第9話 : 影山信平との初邂逅と“説明できない恐怖”
放課後の校舎は、昼の喧噪が嘘みたいに静かになる。
どこかの教室で机を引きずる音がして、
日直が黒板を消す気配が遠くに滲んでいるだけだ。
秀次ボディの千華――中身は千華のままの“田辺秀次としての彼女”は、
鞄を片手に教室を出た。
(今日も……なんとか、バレずに過ごせた……)
自然に振る舞うこと。
注目されないように動くこと。
“男子としての雑な動き”をなるべくしないこと。
男子の身体で男子の日常を送る。
それだけのはずなのに、実際は地味にメンタルを削る高難度プレイだった。
(このあと千華ボディの秀次と合流して、神社……)
そう考えながら、廊下の角を曲がる。
――その瞬間、空気の温度が変わった。
ひやりと冷たい気配。
そこだけ二度ほど温度が下がったみたいな違和感。
その中心にいたのは――
影山信平。
整った顔。
乱れひとつない制服。
姿勢のいい立ち姿。
誰が見ても「優等生」と言うだろう、完璧なシルエット。
なのに、周囲だけ音が吸い込まれたみたいに静まり返っている。
(……やだ)
千華(秀次ボディ)の足が、勝手に止まった。
影山が顔を上げ、まっすぐこちらを見る。
その目は、笑っていない。
怒ってもいない。
ただ、整いすぎていて“人間味”が少し足りないように見えた。
「田辺」
「っ……」
名前を呼ばれた瞬間、胸がドクンと跳ねた。
肺が縮み、喉がひゅっと細くなる。
(なにこれ……怖い?
でも、私……影山とそんなに関わったことなんて――)
千華の記憶では、そうだ。
そして秀次の記憶でも、影山はただの“よくできた優等生”でしかない。
なのに。
“身体”のどこか深いところが、反射的に怯えている。
影山はゆっくりと歩み寄り、目を細めた。
「……千華を見なかったか?」
「――っ」
喉が、固まる。
声が、出ない。
(どうして……?
これ、私の感情じゃない……!
“黒川千華”の身体が覚えてる恐怖……?)
入れ替わりの副作用。
千華がこの身体で積み上げてきた“怖さ”の記憶が、今、秀次の心を締めつけている。
影山が一歩、距離を詰める。
「田辺? 具合でも悪いのか?」
一見すれば、ただの心配そうな優等生。
教師が見れば「模範的」と評価するであろう態度。
だが――
微笑む口元と、その上の“笑っていない目”のギャップが、異様に冷たかった。
(違う。この人……
外側だけ“優しさ”を完璧に貼ってる……)
その違和感が、恐怖をさらに上塗りしていく。
「千華はどこに行ったんだ。探しているんだよ」
“なぜ探しているのか”は、言わない。
焦っている様子もない。
ただ、妙に強い意志だけが言葉の奥で光っている。
千華(秀次ボディ)は、喉を震わせようとする。
けれど、
――音にならない。
(やだ……やだ……やだ……
足が震える……! 逃げたいのに動けない……!)
そのとき。
「――田辺! ここにいたのか」
背後から、よく知った声が響いた。
振り返ると――
千華の身体に入った秀次が、早足で近づいてくるところだった。
見た目は“黒川千華”。
でも、その立ち方も声の出し方も、完全に田辺秀次だ。
彼が千華(秀次ボディ)の前へ、すっと立ち位置を変える。
「影山。何か用か?」
さりげなく、でもはっきりとした「壁」になる。
それだけで、空気がわずかに変わった。
(……助かった……)
千華(秀次ボディ)の膝から力が抜けそうになる。
影山は視線をわずかに動かし、千華ボディの秀次を見た。
「黒川……お前、田辺と一緒に帰るのか?」
「たまたま見かけただけだって」
秀次(千華ボディ)は、平然とした調子で返す。
堂々としていて、影山に飲まれていない。
(すげぇ……
同じ身体なのに、なんでこんなに違うんだよ……)
影山は表情を変えないまま、ジッと二人を見つめる。
その視線が、皮膚の上を冷たい刃物でなぞられているような感覚を残す。
「……そうか」
「千華のことは知らない。
用があるなら、先生のとこ行った方がいいんじゃね?」
軽い調子を装いながらも、きっちり会話を切り上げる。
この場の主導権を奪い返すような言い方だった。
影山は、ほんの一瞬だけ目を細め――
「……そうだな」
くるりと背を向け、廊下の向こうへ歩き去った。
靴音が完全に消えるまで、
二人は息をすることすら忘れていた。
「……は、はぁっ、はぁ……っ」
影山の姿が見えなくなった途端、
千華(秀次ボディ)は壁にもたれかかり、その場に崩れ落ちそうになる。
胸を押さえ、荒く呼吸を繰り返す。
「おい、大丈夫か……!?」
「だ、大丈夫じゃない……っ」
秀次(千華ボディ)が慌てて肩を支える。
「なんだよ、あんなに怯えて……
影山に、何されたんだよ……?」
「…………」
千華は唇を噛み、視線を落とした。
影山の顔が頭にちらついた瞬間、
身体の奥底から湧き上がる“説明できない恐怖”。
それは――
秀次としての恐怖ではなく、
黒川千華として積み上げてきた“何か”だった。
「……言いたくない」
短い言葉。
けれど、その拒絶にははっきりとした強さがあった。
(無理に聞かないほうがいいやつだ……)
秀次(千華ボディ)は息を吐き、千華の肩を軽く叩く。
「……わかった。
言いたくなったときでいい。無理すんなよ」
その言葉に、千華の瞳がかすかに揺れた。
「……ありがと」
小さく絞り出された声は、少し震えていた。
階段裏の空気はひんやりとして、やけに静かだった。
さっきまでそこにいた影山信平の“圧”だけが、
まだどこかに残っている気がする。
この日を境に――
「影山信平」という名前は、
二人の入れ替わり生活の背景で、常に鳴り続ける不穏なノイズになる。
理由も、正体も、まだわからない。
けれど、あの目だけは、決して忘れられない。
その真相に辿り着くのは、
ずっと、ずっと先の話だ。
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