第3話 夜の匂い
朝の教室は、いつも通りうるさかった。
「クロガネ、お前ほんと大丈夫だったのかよ。昨日、普通にぶっ飛んでたぞ?」
リオが机に腰をひっかけて、俺の肩をじっと見る。
「今日はだいぶマシ。まだちょっと痛いけどね」
「ほら見ろよカイ。お前のせいだって」
「悪かったって! 何回言わせんだよ!」
カイが後頭部をがしがしかきながら苦笑いする。
「力抜くつもりだったんだけどな……クロガネ、マジでごめん」
「平気だって。授業のうちでしょ。骨折したわけでもないし」
(あの勢いなら、普通は折れてるけどな)
前の方では、エリナが数人に囲まれて、魔力制御の話をしていた。
「そこ、もう少しゆっくり魔力を回して。焦ると暴発するわ」
「さすがエリナ。言ってることはよく分かんねぇけど、なんか安心する」
真面目そうで、距離は近すぎない。
こういうタイプは、利用する分にはちょうどいい。
◆
「……あれ……?」
か細い声が聞こえた。
視線を向けると、ダインが机の下を覗き込んでいた。顔は半泣きだ。
「どうしたの、ダイン」
「さ、財布が……見当たらなくて。DPカードも一緒に入ってたのに……」
そこへ、嫌な笑い方をする声。
「これじゃね? さっき床に落ちてたけど」
「うわ、ほんとだ。ダインの名前書いてある」
後ろの席の二人組が、財布をひらひらさせていた。
ダインが慌てて立ち上がる。
「それ、返して……!」
「そんなに慌てんなよ。ちょっとくらい平気だろ?」
「中身、ちゃんと入ってるか気になるよなぁ~」
わざと財布を逆さにしてみせる。
小銭の音がジャラ、と鳴った。
(くだらない)
俺は立ち上がって、二人のところまで歩いた。
「それ、落ちてたなら普通に返しなよ。中身までいじる必要ないでしょ」
「……なんだよクロガネ。別に減らしたりしてないし」
「だったら、なおさら返せばいい」
声のトーンは低めに。
でも目は合わせすぎない。あくまで“正義感が強いクラスメイト”の範囲内で。
一瞬、牽制されたみたいに二人が黙り、それから舌打ちした。
「……はいはい。ほら、ダイン」
財布が軽く放られ、ダインが慌ててキャッチする。
「ありが、ありがとう……クロガネくん……」
「どういたしまして。ちゃんと中身確認しときなよ」
ダインはコクリと頷いて、掌の上で財布を抱きしめるように掴んだ。
(“助けてくれる人=いい人”って、単純に信じられるのは幸せだな。
……まあ、その分、食いやすいんだけど)
◆
「席につけ。始めるぞ」
ダモンが教壇に立つと、教室の音がすっと引いていく。
「今日は魔物学の基礎。特に“群れで動くタイプ”についてだ」
黒板に、簡単な狼とコボルトの絵が描かれていく。
「群れ系の特徴は二つ。
一つ、弱い個体から順番に死ぬ。
二つ、生き残った個体は、放っておけばどんどん強くなる」
ダモンはチョークをトントンと叩いた。
「その場で自然淘汰が起きるわけだ。
特にコボルトなんかは典型的だな。最初は雑魚でも、数と時間が揃えば笑えない」
(知ってる。現に今、俺の森で勝手に選別やってるからな)
「生き残った群れは、縄張りを決め、罠を覚え、侵入者を狩る。
“たまたま迷い込んだだけ”の奴でも、容赦なくな」
教室の空気が少し重くなる。
「だから、覚えておけ。
ダンジョンにとっては、理由なんてどうでもいい。
足を踏み入れた時点で、“餌”だ」
(その通り)
思わず頷きそうになって、慌ててペンを握り直した。
「それから、貴重品は自己管理しろ。
DPカードや財布をなくした状態で実習に出るな。死活問題になることもある」
ダモンがそう言った瞬間、ダインが小さく身を縮めた。
さっきの財布騒ぎは、どうやら先生の耳にも入っているらしい。
「……笑っていられるのは、今のうちだけだぞ。
ここは“帝国学園”だ。実戦に出れば、ミス一つが死につながる」
ダモンの視線が教室全体をなぞる。
その中で、俺のことも一瞬だけ見た。
特別興味があるわけでも、怪しんでいるわけでもない。
ただ、“数百人いる生徒のひとり”として。
(それでいい。今はそれで十分だ)
◆
放課後。
廊下は「どこ寄ってく?」という話であふれていた。
「図書室で補習課題やってこ……エリナも行く?」
「ええ、少しだけね」
そんな真面目な会話の横を、リオとカイが通り過ぎる。
「なあ、裏の森って夜ヤバいって噂マジ?」
「何それ、またお化け話かよ」
「いや、昨日寮の窓から見てたらさ、霧がやばくて。ほら、白いのもや〜って」
「それお前の寝不足だろ」
笑いながら去っていく二人の背中を目で追い、それから窓の外に視線を送る。
学園の裏に広がる小さな森。
昼間でも、少しだけ影が濃い。
(……霧、か)
コアが本気を出し始めた証拠だ。
「クロガネは? これからどうすんだ?」
リオが振り返る。
「俺は寮に戻る。課題まだ残ってるし」
「真面目か。じゃ、また明日な!」
「うん。また」
手を軽く振って、その場を離れた。
(表面上は、普通の一年生。
真面目寄り、ちょっと気弱。
……それでいい)
◆
日が落ち、寮の廊下に夜の静けさが降りてきた頃。
俺はベッドに腰を下ろし、しばらく天井を見ていた。
窓の外では、風が木を揺らしている。
裏の森の方角だけ、闇がわずかに濃い。
(――そろそろ行くか)
立ち上がり、上着を羽織る。
部屋の灯りを消し、ドアを静かに閉めた。
廊下には、人の気配がない。
見回りの時間まで、まだ少し余裕がある。
階段を下り、寮の裏口へ向かう。
扉を抜けると、ひんやりとした夜気が頬を撫でた。
◆
寮の裏の森は、昼の姿とは別物だった。
月明かりが届きにくい。
空気は重く、湿っている。
霧が地面近くをゆっくりと流れていた。
(普通の人間なら、近づきたくない雰囲気だな)
森の奥へ進むと、木々の間に“裂け目”が見える。
黒い傷口のような、空間のほころび。
その表面に手を触れる。
世界が、静かに裏返った。
◆
湿った土の匂い。
腐った葉の感触。
空気に混じる、血の気配。
ここは、俺のダンジョンだ。
「マスター」
落ち着いた声が、闇の中から聞こえた。
サキュバスが一歩、また一歩と近づいてくる。
白い肌が、腐敗した森の中でやけに鮮やかに見えた。
「今日も来てくれて、嬉しいです」
「こっちのほうが落ち着くからね。どうだ、様子は」
「群れの淘汰が進んでいます。
弱いコボルトはほとんど死にました。
残った個体は、動きも連携も滑らかです」
サキュバスは淡々と言いながら、それを誇らしげに感じているように見えた。
「今は二つの群れが縄張り争いをしていて……
勝った方を、アサシンとシャーマンに進化させる準備が整っています」
「いいね。勝った方だけ強くなる。
負けた方は、餌か肥料か」
「全部、マスターのダンジョンの糧になります」
サキュバスの尾が、ゆらゆらと揺れた。
「……それと、今日は“匂い”が違います」
「違う?」
「ええ。森の外側の方から、欲と金属と汗の匂いがします。
恐怖よりも、欲が強い匂い。
多分──“宝探し”」
「欲深いのが一番、実験しやすい」
俺は軽く笑う。
「どれくらいで来そう?」
「もうすぐです。
コボルトの索敵個体が、外の気配を捕まえました」
森の奥から、かすかな唸り声が重なって聞こえてくる。
歓迎の合唱だ。
◆
「サキュバス」
「はい、マスター」
「今日は、“狩りの練習”をしよう」
「練習……?」
「そう。
ただ殺すだけじゃつまらない。
追い回して、逃げ道をわざと残して──
希望を持たせてから折る」
サキュバスは一瞬だけ沈黙し、それから小さく微笑んだ。
「……やはり、マスターは素敵です」
「だから褒めるなって」
「すみません。でも、そうとしか言いようがありません」
その瞳は、完全に“こちら側”の光を宿していた。
「最初のひとりは、少し長めに生かしていい。
どう壊れるか、見てみたい」
「はい。では、コボルトたちにも伝えます」
サキュバスの指先が闇の中をなぞる。
それに呼応するように、森の至るところから、コボルトの足音が消えた。
獲物を待つ静寂だけが残る。
◆
やがて、森の入口の方から、粗い足音と声が聞こえてきた。
「おい、本当にこっちで合ってるのかよ……」
「合ってるって。未登録のダンジョンは儲かるって前線の兵隊が言ってたろ」
「適当に魔物狩って、持ち帰れば一生遊べるくらい稼げるって話だぜ」
革鎧の男が三人。
松明の明かりを頼りに、慎重とも無謀とも言えない歩き方で森へ踏み込んでくる。
(……三人か。ちょうどいい)
俺は木の影から様子を眺めながら、サキュバスにだけ聞こえる声で囁いた。
「最初は、軽い“歓迎”からでいい。
視界と足元を奪え」
「かしこまりました」
◆
ふっと、風向きが変わる。
腐敗した土の匂いの中に、濃いガスのようなものが混じった。
「うっ……なんだ、急に……」
「おい、煙か? 霧か? よく分かんねぇけど、目が……」
松明の炎が、ぼやけて見える。
光が、霧に飲まれていく。
「足元、気をつけて……」
その言葉を言い終わる前に──
地面の蔦が、ぬるりと動いた。
「うわっ!? なんだこれ!」
腐りかけた蔦が、男の足首を絡め取る。
もう一人の足も、とっさに避けようとして逆に体勢を崩した。
二人が転び、残った一人が慌てて後退る。
「おい! 何やってんだよ!」
「うご、が……足が……抜けねぇ……!」
「切れよ! ナイフで!」
俺はコボルトたちに目で合図を送った。
「まだだ。近づきすぎるな。包囲を狭めろ」
暗闇の中、青白い目が十以上。
音も立てずに、じりじりと三人を囲んでいく。
「ガル……ガルル……」
「な、なんだよ、あれ……」
ついに、盗賊のひとりがそれに気づいた。
松明の少し先、霧の向こうで光る瞳。
「コボルト……? 数、多くねぇか……?」
「お、落ち着け! 低級魔物だろ!? 数が多くても、こっちには──」
「──あ?」
叫んだ男の足首に、細い何かが絡みついた。
蔦ではない。
コボルトの投げ縄だ。
「うっ……!」
引き倒された拍子に、松明が地面に落ちる。
炎が消えかけて、さらに視界が悪くなる。
悲鳴と罵声と、鎧の擦れる音が混ざり合っていく。
◆
「サキュバス」
「はい、マスター」
「ひとり、膝を壊せ」
彼女は小さく微笑み、指先を軽く弾いた。
黒い影のような魔力が地面を走り、男の足元に突き刺さる。
嫌な音がした。
骨が折れる、乾いた音。
「ぎゃあああああああ!!」
森に、よく通る悲鳴が響いた。
「や、やめろ……やめろぉっ!!」
「足が! 俺の足がっ……!」
残りの二人が混乱し、余計に足を絡め取られていく。
コボルトたちが、一斉に距離を詰めた。
小さな牙と爪が、肉と布を引き裂き始める。
「まだ殺すなよ」
俺の声に、コボルトたちの動きが僅かに鈍る。
「喉は残せ。意識も残せ。
逃げられると思わせたまま、じわじわ削れ」
サキュバスが、恍惚とした表情でそれを聞いていた。
「……マスター、ほんとうに……」
「何?」
「いい匂いがします。
怖がっているのに、必死に生きようとしている匂い」
「そういうのが、一番おいしいんだよ」
◆
数分後。
二人はもう動かなかった。
浅い息をしているのかどうかも怪しい。
血と泥にまみれて、コボルトに上から押さえつけられている。
残った一人だけが、まだ生きていた。
腕も足も傷だらけだが、這って逃げようとしている。
「いやだ……死にたくない……!」
地面を引っかき、爪を剥がしながら進む。
どこへ向かっているかも分かっていない。
ただ、本能だけで前へ。
俺は、彼の少し先に、何気ない顔をして立った。
「こんばんは」
「……は?」
男が顔を上げる。
目が合った瞬間、怯えと希望が混ざった色になる。
「た、助け……」
「無理だよ」
俺はやんわりと否定した。
「ここ、俺のダンジョンだから」
男の表情から、一瞬で希望の色が消えた。
「ど、どういう……」
「簡単な話。
お前らは“勝手に”ここへ来た。
“勝手に”俺の縄張りに足を踏み入れた。
だから──」
ゆっくりとしゃがみ込み、彼の目の高さまで視線を下げる。
「俺のものだ」
男の喉が、ごくりと鳴った。
「ゆ、許して……俺たち、何もしてな──」
「してるよ」
遮って、笑う。
「俺のコボルトを何匹か傷つけただろ。
それだけで十分すぎる理由だ」
実際には、死んだのは弱い数体だけだ。
でも、そんなことはどうでもいい。
「安心しろよ。苦しみ方は、そこそこ選んでやる」
サキュバスが俺の後ろで静かに見ている。
その瞳は完全に熱と興奮に濡れていた。
「……なぁ、サキュバス」
「はい、マスター」
「人間ってさ。
殺される直前の顔が、一番綺麗だと思わない?」
「そうかもしれません。
今のこの人、とても“いい顔”してます」
男の目は、もうまともに焦点を結んでいなかった。
「じゃあ、終わろうか」
俺の合図で、コボルトたちが再び牙を剥いた。
押し殺した叫びと、荒い息と、土を掻く音がしばらく続き──
やがて、森はまた静かになった。
◆
血の匂いが、森全体に薄く広がっていく。
サキュバスが、満足そうに息を吐いた。
「……とても、良い夜でした」
「まあ、初回にしては悪くないね。
コボルトも、よくやってくれた」
足元では、コボルトたちが誇らしげに胸を張っていた。
弱い個体の姿は、もうどこにもない。
『マスターの悪意、増加を確認。
ダンジョン成長速度、上昇します』
コアの声が、乾いた調子で告げる。
「いいね。
まだ序章だ。これからもっと増やす」
サキュバスが、俺を見上げる。
「マスターは、人間を“嫌い”なんですか?」
「別に。
殺しやすくて、面白い玩具だとは思ってるけど」
「……好きとか、嫌いとかじゃなくて?」
「そういう感情、あんまり興味ないんだよな。
壊したときに綺麗なら、それでいい」
サキュバスは、少しだけ目を閉じた。
「……やっぱり、好きです」
「またそれか」
「何度でも言います。
あなたみたいな主に出会えたダンジョンは、幸せです」
「幸せかどうかは知らないけど──」
血と腐敗の匂いが混ざった夜気を、深く吸い込む。
(少なくとも、俺は幸せだな)
「……この世界、本当に飽きないな」
俺は小さく笑い、コアの方へと歩き出した。
「さあ、次はどうやって“殺しやすく”していこうか」
森が、静かに、嬉しそうに脈動した。
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