第1話-2-

 次の日、照が目を覚ましたのは見知らぬ個室だった。

 真っ暗な部屋の中。電気製品の低周波が耳につく。

 狭い部屋の外からは人の気配が絶え間なく動いている。


(どこだっけ?)


 手探りで周囲を探る。空き缶が音を立てて転がり、大きな音を立てた。

 壁を伝う手がどうにかスイッチを探り当て、ようやく照明がついた。


「あー、そっか」


 照はぼんやりと部屋の中を見回した。

 狭い個室の中は、寝転ぶためのソファーとPCモニターが置かれたテーブルだけ。

 その上にはチューハイの空き缶となんだかよくわからないスナックの袋が散乱している。

 ボサボサになった髪をぐしゃぐしゃとかきながら起き上がる。


「頭いったあ」


 慣れないお酒をむやみに飲んだことを思い出して、照は顔をしかめた。


 ……ぼんやりと昨夜のことを回想する。

 ベッドの上で絡み合う人影。

 恋人の驚いた顔。見知らぬ女性の後姿。

 その後に続く、おそらく弁解らしき言葉の羅列。

 なにを言っているのかはわからなかったが、とりあえず自分がこの場所にいてはいけない、ということだけは理解できた。

 その場で踵を返し、部屋を出て駅に戻り、適当に何駅か乗り継いでから目についたコンビニに入り、そういえば仕事帰りで疲れていたんだっけ、と近くにあったネットカフェに飛び込んだところまでで、記憶はあいまいになった。


「いやあたしの部屋じゃん?」


 照は自虐的に笑った。

 あの部屋は自分の部屋だ。彼氏の新井くんは自分の家よりも会社に近いという理由で転がり込んで来ただけだ。


「彼女の部屋に女連れ込むかフツー」


 ぶつぶつ言いながら起き上がる。

 どこか、まだ現実味がない。いつもの日常がどこか遠くに行ってしまった気がして、まるで自分に起きた出来事には思えなかった。


「どうすっかなあ」


 頭では、受け入れなければいけないことはわかっている。

 こんなこと、特別じゃない。誰にだって起こりうる出来事。

 あとは気持ちを整理して、現実を受け入れるだけのこと。

 寝転がったまま、ぼんやりとした頭で考える。

 スマホの画面には、出社時間をとっくに過ぎた時刻が表示されていた。


 それを見た時、もう全てがどうでもよくなった。

 なにもかもめんどくさい。……とはいえさすがに無断はマズいから、一応体調不良ってことで休みの連絡だけは入れとくか。

 でも明日出勤するのもめんどくさい。

 そうだ、今やめたら社長のバカ発言が不満で辞めたって思ってもらえるんじゃないか。

 そんなことを考えながら、照は静かに目を閉じた。


 結局、照は三日休んだ。

 経緯はわからないが、休み明けに出社した時、同僚たちからは異常なほどに気を使われ、 そのくせ詳しいことは誰も触れようとしなかった。

 上司に突然の欠勤を詫びたら、なぜかものすごく優しく心配され、余りまくっていた有給を使ったことにしておいてくれた。

 隣の席の同僚からどうにか聞き出したところ、どうやら恋人である新井の浮気が営業部内で広まっていて、それがうっすらと伝わってきていたとわかった。

 おまけに、その新井は三日前に突然退職していたこともわかった。


(なんなのそれ……)


 それを聞いた時、照はさすがに呆れた。


 あれから恋人の新井とはまったく連絡が取れなかった。

 というか、照からはなんの連絡も取る気になれず、向こうからもなんの音沙汰もなかった。

 連絡が来たところでどうするつもりもなかったが、だからって会社を辞めるとまでは思っていなかった。


 ただ、同時にホッとしてもいた。

 会社に来れば、嫌でも新井とは顔を合わせることになるからだ。

 ────どんな顔で会えばいいのか、なにを話せばいいのか。なにを言われるのか。

 それを考えるのも気にするのも、なにもかもめんどくさくて思考停止していたのだ。


(ま、これはこれで楽かな)


 余計なことで頭を使わなくて済む。悩まなくて済む。

 会社にいるんだから仕事だけしていればいい。


(そ。いつもどおり。いつもどおり)


 そうつぶやいて、照は自分のPCを起動した。



 夕方。

 仕事が終わったあと、照はいつものように自分のマンションの部屋に戻ってきた。

 少し緊張しながらドアを開け、中をのぞいたが、当然のように誰もいなかった。

 それどころか、新井が持ち込んだ衣服や雑貨、小物はすべてなくなっていた。


(そっか)


 すこしガランとした部屋を眺めながら、照は立ち尽くしていた。


(いなくなっちゃったんだ)


 当たり前に暮らして、当たり前に生きて。

 どこにでもあるような、誰にでもあるようなことを経験して。

 それ以上の、身の丈以上の幸せも、幸運も、望んじゃいなかった。

 そんな特別な出来事なんて起きるはずがないし、それが当然だと思っていた。

 ────だから、これくらい当たり前。

 誰にだって普通に起こりえる出来事だし、みんな普通に乗り越えて過ごして生きてきた。

 それが普通。

 そのはずだ。


 照は身じろぎもせず、ただじっと立っていた。

 短いような長いような時間が過ぎてから、小さくため息をついて、肩の力を抜く。


「普通に生きるのって」


 ゆっくりとしゃがみこむ。

 膝を抱えて、照はつぶやいた。


「案外難しいんだなあ」



 次の日、照は会社に退職を伝えるメールを送った。

 突然すぎるとか、引継ぎがどうとか、会社にかかる迷惑だとかは、もうどうでもいい。

 ────もうなにもかもがどうでもよかった。

 引継ぎを済ませたあとは、残っていた有給で半月ほど部屋に引きこもった。

 食事はコンビニご飯で適当に。

 ベッドは勢いで処分してしまったので、コタツで寝た。

 外に出るのは最低限、郵便物すら放置して、ダラダラと過ごした。

 幸いというか、結婚資金のつもりでためたお金がそれなりに残っていたため、しばらくは籠城できた。


 ────なるようになれ。

 どうせよくない出来事イベントしか起きやしないじゃないか。

 どれだけ真面目に生きていたって意味がない。


 何日か過ぎて、久しぶりにスマホを触ったときに、照は会社からのメールに気付いた。

 すっかり忘れていたが、今いる部屋は会社が用意したもの。メールの内容は、退職日までに退去しろ、というものだった。

 退出期限は月末。それまでに次の引っ越し先を決めなければならない。

 だというのに、次の仕事も決まっていない。

 無職のままでは、引っ越しもままならない。

 そんなときに、父から祖父が亡くなったと連絡がきたのだった。



「だったら、じいちゃんが住んでた家に引っ越せばいいんじゃないか?」


 照の近況を聞いた父は、そう言った。

 祖父と言っても、照は会ったことがない。照が生まれるずっと前に、祖母と離婚した、という話を聞いたことがある程度だ。

 祖母とは手紙でやり取りしていたらしいが、詳しいことは全く知らない。


「まあ、現物がどうなってるかわからないけど、少なくとも1月前までは祖父が暮らしていたわけだし。といっても、会ったこともない人が亡くなった場所っていうのは、少し気持ち悪いか?」


 そう言われて少し悩んだものの、背に腹は代えられない。

 それに次の仕事が見つかるまでの間、住めればいい。

 相続の手続きは父の方でやってくれるらしい。もし住めそうになければそのあと売却なりすればいい、ということになった。



「いやでもまさか神社とは思わないじゃんフツー?」


 参道を歩きながら照はつぶやく。

 ……ここに住めって言われても困るんだけど。

 鳥居も石畳も古そうに見えるが手入れはされている様子だった。

 祖父が一人で?それとも他にも誰か────


「おい」


 ふいに声をかけられ、照は振り向いた。

 まだ高校生くらいの少年だ。


「憑いてるまんま入ってくんな」

「は?」


 不機嫌そうに言いながら、少年は早足で近寄ってくる。照は思わず後ずさった。

 そして照の目の前まで来ると、おもむろにしゃがみ、地面に手をついた。


 次の瞬間。

 黒いケムリのようなものが、地面から凄い勢いで噴出した。


「え?は?」


 おもむろに、少年は手刀でケムリを切り分ける。

 ケムリは徐々に切り分けられ、だんだんと小さくなっていく。最後に、少年は真ん中に残った部分を両手でパチン、と挟み、ケムリはすっかり霧散して消えてしまった。


「なに……今の」


 照は思わずその場にへたり込んでしまった。

 なんだかよくわからないことが起きたのは間違いない。良くない方の出来事イベントが。

 そして驚く暇もないまま、それが目の前であっさり消滅してしまった。

 意味が、わからない。


「……え、今の、煙? いや、煙じゃない。なんか、もっと……生き物みたいに動いてた。なにこれ、ホラー映画の撮影現場?」

「なにか用?」


 混乱している照を無視して、埃でも払うように両手をパンパンと叩いてから、少年は言った。


「それとも今ので解決した?なら────」

「待って!」


 少年の言葉を遮って、照は慌てて言った。


「今のなに?なにしたの?」

「なにって……瘴気を祓った」

「は、祓う……?」


 今までのごく当たり前の照の日常生活で、悪霊とかお祓いなんていう単語に関わるような出来事イベントには、遭遇したことがない。

 照が驚いているのを見て、少年は不思議そうな顔をする。


「瘴気だ。アンタに憑いてたから祓った。……ウチが除霊神社だって、知ってて来たんじゃないの?」

「じょ、除霊?」

「うん。鳴子除霊神社」

「────鳴子?」


 その名字には、聞き覚えがあった。

 父から聞いていた祖父の名字だ。

 そうだ。ここに来た目的を思い出した。


「あの……鳴子鐵蔵という人を探しているんですが!いや、探してるっていうか……もう亡くなった人なんだけど」

「鳴子……鐵蔵?」


 少年の目が大きくなった。


「じっちゃんの知り合い?」

「じっちゃん?」


 随分と親しげな呼び方に、今度は照が驚いた。

 少年は少し気恥ずかしそうに言った。


「あ、その……すごく世話になった人だから」

「そうなんだ……」


 意外だった。

 会ったこともない祖父が、ここでちゃんと人と関わって生活していたと思うと、不思議な感じがした。

 ────自分の知らない人の人生が、ここにちゃんと存在していたんだ。


「で、あんたは、じっちゃんとどういう関係?」

「えっと……」


 改めて聞かれて、照は返答に少し迷った。

 関係で言うなら祖父だが、まるで実感がないからだ。

 とはいえ、他に説明のしようもないか、と照は思い、言った。


「私は、鳴子鐵蔵の孫……です」



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