第3話 夜の匂い

 朝の教室は、いつも通りうるさかった。


「クロガネ、お前ほんと大丈夫だったのかよ。昨日、普通にぶっ飛んでたぞ?」


 リオが机に腰をひっかけて、俺の肩をじっと見る。


「今日はだいぶマシ。まだちょっと痛いけどね」


「ほら見ろよカイ。お前のせいだって」


「悪かったって! 何回言わせんだよ!」


 カイが後頭部をがしがしかきながら苦笑いする。


「力抜くつもりだったんだけどな……クロガネ、マジでごめん」


「平気だって。授業のうちでしょ。骨折したわけでもないし」


(あの勢いなら、普通は折れてるけどな)


 前の方では、エリナが数人に囲まれて、魔力制御の話をしていた。


「そこ、もう少しゆっくり魔力を回して。焦ると暴発するわ」


「さすがエリナ。言ってることはよく分かんねぇけど、なんか安心する」


 真面目そうで、距離は近すぎない。

 こういうタイプは、利用する分にはちょうどいい。



「……あれ……?」


 か細い声が聞こえた。


 視線を向けると、ダインが机の下を覗き込んでいた。顔は半泣きだ。


「どうしたの、ダイン」


「さ、財布が……見当たらなくて。DPカードも一緒に入ってたのに……」


 そこへ、嫌な笑い方をする声。


「これじゃね? さっき床に落ちてたけど」


「うわ、ほんとだ。ダインの名前書いてある」


 後ろの席の二人組が、財布をひらひらさせていた。


 ダインが慌てて立ち上がる。


「それ、返して……!」


「そんなに慌てんなよ。ちょっとくらい平気だろ?」


「中身、ちゃんと入ってるか気になるよなぁ~」


 わざと財布を逆さにしてみせる。

 小銭の音がジャラ、と鳴った。


(くだらない)


 俺は立ち上がって、二人のところまで歩いた。


「それ、落ちてたなら普通に返しなよ。中身までいじる必要ないでしょ」


「……なんだよクロガネ。別に減らしたりしてないし」


「だったら、なおさら返せばいい」


 声のトーンは低めに。

 でも目は合わせすぎない。あくまで“正義感が強いクラスメイト”の範囲内で。


 一瞬、牽制されたみたいに二人が黙り、それから舌打ちした。


「……はいはい。ほら、ダイン」


 財布が軽く放られ、ダインが慌ててキャッチする。


「ありが、ありがとう……クロガネくん……」


「どういたしまして。ちゃんと中身確認しときなよ」


 ダインはコクリと頷いて、掌の上で財布を抱きしめるように掴んだ。


(“助けてくれる人=いい人”って、単純に信じられるのは幸せだな。

 ……まあ、その分、食いやすいんだけど)



「席につけ。始めるぞ」


 ダモンが教壇に立つと、教室の音がすっと引いていく。


「今日は魔物学の基礎。特に“群れで動くタイプ”についてだ」


 黒板に、簡単な狼とコボルトの絵が描かれていく。


「群れ系の特徴は二つ。

 一つ、弱い個体から順番に死ぬ。

 二つ、生き残った個体は、放っておけばどんどん強くなる」


 ダモンはチョークをトントンと叩いた。


「その場で自然淘汰が起きるわけだ。

 特にコボルトなんかは典型的だな。最初は雑魚でも、数と時間が揃えば笑えない」


(知ってる。現に今、俺の森で勝手に選別やってるからな)


「生き残った群れは、縄張りを決め、罠を覚え、侵入者を狩る。

 “たまたま迷い込んだだけ”の奴でも、容赦なくな」


 教室の空気が少し重くなる。


「だから、覚えておけ。

 ダンジョンにとっては、理由なんてどうでもいい。

 足を踏み入れた時点で、“餌”だ」


(その通り)


 思わず頷きそうになって、慌ててペンを握り直した。


「それから、貴重品は自己管理しろ。

 DPカードや財布をなくした状態で実習に出るな。死活問題になることもある」


 ダモンがそう言った瞬間、ダインが小さく身を縮めた。

 さっきの財布騒ぎは、どうやら先生の耳にも入っているらしい。


「……笑っていられるのは、今のうちだけだぞ。

 ここは“帝国学園”だ。実戦に出れば、ミス一つが死につながる」


 ダモンの視線が教室全体をなぞる。


 その中で、俺のことも一瞬だけ見た。

 特別興味があるわけでも、怪しんでいるわけでもない。

 ただ、“数百人いる生徒のひとり”として。


(それでいい。今はそれで十分だ)



 放課後。


 廊下は「どこ寄ってく?」という話であふれていた。


「図書室で補習課題やってこ……エリナも行く?」


「ええ、少しだけね」


 そんな真面目な会話の横を、リオとカイが通り過ぎる。


「なあ、裏の森って夜ヤバいって噂マジ?」


「何それ、またお化け話かよ」


「いや、昨日寮の窓から見てたらさ、霧がやばくて。ほら、白いのもや〜って」


「それお前の寝不足だろ」


 笑いながら去っていく二人の背中を目で追い、それから窓の外に視線を送る。


 学園の裏に広がる小さな森。

 昼間でも、少しだけ影が濃い。


(……霧、か)


 コアが本気を出し始めた証拠だ。


「クロガネは? これからどうすんだ?」


 リオが振り返る。


「俺は寮に戻る。課題まだ残ってるし」


「真面目か。じゃ、また明日な!」


「うん。また」


 手を軽く振って、その場を離れた。


(表面上は、普通の一年生。

 真面目寄り、ちょっと気弱。

 ……それでいい)



 日が落ち、寮の廊下に夜の静けさが降りてきた頃。


 俺はベッドに腰を下ろし、しばらく天井を見ていた。


 窓の外では、風が木を揺らしている。

 裏の森の方角だけ、闇がわずかに濃い。


(――そろそろ行くか)


 立ち上がり、上着を羽織る。

 部屋の灯りを消し、ドアを静かに閉めた。


 廊下には、人の気配がない。

 見回りの時間まで、まだ少し余裕がある。


 階段を下り、寮の裏口へ向かう。

 扉を抜けると、ひんやりとした夜気が頬を撫でた。



 寮の裏の森は、昼の姿とは別物だった。


 月明かりが届きにくい。

 空気は重く、湿っている。

 霧が地面近くをゆっくりと流れていた。


(普通の人間なら、近づきたくない雰囲気だな)


 森の奥へ進むと、木々の間に“裂け目”が見える。

 黒い傷口のような、空間のほころび。


 その表面に手を触れる。


 世界が、静かに裏返った。



 湿った土の匂い。

 腐った葉の感触。

 空気に混じる、血の気配。


 ここは、俺のダンジョンだ。


「マスター」


 落ち着いた声が、闇の中から聞こえた。


 サキュバスが一歩、また一歩と近づいてくる。

 白い肌が、腐敗した森の中でやけに鮮やかに見えた。


「今日も来てくれて、嬉しいです」


「こっちのほうが落ち着くからね。どうだ、様子は」


「群れの淘汰が進んでいます。

 弱いコボルトはほとんど死にました。

 残った個体は、動きも連携も滑らかです」


 サキュバスは淡々と言いながら、それを誇らしげに感じているように見えた。


「今は二つの群れが縄張り争いをしていて……

 勝った方を、アサシンとシャーマンに進化させる準備が整っています」


「いいね。勝った方だけ強くなる。

 負けた方は、餌か肥料か」


「全部、マスターのダンジョンの糧になります」


 サキュバスの尾が、ゆらゆらと揺れた。


「……それと、今日は“匂い”が違います」


「違う?」


「ええ。森の外側の方から、欲と金属と汗の匂いがします。

 恐怖よりも、欲が強い匂い。

 多分──“宝探し”」


「欲深いのが一番、実験しやすい」


 俺は軽く笑う。


「どれくらいで来そう?」


「もうすぐです。

 コボルトの索敵個体が、外の気配を捕まえました」


 森の奥から、かすかな唸り声が重なって聞こえてくる。

 歓迎の合唱だ。



「サキュバス」


「はい、マスター」


「今日は、“狩りの練習”をしよう」


「練習……?」


「そう。

 ただ殺すだけじゃつまらない。

 追い回して、逃げ道をわざと残して──

 希望を持たせてから折る」


 サキュバスは一瞬だけ沈黙し、それから小さく微笑んだ。


「……やはり、マスターは素敵です」


「だから褒めるなって」


「すみません。でも、そうとしか言いようがありません」


 その瞳は、完全に“こちら側”の光を宿していた。


「最初のひとりは、少し長めに生かしていい。

 どう壊れるか、見てみたい」


「はい。では、コボルトたちにも伝えます」


 サキュバスの指先が闇の中をなぞる。

 それに呼応するように、森の至るところから、コボルトの足音が消えた。


 獲物を待つ静寂だけが残る。



 やがて、森の入口の方から、粗い足音と声が聞こえてきた。


「おい、本当にこっちで合ってるのかよ……」


「合ってるって。未登録のダンジョンは儲かるって前線の兵隊が言ってたろ」


「適当に魔物狩って、持ち帰れば一生遊べるくらい稼げるって話だぜ」


 革鎧の男が三人。

 松明の明かりを頼りに、慎重とも無謀とも言えない歩き方で森へ踏み込んでくる。


(……三人か。ちょうどいい)


 俺は木の影から様子を眺めながら、サキュバスにだけ聞こえる声で囁いた。


「最初は、軽い“歓迎”からでいい。

 視界と足元を奪え」


「かしこまりました」



 ふっと、風向きが変わる。


 腐敗した土の匂いの中に、濃いガスのようなものが混じった。


「うっ……なんだ、急に……」


「おい、煙か? 霧か? よく分かんねぇけど、目が……」


 松明の炎が、ぼやけて見える。

 光が、霧に飲まれていく。


「足元、気をつけて……」


 その言葉を言い終わる前に──

 地面の蔦が、ぬるりと動いた。


「うわっ!? なんだこれ!」


 腐りかけた蔦が、男の足首を絡め取る。

 もう一人の足も、とっさに避けようとして逆に体勢を崩した。


 二人が転び、残った一人が慌てて後退る。


「おい! 何やってんだよ!」


「うご、が……足が……抜けねぇ……!」


「切れよ! ナイフで!」


 俺はコボルトたちに目で合図を送った。


「まだだ。近づきすぎるな。包囲を狭めろ」


 暗闇の中、青白い目が十以上。

 音も立てずに、じりじりと三人を囲んでいく。


「ガル……ガルル……」


「な、なんだよ、あれ……」


 ついに、盗賊のひとりがそれに気づいた。

 松明の少し先、霧の向こうで光る瞳。


「コボルト……? 数、多くねぇか……?」


「お、落ち着け! 低級魔物だろ!? 数が多くても、こっちには──」


「──あ?」


 叫んだ男の足首に、細い何かが絡みついた。

 蔦ではない。

 コボルトの投げ縄だ。


「うっ……!」


 引き倒された拍子に、松明が地面に落ちる。

 炎が消えかけて、さらに視界が悪くなる。


 悲鳴と罵声と、鎧の擦れる音が混ざり合っていく。



「サキュバス」


「はい、マスター」


「ひとり、膝を壊せ」


 彼女は小さく微笑み、指先を軽く弾いた。


 黒い影のような魔力が地面を走り、男の足元に突き刺さる。


 嫌な音がした。

 骨が折れる、乾いた音。


「ぎゃあああああああ!!」


 森に、よく通る悲鳴が響いた。


「や、やめろ……やめろぉっ!!」


「足が! 俺の足がっ……!」


 残りの二人が混乱し、余計に足を絡め取られていく。


 コボルトたちが、一斉に距離を詰めた。

 小さな牙と爪が、肉と布を引き裂き始める。


「まだ殺すなよ」


 俺の声に、コボルトたちの動きが僅かに鈍る。


「喉は残せ。意識も残せ。

 逃げられると思わせたまま、じわじわ削れ」


 サキュバスが、恍惚とした表情でそれを聞いていた。


「……マスター、ほんとうに……」


「何?」


「いい匂いがします。

 怖がっているのに、必死に生きようとしている匂い」


「そういうのが、一番おいしいんだよ」



 数分後。


 二人はもう動かなかった。

 浅い息をしているのかどうかも怪しい。

 血と泥にまみれて、コボルトに上から押さえつけられている。


 残った一人だけが、まだ生きていた。

 腕も足も傷だらけだが、這って逃げようとしている。


「いやだ……死にたくない……!」


 地面を引っかき、爪を剥がしながら進む。

 どこへ向かっているかも分かっていない。

 ただ、本能だけで前へ。


 俺は、彼の少し先に、何気ない顔をして立った。


「こんばんは」


「……は?」


 男が顔を上げる。

 目が合った瞬間、怯えと希望が混ざった色になる。


「た、助け……」


「無理だよ」


 俺はやんわりと否定した。


「ここ、俺のダンジョンだから」


 男の表情から、一瞬で希望の色が消えた。


「ど、どういう……」


「簡単な話。

 お前らは“勝手に”ここへ来た。

 “勝手に”俺の縄張りに足を踏み入れた。

 だから──」


 ゆっくりとしゃがみ込み、彼の目の高さまで視線を下げる。


「俺のものだ」


 男の喉が、ごくりと鳴った。


「ゆ、許して……俺たち、何もしてな──」


「してるよ」


 遮って、笑う。


「俺のコボルトを何匹か傷つけただろ。

 それだけで十分すぎる理由だ」


 実際には、死んだのは弱い数体だけだ。

 でも、そんなことはどうでもいい。


「安心しろよ。苦しみ方は、そこそこ選んでやる」


 サキュバスが俺の後ろで静かに見ている。

 その瞳は完全に熱と興奮に濡れていた。


「……なぁ、サキュバス」


「はい、マスター」


「人間ってさ。

 殺される直前の顔が、一番綺麗だと思わない?」


「そうかもしれません。

 今のこの人、とても“いい顔”してます」


 男の目は、もうまともに焦点を結んでいなかった。


「じゃあ、終わろうか」


 俺の合図で、コボルトたちが再び牙を剥いた。


 押し殺した叫びと、荒い息と、土を掻く音がしばらく続き──

 やがて、森はまた静かになった。



 血の匂いが、森全体に薄く広がっていく。


 サキュバスが、満足そうに息を吐いた。


「……とても、良い夜でした」


「まあ、初回にしては悪くないね。

 コボルトも、よくやってくれた」


 足元では、コボルトたちが誇らしげに胸を張っていた。

 弱い個体の姿は、もうどこにもない。


『マスターの悪意、増加を確認。

 ダンジョン成長速度、上昇します』


 コアの声が、乾いた調子で告げる。


「いいね。

 まだ序章だ。これからもっと増やす」


 サキュバスが、俺を見上げる。


「マスターは、人間を“嫌い”なんですか?」


「別に。

 殺しやすくて、面白い玩具だとは思ってるけど」


「……好きとか、嫌いとかじゃなくて?」


「そういう感情、あんまり興味ないんだよな。

 壊したときに綺麗なら、それでいい」


 サキュバスは、少しだけ目を閉じた。


「……やっぱり、好きです」


「またそれか」


「何度でも言います。

 あなたみたいな主に出会えたダンジョンは、幸せです」


「幸せかどうかは知らないけど──」


 血と腐敗の匂いが混ざった夜気を、深く吸い込む。


(少なくとも、俺は幸せだな)


「……この世界、本当に飽きないな」


 俺は小さく笑い、コアの方へと歩き出した。


「さあ、次はどうやって“殺しやすく”していこうか」


 森が、静かに、嬉しそうに脈動した。


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