第2話

 三年前のことだ。瑠衣は、金髪の圧倒的美女に、突然道端で声をかけられて、異世界に行って魔王を倒してほしいと頼まれた。もちろん断った。なんなら交番はどこだったっけ、って逃げ道を探した。おまわりさん、ここに頭のおかしい人がいます。

 そうしたら、美女が腕をつかんできて、いきなり周囲が真っ暗になって、一歩先の地面さえ見えなくなった。あの時には、全身に鳥肌が立ったよね。何だこれ。

 そこから一生懸命に頼まれて――圧倒的美女は、異世界の女神様らしい。そのくせ、ものすごく腰が低かった――ちゃんとチートもつけるし、魔王を倒せることは保証する。絶対に死なない。倒せたらこの時間軸に戻すから。そんな条件を提示されて、それならやってもいいかも、と瑠衣は思った。

 何より、頷かない限り、この謎空間で、ひたすら同じやりとりを繰り返しそうな予感がした。なんか、レトロなRPGにあるやり取りみたいに。女神様、めっちゃ必死だし。掴まれた腕が、ちょっと痛い。ちなみに、女神様が瑠衣を選んだ理由は、女神様の力の伝達効率がとても良さそうだったから、らしい。何だそれ。

 それで、瑠衣は中世ファンタジーの異世界を旅することになった。女神様はちゃんと約束は守ってくれはしたけど、その方向性はちょっとナナメで、瑠衣は頷いたことを後悔したりもした。それでも、ちゃんと無事に地球に帰ってこれたのだから、結果オーライとしよう。


 そして、現在は、地球に帰ってきて、三年。瑠衣のアパートの床では、今、図体のでかい異世界人が気まずそうな顔で胡坐をかいている。本名はカリス=デル=グランバート。瑠衣が転移した国の、なんと第三王子様。魔王討伐部隊の最高指揮官だった。

 ブーツは脱いでもらったし、剣と鎧も外してもらった。んなもんつけてたら、違和感と圧迫感が半端ない。汚れた床もカリスに水拭きさせた。王子様は目を白黒していたけれど、自分が汚したんだから当然だ! 瑠衣は、異界の王子様に床を水拭きさせた、初めての女かもしれない。


「……で、なんであんたがここにいるの? 女神様が連れてきたの?」


 壁の傷に諦めの視線を送りつつ、瑠衣は質問を切り出した。すると、カリスが目を瞠る。


「女神様? なぜ女神様が? ……というか、気になっていたのだが」


 カリスが、姿勢を正した。表情も改める。真剣な面持ちだ。瑠衣も、つられて居住まいを正す。王子様は、圧が半端ない。


「君は、女性だったのか?」


 瑠衣は、思わず目を逸らした。そうだった。魔王討伐部隊では瑠衣は、童顔と背の低さをいいことに、少年兵を装っていた。カリスにとっては、腕の立つ斥候兵。それくらいの認識だったはずだ。


「あー……うん、実は?」

「なんてことだ……」


 カリスが、額に手を当てて俯く。なんだか悲壮な、沈痛な表情だ。

 彼は王子とも思えない気さくな指揮官で、旅の最後の頃には、結構親しく話をしたりもした。名前を呼ぶ許可も、その時にもらった。身分の差がありすぎて、下ネタのような会話は当然していない。だから、そんなに気にすることでもないと思うんだけど。

 とはいえ、異世界の常識はよく分からないし、ここはお茶でも出して、ゆっくり落ち着くのを待ってあげるべきだろう。

 瑠衣がコップに麦茶を注いでちゃぶ台に置くのと、カリスが顔を上げるのは同時だった。


「先ほど、ルーイは女神様と言ったな」

「そうだね?」

「では……君が、聖女だったのではないか」


 すっと背筋が冷えた。目の前に座る男性が、一瞬で、気心の知れたかつての上官から、見知らぬ異世界の常識で動く危険な男性に変わる。

 ――馬鹿。どうして、部屋に入れたりしたの。


「それを聞いて、どうするの?」


 瑠衣は、用心深く尋ねた。じりじりと、後じさりながら。さりげなく、横の壁際に置いた剣を確認する。逃げても、玄関ドアにたどり着く前に、あれを手に取ったカリスに背中を斬られるかも。それでも、黙って殺されるよりはましだ。覚悟を決めて、ぐっと足に力を籠めた瞬間に、カリスが両手を顔の横に上げた。


「待て。何か誤解をしている」

「誤解?」

「ああ。まず、私は君に害をなすために来たんじゃない。君を助けに来たんだ」


 瑠衣は胡散臭そうにカリスを見た。


「助けに」


 ちらっと瑠衣は壁の傷を見た。……面倒ごとを増やすため、の間違いでは?


「ああ。これだ」


 カリスは、ゆっくりと、懐から革でぐるぐる巻きにされたものを取り出して、ちゃぶ台の上に置いた。


「何これ」

「エリクサー」

「はっ!?」


 異世界でも国宝レベルの、奇跡の万能薬だったはずだ。致命的な傷さえ治すという。何でも数十年に一度咲く、神の花の蜜からしか作れないとか。


「本物!? てか、ここで効くの!?」

「疑うなら、試してみせようか?」

「いらないから!」


 本物でも偽物でも反応に困る。何より、カリスをまだ完全には信用できない。刃物なんて持たせるわけには行かない。素手でだって簡単に瑠衣を縊り殺せそうな屈強な男性だ。

 それでも、じっと瑠衣を見つめるカリスは、嘘をついているようには見えなかった。……まあ、異世界では、いつも助けてくれたし、短くない期間を一緒に旅したのだ。少しくらいは信用してもいい。


「で、なんでエリクサー?」

「君はひどい怪我だった」

「うん、まあ、そうね?」


 カリスと最後に別れたとき、瑠衣は致命傷を負っていた。これはもう駄目だなぁ、と自分でも思った。頭上で必死の顔で叫ぶイケメンが次第にぼやけて見えなくなった……と思ったら、気が付いたらあの謎空間に立っていて。女神様が瑠衣の腕を掴んでいる状態だった。

 たった今まで、地面に横たわっていたはずなのに、って、身体の平衡感覚がおかしくなって、倒れるかと思った。実際には、身体はぴくりとも動かなくって、それがまた気持ち悪くてさぁ。吐くかと思ったよ。

 ギリギリで、魔王を倒すのが間に合ったそうで、瑠衣は地球に帰れることになった。そうして、元の時間、元の場所、服も怪我も元通り。まるで夢でも見たかのようだった。


「大分時間が経ってるよ」


 そもそも致命傷だった。エリクサーを持ってきたところで、間に合うはずがない。

 そう言うと、カリスは少しだけ怒ったように言った。


「異界では、時間の流れ方が違う場合があると聞いた。もしも君が引きこまれた場所に腕のいい治癒師がいるのなら、間に合う可能性はゼロではないだろう」


 確かに、そうかもしれない。瑠衣は医学には詳しくないが、現代日本の病院のど真ん中に戻って、ただちに輸血とか手術を受けられるなら、一日二日は延命できていた可能性はある。


「私は、君を助けたかった」


 真剣に、訴えかけるように言われて、瑠衣は、絆されるのを感じた。まあ、悪い気はしない。


「でも、いくらなんでも、過剰じゃない? エリクサーって、国宝なんでしょ?」


 旅に持って行っているのは知っていたけど、失われたら困る聖女様用で、瑠衣のような死んでもいい平民に使うようなものではない、と嫌味な聖女様付きの侍女が言っているのを聞いたことがある。

 じっと見つめ合う。ふっと、視線の圧がゆるんだ。


「そうだな。皆に呆れられた。でも、君は私を助けて致命傷を負ったのだ。魔王を倒した名誉で賞されるべきなのに、戦死者リストにしか載らなかった。せめて躯を連れて帰ってやりたいと思ったのだ。それで、ディラードに頼み込んで、君の身体を呼び戻す魔法を編み出してもらったのだが」

「は!?」


 なんてことをしようとしてんだこのバカ王子は!あの世界に呼び戻される自分を想像して、ゾッとする。筆頭魔法使い様も何やってくれてんの?


「うまく発動しなくてな。それで、私を送り込んでもらった」


 瑠衣は眉を寄せた。


「無謀すぎない? あんた、王子様でしょ。怪物がわんさかいる場所だったりしたら、どうすんの?」

「後のことは任せてきた。私は第三王子だからな、実務はほとんどない、それに、隠密や、防御の魔道具は、できる限り持ってきたぞ」


 首にじゃらじゃらと提げている首飾りやペンダントはそれか。あっけらかんと答える王子様に、瑠衣は頭痛を感じた。


「……それで? 連れ帰る前提だった、って言うなら、帰る方法はあるんだね?」

「ああ。この指輪に魔法が仕込んである」


 そう言って、カリスは中指にはめた指輪を示した。真ん中に透明な丸い石がはまっている。日本では男性がつけるには違和感が大きいアクセサリーだが、イケメンパワーであまりおかしく見えないのが何だか癪だ。


「帰るのに必要な魔力が溜まったら、石が赤くなるはずだ」

「で、それはどれくらいかかるの?」

「その場所の魔力濃度に依存すると聞いている」


 瑠衣は眉を上げた。地球には魔法なんてファンタジー要素は存在しないわけだが。


「もしまったく魔力がない場所の場合、私の魔力から補充されて、一週間くらいかかるそうだ」

「はぁ、よかった」


 一週間なら何とかなる。幸い、瑠衣は家庭の事情で一人暮らしだ。


「ところで、納得したなら、そんなところで立っていないで、こっちへ来て座ってはどうだ?」


 瑠衣は迷った末に、ちゃぶ台を挟んだカリスの対面に座る。カリスが、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「それで、君は、聖女なのだな?」


 瑠衣は、黙ってカリスを見つめ返す。否定しなかったことで、カリスはもう答えを確信しているはずだ。


「なぜ言わなかった?言ってくれれば、私はきっと君を守ったのに。私を信用してくれていなかったのか?」


 瑠衣は肩を竦めた。もう過ぎたことだ。でも、カリスはじっと瑠衣の答えを待っている。仕方なく、瑠衣は理由を口にした。


「カリスがそうでも、聖女様はそうじゃないから」

「彼女が君を害すると?」

「うん」


 瑠衣は、あっさり頷いた。怒るだろうか? 平民が高位の貴族令嬢である聖女様をあしざまに言うなんて、とんでもないことだ。しかし、カリスは重いため息を吐いただけだった。


「そうか」


 少しだけ、瑠衣はカリスの内心が気になった。公爵令嬢サマと、第三王子サマ。二人の関係は、とても良好に見えたのに。でも、もう会うこともない人たちだし、そんなことを知っても仕方がない。


「さ、そんなことより、大事なことがあるんだよね」


 瑠衣が切り出すと、カリスがぱちくりと目を瞬く。


「一週間、ここにいるなら、まずは、着替えを買いに行こうか。その服、目立ちすぎるからさ」


 正直、きらめくイケメンは、何を着ても目立ちすぎるのだが。革のチュニック上下は、どう見てもコスプレである。

 いつの間にか、外はもうとっぷり暮れている。店が開いているうちに買わなくては。ため込んだお小遣いを使うことになるが、仕方がない。国宝を持ってまで瑠衣を助けにきてくれたのだから、そんな細かいことは言うまい。言いたいけど。言ったらなんか、宝石とか金貨とか、処分に困るものを寄越されそうだし。

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