1羽の白い烏
@wakana_itsutsuji
1羽の白い烏
かつてツァラトゥストラという男が山を下りて人々に説法めいたことを繰り返したという。人は成長と変革を追い、
高校生活の始まり。多くの人間が希望なんてものを胸に新たな生活のスタートを切る4月の頭。放課後になり生徒もまばらな教室の片隅で幼馴染の
「
「少数派であっても小勢ではないと思うけどね。正清のような超人思考は強者の理論だよ。僕には荷が重いんだ」
高校一年生にしては妙に貫禄のあるこの大男は、日本史の教科書の端に紛れていそうな名の幼馴染だ。
こいつは中学生の時分から、生徒会やクラス委員、陸上部の部長となにかにつけて前に出る役回りをしていた。
正義感が強く、トラブルを見かけたら積極的に首を突っ込むタイプ。悪く言えば余計なお世話の権化だ。
末人である僕には到底できない生き方だった。
サイドを刈り込んだ短髪と堂々たる体躯は、いかにもな体育会系で、僕とは対照的である。
おまけに、市内で上から数えて2番目の難易度を誇るこの
あっぱれ。
渋い顔のまま正清が一言。
「しかし、お前は北高にいくもんだと思ってたんだがな」
奴の言う北高とは、行けば人生の安泰が半ば約束されるとまで囁かれる市内最難関高である。中学では教師にも友人にも、僕は当然そちらへ進学すると思われていた。
しかし、僕はそうしなかった。
万が一にでも北高に落ち、滑り止めの私立へ回されようものなら家計に負担がかかる。家庭の平穏を願う者としては、そんなリスクは取れない。僕は安全圏の浜城高校を受験し、予想通り合格した。
合格発表の日、高校の正門前に貼りだされた3桁の合格者番号の前には多くの受験生が、中には親と連れ立って、悲喜こもごもとやっていた。
僕は近所の本屋へと寄って、文庫本を1冊買った帰りに自分の番号を確認しに寄った。自分の番号を見つけてから近所の喫茶店に向かい、珈琲をいただきながら買ったばかりの文庫本を開いていた。
正直に言ってしまえば、2番手であるこの浜城高校に落ちるなんてことは微塵も考えていなかった。
だが、こんなことを素直に口にするのは馬鹿だ。
僕は衝突や不和を嫌い、平穏な生活をひたすらに望む末人である。
「鶏口牛後ってね」
おどけた調子で言ってみせた。
そんな格言をこの場で言う人間がどれだけ滑稽で嫌味ったらしいかは、僕だって分かっている。
だけれども、こうでも言って茶化さないとどうにも胸の奥がざわつくのだ。
正清は小さくため息をついて、表情を変えないまま窓の外に視線を向けた。
つられて僕も窓の外へ目を向ける。
運動部の掛け声が、風に乗って教室に上がってきたり消えたりする。
3本も4本も掛けられた垂れ幕が校舎を覆い、風に煽られて時折教室に淡い影を落としていった。
どこどこの部が何々の大会に出場だとか優勝だとか、そういった誇らしげな文字が並び、全校生徒と地域の皆様に絶え間ない自己紹介をしている。
だが、そういった光景は僕にはどこか遠い。彼らの努力の眩しさが窓から教室に飛び込んでくるようで、そっと目を伏せたくなる。
「入部先は決めたのか」
正清の言葉で心が重くなった。都合の悪いことに、文武両道を掲げるこの浜城高校は全校生徒が部活動に所属しなければならない。
どうにも逃げられるものではないとは分かっているのだが入部届を出すという行為そのものが、末人としての僕の安寧に冷たい刃を向ける。
この精神的切腹を前に、どうしても刃を握れぬまま、提出期限である今日を迎えたのである。
目の前で切腹を急かしてくる男に、机から1枚の書類を取り出してみせた。
正清は紙へと視線を落として呟いた。
「社会研究部?」
切腹をためらう僕に介錯人が現れたのは昨夜のことだった。
姉ちゃん:まずは高校入学おめでとう。入部先は決めてるの?たしか強制よね?
成:決めてない
姉ちゃん:だと思った。でも都合がいいわ。
成:というと
姉ちゃん:やってほしいことがあってね。真木さなえって先生は知ってる?
成:知らない。一年の担当じゃないんじゃないか
姉ちゃん:そっか。なら職員室にでも行って探しなさい。
成:どうして
姉ちゃん:会えばわかるから。入部届はどこにも出さないようにね。
正清は腕を組んだまま、机上の書類に目を落としながら訊いてくる。
「それで、真木先生には会ってきたのか」
「会ってきたよ。それで社会研究部と書いて入部届を出すように言われた」
「聞いたことない部活だな」
まぁ当然だ。社会研究部はまだ影も形もない。
この学校で部活動を立ち上げる条件は、生徒二名以上と顧問一名。それは僕が入部届を提出することで達成される。顧問は真木先生、生徒は僕と、もう1人が入部予定と聞いたのだが、もう1人の生徒のことは何も知らない。
真木先生は柔和な雰囲気の女性教師であった。ゆるくウェーブのかかった、やや栗色の髪が腰のあたりまで伸び、大きなタレ目が印象的だった。姉である庵木信恵の名前を出すと、待ってましたとばかりに手を合わせて、ぱっと笑顔になった。姉と真木先生は幼馴染らしかった。どうやら姉が僕を巻き込んで部活を1つ作ってほしいと頼んだらしく、先生もそれを面白がって乗ったようだ。
「で、部室はどこなんだ」
正清が口の端を上げ、ふんぞり返るように言う。
「新設とは、お前にしては珍しく意欲的なことだからな。近いなら設立の記念に顔くらい出してやろう」
友人の活動を見守ろうとする義理堅さは昔からだ。ありがたいけど、ちょっと鬱陶しい。
「体育倉庫の傍にある建物だってさ」
正清がカバンの中から校内地図を取り出して広げる。正門を上に配置した地図のため実際の方角とはちょうど北と南が反対になってしまっていて、やや違和感がある。
両面印刷の地図は表面が校内のみ、裏面は学校の周辺を含んだ地図になっているのだが、今見えている裏面ではさすがに校内の体育倉庫を探し出すのに都合が悪いので、裏返して表面を見る。
「グラウンドの下にあるのが体育倉庫だな」
正清の指す先を見るとグラウンドの下側、少し離れたところに体育倉庫と、その右側に小さな四角形の建物を発見した。他の建物には何かしら名称がついているが、この建物には表記がない。
なるほど、どうやら校舎に空きがなくて外に追いやられたと見える。
時計を確認するとそろそろ約束の時間が近くなっていた。僕が立ち上がってカバンをつかむと、正清も地図を片付けながら立ち上がる。僕も平均的な男子高校生の身長くらいはあるが、目の前に立たれると正清の180センチ程の身長と広い肩幅はなかなかに威圧感がある。
「正清も部活かい」
正清に問うと、ゆっくりとかぶりを振る。
「いや、その建物が気になるからついていく。……なにかネタになるかもしれん」
そういえばこいつはオカルト研究部に入ったんだったな。
情報研究部の部室は学校の敷地の片隅も片隅。体育倉庫の奥にあった。
防球ネットの外側に追いやられた体育倉庫ですら人の気配が薄いのに、そこからさらに五十メートルほど離れた場所に、小さなプレハブ小屋がぽつんと砂を被っている。
建築現場に仮で置かれる事務所と見分けがつかない、淡いクリーム色の外壁。ドアには円筒型のノブと、小さな腰高窓。
室外機が置かれているのでエアコンはあるらしい。文明は、かろうじてここまで届いた。
要するに、見事なまでに地味な建物であった。地味さにランクがあるのなら、ここは間違いなく特級を取っただろう。
このあたりに用のある生徒はほとんどいないとみえる。昇降口を出てからグラウンドの脇を抜けてここにたどり着くまでにすれ違った人間は、手ぶらの用務員と車いすの女子生徒以外にいなかった。
正清は車いすの女子生徒を見かけると、何か手伝うことはあるかと聞いていた。まったく世話焼きな男である。
女子生徒は僕たちと同じ1年生なのだろう、制服に着られているといった感じであった。正清の突然の申し出に少し焦っていたようだが、品の良さそうな仕草と細い声で丁寧に断っている。膝の真新しそうなブランケットの下には荷物でも置いているのか少し膨らんでいる。去っていく車いすのグリップ部分にぶら下げられたビニール袋が、艶のある黒髪と一緒に風で少し揺れていた。
真木先生も、もう1人の生徒もまだ来ていないようだが、鍵は開いていたので中で待たせてもらうことにした。
「ま、これからって感じだな」
パイプ椅子を広げてどっかりと座りながら、正清が一言。
人が活動している匂いが全くしない小屋の中は確かに部室と呼べるような状態ではなかったが、これからここで社会研究部の活動が開始となると思うと、少なからず前向きな気持ちも湧いてきたような気もする。
こういうのを楽観的な奴というのだろう。自嘲しておく。
壁には正清が持っていた校内及び周辺の地図をそのまま拡大した案内図が貼りつけられているほかには何もない。ホワイトボードが設置されているが、こちらも同じく掲示物や何かを書いているようでもないし、何かを書いた跡もない。埃をかぶっているわけでもないことからすると、おそらく部室として使うとなってから運びこまれたものだろう。
つまり今のところ、ここには歴史と呼べるものは何もない。
僕も座って待つか、とパイプ椅子をもう1つ広げたところで部室のドアが静かに開いた。
全部の語尾に伸ばし棒がついているような、ゆったりとした声が聞こえる。
「あら、待たせちゃったかしら。ごめんなさいね」
真木先生が部室に入ってくる。正清を見て少し不思議そうな顔をするが、それを察した正清は立ち上がって挨拶をした。
「1年C組の藤堂正清です」
「真木さなえです。藤堂君も入部希望かしら?」
「いえ、自分は既に別の部へ入部届を出していますので」
2人が話しているのを眺めていると、ふと視線を感じ、窓に目をやる。
女の子と目が合う。
無表情で窓からこちらを覗いている。
女子生徒ではなく女の子だとはじめに思ったのは、背丈の小ささ故であった。
小学生くらいだろうか。小学生がここにいる状況は問題なのではないだろうか?
ぱっちりと開いた大きな目がじっと僕を見ている。さすがに少し気まずくなって視線を逸らそうとしたところで先生の声が耳に入る。
「そうだそうだ。もう1人の部員、紹介するわね」
外に向かって「おいでー」と声をかける。
こちらをじっと見ていた女の子が、すっと窓から見えなくなった。
他の誰も気が付かないまま、部室には一瞬だけ、薄い静寂が落ちた。
そして――入口から入ってきた。
ここで初めて気が付いた。
彼女は浜城高校の制服を着ている。
ということは高校生……のはずだ。
やっぱり背は小さいし、小さな体躯に合わせて手も足も細い。
顔のパーツも目を除いて小さく薄い印象。顔そのものも小さかった。肩くらいまでの髪は、ふわふわとした癖毛だった。
なにやら右手にブランケットを引っ掛けている。左手にはビニール袋を提げているが、中身は判然としない。
女の子は窓越しに見た時と同じ、相変わらずの無表情を崩さず僕らの前に立つと、小さい口を開いて抑揚のない定型文で挨拶をした。
「あやめです。よろしくお願いします」
一礼。30度。
プログラムされた機械のような動きだった。そして続ける。
「私は人間についての学習プログラムの一環で浜城高校へ入学することになった、自律学習型アンドロイドです」
……。
訂正。
機械だった。
それから真木先生は、僕らに事の次第を説明してくれた。
まず、僕の姉・庵木伸恵が中心となる研究チームによって、プロトタイプのアンドロイドが完成したこと。
そして、人間の価値観や思考に近づけるため“実際の人間社会で学習させたい”という姉の考えから、そのアンドロイド、あやめを高校へ入学させることになったこと。
その受け入れ先として選ばれたのが、幼馴染である真木先生が勤務する浜城高校……という流れらしい。
あまりにも急すぎて、僕と正清は完全に置いていかれていた。
そんな僕らに、あやめが一歩前に出て、無表情のまま言う。
「私がアンドロイドである証拠を提示します。顔を近づけて、目を覗き込んでください」
小さな女の子に男子高校生二人が至近距離まで寄るという、なかなかにアウトな絵面を経て、ようやく気づく。
彼女の瞳には、カメラのレンズについているような絞り羽根が見える。僕らが動くと彼女の目に入る光の量が変わるのだろう、わずかに絞り羽根が動く。
そこまで確認し、僕と正清は2、3歩ほど後ずさる。
僕らの動揺っぷりに反して、あやめは先ほどから微動だにしていない。
正清が声を漏らす。
「信じられん……」
全く同感である。が、目の前いるアンドロイド少女は紛れもなく現実のものであった。
未だ事態を消化しきれずいる僕らに先生が付け加える。
「この社会研究部はね、あやめちゃんの学習をサポートするために、先生と伸ちゃんが考えた新しい部活なんです」
先生は胸の前でぽんっと手を合わせながら、にっこりと笑っている。
のぶちゃん……姉ちゃんのことか。昨日のメッセージではアンドロイドの面倒を見てほしいなんて、大事な情報を全く明かしてくれなかったではないか。それにわざわざ高校に入学させずとも人間と交流ができる場なんてものは、いくらでもありそうなものだ。
そう思って先生に訊く。
「なぜ高校入学ということになったんですか?」
ふわふわとした調子のまま、先生が答える。
「プロトタイプのアンドロイドなんだし、あんまり世間の話題になっちゃうのは避けたいんだって。高校ならある程度コミュニティも閉鎖的だしね。身元不明な人たちが出たり入ったりする場所はよくないでしょう。かといって、同じような属性の人が固まっちゃってるところもよくない。せっかくお勉強なんだから、色んな人がいるところがいいんじゃないかって。ここなら、私と庵木君がいるから伸ちゃんとしても安心できるんじゃないかな」
む。一理ある。こんなに人間と見分けがつかないレベルのアンドロイドが完成しているとなれば、しばらく世間の耳目を集めること間違いなしだ。国内に留まる話でもないだろう。
それならばもう1つ。
「……小学生くらいの女の子に見えるんですが、注目を集めないという意味では高校生らしい見た目のほうがよかったのでは?」
ふわふわふわ。
「んー。伸ちゃんの趣味かしら」
……さいですか。
公私混同ともいえる姉のデザインセンスには、まったく敬礼である。
ところで。
社会研究部の活動は、あやめ学習をサポートをするということであるが、いったいなにをするのだろうか。たしかAIの学習には、大量のデータを取り込んで、特徴やパターンを覚えさせるディープラーニングというものがあるんだったか。ニューラルネットワークが云々……。
……だめだ。よくわからん。
そもそも素人がアンドロイドに学習をさせるなんてことが可能なのだろうか。
正清はさっきから黙ったまま、時折目をこすっている。
まだどうすればいいのか分かっていない僕と正清の間を、無表情のままの小さなアンドロイドがゆっくり抜けて机に近づく。
登場したときから持っていたブランケットを、ばふっと机に放り投げる。そして同じく持っていたビニール袋も、その横に置いて振り返る。
ビシッと真っ直ぐ、机の上に置いたそれらを指さす。
大きな瞳で僕をじっと見ながら宣言する。
「部活動開始です」
僕の波風の立たない人生は、ここから確実に離れていく予感がした。
あやめが机に置いたもの。くたびれたブラウンのブランケットと、何かが入ったビニール袋。
これらと部活にどんな関係があるのだろうか。2つを見分しながら訊く。
「なんだ、これは」
「さきほど部室の裏で拾いました」
ごみを拾ってきただけか?
社会奉仕活動を通して人間社会を学ぶというのだろうか。効率は良くないだろうが。
「そうか。ならあとはゴミ袋にまとめるだけだな」
言いつつ部室を出ようとする。たしかゴミ袋は職員室に行けばストックがもらえるはずだった。少し面倒な距離ではあるが、どのみち部室にゴミ箱を設置することになるから、何枚かもらっておこう。
考えつつ数歩進んだところで腕をつかまれる。振り返ると、あやめが僕の腕をつかんだまま口を開く。
「ダメです。知ってからじゃないと」
……知ってから?
何を知ってからだというのか。
あやめが机の上のごみに指をさして続ける。
「知りたいのです。あれらの持ち主は、どんな価値観で、どんな思考で、そしてどんな状況だったのでしょうか」
さらにグッと距離を詰められる。
「人の行動には必ず理由があるはずです。そこに興味があります」
目を逸らしながら返す。
「ただのポイ捨てじゃないか」
ここで思わぬ伏兵が現れた。
「なら、なおさら特定すべきだろうな」
正清だった。腕を組んで机の上のビニール袋を睨んでいる。ついでにデカいくしゃみもしてみせた。
しまった。こいつの正義感を刺激してしまったらしい。校内でポイ捨てが行われていると知れば、間違いなく正清は犯人捜しをし始めると予想できたはずじゃないか。
だが犯人捜しなんてものは末人としては絶対に避けたい。僕はひたすらに現状維持をする。他人との衝突はまっぴら御免である。
正清の正義感に巻き込まれそうで、背中がぞわりとしてきた。
「あらいいじゃない。あやめちゃんが興味をもったものなら、それが学習につながるんじゃないかしら。それに教師としてはポイ捨ては見逃せないし」
ふわふわ真木先生。小さく拍手まで添えていらっしゃる。
多勢に無勢。
穏便に済ませたい僕の願いは、だれにも届くことがないようだ。
白旗を上げて席に着いた僕と、他のメンツも机を囲むような形でそれぞれ腰を下ろした。机の上には件のブランケットとビニール袋。
鼻をすすりながら正清がビニール袋を手繰り寄せて中身を取り出す。
中から出てきたものは、底が浅い四角形のプラスチック容器だった。中にはぎっしりとカット野菜が詰まっている。
カット野菜の中には申し訳程度というにもほどがある、ほとんど爪の先くらいしかない蒸し鶏が、本当に少しだけ混ざっている。
蓋に貼られたラベルを見て正清が呟く。
「購買で売られているやつだな」
僕はまだ利用したことがなかったが、この学校には購買がある。文房具や食品を扱っていて、公立高校の割には品ぞろえがいいとして好評だと聞いている。
なるほどラベルを確認すると、確かに浜城高校購買部と打たれている。
「では、購買で購入した商品を部室の裏手にポイ捨てをしていった、ということでしょうか」
あやめが確認をしてくる。
「自分で言っておいてあれだけど、違うと思うよ」
さっきは咄嗟にポイ捨てだと切り捨てようとしたが、明らかに違う。
正清の鋭い視線を感じて補足する。
「正清がポイ捨てをするなら、どういう状況でするかな」
「俺はしないぞ」
「例えばの話だってば」
そうだな……、と少しだけ考えて正清は答える。
「ゴミ箱が見当たらないとき、だろうな」
「人間は面倒を嫌うのですね」
あやめが深く頷く。
まあ。そういうことだ。人間は面倒を嫌い、楽をしようとするのが本質。
正清に頼んで校内の地図を広げてもらう。例の正門を上に配置した地図だ。
浜城高校の敷地は四角形の右上を切り落とした形をしている。
左半分はロの字型の校舎が占め、中庭が真ん中にある。その下側には渡り廊下で体育館がつながっていて、体育館の一階はピロティ構造の駐輪場だ。
右にはグラウンドと武道館、テニスコートが並んでいる。
我が社会研究部の部室はというと、そのグラウンドのさらに下。侘しい体育倉庫の右にしがみつくように、ぽつんと置かれている。
見事なまでの端っこだ。
正清が少し鼻声で低く唸った。
「面倒だな……」
「だろうね」
この社会研究部室の裏手にゴミを捨てるには、わざわざ校舎から離れてグラウンドの脇を抜け、体育館倉庫を通り過ぎて歩いてくる必要がある。
近くにゴミ箱がなくて捨てに行くのが面倒に感じた人間が、こんな果ての果てまでゴミを捨てに来るか?
答えはノーだ。
「人間は面倒を嫌うのですよね?」
あやめが小首をかしげる。
「校舎にはもちろんゴミ箱はたくさん設置してあるし、体育館にも駐輪場にも、武道館前にだってあるわね」
先生からの補足もいただいたところで、僕の考えをみんなに披露する。
「つまり、これはポイ捨てじゃない。なにか理由があって誰かが持ち込んだもの、と考えるのが自然なんだ」
間髪入れずに正清から返ってくる。
「なんのためにわざわざサラダを持ってくる必要があるんだ」
肩を竦めることで回答とする。
その答えを出すには僕が持っている情報はまだ足りない。
「私たちも同じことをしてみましょう」
唐突に宣言したあやめは、そのまま椅子を引き、すたっと立ち上がって部室のドアへ向かっていく。
が、壁の時計を確認した正清が声をかけた。
「購買ならもう閉まってるぞ」
時刻は17時になろうかというところだった。購買は確か16時までだ。
停止ボタンを押したようにピタっとあやめの動きが止まる。
体はドアをむいたまま、顔だけこちらにカクンと向ける。
「では開店まで待機しましょうか」
正清の叫ぶようなくしゃみが響く。
それから僕たちは部室で購買の開店時刻である翌日の11時まで待機……。などという暴挙には当然及ばなかった。
代わりに僕と正清の簡単な自己紹介を改めて済ませた。
「記憶しました」とあやめは言ったが、どこまで本当に記憶という仕組みを持っているのかは分からない。
先生は正清に対して、あやめがアンドロイドであることを口外しないように頼んでいたが、この男は言われるまでもなくそうしただろうと思う。
大柄で粗野に見えるが、義理人情には厚い真っ直ぐな男である。
先生が職員室にもどると、あやめは僕たちを質問責めにした。
毎日の習慣、嫌いなこと、腹が立つこと……。
僕は答えるのが面倒で、かばんの中から文庫本を取り出して文字を追っていた。質問を受け付けない、というスタンスを示すためだけに広げた本だったが、思いの外に展開が面白く夢中になっていた。
文字の中に沈んでいく間、2人のやり取りは耳に入らなかったが、1つだけ、妙にはっきりと届いた言葉があった。
「私は人間になりたいです。人間を学ぶだけでなく。どうすれば、人間になれますか」
その声が落ちてきた瞬間、ページの端に置いていた指が止まった。
反射だった。
心のどこかで、答えはもう形になっていた。
――無理だ。
胸にどろりとした重い黒が広がるのを感じて、文庫本に落としていた視線がさらに沈む。
あやめの言葉を聞き、間髪入れずに、おそらく彼女が最も聞きたくない類の答えを用意している自分がいる。
その冷たい温度は自分自身をげんなりさせた。
誰かの願いや努力に第三者が軽々しく否定を突きつけたとき、何が壊れるのかくらい、僕はとうの昔に思い知ったのに。
だからこそ僕はもう平穏無事に日々を送りたいだけなのに。
何重にも重ねて封じ込めたと思った僕の黒は、どうやら表面に薄いメッキをしただけだったらしい。何かが引っかかれば簡単に剥がれ落ちて、地が見える。
正清が何と答えたのかは聞こえなかった。
ちょうどスピーカーから18時のチャイムが鳴って、暗い水から引き揚げられる。
文庫本から顔を上げて、せめて平然を装って2人に声をかけた。
「今日はそろそろ解散しようか」
「そうだな。また明日だ」
正清が答えながら立ち上がる。
僕らは明日の昼休みに購買の前で落ち合うことを決めて、それぞれの帰路へ散っていった。あやめも市内のマンションに部屋を借りて暮らしているらしい。姉が段取りをつけたのだろう。
遠慮なく吹き付ける風は、春を名乗るにはまだ誠実さに欠けていた。
オレンジの光がうっすらと敷かれた道を、コートのポケットに手を押し込んで歩く。
鋳込んだように重く黒い影だけが後をついてくる。
翌日の昼休み。昨日の冷え込みが嘘のように暖かな春の日差しが戻っていた。
僕たちは約束通りに購買の前に集まって、件のサラダを探していた。正清はもうブレザーを脱いで、ワイシャツも半袖に捲っている。
購買には、ほどほどといった具合で生徒が出入りしていた。
僕らがじっくり商品を眺めていても邪魔になることはなさそうだ。かといって暇を持て余した店員があくびをかみ殺すほど閑散としているわけでもない。
無駄に生徒数の多い学校ではあるが、購買に人が押し寄せるわけではないようだ。僕や正清と同じく、弁当派が主流なのだろう。
陳列棚の前に立つと、なるほど評判通りかなりの品ぞろえだと分かる。3つ並んだ食品棚は、ちょうど僕の目線から膝下くらいまでの高さがあって、コンビニ並みとまではいかないが、棚は予想以上に多種多様な商品が押し込まれていた。
僕の目の前にある棚の最上段はサラダチキンやプロテインバーなんかの高たんぱく加工食品が並んでいて、ついでと言わんばかりに置かれたゆで卵が肩身の狭そうな格好だ。無塩の蒸し鶏なんてものもあるのか。
運動部が活発だと、こういった選定になるのだろう。
「成、あったぞ」
少し下から正清の声が飛んでくる。
例のサラダは弁当や軽食が並べられた陳列棚の一番下に置かれていた。
正清はヤンキーみたいな座り方をしながら、サラダの容器を手に取っていた。
その横にはあやめも膝を揃えてしゃがみ込んでいて、ただでさえ小さな身体をさらに折りたたむようにしている。
「……クマとぬいぐるみだ」
言ってから、口に出すほどのものでもなかったと思った。
正清は片方の眉だけ上げて、首をかしげた。
正清からサラダを受け取って、レジへ向かう。調査という理由で、買わずにたむろしていては迷惑というものだろう。別に怒られるというほどでもないだろうが、何をしているのかと視線を集めるのは気分のいいものではない。誰かの邪魔にならぬよう、さっさとサラダを買って、あとはじっくり考えればいい。
買ったサラダを手に、僕たちは購買の横に並べられたテーブルの1つを陣取った。
正確には僕と正清は、だ。
あやめは何やらまだ購買の周りをうろうろしている。小さな後ろ姿がちょろちょろしていて、どこか小動物然としている。誰かの迷惑になりはしないだろうかと、こちらが穏やかではない。もっとも、通りすがりの女子生徒が「かわいい」と言っていたので、迷惑にはなっていないらしい。姉ちゃんのデザインセンスは図らずとも人に好感を持ってもらいやすい姿を作ったのかもしれない。3年生と思わしき女子生徒に撫でられて目をつむっている。
テーブルの上のサラダを見分すると1つの違和感があった。いや、これは気が付かないほうが無理な話だ。
正清が唸る。
「少なくなってないか?」
「美味しくなってリニューアルってやつかな」
鼻で笑われ即座に一蹴された。渋い顔で腕を組む正清のほうが、よほど真剣に観察している。
「昨日見たサラダは本来入っているはずのドレッシングと蒸し鶏が抜かれていたのか」
聞きながら記憶を巻き戻す。
昨日見たサラダはカット野菜がいっぱいに詰まっていた。カット野菜の上には何かを入れる余白が一切なかった。昨日の今日で商品の内容が変わるというのは、さすがに考えにくい。
それにもかかわらず、さっき買ってきたこのサラダにはカット野菜の上にドレッシングと蒸し鶏が乗っている。
だとすれば……あまり考えたくない結論へたどり着くことになりそうだ。
そう思ったところで、あやめが戻ってきた。
片手に牛乳パックを持って。どこか誇らしげに。
また妙な物を拾ってきた。
……ごみ収集のプログラムでもされているのだろうか。
「見てください」
僕らの目の前に牛乳パックを置きながら、あやめが言う。
「牛乳パックだな」
「牛乳パックだね」
僕と正清が同時に出した回答はどうやらあやめには満足のいくものではなかったらしい。
「この牛乳パックはストローがついているのに、どうして上を開く必要があるのですか」
言われてみてみると、確かにストローを使った形跡がない。ストローはパックの横に接着されたままだし、ストロー穴も開けられていない。代わりにパックの上側が丁寧に開かれている。
これは確かに不思議な開けられ方だ。
が、検討はつく。
容器の変形具合からしても間違いない。念のためあやめに確認をする。
「どこで拾ってきたの?」
あやめは右手で場所を示しながら答える。
「共有レンジの横にあるごみ箱の中です」
ゴミ箱を漁るもんじゃないと教えておかなくては。
だが、やっぱりだ。
「じゃあ温かい牛乳をつくりたかったんだろうね」
すいぶんズボラなやり方だとは思う。が、移し替えるためのマグカップの用意も学校では難しいし、水筒に移したところでレンジにかけるわけにもいかないだろう。
ならパックそのものをレンジに放り込むしかない。
そして温めた牛乳はストローで飲むよりも水筒か何か、別の容器に移したほうが勝手がいいだろう。
主観の多分に入った考えではあるが、温かい飲み物はストローで飲みたい気がしないからな。
それならパックを開いてしまったほうが都合がいい。
あやめは体ごと傾きながら、さらに問うてくる。
「こんなに暖かい日でも飲み物を温めたくなるものでしょうか」
「俺は年中ホットコーヒーだ」
とは正清。
世の中には気温に関わらず温かい飲み物を嗜む人種は多い。同じように牛乳は温めて飲みたいという人間がいても不思議ではないだろう。
たしか姉ちゃんは絶対に冷たい水を飲まないようにしていたような気がする。
それとは少し違うか。
「そうですか。また人間を知ることができました」
そういってあやめは深く頷く。
「ところで」
とあやめが言いかけたところでチャイムが鳴る。昼休みの終了が間近なことを告げる予鈴だ。
授業に遅れるわけにもいかないので、あとは放課後に話すとしよう。鳩首会議はいったんお開きとなった。
大きく深呼吸をしながら立ち上がった正清が手早く机の上を片付け、歩き出しながら言った。
「また部室でな」
当然いらっしゃる予定のようだ。こいつはオカルト研究部なんじゃないのか。
昼休みのざわめきに消えていく正清に、あやめは小さく手を振っている。僕だけがひそかにため息をついた。
正清の言葉が、厄介ごとの始まりに聞こえたのは、たぶん僕だけだ。
放課後の教室は遠くから運動部の掛け声や吹奏楽部の音出しが聞こえるだけで、さっきまでの賑やかさは跡形もなくなっていた。
あやめはホームルームが終わると一目散に駆け寄ってきて部室に誘ってきた。けれど僕には寄りたい場所があって断った。
本当のところを言えば、部室へ向かう覚悟が決まっていなかったというのもあった。
サラダについての僕の考えは、ほぼ固まっている。だがこれを正清に話せば、あの男は絶対に黙ってはいない。僕を巻き込まないように立ち回ってくれるだろうが、足先だけでも触れてしまう行為そのものが、僕にはどうしようもなく気が重いのだ。
そんな思いを引きずりながら廊下を歩き職員室へ着く。真木先生に確かめておきたいことがあった。
真木先生には必要なことだけを手短に確認した。予想したことと差異のない答えに、また部室へ向かう気持ちが萎えていく。
職員室をでると、夕方の光が斜めに入り込んできていた。薄く伸びた僕の影は逃げ腰であることを隠そうともしない。
結局、覚悟なんてものは持てないまま部室に向かう。誰もいない昇降口は自分の出す音だけが、やけに響く。
部室では今ごろ正清が腕を組んで渋い顔をしているに違いない。その横であやめはどうしているだろうか。僕の考えを聞いて、人間に絶望したりしないだろうか。
最も、そういう風には作られていないのかもしれないが。
暖かい日だと思っていたが、日が傾いてから気温は右肩下がりに低くなってきた。敷地の隅にあるこの部室の前には運動部の掛け声も吹奏楽部の音出しもほとんど届かず、風で揺れる木の葉の音だけが僕を取り囲む。
深呼吸をしてから部室の冷たいドアノブに手をかける。
それは想像よりも軽く開く。
早速、文句が飛んできた。
「遅い」
正清が、予想通りの渋い顔で腕組みをしている。
向かい側の席では、あやめが舟をこいでいた。アンドロイドも寝るのだろうか。規則正しく動いているところを見るに、これにも製作者による意図的なものを感じるが。
「ごめんごめん。真木先生に確認したいことがあって」
席に着くと同時に、あやめがぱちりと目を開けた。
「部活動の正式な開始時刻から、13分24秒の遅刻です」
正確なお知らせに感謝。
「で、何かアテがついたってことなんだろうな」
正清は僕を見ないまま尋ねる。
奴は僕が頷くのを横目で確認すると机の上に今日の昼休みに仕入れたサラダを出して、机を指で軽くたたく。無言の催促にため息が出そうになるが、説明をしなければ終わらせることができないことは十分わかっている。
大きく息を吐く。
1つずつ確認していこう。
「このサラダはドレッシングと蒸し鶏が添えられていて、カット野菜は容器の半分くらいまでしか入っていないんだ。でも、あやめが拾ってきたサラダはカット野菜だけで蓋までぎっしり詰まってた。まずこれが意味するところは分かってくれるだろ」
正清と目が合う。
「試すようなことをするな。相変わらず、実にお前らしいとは思うがな」
一瞬、胸が重くなる。何もないように続ける。
「本来、容器半分までしかないカット野菜を蓋いっぱいまで詰める方法、それはもう半分をカット野菜で埋めることだけなんだ。つまり、あやめが拾ってきたサラダは2つを1つにまとめた結果、出来上がったものなんだよ」
「ふむ」
正清が顎を撫でた。
「確かに2つサラダを買って、それを1つの容器にまとめれば昨日のサラダと同じものが作れるとは思うが、なんのためにそんなことをする必要があったんだ」
「そんなことをした、というよりも、そうなってしまったと考えるほうがいいだろうね」
「どういうことでしょうか」
あやめが戸惑いつつ聞いてきた。
2つサラダを1つの容器にまとめざるを得なかった理由は1つ。
「昨日のサラダは、一度地面に落ちたものをかき集めたものだったんじゃないかな」
そうでもないと、わざわざ1つにまとめる意味がない。不幸にも地面に落ちたサラダは、もう食べることができない。ひとまず捨てやすいように片方の容器にまとめようとしたのだろう。
言った瞬間、口に残る言葉の味が最悪だった。
「待て。そうだったとして、そもそもの話、何故わざわざこんなところまで来たんだ」
正清が右手で制するような格好で割って入る。
回答を僕は持っている。だが、これを口にすることは僕の末人人生に終止符を打ちかねない。
それとは別に、いや……それ以上に、僕がこれを口にすることは、僕と正清がもう見まいと封じ込めた影に光を当ててしまうような気がした。
昔話と言えるほど昇華しきれていなくて、だからと言ってトラウマというには大げさかもしれないが、できれば触れずにおきたい記憶なんてものは誰でも抱えているとは思う。
「成には、分かるんですか」
気が付くと、あやめが目の前まで顔を寄せていた。手を伸ばさずとも触れられそうな距離にまで。
薄い睫毛の影が瞳に落ちて、ゆらゆらと揺れている。睫毛の影を浮かべる瞳は、逃げ場がないほど真っすぐで、一切の淀みがなかった。
……これがどうにも具合が悪かった。胸のあたりが、妙に落ち着かないのを否応なしに自覚する。
その無垢な好奇心を前に、過去の影だとか記憶なんてものは、ひどく曖昧に溶けていきそうだった。
あるいは、彼女がアンドロイドだから、油断をしたのかもしれない。
飲み込もうとさえしていた答えは、気が付けば零れ落ちていた。
「嫌がらせ……あるいは、いじめ……だと思う」
瞬間、正清の動揺が伝わってきた。
「どういうことだ」
正清の声は、少し震えていた。
あやめからそっと距離を取り、零れた言葉の後始末をつけるように続けた。
調子を整えるのに一拍要った。
「ここは人目につかないんだ。後ろ暗いことをするにはちょうどいいだろう?」
正清が何か言おうとしている。
だが、話し続けることで振り切ることにした。
「対象は、誰か呼び出されたか何かでやってきたんだろう。そこで持っていたビニール袋の中身を捨てられたんだろうね」
「呼び出された生徒は、持っていたビニール袋の中身を捨てられた。なら、どうしてそいつはサラダだけ置いて行ったんだ。ショックを受けて何も拾わず立ち去るのは分かる。あるいは全部拾う、というのも分かる。サラダを、それも片方だけ置いて帰るという状況がよくわからないな。」
落ち着きを取り戻した様子で正清が訊く。いつもの腕組みと渋い顔だ。
「拾うつもりだったんだけど、途中で諦めたんだろうね」
言いつつ、正清の足元にペンを落とす。正清は一瞬怪訝な顔をしたが、それを拾おうと座ったまま体を折る。
ペンを拾って体を起こす正清と目が合ったところで、言葉を続ける。
「座ったまま床のものを取ろうとすると、そこそこ体を傾ける必要があるよね。今の正清には難しくなく可能なことだけど、例えば高い肘掛けがついてる椅子だったらどうだろう。あるいは、横に張り出している構造だったり、前に体重をかけたら転んでしったりするような椅子だったら?」
「この部室の裏に、そのような椅子は配置されていないと思いますが」
あやめが横から、ご丁寧に挙手をしながら入ってくる。
一方で正清は僕が言わんとしていることが分かったようで、今までより少し声が大きくなった。
「車いすか」
ご名答。
地面に落ちたものを取るのに難儀するような、そしてこの部室の裏で起こりそうなシチュエーションを考えれば、それしかなかった。仮に部室の裏に、高い肘掛けが付いた椅子を持ち込んだと仮定しても、椅子から立ち上がって拾えばいいのだから、車いすを使用する人間でなければ今回のような状況にはならない。床に落ちたものを取れなかったからこそ、サラダだけが置かれた状況が完成した。
「だが、お前は嫌がらせか、あるいはいじめの可能性を指摘していたな。その根拠はなんだ」
正清は僕らが昨日見た、あることを忘れているようだった。そこを思い出してもらえば、分かるだろう。
「第三者がいないと成立しない状況を、僕たちは見かけたよね。」
まだピンと来ていないようなので続けた。
「昨日僕たちが部室に向かっているとき、車いすの生徒とすれ違ったよね。あの子の車いす、グリップにビニール袋が引っ掛けてあったんだ。風に揺れていたから、中身は大して入ってなかったんだと思う。でも、車いすに乗っている人間が自分でグリップに荷物を掛けることは容易じゃないと思う。つまり誰かが一緒にいたのは間違いない。そしてその誰かは……いい人間ではなかったんだ。車いすの子が、膝の上かどこかに置いていた袋をグリップにかけて、そこからサラダを2つ地面に捨ててみせた」
拾えるものなら拾ってみろ、とでも嘲ったかもしれない。だが、それはあくまで推測でしかない。
「真木先生に確認したんだけれど、僕たちが部室に来る直前、先生は一度部室へ荷物を搬入していたんだ」
「最初から鍵が開いていたのは、そのせいか」
正清の言葉に頷く。
「拾うのを途中で諦めたのは、それも理由にあるかもね。誰かが来たのに気が付いて急いで立ち去ろうとしたんだ」
誰でも、自分の惨めな姿を他人に見せたいとは思えないだろう。
日が沈みかけ、オレンジに染まる部室の中は、痛いほどの沈黙だけが訪れる。
沈黙の色は、どこか少し濁って見えた。
静寂を破ったのは、正清が立ち上がる音だった。
「この件は生徒指導部にも相談しておこう。まだ推測の域を出ないが、可能性があるのなら調査をすべきだ」
そういう展開になるとは思っていた。確証もなく生徒指導部が動くとは思えないが、この部室の裏で何かが起きていた、となれば僕も関わり合いになる可能性がある。末人として現状維持に努めたい僕にとっては悪い冗談だった。そしてなにより、騒ぎ立てるような事をしたせいで、事態がより悪くなるということも否定できない。
だがまあ、言ってしまえば所詮は他人事である。強いて止めるつもりはなかった。いかにも露悪的なようだが、それが本心だと自覚のあるところである。僕は推測をしたに過ぎない。何が起きていようと、それは僕の高校生活には影響しないことだ。他人に危害を加える愚かしい人間というのは当然ながらいる。正清は正しき社会を信じているのかもしれない。僕は違う。社会とは、期待をするに値するものではない。だから、正清に掛けられる言葉は1つだけだった。
「僕の名前は出さないでくれよ」
「ああ」
それだけ言うと正清は部室から出ていった。振り返った横顔は逆光のせいでよく見えなかった。
あやめは、さっきから無反応だった。ずっと膝に揃えた両手を見てうつむいている。柔らかく垂れた髪が表情を隠している。その沈黙が少しだけ胸に刺さった気がした。
何を考えているのだろう。人間について知りたい、と言って始めた調査が、人間の愚かな部分に光を当てることになったことを後悔をしているのだろうか。後悔という概念があるのかは分からないが。
人間だって所詮は動物だ。社会のルールを取り決めて何とかその本質を抑え込んでいるにすぎない。本来は、どうしようもないほど、動物だ。あやめが何かを期待していたのなら、それは間違いだ。
「帰ろう」
いつも通りの調子で言った。これが僕にできる精一杯の日常だった。
それから数日の社会研究部の活動は、もう活動と呼んでいいのかさえ怪しかった。
決められた時間になれば、あやめはいつも通り部室に姿を見せる。律儀というより、習慣をなぞっているだけのように見えた。
僕もまた、義務感だけで足を運んでいた。姉ちゃんや真木先生から“世話を頼む”と言われている手前、行かないわけにはいかない。
沈黙は部室に居座り続けていた。
僕は文庫本をめくって過ごすことにしていた。紙をめくる音が、相変わらず時間だけは過ぎていくことを告げる。
彼女は何もすることなく、部活動の終了時間まで椅子に座ったままだった。
そんな変わり映えのしない日々が、いくつか続いた。
この停滞とも言える沈黙にも慣れてしまったと感じていたが、その日あやめが声を発した。それは独り言のようでも、祈りのようでもあり、胸の奥に静かに沈んでいく響きだった。
「人間には期待を、希望をもつ価値がある。愛する価値がある……そう私の中にはプログラムされているみたいです」
ここで言葉は一度、細く途切れた。
何かを吞み込むような、短い沈黙。続けた言葉は暗闇の中で手探りするように、怖々と紡いでいるようだった。
「でも、今回起きたことが本当なら、私は……怖いです。これ以上、人間を知るのが怖いです。もう……知ろうとしないほうが、私は正しいアンドロイドのままでいられるのでしょうか」
声は震えているような気がした。
僕は何も返せなかった。自分自身が人間に期待をしていないのに、何を言えるだろうか。
静寂は部室の中に帰ってくる。
その時、ポケットの中で携帯が小さく震えた。
画面には正清の名前が表示されている。この数日、用件らしい用件を話すことがなかったせいで、この小さな振動が妙に部室の静けさを破ったような気がした。
「はい。こちら浜城高校社会研究部」
名乗り終えるかどうかのうちに、呆れきったため息が返ってくる。
「ばかやろう。今、部室か」
「そうだけど、どうしたの。訪問ならいつでもしてくれて構わないのに」
軽口で受け流すように答えたが、電話の向こうに漂う空気は妙にざらついていた。
正清がこういう声を出すのは、だいたい急ぎの、且つだいたい面倒なことに首を突っ込んでいる時だ。
「そうか、なら……上の
短く言い捨てるようにして、電話はぷつりと切れた。
間際に充電が切れそうだと言っていたが、正清のことだから本当に切れたのだろう。
さて、正清のお節介に巻き込まれるのは御免だが、電話に出てしまった以上、無視というのも難しい。いったい何に使うのかも聞けていない工具セットを探そうと立ち上がったところで、あやめと目が合った。彼女は工具セットを両手で持って、むふーっと鼻を鳴らした。聞こえていたのか。
「社会研究部、久々の活動開始、ですね」
日はまだ傾かず、暖かな光が静かに窓から差し込んでいた。ともすれば昼寝に落ちてしまいそうな具合で、厄介ごとがなければ文庫本を抱えながら贅沢で無為な時間を過ごしたいくらいだった。
僕は地図アプリを開いて、
そう思ったところで、視界の半分が黒い癖毛の後頭部で埋まる。あやめが地図アプリを覗き込んできていた。
「市内には、こうしん橋と読める橋が2つありますね」
当然のように僕は庚申橋までのルートを検索していたが、言われてみれば市内には更新橋という同じ読みの橋が確かにあった。北の庚申橋、南の更新橋。
「正清は
視界を埋める後頭部がゆらゆらと僅かに揺れる。
「しかし、それならば
多くの地図は北を上として書かれている。この地図アプリだってデフォルトの表示では北を上にしたものが出てくる。上というのは何を基準にして出た言葉なのか、考える必要は確かにあるかもしれない。視点を間違えれば、まったく真逆に着地してしまう。
まず正清が訊いてきたこと、それは僕が部室にいるかどうかという事だった。そこに意味はあるだろうか。単に工具が部室にあるから、部室に居てくれれば都合が良いというだけのものだろうか。あるいは部室にいれば、上の基準点が定まるのだろうか。あやめは後頭部を僕の視界から退けると、部室の中をぱたぱたと歩き回った。何かヒントを探して、というよりも考えるときの癖なのかもしれない。が、あやめを目で追ううちに気づいたことがあった。
「視点が違う地図か」
あやめが僕の言葉を聞いて、同じくぱたぱたと駆け寄ってくる。好きなお菓子を前にした子供みたいに、目をきらきらさせながら。そして再び、しかし今度は後頭部ではなく顔で僕の視界の半分を埋める。
そうだ、距離感の概念を教えていなかった。
「なにか分かったんですね」
きらきらとした視線が可視化されて飛んできそうな勢いだった。瞳の中の絞り羽根が小さく動いているのが見える。思わず少しのけぞる。
「正清を待たせると怖い。場所は分かったから早く行こう」
あやめと距離をとるようにして席を立つ。正清を待たせると怖いというのは本当のところだが、あやめの視線から逃れたかったというのが正直なところだった。どうにも、あの真っ直ぐな視線は具合が悪い。
部室のドアを開けて歩き出すと、あやめが後ろからついてきているのが分かった。歩みはそのまま、顔だけで振り返る。
「ついてこなくても大丈夫だぞ」
あやめは、ふるふるとかぶりを振る。
「まだ答えを確認できていないので」
貪欲な知的好奇心が後ろからついてくる。
まだ部活動の声が四方から聞こえてくる校内を抜けて、正門から僕らは外に出る。
目の前の通りは片側一車線の地味な道だが、浜城高校前駅へ向かうバス停があるくらいには、人の流れの多い道路でもある。この道を真っすぐ渡り、ある土地は全部使うとでも意気込んだように密集した住宅を抜け、神社を左手に見ながら坂を下っていく。小さな公園のついた、どこにでもありそうな小さな神社である。
途中、あやめが工具セットを持つと言ってきたり、自動販売機のラインナップに興味を示して立ち止まったり、言ってしまえば子守をしているような道中であった。彼女が気にすることのすべてに対応していたら、きっと正清の元にはたどり着かないだろうなというくらい、あらゆるものが気になっている様子だった。普段の帰り道はどうなってしまっているのか。
「正清さんに飲み物を買っていってあげましょう」
住宅街と神社を通り抜け、川沿いの道に出たところで小さな公園がある。公園を少し過ぎたところに自販機を見つけたあやめが、ぱたぱたと駆け出していく。最上段の商品がよく見えないようで、つま先立ちになってプルプルしている。とことん姉の趣味が詰まっているんだと思うと、少しため息がでた。
「ホットコーヒーでいいだろうね」
代わりに最上段にあるホットコーヒーを、おそらく正清がお節介を焼いているであろう誰かのためにも1本買っておく。4月ならまだホットコーヒー派の正清でなくとも許してくれるだろう。
「ところで」
出てきたコーヒーを両手で取り出したあやめが、屈んだまま顔を上げる。
「例の車いすの子の件は、なにか進展があったのでしょうか」
「正清からは何も聞いていないね」
正清はあれから部室に顔を出すことはなかったものの、同じ教室にいるのだから、進展があれば報告くらいはしてきそうなものだ。あの義理や人情、筋というものに対して真面目な男のことだから、必ずそうしたであろうという確信がある。だが、なにもないということは、文字通りなにもないのだろう。最初から予想はしていたが、ひとりの生徒が推測によって導き出したことで生徒指導部が本腰を入れて動くとは思わない。まあ、大事にならなかったのなら、こちらとしては都合のいいことでもある。それに、一時の衝突でしかなかった可能性だってある。あれ以降、特に何を見かけるわけでもないのだから、日常的に被害があるわけでは無いのだろう。それならば僕が気にすることは、もう何もないはずだ。
「気になりますか」
あやめの問いに、肩をすくめる。
彼女は立ち上がり、手元のコーヒー缶を見つめながら続ける。
「私は……気になります。人間は……私が出会ってきた人間はみんな心の優しい人たちです」
両手の中で缶コーヒーを遊ばせている。こつんこつんという小さな音が瀬音に溶けていく。
「だからこそ……」
少しの間が空いた。
「信じてみたいとは、思うのです」
正直に言って、それは帰納法の誤謬だと思った。少数のサンプルの共通点は、全体の共通点ではない。自分が彼女の中で、心の優しい人に分類されていることの正誤はいったん置いておくとして。この軽率な一般化は例外によって直ちに否定される。それを恐れているのかもしれない。
「行こうか」
僕は歩き始めた。目的地まではもうそれほどないはずだ。
そのまま川沿いを歩いていくと、それほど装飾もされていない橋が近づく。
途中、暑さを感じてブレザーを脱いでいたが、少しの肌寒さを感じて着なおす。
橋の起点側に体格のいい制服姿が見える。どうやら橋にも起点と終点があるらしく、漢字で橋の名が書かれているこちら側が起点だと正清に聞いたことがある。
「そういえば、どうして南の更新橋で正清さんが待っていると分かったのですか」
「部室にある地図は正門が上に描かれているからね」
正清が電話をかけてきたとき、僕は部室にいた。そのことを正清も確認をしていた。だから、正清は壁に貼られている地図を基準に場所を言ったのだろう。あの地図は校内案内図と周辺案内図ともに、正門を上にして描かれている。つまり南が上になっている。電話をしながら、僕が壁の地図を確認するだろうと思って、上と表現したと予想したが、どうやら正解だったらしい。それにしても伝わりにくい配慮だったとは思うが。
ああなるほど、とあやめが手をぽんと叩く。コーヒー缶を握っているため正確には、ぽんではなくカツンといった感じだったか。
正清のほうも僕らの接近に気が付いたようで、ご苦労とでも言うように軽く右手を挙げた。正清に隠れてさっきまで見えていなかったが、工具がいる理由が分かったと同時に、思わす息を呑んだ。
あやめが何か言いだしそうだったので、ここは先手を取らなければならなかった。
僕はいつもの調子を心がけて、あやめから缶コーヒーを受け取りつつ待っていた2人に声をかける。
「やあ、待たせちゃったかな。これ良かったら」
「わざわざすまんな」
工具を持ってきたこと、コーヒーを買ってきたこと、多分その両方にかかっているであろう言葉を受け取ったが、それどころではない。僕の視線で察したのか、正清が少し正面から外れつつ、言葉を続ける。
「こちらは
藤咲と呼ばれた女子生徒は正清に続いて名乗りながら、こちらを見てぺこりと小さくお辞儀した。
第一印象は良家の子女といったところだった。黒く長い、艶のある髪が肩を通って胸の前でまとまっている。ゆったりと下がった目尻や、膝の上で綺麗にそろえられた両手は、まさにおしとやかを形にしたようだと思った。あの日、部室に向かう途中で見かけた女子生徒と同一人物であることは、すぐにわかる。
僕とあやめもそろって自己紹介をした。あやめは、社会研究部であることをやけに強調して胸を張っていた。
ところで、と正清が顎を撫でながら説明をする。
「キャスタの修理はおそらく可能だ。しかし、ここで工具を広げて往来を妨げるわけにもいかん」
視線を僕とあやめの後ろに向ける。
「川沿いに公園がある。お前たちには来た道を戻らせてしまうことになるが……まあ、いったん移動するぞ。そこでなら邪魔にもならんだろう」
「なるほど。じゃあ移動だ」
振り返ったところで正清に肩を掴まれる。
意図的に無視していた問題があったが、やっぱり見逃してもらうことはできないようだった。
「悪いが、黒河内を公園まで連れて行ってくれ。俺は車いすと工具を運ぶ」
「……本気?」
正清の真剣な顔を見て吹き出しそうになりながら答える。
黒河内さんを車いす無しで公園まで連れていくには方法は1つしかないのだが、なんの臆面もなく言ってのける正清がおかしかった。視線を正清の後ろに向けると、自分が運ばれる方法に心当たりのある黒河内さんは少し俯いて、視界に垂れてきているであろう黒髪を指で弄ぶ仕草が、どこか落ち着かないように見えた。横のあやめは、まだなにも分かっていないようで首を傾げたまま止まっていた。正直、同級生の女の子を背負って歩いているところを見られるのは避けたい。ましてや、ここは学校からそう離れていない。誰かに目撃される可能性は十分にあるだろう。
「僕が車いすを運ぶよ」
「黒河内のは電動だ。だいたい40キロか50キロそこらあるぞ」
顔が少し引きつる。さすがに僕には、文字通り荷が重い。同じくらいの重さでも、背負うのと手で持つのとでは労力が違うことくらい分かる。
「すみません……型が古いもので……今はもっと軽量のものが多いのですが」
俯いていた顔がさらに沈んでいく。
「私の構造上、100キロくらいまでは持ち上げられますよ」
右腕をグッと曲げて、あやめがアピールした。とても誇らしそうな顔をしている。構造上……?という黒河内さんの声が聞こえたのと同時に、僕は1歩前に出てあやめを牽制する形をとる。
「4月と言っても日が落ちると冷えるよね。早いとこ公園に移動しよう」
黒河内さんを公園まで運ぶには、背負って歩くしかなかった。彼女に背を向ける形で、僕は跪く。
「し、失礼します」
消え入りそうな声だった。背後からそっと、細く白い腕が肩にかかって、胸元のあたりで両手が組まれる。てっきり肩を掴むくらいものだと思っていたから、少しだけ鼓動が早くなる。抱えた脚は、もっと細いような気がした。
「お。重くはないでしょうか」
「大丈夫だよ」
重かったとしても正直に言うはずがないので、お決まりの回答をした。が、今回は本当に、僕でも苦労しないほどの重さだと思った。
僕たちの準備ができたのを確認すると、正清は車いすを持ち上げた。この時ばかりは、この無駄にデカい体躯が頼もしく見える。
……持ち上げずともキャスタを浮かせる形で、ウイリーでもするような形で楽に運べたりしないものだろうか? まあ今更もう遅いというやつだろう。
「じゃあ、行くぞ」
重さをものともしない顔で正清が歩き始める。あやめが歩きながら僕たちをじっと見つめるせいで、やけに体がこわばる。黒河内さんも恥ずかしくなったのか顔を伏せるが、そこには僕の肩があるので、温かい息が制服越しに伝わってきて余計に、そして何故か、どうにも具合の悪い感じがする。あやめが何を考えているのか分からないのが、そうさせるのだろうか。
公園までの道のりで、僕らは特に何を話すこともなかった。例のサラダの件は、黒河内さんに関係があるとは思うが、それを殊更に訊くことは僕も正清もしなかった。あやめも察してくれたのか、何を言い出すこともなかった。途中、正清が大きなくしゃみをしたとき、背中でビクッと動く気配があったくらいであった。
あやめは途中から僕らを見つめることをやめ、あたりの景色をきょろきょろと眺めながら歩くようになったので、黒河内さんもいつの間にか顔が上がっていた。僕は、子供のように色んなものに興味を示してあっちこっちに移動するあやめを危なっかしいと思って見ていたが、どうやらこのお嬢様も同じような感性の持ち主で、背中越しにきょろきょろと首を動かしているのが伝わってくる。誰かを背負うなんて慣れないのだから、あまり動かれると余計な力が入ってしまって疲れる。
「一番上の飲み物、初めて近くで見ました」
何のことかと思ったが、どうやら自販機のことらしい。たしかに、座った位置だと一番上の棚は見辛いだろうな。視点が違うと、見えている世界も違うのだろう。
……?
自然と歩みが止まった。
「どうされましたか」
不安げな細い声が耳元を撫でる。
「今度購買に行くときは、僕や正清や、あやめに声をかけてよ」
戸惑いの雰囲気が右耳に流れ込む。
できるだけ、普通の調子で、なんでもないように。
「ほら、棚の上とか見えないんじゃないかなって」
ああ……と得心のいった呟きが聞こえた。
黒河内さんが僕の提案に例を言う前に、最後にもう1つ付け足す。
「あと、牛乳はあまり良くないらしいよ」
息を呑むのが分かった。
最後の進言は僕の予想から来たものでしかなかったが、どうやら当たっていたらしい。
「あのあの、このことは、その……」
「ごめん。あの2人だけには話してもいいかな」
顎で軽く前を示す。学校の管理側に知られるのを不安に思っているだけで、あの2人については気にしていないはずだ。
案の定、それについては頷いてくれた。
公園に到着してから、正清の手際は本当に良かった。
ブレザーを脱ぐと地面に広げて、分解した端から丁寧にネジやらなんやらを並べている。僕はまったく工業に疎いので、大人しくベンチに腰掛けて待つことに徹する。
パーツがダメになってしまったわけではなかったというのもあるが、缶コーヒーが冷める前に作業は終わっていた。
黒河内さんは、今度部室にお礼を持っていくと言って学校とは反対の家路についた。正清のことも、多分同じ部の一員だと思っているだろうな。
僕ら3人は、しばらく去っていく黒河内さんを見ていた。
正清はブレザーを軽くたたいて砂を落とすと、肩に掛けながら振り向いた。
「奢るぞ」
正清が親指で自販機を指す。こういう律儀なところは本当に正清らしい。素直に甘えることにする。
「じゃあコーヒーをもらおうかな」
「私は砂糖が入った甘いやつがいいです」
あやめが我先にと飛び出していく。
「なぁ成よ。お前、何か分かったんだろ」
む。なかなか鋭い男だ。どう切り出そうか迷っていたので、正直こいつの勘の良さには助けられる。
はやくー。あやめが手を振っている。
2人して歩きながら、僕は肩を竦める。
「まあ、あやめにも話したいから歩きながらにでもね」
あやめは飛び跳ねながら、最上段のコーヒーを指さしている。コーヒーの分類にぎりぎり引っかかっている甘い缶コーヒー。甘党ではない僕は飲んだことがないのだが、すこぶる甘いという噂は聞いたことがある。僕はブラックコーヒーでいいかな。
屈みこんで、激甘コーヒーとブラックコーヒーを取り出し口から回収したところでいきなり背中に衝撃を受けて、心臓が変な跳ね方をした。
「私も、おんぶを所望します」
「いやいや。自分で歩けるだろう」
小さな体だが、アンドロイドというだけあってやけに重く感じる。これで帰るのは、なかなかに骨が折れるぞ。文字通り。
「成の背中からの景色を、私も知りたいのです」
正清が憐れむような笑顔で言う。、見えないから予想でしかないが、きっとそんな顔だっただろう。
「よかったな。人気者じゃないか」
ご冗談を。
軽く身を捩っても全く離れそうな気配がない。本当にこのまま帰るしかなさそうだった。
結局、あやめを背負ったまま茜色が敷かれた川沿いを歩くことになった。暗くなるにはまだ早いが、光は既に斜めに傾き始めている。
遮るもののない河原を抜ける風は、どこか春の柔らかさ帯びていて、少し汗ばむ僕にはちょうど良かった。額に張り付きそうになる前髪も、風に煽られて視界の隅を行ったり来たりしている。
前を歩く正清が振り返らないまま訊いてきた。
「そろそろ話してくれてもいいんじゃないか」
当然、黒河内さんの件だろう。顔は見えないが、声の調子は真剣だった。
それを話す前に、僕には言わなければいけないことがある。
「まず、僕の考えは間違っていた。それについては最初に謝るよ」
背中のあやめが、身を乗り出して顔を近づけてくる。
「つまり、誰かが危害を加えたというわけではないのですか」
あの日の僕が出した答えは、誰かが社会研究部室の裏で、黒河内さんに危害を加えたのではないかというものだった。だが、それが的外れであったことは今なら分かる。
しかも、その誤りの原因は僕にある。僕が無意識のうちに解を間違った方向へ導いてしまっていた。
「正清、あのサラダには本来何が入っているか覚えてる?」
正清は斜め上を仰ぎ見るようにして、ゆっくりと答え始めた。
「そうだな……カット野菜とドレッシングと蒸し鶏だったか。で、現場に落ちていたものには、ドレッシングと蒸し鶏が抜かれていた」
「それと、カット野菜が通常よりも多くなっていました」
ご丁寧に現場に落ちていたサラダについても解説してくれた正清に、あやめが補足する。
補足するとき、ご丁寧に手を挙げるものだから彼女の体重が片側に寄って、思わずのけ反りそうになる。
「……そう。だから僕は2つのサラダが誰かに投げ捨てられたんじゃないかと予想したよね」
「そうだな」
正清が頷く。
あそこには確かに2つのサラダが存在していたことは、予想として間違っていない。ただ、その理由を僕は見落としていた。
なぜサラダは2つあったのか?
今回の件は、この理由を考えずには明らかにできないものだったというのに。僕たちはカット野菜の量に注目して、サラダが2つあったことを推測した。でも注目すべきは、無くなっているもののほうだった。
「そもそも、どうして黒河内さんはサラダを2つも買っていたんだろう」
僕の質問に、再びあやめが挙手をして元気よく答える。
「野菜をたくさん食べたいからではないですか」
とりあえずスルー。
正清も悩んでいるようなので、もったいぶらずに僕の予測を話すことにする。
「蒸し鶏が欲しかったからだったんだ」
黒河内さんは、サラダの上に乗っている蒸し鶏が欲しかった。ただサラダに乗っている量はそこまで多くないので、目的を達成するためには2つのサラダから集める必要があった。それだけのことだった。
「なんのために」
いい質問だ。これから話そうと思っている事を正清がちゃんと質問してくれる。
これまで集めた、そして気が付いたことから推理するに、黒河内さんの目的は明らかだった。
僕は端的に答える。
「猫にあげるためだね」
「ねこ?ああ、ねこ……」
初めて正清が振り返った。言葉を噛みしめながら、ゆっくり向き直った。と、思ったらまた振り返る。
「いや、だが猫にあげるためなら、もっと色々あっただろう。チキンのパックだって、ゆで卵だって、いくらでも購買にあっただろ。なんでそんな回りくどいことを……」
正清の疑問は正当だが、黒河内さんに限って言えば、他に選択肢がなかったはずだ。
「チキンのパックも、ゆで卵も、どこに置いてあったか覚えてる?」
質問して少ししてから、正清の足が止まる。
どうやら思い当たったらしい。僕たちからするとサラダの上に乗っている蒸し鶏よりも、購買にはもっと猫にあげるのに適した商品があることは一目瞭然だ。
が、それは僕たちの視点の話でしかない。彼女には見えなかったんだ。
「待ってください。私だけ理解していないように思えます」
3回目の挙手。
あやめのために説明をする。
「車いすからだと、見えないんだ」
「ああ、なるほど」
あやめは挙げていた手を再び僕の肩に戻す。あまり揺らさないでほしい。
「パックのチキンもゆで卵も確かに最上段でしたね」
あの日、黒河内さんは校内で野良猫を見つけた。腹を空かせていそうな様子を見て、購買で何か猫でも食べられるようなものを買おうと思ったのだろう。もちろん味付けのされた食品は、あまり好ましくない。だが最上段にあったチキンやゆで卵には気づくことができなかった。彼女が見つけられる範囲で、猫に与えても大丈夫そうな食品が、サラダの上に乗った蒸し鶏だけだったのだろう。
「そうか。片方の容器に蒸し鶏だけを分けて、もう片方の容器にカット野菜を全部入れれば、あの状況ができあがるのか」
正清が空中で動きを再現しながら説明をする。
僕の考えも同じだ。
「だが待ってくれ。車いすのグリップにビニール袋が掛けられていた事はどう説明する」
歩きながら正清が腕を組む。
それについてもアテはある。
「もちろん黒河内さんが1人じゃなかったってことだよ。手ぶらの用務員さんがいたよね。猫の面倒を見ていたのは、黒河内さんと用務員さんの2人だったんだ」
これは予想でしかないが、特に施設がない社会研究部室側に手ぶらで用務員がいる理由はあまりない。掃除用具を持っているならば分かるが、用務員室のある校舎から遠い場所で手ぶらというのは違和感がある。
「おそらく、真木先生が荷物の搬入に社会研究部室へ来た事に気が付いた2人は、猫が見つかる前に解散しようとしたんだろうね。餌やりで落ちたゴミを掃除するために用務員さんは先に校舎へ戻った。その時につい車いすのグリップにビニール袋を掛けたんだ。でも用務員さんがゴミを回収する前に、あやめが回収した」
敷地の隅も隅。まさか人が来るとは思っていなかった2人は焦ったのだろう。蒸し鶏を入れたパックのゴミは恐らく黒河内さんが膝のブランケットで隠していた。あの時、ブランケットが少し膨らんで見えていたのは多分そのためだ。ゴミと一緒にあやめが回収したブランケットは猫のために黒河内さんが、お古か何かを置いて行ったのだろう。
「それに、車いすの黒河内さんは地面に落ちたものを取れなかっただろうしね」
むう、と正清が唸る。
「なるほどな。だが成よ。そもそも何故あそこに猫がいたと気が付いたんだ」
「君の猫センサーが反応していたからね」
今となっては、正清こそ猫の存在に気が付くと思っていた。あやめがサラダのゴミとブランケットを持ってきたあの日、あの場で正清だけが猫に関係していると見抜ける能力を持っていた。いた、というよりも今も正清はその能力を持っている。
正清は何を言われているかよく分かっていないようで、首を捻っている。
背後からあやめが激しく前に乗り出してきて、またバランスを崩す。
「あの日の部室、正清さんは鼻炎のような症状を呈していました!」
背中で前後に揺れられて、僕も前後に揺れる。
揺れる僕たちを振り返って、正清は目を見開きながら答える。
「そうか。俺は猫アレルギーだ」
学校の正門に戻った頃には、ずいぶんと街がオレンジ色になっていた。街灯や家々の灯りが、1つずつ薄く滲み始めていた。
桜並木を、ポケットに手を突っ込んでゆっくり家路につく。
正清は先に別れ、僕とあやめの2人だけの帰り道。あやめは満足げに横を歩いている。
「満足してくれたみたいで良かったよ」
あやめをちらりと見ると、にっこりと笑顔になってあやめがこちらを見つめ返す。
「はい。本当に……良かったです。人というものは、やはり心優しきものなのですね」
最初、あやめは猫の件の真相に満足したのだと思っていた。
けれど、彼女の目の色はそれだけじゃないように思えた。
「野生動物に餌やりをするのは、一般的に見てあまり好ましくない行為だと思うけれど」
「でも、成はきっと、だれにも言いませんよね」
図星だった。僕は学校の敷地内で黒河内さんが猫に餌をやっていても、別に誰かに言ったりしない。でもそれは、僕が余計な面倒ごとに巻き込まれたくないだけだ。末人である僕としては現状維持に努めたい。
あやめは手の缶コーヒーに視線を落とした。
「今回の件は成のおかげで真相が明らかになりました。そして、それはとても心が温まるものでした」
胸に手を当てて、自分の体温を確かめるような仕草をする。
春の風に乗った桜が、彼女の言葉を優しく包んだような気がした。
「これからも人の温かさを、私に教えてほしいのです」
考えてみれば今回の件について僕は大きな誤解をしていた。黒河内さんが嫌がらせを受けているのではないかと、間違った結論を出した。その結論に、あやめはずいぶんと怖がっていた。人の悪意に触れるのが初めてだったんだろう。
……僕はどうだったかな。
人の悪意を恐れていたわけじゃない。人には必ず負の面がある。決して表には出さない、醜い爪や牙をその内に隠す生き物だ。分かっているからこそ、恐れてはいない。
だが、人の善を信じていなかったことで、今回ミスリードをすることになったのかもしれない……とは思う。
いや、それは結果論か。結果的に僕が間違っていただけで、嫌がらせという線にも筋は通っていたのではないだろうか。
「私は……人を信じても良いものか、ずっと考えていました」
お互いに真っ直ぐ前を見て歩く。
「最初に成から推理を聞いたとき、私の考えているほど人は善きものでないのかもしれない……そうも思いました」
一呼吸分の間が空いた。
「ですが、やっぱり、成が証明してくれました。人は信じる価値のあるものです」
「僕のやったことは……ただの謎解きだよ。今回は偶然、ハートフルなストーリーが出てきただけで」
皮肉っぽく言ってみたが、あやめは優しく、でもしっかりと首を横に振った。
「違います。私は真相ではなく、成の中に温かいものを見つけました」
あやめが小走りで僕の正面に回り込む。
距離が近い。大きな瞳に僕は逃げ場を失う。
「……どうして、そういう話になるんだよ」
思わず後ずさりしてしまう。
しかし彼女は、距離を保つように迫り続ける。
「今回、成はどうして事の真相に気が付いたのですか?」
……それは、車いすに乗っている黒河内さんの視点や行動を想像したからに過ぎない。
車いすに乗っていれば、高いところの物は取れないか、見えないか。そして、地面に落ちたものは取れない。
僕たちを基準にしてしまえば気が付かないが、黒河内さんを基準にすれば、辻褄が合う。それだけのことだった。
頭の中で考えを整理している間に、あやめは僕の手を握って、そして柔らかく微笑んだ。
「他者の目線に立って考えられる、そういう優しさが、今回の真相に導いたのですよ」
幼いと思っていた彼女が、どうにも大人びて見えてしまって、目を逸らしてしまった。
「あやめは僕を買いかぶりすぎだよ。僕はそんな善い人間じゃない」
彼女はクスッと笑いながら手を離した。
「成が自分自身のことを評価していないことは分かりました。でも、あなたを見て私は、人間を素晴らしいものだと改めて感じたのです」
「仮に僕が善い人間だとして、それをもって人間を素晴らしいと決めるのは帰納法の誤謬だよ」
考えるよりも先に言葉が口をついて出る。僕も相当に焦っているらしい。我ながら、少しため息が出る。
あやめはくるっと前を向くと歩き出す。その肩に桜の花びらが触れる。
そして呟くように。
「1羽の白い
風が吹く。
風が木々を抜ける音と一緒に、散った桜がピンク色の吹雪になって僕らの間を抜ける。
「私は、それだけで……この世界には価値がある。いえ、人間を信じる価値があると、そう思います」
風が止むと、静けさが戻ってくる。
あやめは空に向かって右の手を伸ばした。
その指先を3羽の烏が横切っていく。
「あやめ、白い烏っていうのは――」
言いかけたところで、どうしてか言葉を呑み込むことにした。
逆光の中に消えた烏たちは、もう見えなかった。
暖かい春の風が、彼女から僕へ、花びらを1つだけ運んだ。
1羽の白い烏 @wakana_itsutsuji
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