優美な曲線。
腰には二挺のリボルバーが下がっていた。銀色の銃身が、陽光を反射して輝く。
その後ろを、少年が歩いていた。十代半ばほどの年齢で、どこか上品な雰囲気を漂わせている。埃にまみれた服を着ているにもかかかわらず、その立ち居振る舞いには育ちの良さが滲み出ていた。
そして、最後に一人の男がよろめきながらついてきた。
両手を後ろ手に縛られ、足には鎖が巻かれている。顔は殴られたのか腫れ上がり、服は血と泥で汚れていた。だが、その顔には見覚えがあった。
血塗れのジェイクだった。
「嘘だろ……」
賞金稼ぎの一人が呟いた。
ジェイクは、完全に戦意を失っていた。目は虚ろで、まるで魂が抜けたかのようだった。あの凶悪な賞金首が、まるで子羊のように大人しく、ガンマンの後ろをついてくる。
ガンマンは、賞金稼ぎたちの前を通り過ぎようとした。その足取りは淀みなく、まるで周囲の視線など気にも留めていないかのようだった。
「待ってくれ」
一人の賞金稼ぎが声をかけた。ガンマンは足を止め、わずかに顔を向ける。
「あんた……本当に、あのジェイクを一人で捕まえたのか」
ガンマンは答えなかった。ただ、黙ったまま賞金稼ぎを見つめている。その瞳は、まるで感情を持たない硝子玉のように冷たかった。
「すげえ……」
別の賞金稼ぎが呟いた。
「エース・ワイルド・アイ・モーガンか。噂には聞いてたが、本物を見るのは初めてだ」
エース。それがこのガンマンの名だった。
ワイルド・アイという異名は、その野生的な直感と、獲物を逃さない鋭い眼光から来ていた。彼の視線を受けた者は、まるで猛獣に睨まれたような恐怖を感じると言われていた。
「本当に、リボルバーで十発撃てるのか」
若い賞金稼ぎが、興奮した様子で尋ねた。
「そんなの嘘だろ。リボルバーは六発しか入らねえ」
「いや、俺の知り合いが見たって言ってた。あいつは一度も弾を込め直さずに、十発連続で撃ったって」
賞金稼ぎたちの間で、囁きが広がった。
エース・モーガンについての噂は、数え切れないほどあった。
ある者は言った。彼は一度も的を外したことがない。どんなに遠くても、どんなに速く動く相手でも、彼の弾丸は必ず命中するのだと。
またある者は言った。彼は左右どちらの手でも完璧に銃を扱える。両手に銃を持ち、同時に別々の標的を撃ち抜くのだと。
さらには、こんな噂もあった。彼は人間ではなく、何か別の存在なのではないか。その美貌は人間離れしており、まるで天使か悪魔のようだと。
そして、女たちの間でも、エースの名は囁かれていた。
「私、彼に抱かれたの」
酒場で、一人の女が自慢げに語った。豊かな胸元を強調したドレスを着て、頬を紅潮させている。
「嘘でしょう」
友人の女が疑わしげに言った。
「本当よ。三日前の夜、彼が町に来たときに。部屋に誘ったら、ついてきてくれたの」
「で、どうだったの」
周囲の女たちが身を乗り出した。
「すごかったわ……あんな男、初めて。まるで夢みたいだった」
女は恍惚とした表情で言った。だが、その話が本当かどうかは、誰にも分からなかった。エースと一夜を共にしたと主張する女は、あまりにも多すぎたからだ。
町から町へ、エースの噂は広がっていった。
彼の強さ。彼の美しさ。そして、彼の謎。
だが、エース本人は何も語らなかった。寡黙で、感情を表に出さず、ただ賞金首を狩り続ける。その姿は、まるで伝説の中の人物のようだった。
*
保安事務所の前で、エースは立ち止まった。
後ろでジェイクがよろめき、膝をついた。長い道のりで、体力が尽きかけているようだった。
少年――イーサン・ブラッドフォードが、エースの袖を軽く引いた。
「師匠、着きましたよ」
その声は柔らかく、まるで年上の兄に話しかけるような親しみが込められていた。
イーサンは、一年前にエースの弟子となった。
彼の出自は、今でも謎に包まれている。だが、その物腰や話し方から、明らかに良家の出身だということは分かった。貴族の子息か、あるいは裕福な商人の息子か。いずれにせよ、教育を受けた者特有の品が、イーサンには備わっていた。
なぜ、そんな少年が賞金稼ぎの弟子になったのか。
本人は言わない。エースも尋ねない。
ただ、イーサンは語ったことがあった。最初にエースを見たとき、心の底から憧れたのだと。その強さ、その美しさ、そして何より、その生き方に。
それは嘘ではなかっただろう。少年の瞳には、確かに純粋な憧憬が宿っていた。
だが、一年の間に何かが変わった。
イーサンは、エースの性質を理解した。この男が、致命的なまでに頭が悪いということを。そして、だからこそ、簡単に操れるということを。
今のイーサンは、もはや純粋な弟子ではなかった。
彼は、エースという最強の武器を手に入れた策士だった。
*
三週間前のことだった。
エースとイーサンは、別の賞金首を追っていた。
『鉄拳のマイク』と呼ばれる男で、素手での喧嘩を得意とする荒くれ者だった。小さな町で酒場を襲撃し、店主を殴り殺した罪で追われていた。
情報によれば、マイクは廃墟となった鉱山に隠れているという。
エースとイーサンが鉱山に着いたのは、夕暮れ時だった。
崩れかけた坑道の入り口に、男の影が見えた。筋骨隆々とした体躯で、両腕には無数の傷跡がある。マイクだった。
「来やがったか、賞金稼ぎ」
マイクは拳を鳴らした。ゴキゴキと骨の軋む音が響く。
「だが、銃なんて卑怯な武器に頼ってる奴に、この俺は倒せねえ」
エースは答えなかった。ただ、腰のリボルバーに手をかける。
「師匠」
イーサンが、穏やかな声で言った。
「足を狙ってください。逃げられないように」
エースは頷いた。
マイクが叫びながら突進してきた。その速度は、鍛え上げられた肉体から繰り出される脅威そのものだった。地面を蹴る足音が、乾いた空気を震わせる。
エースの手が動いた。
抜く、構える、撃つ。その三つの動作が、一瞬のうちに完了した。
銃声。
一発目の弾丸が、マイクの右足を貫いた。
マイクが体勢を崩す。だが、止まらない。痛みを堪えながら、なおも突進を続ける。
二発目。左足。
マイクが倒れた。地面に膝をつき、それでも立ち上がろうとする。
三発目。右肩。
四発目。左肩。
マイクの両腕が力を失った。もはや拳を振るうことはできない。
五発目、六発目。
二発の銃弾が、マイクの頭の左右をかすめた。帽子が吹き飛び、耳たぶに赤い筋ができる。だが、致命傷ではない。
マイクは、完全に動けなくなった。四肢を撃ち抜かれ、戦意を失い、ただ地面に這いつくばっている。
「すげえ……」
イーサンが呟いた。その瞳は、興奮で輝いていた。
「師匠、一発も外してない。しかも、全部急所を避けてる」
エースは銃を腰に戻した。そして、マイクに近づく。
マイクは震えながら、エースを見上げた。
「化け物か、お前は……」
「師匠は化け物なんかじゃありません」
イーサンが、明るい声で言った。
「ただ、すごく強いだけです」
その言葉には、心からの誇りが込められていた。
エースは、マイクを縛り上げた。そして、イーサンと共に町へと戻っていった。
道すがら、イーサンは何度も振り返った。鉱山の廃墟が、夕陽に染まって赤く見える。
そこで繰り広げられた、完璧な戦闘。
イーサンは、あらためて確信した。
この師匠は、本当に最強なのだと。
そして、だからこそ、自分が導いてやらなければならないのだと。
*
セント・ジョージの町には、子供たちもいた。
彼らは通りで遊び、馬車の間を駆け回り、時には悪戯をして大人に叱られた。西部の厳しい環境で育つ子供たちは、早くから生きる術を学ばなければならなかった。
その日、数人の子供たちが、保安事務所の近くで遊んでいた。
「見ろよ、エースだ!」
一人の少年が叫んだ。
子供たちが一斉に視線を向ける。街道から、エースとイーサンが歩いてくるのが見えた。
「本物だ……」
子供たちは目を輝かせた。
エース・モーガンは、子供たちにとってヒーローだった。強くて、かっこよくて、悪い奴らをやっつける。そんな存在は、子供たちの憧れそのものだった。
「おい、イーサンもいるぞ」
別の少年が指差した。
「ずるいよな。あいつ、エースの弟子なんだぜ」
「いいなあ。俺もエースの弟子になりたい」
「無理だよ。エースは弟子を取らないって有名じゃん。イーサンは特別なんだ」
子供たちの間で、羨望の溜息が漏れた。
イーサンは、子供たちの視線に気づいた。そして、にこりと微笑んで手を振る。
子供たちは歓声を上げた。
「イーサンが手を振ってくれた!」
「すげえ、すげえ!」
だが、年長の少年が一人、冷めた目で呟いた。
「あいつ、いつも笑ってるよな。何考えてるか分かんねえ」
「何言ってんだよ。イーサンはいい奴だよ」
「そうかな……」
年長の少年は、首を傾げた。
彼は以前、イーサンと少しだけ話したことがあった。その時、イーサンは笑顔のまま、こう言ったのだ。
「君たちも大きくなったら、強くなるんだよ。そうしたら、誰も君を傷つけられなくなる。君が誰かを傷つけることはできるけどね」
その言葉の意味が、年長の少年にはよく分からなかった。
だが、何か引っかかるものがあった。
イーサンの笑顔は、あまりにも完璧すぎた。まるで仮面のように。
*
砂塵が舞い上がる街道を、三つの影が歩いていた。
先頭を行くのは一人の男だった。黒いコートを風になびかせ、腰に下げた二挺のリボルバーが陽光を反射して鈍く光る。鍔の広い帽子の下から覗く横顔は、砂漠の真昼の光に照らされても、なお際立つほどに整っていた。頬骨の高さ、まっすぐに通った鼻梁、引き締まった唇。どれをとっても絵画の中の人物を思わせる。
その後ろを、少年が軽やかな足取りでついてくる。十代半ばと思しき年頃で、埃まみれの服を着ているにもかかわらず、どこか育ちの良さを感じさせる物腰だった。無邪気な笑みを浮かべた顔は、まるで遠足にでも出かけるかのように明るい。
そして最後に、両手を後ろ手に縛られた男が、よろよろとした足取りで二人の後を追っていた。顔は土気色で、額には脂汗が浮かんでいる。時折、前を行く男の背中を盗み見ては、喉を鳴らした。
血塗れのジェイク――西部で最も恐れられる賞金首の一人が、今や完全に戦意を失って、震えながらエースの後ろをついてきていた。
「なあ、ダンナ」
ジェイクが、ついに口を開いた。声は乾いていて、喉の渇きを訴えていた。
「俺が誰だか分かってんのか。俺を捕まえたら、組織が黙っちゃいねえぜ。お前さんがどれだけ腕が立とうが、数には勝てねえだろう」
前を行くエースは答えなかった。コートの裾を翻しながら、ただ黙々と歩き続ける。その寡黙さが、かえってジェイクを焦らせた。
「いや、待て待て。脅してるんじゃねえ。取引だ、取引をしようじゃねえか」
ジェイクは必死に言葉を重ねる。靴底が焼けた砂を踏みしめるたび、ジャリ、ジャリと乾いた音が響いた。
「金ならある。保安事務所に引き渡すより、ずっといい額を出せる。どうだ、悪い話じゃねえだろう」
エースは振り返りもしなかった。ただ、腰のリボルバーを指先で軽く叩く仕草をしただけだった。その音が、ジェイクの神経を逆なでした。
「女はどうだ。上玉を何人でも用意できるぜ。お前さんみたいな顔なら、女には不自由してねえだろうが、俺が紹介できる女は格が違う。貴族のお嬢様だっているんだ」
イーサンがくすくすと笑った。その笑い声は鈴を転がすように澄んでいて、まるで面白い冗談でも聞いたかのようだった。
「コネはどうだ。裏社会との繋がりなら、俺はいくらでも持ってる。お前さんの仕事だって、もっと楽になるぜ」
ジェイクの喉はからからに乾いていた。舌が上顎に張り付いて、言葉を発するのも苦痛だった。それでも喋り続けるしかなかった。なぜなら、保安事務所に引き渡されれば、待っているのは鉱山での強制労働だけだからだ。デッドオアアライブ――死体でも生体でも賞金が出る。ならば、ここで殺されたとしても何の不思議もない。
だが、この男は自分を生かしている。それがかえって不気味だった。
街道の先に、木造の建物が見えてきた。保安事務所だ。ジェイクは、喉の奥から悲鳴のような声を絞り出した。
「頼む、頼むから話を聞いてくれ。俺には、俺には――」
「ねー」
イーサンの声が割り込んだ。ジェイクは思わず口をつぐんだ。イーサンは無邪気な笑顔のまま、エースに尋ねた。
「このおじさん、うるさいよ。師匠」
その口調には邪気のかけらもなかった。まるで、道端の石ころについて話すような、何でもない調子だった。
「ね、殺す?」
ジェイクの背筋を、氷のような冷気が駆け抜けた。
イーサンは笑っていた。本当に、心の底から楽しそうに笑っていた。その笑顔があまりにも純粋で、あまりにも無邪気だったからこそ、ジェイクは理解した。この少年は、本気で言っているのだと。人を殺すことを、まるで虫を踏み潰すかどうか尋ねるように、さらりと口にしたのだと。
おだてるべきは、この男ではなかった。
この少年だったのだ。
だが、今更気づいても遅い。
エースが立ち止まった。
ゆっくりと振り返り、ジェイクを見下ろす。その瞳は、まるで感情というものを持たない硝子玉のように冷たかった。いや、冷たいというより、何も映していないのだ。憎しみも、怒りも、憐れみも、そこには何もなかった。
エースの手が、腰のリボルバーに伸びた。
「待て、待ってくれ!」
ジェイクは叫んだ。だが、その声が届くことはなかった。エースの指が引き金にかかる。銃口が、ジェイクの額に向けられた。
周囲で見ていた賞金稼ぎたちが、息を呑んだ。
保安事務所の目の前で、無抵抗の賞金首を処刑するつもりなのか。
パン、と乾いた音が響く――と思った瞬間、エースの頭に何かが飛んできた。
ゴンッ。
鈍い音とともに、エースがよろめいた。頭に当たったのは、金属製のゴミ箱だった。中身が派手に散らばり、紙くずや果物の皮が砂埃の中に転がる。
「事務所の前で無抵抗の賞金首を殺すな!」
怒号が響いた。保安事務所の窓から、一人の男が身を乗り出していた。三十代前半と思しき男で、眼鏡の奥の目が鋭く光っている。その目は慢性的な睡眠不足を物語るように充血していたが、それでいて異様な鋭さを帯びていた。
セオドア・グレイソン。保安事務官だった。
ジェイクは、生まれて初めて保安官に感謝した。いや、正確には保安事務官だろうが、そんなことはどうでもよかった。助かった。それだけが、今の彼の頭を占めていた。
エースは、ゴミ箱を頭から外しながら、きょろきょろと辺りを見回した。まるで、何が起きたのか分からないという様子だった。
「右だ! 右!」
セオドアが窓から叫んだ。エースは左を向いた。
「違う! 右だ、右!」
エースはまた左を向いた。セオドアの顔に、苛立ちの色が濃くなる。
周囲の賞金稼ぎたちは、呆気にとられていた。
あのエース・モーガンが、左右を間違えている。
噂には聞いていた。彼は致命的に頭が悪いと。だが、実際に見るまでは、誰も信じていなかった。あれほど完璧な戦闘能力を持つ男が、左右も分からないなどと。
「師匠」
イーサンが穏やかな声で呼びかけた。エースがイーサンを見下ろす。
「お箸を持つ方だよ」
エースは黙って、両手を持ち上げた。そして、右手に箸を、左手に茶碗を持つ仕草をした。誰もいない空中で、器用に箸を操る真似をする。
その光景は、どこか滑稽でさえあった。
だが、誰も笑わなかった。
なぜなら、この男は本物だからだ。どれだけ頭が悪かろうと、その強さは紛れもない本物なのだ。
そうして、ようやくエースは右を向いた。窓から身を乗り出しているセオドアと、目が合う。
セオドアは深く、深く息を吐いた。
そして、窓を閉めた。
ジェイクは、その場に崩れ落ちた。全身の力が抜け、もう立ち上がる気力もなかった。
賞金稼ぎたちは、静かに散っていった。
エースは、ジェイクの縄を引いて歩き出した。イーサンがその隣を、相変わらず軽やかな足取りでついていく。
保安事務所の扉が、きしんだ音を立てて開いた。
中からは、書類の匂いと、インクの匂いと、そしてコーヒーの香りが漂ってくる。
エースとイーサンは、その扉をくぐった。
そして、扉が閉まる音が、乾いた空気の中に響いた。
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