第11話 死の気配
未登録ダンジョン実習当日。
冷たい朝の空気の中、四百人分の足音が、森の入口に向かってざわざわと流れていく。甲冑のきしみ、革の軋み、慣れない武器を握りしめる音。緊張と興奮がごちゃ混ぜになった匂いが、湿った土と若い木の匂いに混ざっていた。
「よし、Dクラスはこの隊列の後ろにつけ!」
ダモンの怒鳴り声に押され、俺たちは列の中に収まる。
前には、ギルドの正規部隊。
そのさらに前に、先遣の斥候が何人も散っている。
だが――ダンジョンの入り口へ一歩入った瞬間、空気の流れが変わった。
森の木々の間隔が、ほんの少しずつズレていく。
最初は十人、二十人単位だった塊が、気づけば四〜六人組の班単位に切り分けられていた。
でも実際には、道のほうが、彼らを押し分けている。
湿った土。
背の低いシダと苔。
頭上では、さっきまで鳴いていた鳥の声がぴたりと止まった。
「……気持ち悪いくらい静かだな」
カイが小声で言う。
「森ってさ、もっと虫とか鳥の音しない?」
「逆に、静かすぎるところの方が危ないのよ」
ミルナが眉をひそめた。
木の幹には、粗末な骨飾りと、獣の頭骨がぶら下がっている。縄張りを示す、手製のトーテムだ。どれも低い位置に打ちつけられていて、人間の手つきとは違う。
その瞬間、セナがぴくりと肩を震わせる。
「……気配。右の茂み……」
次の瞬間、低い唸り声。
木陰から、二本足で歩く犬型の魔物――コボルトが三体、飛び出した。手には粗末な棍棒と錆びた短剣。牙をむき出しにしながら、短い脚で一気に距離を詰めてくる。
「来るよ!!」
リオが反射的に一歩前へ飛び出し、《火矢》を詠唱する。
炎の矢が生まれ、コボルトの胸へと走る。
カイは盾を構え、真正面から突っ込んできた一体を受け止める。骨の当たる鈍い感触が鉄越しに伝わる。
「うおっ、重っ……!」
ミルナが後方から石を投げつけ、もう一体の額を打ち抜いた。
コボルトがよろめく。
第三のコボルトが影のように木の根元から回り込んでくる。
リオの死角。
(はい、ここ)
俺は一歩だけ位置をずらし、足元の影を伸ばす。
コボルトの足首を黒い線が絡めとり、体勢をわずかに崩した。
その一瞬のズレに、《火矢》が間に合う。
炎が毛皮を焦がし、コボルトは悲鳴を上げながら倒れた。
「やった……倒した!」
リオがほっと息を吐く。
「第一層でこれって、けっこう怖いんだけど……」
セナは胸の前で手を組み、まだ震えている。
倒れたコボルトの腰には、小さな骨笛と、同族の耳を束ねた飾りがぶら下がっていた。ここで狩りをして、ここで死んだ同族の証。
「でも大丈夫だよ。ほら、ちゃんと倒せた」
俺は、いつもの少し頼りなさそうで、でも優しい一年生”の顔で笑って見せた。
遠くで、別のクラスがコボルトの群れとやり合う声が聞こえた。
が、少し進むと、木々の生え方が変わり、その声はすっと遠ざかる。
「さっきのAクラスの声かな?」
リオが耳をすます。
「合流できたら心強いんだけどなぁ」
「無理ね。道が……さっきと変わってる」
ミルナが振り返り、目を細める。
さっきまで見えていた通り道が、いつの間にか細い獣道に変わっていた。逆に、別の方向には新しい抜け道が開いている。コボルトの巣穴らしき穴も見えるが、その位置も、先ほど見た時と微妙に違っていた。
「この森、勝手に“人の群れ”をばらしてる」
セナが小さくつぶやく。
(そう。ばらしてる。 ――コアが、まとめて来られると食べづらいって分かってるから)
俺は黙って、その変化を楽しんだ。
第一層の森を抜けるころには、四百人いた一年生の足音は、完全に小さな島々に分断されていた。
階段を降りると、空気の湿り気が変わった。
第二層。結晶の牢獄。
足を踏み入れた瞬間、土の感触が、ざらりとした硬い感触に変わる。床一面が黒い結晶で覆われていて、靴底からじわりと冷たさが伝わってくる。
「なにここ……」
カイが思わず声を漏らす。
壁も天井も、黒い結晶の柱と板でできていた。ところどころが淡く脈打つように光り、そのたびに周囲の影が揺れる。光源は見えないのに、ほの暗い明かりだけが保たれている。
「歩くだけで、なんか……力吸われてる感じがする」
リオが眉をひそめて足踏みする。
「魔力、少しずつ持っていかれてるね……」
ミルナが小さく肩をすくめる。
通路は迷路みたいに枝分かれしている。結晶の柱が斜めに生えていて、見通しを悪くしていた。
「とりあえず、通路の形と目印、書いとくね」
ミルナがメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。
「セナは罠、お願い」
「うん……」
セナは一歩先に出て、床や結晶の継ぎ目を慎重に見ながら歩く。
少し進むと、頭上から、かすかな羽音がした。
「……今、なんか飛んだ?」
リオが顔を上げる。
黒い結晶の梁の間を、小さな影がすべるように飛んでいく。蝙蝠のようなシルエットだが、羽の縁が白く光っている。
「マナリーチ・バット……かな」
ミルナが囁く。
「魔力を吸うコウモリ。頭の上にとまりたがるやつ」
「近づいたら、リオの火矢で追い払おう」
俺が言うと、リオがこくりと頷いた。
さらに進むと、床の結晶が、一部だけ焼け焦げたように変色している場所があった。そこから、ガラスの破片を踏んだような、細かい音がする。
「待って、それ……動いてない?」
セナが目を凝らす。
黒い塊が、じわりと動いた。
結晶でできたトカゲ――クリスタル・リザードだ。体表の結晶が光を反射し、どこまでが体でどこまでが床なのか、一瞬分からなくなる。
「こっち来る……!」
「リオ、足元! カイは前で受けて!」
「了解!」
火矢が飛び、トカゲが焼ける匂いが広がる。だが、倒れたと見えた体は、床の結晶と同化するように崩れ、どこからどこまでが死骸なのか分からなくなっていく。
「やだ、この階層……めっちゃ性格悪い……」
セナが顔を引きつらせた。
(褒め言葉だよ、それ)
壁際の割れ目には、小さな虫が張りついていた。仮面のような白い殻。目の穴と口の穴だけが開いていて、中身は空のように見える。
と思った瞬間、その仮面が、ふっと形を変えた。
どこかで見た顔――同じクラスの誰かの輪郭に似ている気がする。
「……今、誰かの顔に見えなかった?」
リオがぞっとしたように言う。
「見ない。見なかったことにする」
ミルナが即答する。
曲がり角をいくつも曲がるたびに、背後の気配が薄くなっていく。
他クラスの話し声も、足音も、一度は近づくのに、必ずどこかで結晶の壁が伸びて道を塞ぎ、別の通路が開く。
遠くの通路の先に、一瞬だけ見覚えのある制服の背中が見えた。
Aクラスの誰かが、こちらに手を振ろうとする――その瞬間、床の結晶がぐにゃりと盛り上がり、結晶の柱が生えて視界を遮った。
「今、誰か見えなかった?」
リオが目をこする。
「気のせいじゃない? あっち、もう塞がってるし」
ミルナが首をかしげる。
(コアが、“獲物の塊”を均等にばらまいている)
どの角を曲がっても、結晶の模様が少しずつ違う。
ミルナのメモ帳には、「さっきまであった道」が何度も×で消されていく。
「これ……上から見たら、絶対形変わってるよね……」
セナの声は、やや震えていた。
「この階層、わざと合流させないように動いてる」
「……そんなダンジョン、聞いたことないけど……でも、たぶん当たってる」
ミルナがぎゅっとペンを握りしめる。
「三層は……どうする?」
ふいに出た問い。小さな声だったが、全員がそちらに意識を向けた。
三層の噂は、実習前から飛び交っていた。
影の草原。幻影の狼。戻ってきた冒険者たちの「笑えない武勇伝」。
本当なら、ここで二層を一周して帰る、という選択肢もある。
ここまで罠だらけの“結晶の牢獄”だ。
足を踏みしめるたびに、じわじわと力が削られていく。
「俺、正直……二層をウロウロしてるほうが嫌だな」
リオがぽつりと言った。
「だって、どこから蝙蝠飛んでくるか分かんねーし、トカゲも床と同化するし……
草原のほうがまだマシじゃね?」
「でも草原は影の狼だよ?」
セナが唇を噛む。
「ここで魔力吸われて、足も止まって、じわじわ削られるのと……広い場所で見える敵に追われるの、どっちがマシかって話かな」
ミルナが目を伏せる。
カイは腕を組んで、うーんと唸る。
「第三層に行ったほうが、実習評価は高いんだろ? たぶん」
「そうね。浅層だけ回って帰った班と、三層まで見てきた班じゃ、報告の質も違うでしょうね」
俺は、あえて一拍置いてから、言葉を選んだ。
「三層は……安全、とは言えないと思うけど」
全員が、俺を見る。
「でも、ここみたいな“見えない罠と吸われる床”よりは、まだマシだと思う。こっちは、気づいたら立ち上がれなくなってるし」
さっきの落ちかけた足場と、足元の結晶を、全員が一斉に見下ろした。
「それに、三層なら、何かあったときはすぐ撤退って判断もしやすいでしょ。道も……たぶん、ここほど意地悪じゃない」
「……まあ……そう、かも」
「ここまで来て、“やっぱり二層でぐるぐるしてました”ってのも……ちょっと悔しいしな」
カイが頭をかく。
俺は、少しだけ声を柔らかくした。
「僕が前を歩くから。危なくなったら、すぐ戻る。
三層……見にいってもいいと思うな」
沈黙。
全員の顔に、不安と、期待と、悔しさが入り混じっている。
「……じゃあ、行こうか」
リオが、最初に頷いた。
「ここまで来て、何も見ないで帰るのはイヤだし」
「私も……行ってみたい」
セナが小さく笑う。
「やばそうなら、戻ればいいんだもんね」
「そのためにも、ポーションと予備の魔力、ちゃんと管理しないと」
ミルナがメモ帳を閉じる。
「グレンは?」
「…………」
後ろで黙っていたグレンが、ゆっくりと顔を上げる。
「……黒いの、三層から……ずっと、匂ってる」
俺は、笑顔の裏で、心の中だけで頷いた。
(そう。君はちゃんと感じとっている。だからこそ――最初の一人にぴったりなんだよ)
第三層に足を踏み入れた瞬間、空気の肌触りが変わった。
そこは草原だった。
だが、ただの草原ではない。
遠くまで見通せるはずの景色が、微妙にゆがんでいる。
地平線が、ゆっくりと波打つように揺れていた。
「……暑いのか寒いのか、分かんない……」
セナが腕をさする。
風が吹いている。
しかし、草が揺れる方向と、肌に当たる風向きが一致しない。
「風、逆から当たってない?」
「こっちから吹いてるのに、草はあっち向きに倒れてる……」
リオとカイが、同時に顔をしかめる。
足元の草は、膝下まで伸びている。踏むたびに、影がばらばらに裂けたり、つながったりする。
遠くで、何かの“足音”だけが聞こえた。
だが、その音源はどこにも見当たらない。
「……足音が……聞こえる」
グレンが、唇の色を失った顔でつぶやく。
「でも……遠くのはずなのに……耳のすぐそばっていうか……」
「みんな、ここは絶対に離れず――」
ミルナがそう言いかけたとき、俺は少しだけ首を振った。
「むしろ、少し散開したほうがいいかも」
「え?」
全員の視線が集まる。
「ここ、広いしさ。横一列に固まってると、もし真正面から突っ込まれたとき、一気にまとめて崩れるよ」
「……それは……そうかもしれないけど」
「僕が前を歩く。リオは右側、カイは左側。
セナとミルナはその間をつなぐ感じで。
グレンは一番後ろ。魔力の流れ……教えてほしい」
グレンの喉が、ごくりと鳴った。
「……一番……後ろ……?」
「後ろ、怖い?」
俺は少しだけ申し訳なさそうに笑ってみせる。
「もし嫌なら、すぐ位置代わるよ。でも、君の“魔力感知”が一番頼りになるから……後ろにいてもらえると、すごく助かる」
「…………」
グレンは、短く息を吸った。
「……わかった。
……やる」
「ありがとう。無理はしないでね」
(――うん、これでいい)
(君だけ、綺麗に“落とせる位置”だ)
そのとき、遠くの草原の向こうで、誰かの影が見えた。
「あれ、Bクラスじゃない?」
リオが手を振ろうとする。
男子数人の背中。こちらを振り向きかけ――
次の瞬間、地面の起伏がぐにゃりと変形し、丘の陰に隠れた。
「あれ? 消えた」
「距離の感覚、おかしいから……幻じゃない?」
ミルナが首をかしげる。
(本物だよ。でも、合流されたら困るから、“地形の方”をずらしてもらった)
草の揺れ方が変わる。
風の音に、もう一つ別のリズムが混ざる。
幻影狼たちが、草の中で走り出した合図だ。
「……来る」
グレンの声が震える。
「右後ろ、四つ。左から、二つ……前にもいる……!」
次の瞬間。
視界の端で、黒い影が同時に“ちらついた”。
「来たぞ!!」
リオが叫ぶ。
「クロガネ、こっちにも足音!」
カイも盾を構える。
「みんな、伏せて――!」
ミルナの叫びと同時に、
“バシャァッ!!”
白い霧の壁が、爆発するみたいに足元から立ち上がった。
「うわっ!?」「見えない――!?」
霧は一瞬にして、俺とグレンだけを切り取るように広がる。
他の四人の姿が、すうっと白の向こうへ遠ざかった。
「クロガネ!?」「どこ!?」
「返事して!!」
「グレンもいる!?」
霧の向こうから、仲間の声。
だが、風の向きがねじれ、音が引き裂かれていく。
数秒後には、声すら聞こえなくなった。
「……ま、待って……」
グレンが震える手を霧に伸ばす。
しかし指先は、何も掴まない。
「置いてか……れた……?」
「大丈夫」
俺は、霧の向こうを一度も振り返らずに言った。
「僕がいるから」
足元の草が、ざり、と揺れる。
十を超える影の気配が、気配だけを擦り合わせながら円を描く。
幻影狼たちが、完全に“包囲完了”の位置に付いた。
「ひっ……」
グレンの顔が、見るからに蒼白になる。
「クロガネ……後ろ、いっぱい……来てる……」
「うん。いいから、走ろう」
俺は彼の腕を強くつかんだ。
「このままだと、本当に追いつかれる。
……信じて、ついてきて」
「……っ、うん……!」
俺たちは、霧の切れ目を縫うように走り出した。
草を蹴る足音。
後ろから重なって追いかけてくる、幻影狼たちの足音。
それは、わざと“半歩遅れ”で聞こえるよう調整されていた。
追いつきそうで、追いつかない。
絶対に振り返りたくなる距離感。
どれくらい走っただろうか。
視界の先に、地形の変化が現れた。
草原の端。
緩やかな下り坂。
その先には、切り立った岩壁に挟まれた狭い谷――第四層への入口に繋がるエリア。
「クロガネ……ここ、どこ……?」
「うん。ここでいい」
俺はようやく足を止めた。
呼吸は少しだけ乱れている。
わざと、グレンと同じくらいに。
「ここが、君の安全地帯だよ」
「……え……?」
グレンは荒い息の合間に、どうにか言葉を絞り出す。
「ねぇ、クロガネ……
みんなは……? リオたちは……?」
「大丈夫。あっちはあっちで、別ルートを進んでるよ」
「合流……しなくていいの……?」
「うん。しなくていい」
俺は、そこで初めて短剣を抜いた。
グレンの目が、ゆっくりと剣先を追う。
「……クロガネ……?」
「ねぇ、グレン」
俺は、いつもの柔らかい口調のまま問いかけた。
「さっきからずっと、『怖い』って顔してるよね」
「……あたりまえだろ……こんな……知らないとこ……一緒にいたの、クロガネだけで……」
「そうだね」
俺は笑った。
「この後は――
君が死ぬだけだからね」
その言葉が理解に届くまで、数秒かかった。
グレンの顔が、ゆっくりと、間の抜けたように歪んでいく。
「……なに……?」
言葉が、うまく結べていない。
「……なに……それ……冗談……だろ……?」
「冗談じゃないよ」
俺は一歩、距離を詰めた。
「ここ、周り全部“影”なんだ。
君が壊れるには、すごくいい場所だよ」
「……は?」
笑うことも、怒ることもできない声。
ただ、現実感が剥がれていく音だけがある。
「……待っ……て……
意味……わかんない……
なんで……俺……?」
「なんで、か」
俺は少しだけ考えるふりをして、すぐに肩をすくめた。
「理由なんて、いらないよ。
君がここにいて、僕がここにいる。
それだけで、殺すには充分なんだ」
「……っ……」
グレンの喉が、ひゅっと鳴る。
「そんな……の……
意味……わかんない……」
「分からなくていいよ」
俺は短剣をくるりと回して、柄を握り直した。
「分からないまま壊れてくれたほうが、きっと綺麗だから」
その瞬間、足元の影が、一斉に膨らんだ。
幻影狼たちの影が、人の腕の形に変わり、グレンの四肢を地面に縫いつける。
「やっ――!」
グレンの叫びが、途中で途切れた。
喉がうまく声を作れない。
「待っ……やめ……やめて……!!
クロガネ……なんで……!」
「暴れないで」
俺はしゃがみ込み、彼の顔をのぞき込んだ。
涙と汗と、理解不能な恐怖で、表情がぐしゃぐしゃになっている。
最高だった。
「ねぇ、グレン」
優しく囁く。
「ずっと、思ってたんだ。
君が壊れたらすごく綺麗だろうなって」
「……やだ……やだやだやだ……」
頭を振ろうとしても、影がそれを許さない。
「最初は………どこがいいかな」
俺は、彼の右手首に短剣の刃を当てた。
「やっぱり、手からかな。
魔力を感じ取る、細かい神経がいっぱい通ってるところ」
「やめて!! やめてやめてやめて!!」
「嫌だよ」
俺は微笑んだまま押し込む。
皮膚が裂け、温かいものが溢れ出す感触が、柄越しに伝わる。
グレンの悲鳴が、谷の方へ引き裂かれながら飛んでいった。
わざと、すぐには切り落とさない。
少し進んでは止め、また進み――時間をかけて、神経をなぞるように。
「や……っ……やぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うるさいな」
俺は笑う。
「でも、その声も含めて、全部好きだよ」
やがて、右腕が、力なく地面に落ちた。
続けて左腕、右足、左足。
四肢を失いながらも、グレンの意識はしぶとく残っていた。
「……だれか……
……たすけ……」
ぼやけた目が、俺を探す。
「クロガネ……やだ……
……いやだ……」
「“助けて”なんて、簡単に言うものじゃないよ」
俺は、その額にそっと手を当てる。
「今の君、本当に綺麗なんだから。
壊れる寸前の顔って、一瞬しか見られないんだよ。
もったいないから、ちゃんと見させて」
「っ……あ……」
声にならない音。
瞳から、最後の光が抜ける。
魂が、するりと肉体から外れ、足元の影へと吸い込まれていった。
(いい魂だ。
よく震えて、よく泣いて、よく絶望してくれた)
周囲の影が、満足そうに脈打つ。
少し遅れて、上の方――第四層の方角から、金属音が聞こえてきた。
甲冑がぶつかり合う高い音。
叫び声。
炎と風の魔法が空気を震わせる気配。
(二年と冒険者たちが、予定通り四層に入ったな)
俺は目を閉じ、影を通して“上”を覗き込む。
切り立った谷。逆向きの風。
その中を、二年生たちが隊列を組んで進んでいる。
一人、剣士がいた。
茶色い髪。
盾役の前に出て、先頭で進路を切り開いていくタイプ。
(……君にしようか)
俺は、四層の影に命令を送った。
谷の足場が一瞬だけ崩れ、剣士が一段下に落ちる。
それは転倒と呼ぶにはささやかで、しかし致命的ずれ。
風の向きが変わり、仲間たちの声が届かなくなる。
左右の草むらから、影だけがにじみ出る。
「なっ――」
剣士が身構える間もなく、喉元に黒い牙が食い込んだ。
血が飛ぶ瞬間だけ、景色が赤く染まる。
その色が完全に消える頃には、魂はすでに影の中だった。
黒い霧となって、俺の足元まで、ふわりと降りてくる。
(実戦経験のある、よく鍛えられた魂。
五層の“器”には、申し分ない)
影が、深いところでざわめいた。
『……マスター』
サキュバスの声が、足元から響く。
『第五層の核が……ふたり分の魂を受け取りました。
――形を、持ち始めています』
「うん。じゃあ、任せるよ」
『ええ』
視界の端が、わずかに暗くなる。
まだ誰も足を踏み入れていない第五層の空間で、黒い鎧の輪郭がゆっくり組み上がっていく。
細身の剣。
人の形をした影。
胸の奥で、グレンの小さな叫びがこだまになって揺れた。
(五層の中ボス――影騎士)
(ようこそ、俺の巣へ)
俺は、グレンの血で汚れた手を一度だけ見下ろし、
何もなかったかのように、草原の奥へと歩き出した。
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