おやじと映画と犬
美佐緒
第1話 行き倒れ寸前のダメおやじ紛争する
自分が飲んだくれて路上に転がってから、一ヶ月が過ぎた。
あの夜のことを思い出すと、今でも脳みそが熱を持って沸騰しそうになる。
見事なまでに酔いつぶれ、知らない女に介抱される。
それも、自分より二回り若い美女二人に。
死んだほうがマシだったのでは?と、何度も天井のシミを見ながら考えた。
そして、今、自分はミサキのアパートに、堂々と、いや、こっそりと居候している。
ヒモと言われても文句は言えない。
世間一般の感覚ならば、
「若い女の部屋に中年の男が居候?どうせ愛人だろ」
「女の弱みでも握ってんのか?」
「その歳で何してんの?終わってんな」
ネットの匿名掲示板あたりで書かれそうだが、ミサキも、彼女の友人のショーコも、そういう空気は一切出してこない。
むしろ、こっちが居心地悪くなって先に頭を下げたくなるほどに。
「二郎さんってさ、うちの兄に似てるよ」
唐突にそう言ったショーコの言葉には、内臓を殴られたような衝撃があった。
どういう意味だ。
自分は、元アイドルで売り出されたはいいものの、20代後半でスキャンダルをでっち上げられて芸能界を追放された負け犬だ。
そのあとも浮上できず、妻にも逃げられた。
路上に落ちていた、そんな自分と似てる兄って、いったいどんな人間なんだ。
「朝のゴミ出しで、下駄のままマンションの集積所に行って、転んだのよね。足首ひねって」
ショーコはさらっと言う。
「で、ミサキが一ヶ月くらい、生活の面倒を見たんだよね~」
笑えないと思った。
しかも、実の兄なんだろ?
普通、妹であるショーコが面倒みるのでは?
疑問を、そのままぶつけようとした瞬間、見透かしていたように、あっけらかんと言った。
「そのとき、あたし、海釣りで東北を回っててさ、バンで寝泊まりしていたから」
お兄さんが下駄で転んで動けなくなっていたのに。
海釣り? バンでのんびりと?
妹、自由すぎない?
でも、二郎は思った。
こんな女たちだから、自分みたいなクズを見捨てずに助けてくれたのかもしれない。
そう思うと、少しだけ心が温かくなった。
その日、二郎はいつものように、食べかけのインスタント焼きそばをつつきながらスマホを眺めていた。
ふと目に留まったのは、一本のオーディション募集記事。
「男性募集。年齢不問。経歴不問。」
何を撮るつもりなんだ。再現ドラマか、地下アイドルのドキュメンタリーか。
しかし今の自分に選り好みできる立場なんて無い。
コンビニの深夜バイトでつないでいる毎日。
昼間はミサキのアパートでネットサーフィンか、昔の台本を読み返すくらい。
役者業のオーディションも、全滅、プロフィールすら開かれてないような気配すらある。
それでも調べてみると、その募集は「個人発信」のようだった。
劇団や芸能プロのサイトでもなく、SNSやYouTubeの概要欄に貼られているような応募フォーム。
映画なのか、ネットドラマなのか、ショートムービーかもわからない。
「今って、どこで何がバズるか分からない時代じゃん?」
少し前、スマホで撮った90秒ドラマがバズって、
監督気取りの大学生がまさかの映画化。
その映画が、ネトフリに拾われて世界配信。
笑うしかなかったが、**羨ましくもあった。
チャンスってのは、地べたを這ってるときほど転がってるもんかもしれない。
二郎はスマホを伏せた。
オーディション当日の朝。
ミサキがすでに朝食を作っていた。
台所からは豆腐と油揚げ、わかめの味噌汁の香り。
テーブルには、きっちり巻かれただし巻き卵と、三角のおにぎりが並んでいた。
朝食を食べていると、彼女がぽつりと言った。
「終わったら、外で珈琲でも飲みませんか?」
その一言に、二郎は少しだけ胸が詰まった。
オーディションで失敗したとき、自分がどんな顔で帰ってきても迎えてくれる場所がある。
彼女はそういう意味で言っているのだと、すぐに分かった。
「行ってきます」
玄関を出たとき、背中越しに彼女の声が届いた。
「頑張ってください、二郎さん」
たったそれだけなのに、
今の彼には、その言葉が一番効いた。
オーディション会場は、駅から少し離れた雑居ビルだった。
だが、驚いたのは会場そのものじゃない。
集まっていた人間だ。
男性募集のはず、だが、明らかに女性もいる。
年齢は若くない。
パッと見で三十路は超えてるだろう。
だが、全員がまとっている空気が違う。
化粧や衣装で誤魔化す若作りでもなければ、冴えない素人でもない。
ひと目でわかる、役者だと、女性だけじゃなかった。
突然、声をかけてきた男がいた。
「ネットの募集を見て来たのか?」
振り向くと、自分と同じくらいの年齢の男が立っていた。
見たことあると思った。
テレビドラマやVシネマで、ちょくちょく見かけた顔、神崎だ。
脇役専門のベテランだ。
「普通ならスルーするような募集だった」
神崎は笑った。
「でもさ、ピンときた、感かな」
「感、ですか?」
思わず聞き返すと神崎は頷いた。
「野々原が来てるな」
突然、神崎がぽつりと呟いた。
二郎は思わず神崎の目線の先を追った、中年女性がいた。
黒のカーディガンに地味なパンツスタイル。
化粧っ気もなく、髪もゴムでまとめている。
神埼の表情が険しい。
「しかも素顔か」
神崎の呟きが謎めいていた。
「知ってるんですか、野々原さんって人」
二郎が声を潜めて尋ねる。
「知らないのか、海外の舞台で浮浪者の爺さんをやった、オーディションの審査員を騙したんだ」
神崎の低い声に、二郎の背中がひやりとした。
ただのオーディション会場。
「……騙した?」
その言葉が、喉の奥でひっかかった。
演技で、審査員を――騙した?
神崎の声は静かだった。
だが、その静けさがかえって、ことの異常さを際立たせた。
二郎は再び彼女を見た。
ただ立っているだけ。
台本を読んでいる様子も、他人と話すでもない。
けれど、視線が離れなかった。
その“普通すぎる”姿に、妙な不釣り合いを感じた。
海外で爺さんを演じた?
審査員を騙した?
そんなことが、現実にあり得るのか。
むしろ、生々しすぎて、こちらが“演じている側”に思えてくる。
二郎の心に、不安とも畏怖ともつかない感情が広がった。
本物が来ている。
そう思った瞬間、自分の足元が少し揺らいだ。
自分は何をしにここへ来た?
再起をかけてのオーディション――そのはずだった。
だが今は、その理由さえも小さく見える。
この場に立つ資格が、自分に本当にあるのか。
その問いが、無言の圧として胸にのしかかった。
彼女は、ただ立っている。
何も言わず、何もしていない。
けれど、その沈黙が、周囲の誰よりも雄弁だった。
胸の奥が、静かに熱を帯びていった。
「光石も来てるのか。どうなってる」
神崎が吐き出すように言った瞬間、二郎の心臓がドクンと跳ねた。
その名前に聞き覚えがあった。
テレビでは脇役が多い、自分よりも年上だったはず。
「あの男、先月、一人芝居をやったらしい」
神崎の声が低くなった。
「三時間、海外だぞ」
「一人で、ですか?」
思わず聞き返した二郎声に神崎は、苦笑いを浮かべた。
その顔には、敬意と畏怖が混ざっていた。
「なんで、あの男が脇役しかやらないと思う、食われるからだ」
神崎はため息を吐いた。
「それでも共演したがる役者はいる、あの男、舞台だと本気出すからな」
神崎の顔には、明らかな動揺がにじんでいた。
ここは、一体、なんだ?
ただのネット募集のオーディションじゃなかったのか?
そんな疑問を抱えたまま、オーディションの時間が始まった。
審査員席には、二人の若者が座っていた。
一人は、落ち着いた雰囲気をまとった女性。
長い黒髪を無造作に結い、目は鋭く、どこか物書きの匂いを纏っている。
もう一人は、やや痩せ型の男性。
目元が涼しく、端正だが、どこか影がある。
水川と佐川。
(若いな、若すぎないか?)
カメラが設置されて別室で見ているのかと思った。
だが。
そんな気配もない。
二人の目だけは、冗談じゃないほど鋭かった。
数ページの台本、その中にある短いセリフ。
「相棒、待たせたな」
たったそれだけの一行。
だが、妙に引っかかった。
(ってことは、もう片方は決まってる?)
この台詞を受ける「誰か」が、すでに決まっていて、それに合わせるキャストを探している?
それとも演出のミスリードか?
そもそもこの脚本、どんなシーンなんだ。
分からない。不安だけが胸に広がる。
だが、台本を読み終えたあと、二郎はふと、気づいた。
審査員の顔。
その目の奥にある微細な変化。
それは落胆ではなかった。
この作品の原案は、彼女が数年前に書いた短編小説。
引退した刑事とその愛犬の、静かな余生を描いた物語。
そのモデルとなったのは、水川の亡き父と愛犬、龍た。
佐川は眼鏡の縁に指をかけ、そっと押し上げた。
その動作ひとつにも、心の揺れが滲んでいた。
この企画を、映像化したいと最初に言い出したのは自分だ。
映像クリエイターとして無名でも、この物語に出会ったとき、胸が熱くなった。
撮りたいと思った。
それほど、水川の描く物語には生が宿っていた。
龍はグレートデンだった。
その大きさと存在感、賢さ、忠誠心。
それらがそのまま、作中で描かれる“相棒”のイメージと重なっていた。
佐川は当然、実際の龍をモデルに撮ることを考えていた。
だが、龍は、死んだ、突然。
大型犬には多い、心疾患による突然死だ、いや、元知大型犬は短命だ。
ある朝、起きたらそのまま息をしていなかったという。
「父は、娘の私よりも。分かり合ってた」
ぽつりと水川が呟いた。
「俺の気持ちが分かるのはお前だけだ」
父は、いつも、龍にだけ話しかけてました。
水川の目は伏せられたままだった、佐川は感じていた。
彼女がこの作品を書いたのは、
亡き父と、亡き愛犬と、ようやく向き合うためだったのだと。
「グレートデンでは、無理じゃないですか」
佐川は、正直、その言葉の意味をちゃんと理解できていなかった。
単純に考えていた。
「演技指導が難しい」
「調達が困難」
そういう話だと思っていた。
けれど違った。
かけがえのない存在との再会であり、別れでもあった。 「それでも、映像にしたいんです」
佐川の声は静かだが、心の奥を削るような響きだった。
オーディションが終わり、二郎はビルの外へ出た。
午後の光が少し眩しかった。
深く息を吐いてみても、胸の重さは変わらない。
(……落ちたかもしれない)
そんな不安が、じわりと湧いてくる。
出し切った手応えはあった。けれど、あの場にいた役者たちの顔が浮かぶたびに、
自分の存在が霞んでいく気がした。
「二郎さん」
ミサキの声がした。
振り返って言葉を返そうとしたが、
一瞬、言葉が詰まった。
ミサキは全身黒尽くめだった。
黒のパーカーにジーンズ、黒のマスク。
だが、それ以上に二郎の視線を奪ったのは。
彼女の隣にいる犬だ。
巨大だった。
身体にピタリと合うフード付きのパーカーを着せられて、頭まですっぽり隠されている。
犬種が分からないが、ただの犬に見えなかった。**
「雪です。ショーコちゃんの犬なんです」
ミサキが説明した。
「近くに犬も入れるオープンカフェがあるんです」
ミサキがニッコリ笑った。
その笑顔に引っ張られるように、二郎はうなずいた。
カフェに入ると、店員が少し驚いた顔をした。
だが、ミサキがマスクを取って微笑みかけると、店員は一瞬で安心したようだった。
(美人だと、店員の対応まで違うな)
犬の大きさに驚いても、ミサキが美人だから安心感があるのだろう。
美人は得だと二郎は思った。
「オープン席がいいんですけど」
ミサキの言葉に、店員は即座に頷いた。
テラス席に落ち着くと、注文した珈琲が運ばれてくるまでの間、二郎はちらりと、雪を見た。
こんなに静かな犬っているか?
ゴールデン、シェパード、コリー。
テレビでは、どの犬も人懐っこくて愛嬌があって、飼い主にすり寄ってる。
ミサキがショーコちゃんと話し始めた。
「またバンで釣り三昧なんです。雪はお兄さんのとこで預かってるんですけど、腰がね」
「えっ?お兄さん、また怪我したんですか?」
驚いて聞き返すと、ミサキは苦笑して言った。
「街で子供にぶつかって、転けたんですって、足、ひねったみたいで」
ええっっ、二郎の口から思わず声が漏れた。
「楽観視していないか」
その一言が、思っていたよりも重く響いた。
佐川は言葉を失った。
ただ、気軽に相談したつもりだった。
犬好きの友人に、撮影で使うグレートデンのことを少し聞こうと思っただけ――。
けれど、相手の目は真剣だった。
軽口を許さない、現場を知る者の目。
「子供に優しいとか、穏やかとか、ネットの情報や本の言葉を、鵜呑みにしてないか?」
問い詰められたわけでもないのに、胸の奥を刺されたような気がした。
軽く笑って流そうとしたが、口が動かなかった。
「……慎重にはしてるつもりだ。」
自分でも頼りない言葉だとわかっていた。
友人は何も言わず、ただ深く息を吐いた。
彼は長年、保護犬活動を続けている。
数えきれないほどの犬を見てきた。
人に慣れる犬も、心を閉ざした犬も。
現実を知っている人だった。
「ちょっとしたことが、事故になるんだよ。」
静かな声だった。
だが、確実に心に落ちた。
「……事故?」
聞き返すと、友人の目が一瞬だけ鋭くなった。
「食事中に腸が捻れる。たったそれだけで、数時間で死ぬ。急に苦しみ出して、手の打ちようがないこともある。」
息が詰まった。
思ってもいなかった言葉だった。
事故という言葉が、これほど生々しく響くとは思わなかった。
佐川の頭の中に、撮影現場の光景がよぎった。
照明、カメラ、スタッフのざわめき。
その中に、静かに座る巨大な犬――。
だが、もうそれは“絵になる存在”ではなかった。
命、そのものの重さが、まるで別の輪郭を持って迫ってきた。
「そんなに、繊細なのか」
「身体は大きくてもな。」
佐川は黙り込んだ。
知らなかった。
いや、知ろうとしていなかった。
絵になる犬を探していたはずが、
今、その裏にある現実を突きつけられていた。
一つの命を預かる、その重さを、軽く考えていた自分に気づいた。
「難しいな」
呟きが、静かな部屋に落ちた。
友人は何も言わなかった。
ただ、佐川の目をまっすぐ見ていた。
「繊細すぎるんだよ。身体が大きい分だけな、素人にはわからないだろうけど。」
友人は静かにコーヒーを口に含み、そして言った。
「あと、個体差が激しい。人間で言えば、穏やかな奴もいれば、すぐキレる奴もいる。」
佐川は唇を噛んだ。
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