第3話 噂の女生徒

 私は、笑うことが出来なかった。

 駅につき、ホームに降り立つ。渚は真顔で私を見つめていた。私は彼女の顔を見るでもなく、かといって何か言葉を発することもできなかった。発車ベルが鳴り始める。なにか・・・なにか言わないと。今、何か言わないと、私たちの関係は壊れてしまう!


 直感的にそう思った。焦燥感が駆け巡る中、私が口を開けたその瞬間、


ッつっただろ」


シュ―――――ガシャンッ!

 勢いよくドアが閉まり、列車がホームを発車していく。私は赤いテールライトが見えなくなるまで、その電車を茫然ぼうぜんと見つめていた。横を過ぎ去る人々はみな、私に目もくれなかった。


          〇


 帰り道、私は家までトボトボと力なく歩いていた。あの踏切は一体何なのか。なぜ乗客は笑っていたのか。そして・・・渚のあの言葉が私の中にいつまでも渦巻いている。墨汁のような真っ黒い液体が、私の中にトポトポと落とされていくような感覚だった。


「渚のあんな顔、初めて見たな・・・」


 思わずポツリと呟く。こんなことになるくらいだったら、あの時、母が引っ越そうなんて提案をしたとき、受け入れなければよかった。父が失踪したというこの街。そこに移り住むということに、違和感が一切なかったかと言われれば嘘になる。母はまだ何かを隠しているのかもしれない。思わず、そんなことまで考えてしまう。


 時音疎水ときねそすいを渡って、西上にしがみ四丁目の十字路を左に曲がれば、もうすぐうちにつく。母と二人で暮らす小さなアパートだ。この辺は街灯が少なく、あたりは薄暗くて少し不気味だ。遠くで踏切の鳴る音が聞こえてきた。先ほどの出来事を思い出して、私は恐怖心から足早にアパートに向かう。ところがあまりに急いでいたので、入り口の近くの人影に気付かず、自分でもびっくりするくらい大きな声を出して驚いてしまった。


「わあああ!!!」


 その人物はゆっくりとこちらに向かってきて言った。


「やっときたぁ」


 こちらのテンションとの差に、なにがなんだかわからなくなって、とりあえず謝ってしまった。人間不思議なもので、疑念を抱くと一瞬、我に返るものだ。


「あれえっと、どちら様・・・?」

 私が恐る恐る尋ねると、その少女は微笑を浮かべてこう答えた。


「月待ミコ。ね、寒いから一旦家上がらせてもらっていい?」


          〇


 見ての通り小さなアパートで、友達を連れてくることなんか滅多にないため、突然の訪問にも関わらず、母は喜んで私たちを迎え入れてくれた。噂に聞いて身構えていたが、パッと見る限り、月待ミコはただの女子高生だ。そんないぶかしむ私に気付いたのか、ミコは少し目つきを変えた。


「本郷さんさ・・・カカシ、見たでしょ」


 ギクッとした。この子には隠し事が通用しない。そんな気がする。


「うん・・・見たよ。駅前の踏切でね」

 ミコが身を乗り出す。


「どんな様子だった? なんかおかしい事はなかった?」

 きっとこの子は知っているはずだ。だが、私を落ち着かさせるためにあえてこんな聞き方をしているのだろう。


 「踏切の前にカカシが刺さってた。それで・・・」

 「それで?」

 「みんな、笑ってるの。微笑むとか、面白くて笑ってるんじゃない。もっとこう、ぐにゃって口元をまげて。電車に乗ってる人も、踏切待ってる人もみんな・・・」

 

 今度は何も言わず、ミコは頷く。

「それで今日、渚・・・友達と一緒に電車に乗ってたんだけど、急に笑えって言われて。でも、わたし笑えなかった。そしたら・・・ねえ月待さん、これっていったい何なの?」

 

 そう言い終えると、ミコは静かに息を吐いた。


本郷ほんごうさんって、ここら辺の出身じゃないよね」

 この子はどこまでお見通しなのだろう。私はコクリと頷く。


「そのカカシについて教えてあげたいんだけど、その前にお父さんが書いた本、ちょっと見してくんない?」

「お父さんの本・・・?」


 私が答えるやいなや、ミコの後ろの障子がスーッと開いて、母が部屋の中に入ってきた。


「え、お母さん」

「ミコちゃんと言ったわね。これよ」

 母がミコに色あせた本を手渡す。


「これって・・・」


『   ―――曲神くまがみのひとびと―――  本郷公孝   』


 表紙にはそう書かれている。父の遺作だった。


「ミコちゃん、和葉を・・・頼むわね」

 母がこの大切な本を見ず知らずの女の子にあっさりと手渡してしまったことに、私は驚きを隠せなかった。


「わかりました」

 ミコは落ち着いた声でそう答えると、さっそく父の本を開き始めた。この本は母がずっと戸棚にしまいこんでいたものだ。これまで何度か表紙を目にしたことはあったが、中を見るのは初めてになる。


 サッ、サッと次々にページがめくられていく。紙の擦れる乾いた音だけが、この静寂な空間に唯一発せられる。と、あるページでミコがピタリとその手を止めた。


「あった」

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