第10話 : 二人だけの秘密会議——神社が“心のシェルター”になる

 放課後の校舎は、昼間の喧噪が嘘みたいに静かだった。


 さっきまで満席だった教室の熱気は、

 誰かがスイッチを切ったみたいに冷めていく。


 窓の外では西日に焼かれた校庭がゆっくりと色を失い、

 風がフェンスを揺らす金属音だけが、遠くでかすかに響いていた。


 秀次ボディの千華――中身は秀次のままの「田辺秀次としての彼女」は、

 肩に鞄を引っかけて階段を降りながら、深く息を吐いた。


(今日は……マジで最悪だった……)


 影山信平の顔を正面から見たときの、あの“説明できない恐怖”。


 自分の意思じゃない。

 頭では「ただの優等生」だと分かっているのに、

 身体の奥だけが勝手に震えていた。


(千華……こんな感覚、ずっと抱えて生活してたのかよ……)


 手のひらにはまだ汗が残り、指先が少し冷たい。


 校門を抜け、神社へ向かう細い道に足を踏み出す。


 夕焼けは淡い紫に変わりつつあり、

 街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。


 やがて視界の先に、見慣れた鳥居が現れる。


 ――神社。


 入れ替わりが始まった“すべての出発点”であり、

 今の二人にとっては唯一、心の筋肉を脱力させられる場所。


 鳥居をくぐった瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。


 境内に足を踏み入れると、

 街のざわめきはまるで別世界の音みたいに遠ざかっていった。


 風が木々を揺らす音だけが、静かに耳を撫でる。


 参道の奥。古びたベンチに、先客がいた。


「……来たわね」


 振り返ったのは、秀次ボディの千華――中身は千華本人。


 一見いつも通りの落ち着いた顔。

 それでも瞳の奥には、目に見えない疲労の影が沈んでいる。


「悪い、ちょっと遅れた」


「いいわよ。……ここ、誰も来ないから」


 千華は周囲を一度見回し、安心したように息をつく。


 境内の空気は、放課後の教室よりもずっと柔らかい。


(……分かる。ここ、マジで息しやすい)


 秀次は何も言わず、彼女の隣に腰を下ろした。


 くっつくほど近くはない。

 でも、互いに「ここにいる」という気配だけは、妙に心地良い。


 しばらく、言葉のない時間が続く。


 けれど、その沈黙は重くない。

 “話してもいいし、黙っていてもいい”——そんな空気が、そこにはあった。


 やがて、先に口を開いたのは秀次だった。


「……影山のことさ」


 その名前を出した瞬間、千華の肩がわずかに揺れた。


「今日、マジでやばかったよな。

 あんな怯え方……初めて見た。……何か、あったのか?」


「……違う」


 即答だった。


 小さい声なのに、はっきりとした拒絶の色が混じっている。


「怖いからじゃない」


 少し間を置いてから、彼女は続ける。


「……話しても、どうにもならないから」


「どうにも、って?」


「説明したところで、あなたが何かできる話じゃないの」


 そう言ったときの千華の横顔は、

 夕闇の影に半分隠れていて、表情までは読めなかった。


 でも、そこに“無理やり引きずり出してはいけない何か”があるのは分かる。


 知らないほうがいいこと。

 知ってしまったら、きっと余計につらくなること。


「言わないのは、逃げてるからじゃないのよ」


 千華は、自分自身に言い聞かせるように言葉を探す。


「言葉にしたら……余計、苦しくなるの。

 だから、言わない。言いたくないの」


 秀次は、しばらく彼女の横顔を見つめてから、ゆっくり頷いた。


(これは……無理に聞いちゃだめだ)


「……そっか」


 短く息を吐き、静かに言う。


「じゃあ、聞かねぇよ。

 話したくなったときが来たら、そのとき話せばいい」


 千華が、驚いたように目を見開く。


「……あなたって、本当に変なところで優しいわね」


「変なところってなんだよ。

 誰だって、言いたくないことの一つや二つあるだろ」


「……ふっ」


 千華は、秀次ボディの顔で小さく笑った。


 今日一日、学校では見せられなかった柔らかい笑みだった。


「あなたのそういうところ……助かるわ」


 その言葉が、胸の奥にじんわりと熱を落としていく。




「……で、本題」


 と、千華が姿勢を正す。


「“相手の身体を守るための行動指針”、見直さなくちゃ」


「出た、管理職モード」


「うるさい」


 苦笑を交えつつも、真面目な空気に戻る。


 二人は並んで座ったまま、今日一日の出来事を一つずつ洗い出していく。


「まず……あんた。私の身体で驚きすぎ。

 いちいち声がデカいのよ。美少女が『ぎゃっ』とか言わないの」


「無理だって! 人間なんだから驚くときは驚くわ!」


「そこをどうにかしなさいって言ってるの」


「お前はお前でさ、俺の身体で静かすぎ。

 “空気”通り越して“透明人間”になってるんだぞ」


「そっちのほうが安全でしょ」


「限度ってもんがあるだろ!」


 言い合いながらも、

 その根底には「相手の人生を守りたい」という同じ気持ちがある。


 立ち振る舞い。

 友人関係への対応。

 連絡の返し方。

 家族の前での演技。


 失敗したところ、危なかったところ、

 今後もっと気をつけるべきところ。


 話し合えば話し合うほど、

 “自分のため”ではなく、“相手の人生のため”に必死になっている自分たちに気づく。


「……なんか、変な感じね」


「何が?」


「自分の人生より、あなたのほう先に考えてる自分がいるのよ。

 正直、そんなの初めて」


「……まぁ、同感」


 秀次も苦笑した。


「俺の身体、そんな大事にされるようなスペックじゃねぇのにな」


「うるさい。その身体、今は私の大事な“生活装置”なの」


「言い方!!」


 けれど、それが不思議と悪くなかった。


 *


「ここさ」


 ふと、秀次が空を見上げながら言う。


「ここだけ、なんか……息しやすいよな」


「……うん」


 千華も同じように、夜に溶けていく空を見上げた。


「家でも、学校でも、ずっとどこかで力入れてるけど……

 この神社だけは、全部ほどける」


 街の音は遠く、

 社の灯りだけがぽつりと二人を照らす。


 風の音と、二人の呼吸だけが重なっていた。


「ねぇ」


 少し間を置いてから、千華が口を開いた。


「今日……助けてくれて、ありがとう」


「え?」


「影山と会ったとき。

 あなたが前に出てくれなかったら、たぶん私、あそこで固まったままだった」


 真正面から向けられた感謝の言葉は、思った以上に破壊力があった。


 秀次は一瞬で顔を真っ赤にし、目を逸らす。


「い、いや……あれくらい普通だろ……

 てか、それ千華の顔で言うのやめろって。照れるから」


「ふふ。照れるのね」


「照れるわ!」


 けれど、照れながらも、胸の奥は妙に誇らしかった。


 “守ってやれた”という実感が、静かに積もっていく。


 しばらくして、二人はゆっくり立ち上がる。


「……また明日も、ここで情報交換ね」


「おう。何かあったらすぐ言えよ。

 千華の身体、俺がちゃんと守るから」


「……じゃあ、私もあなたの身体、ちゃんと守るわ」


「やめろ、その真顔で言うの。マジで照れるから!」


 境内に小さな笑い声が響く。


 鳥居をくぐり、ふたたび現実の夜道へ戻ると——

 学校や家とは違う“重さ”が、もう一度肩に乗ってくるのが分かる。


 それでも、今日は違った。


 もし辛くなったら、逃げ込める場所がある。

 何も隠さずに本音をぶつけられる相手がいる。


 そしてそこは——

 日常と恐怖から、二人が一緒に避難できる“心のシェルター”。


 この夜、神社は正式に

 二人だけの“秘密基地”として名前を刻まれたのだった。

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