第11話 カーストトップの憂鬱
放課後の裏門は校舎の長い影に覆われて薄暗かった。人気のない古い用具入れのそば。金網越しに夕日が差し込み、錆びついた鉄と乾いた土の匂いが混じり合う。 僕は重い足取りでそこに向かっていた。まるで処刑台へと続く階段を上る囚人のような気分だ。
「……はぁ」
何度目か分からないため息をつく。本来なら今頃、僕は誰にも気づかれずに帰宅し、録画しておいた深夜アニメを消化しているはずだった。それがなぜ学園のカーストトップに君臨するギャルに呼び出され、怪しい取引の場に立たされなければならないのか。
(帰りたい。切実に帰りたい)
だが、今の僕には逃走という選択肢はない。彼女――久我莉々(くが りり)は、僕の「秘密」の一端(高級な整髪料の匂い)に感づいている。ここでバックレれば彼女はクラス中に「ニシナって実は……」と言いふらすかもしれない。あるいはもっと直接的な手段で僕の平穏を脅かしに来るだろう。
角を曲がると彼女はそこにいた。制服のスカートを短くし、ルーズソックスを履いた足で地面をコツコツと蹴っている。ミルクティー色のボブヘアが夕日に透けて、黄金色に輝いていた。普段、教室で見せる彼女は太陽のように明るく賑やかだ。だが、今の彼女は違った。背中を丸め、スマホの画面を睨みつけ、まるで迷子になった子供のように小さく見えた。
「……来たんだ」
僕の足音に気づき、彼女が顔を上げる。その表情を見て、僕は息を呑んだ。いつもの強気な笑顔はどこにもない。瞳は不安に揺れ、濃いアイメイクの下には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「呼び出したのはそっちだろ……。で、話って?」
僕は極力「陰キャ」のトーンを崩さないようにおどおどと尋ねた。彼女はスマホをポケットにしまうと、腕を組んで僕を値踏みするように見つめた。
「単刀直入に言うね。……あたしの彼氏になって」
「…………はい?」
分かっていたことだが改めて本人から聞くと脳が処理落ちする。僕は眼鏡の位置を直し、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「え、えっとぉ……久我さん?罰ゲームか何かですかぁ?ボクみたいなのと付き合っても、何のメリットも……」
「シラ切んないでよ」
彼女は低い声で遮った。一歩、距離を詰めてくる。ココナッツの甘い香りが強くなる。
「昨日の廊下で、見たでしょ?あたしのスマホ」
「……」
「あいつからのメッセージ。『今どこ』『誰といる』『逃げても無駄だ』……全部、見たよね?」
彼女の瞳が、僕を射抜く。誤魔化せない。彼女は確信している。僕があの画面を見たことを。そして、その時の僕の反応――ただ怯えるだけでなく、状況を冷静に分析するような一瞬の視線――を見逃さなかったのだ。
「……見たとして、それがどうしてボクに繋がるんだい?」
僕は演技のボリュームを少し下げ、静かに問い返した。彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに唇を噛み締めて語り始めた。
「あいつ……剛田。あたしの元カレなんだけど」
剛田。その名前を聞いた瞬間、僕の中のデータベースが検索結果を弾き出した。 剛田武人(ごうだ たけと)。隣町の不良高校に通う札付きのワルだ。喧嘩っ早く、独占欲が強いことで有名だ。以前、他校の生徒を病院送りにしたという噂も聞いたことがある。
「別れたの。もう三ヶ月も前に。あいつ、束縛ひどいし、機嫌悪いとすぐにモノに当たるし……ついていけなくなって」
莉々は自分の二の腕を抱くようにさすった。そこには見えない痣があるかのように。
「でも、あいつ納得してなくて。『莉々は俺のモノだ』とか言って、最近またつきまとい始めて……。昨日は家の前まで来たの」
「警察には?」
「言ったよ!でも『パトロール強化しますねー』で終わり。実害がないと動けないって。……実害が出てからじゃ遅いのに」
彼女は悔しそうに爪を噛んだ。よくある話だ。ストーカー規制法はあれど、警察が24時間守ってくれるわけではない。特に高校生同士のトラブルとなると、単なる痴話喧嘩として処理されることも多い。
「だから、必要なの。『新しい彼氏』が」
彼女は顔を上げ、強い眼差しで僕を見た。
「あいつはプライドが高いから、あたしに新しい男ができたら諦める……かもしれない。少なくとも、『もうお前のモノじゃない』って見せつけなきゃ終わらないの」
「なるほど。理屈は分かる」
僕は頷いた。新しい彼氏を作って撃退する。古典的だが効果的な手段の一つだ。相手のプライドをへし折り、「自分よりいい男を選んだ」という事実を突きつける。
「でも、だったら尚更ボクじゃ役不足だろ」
僕は両手を広げて、自分の冴えない格好を示した。よれよれのシャツ、猫背、ボサボサ頭。
「相手はあの剛田だぞ?ボクみたいなのを連れて行っても逆効果だ。『こんなゴミ拾うために俺を捨てたのか』って逆上されるのがオチだ。頼むなら、サッカー部の王司とか、もっと強そうでイケてる奴にするべきだ」
「レオじゃダメなの」
莉々は即答した。
「あいつは確かに顔はいいけど中身はヘタレだもん。剛田が来たら真っ先に逃げるよ。それに……学校の男子はみんな剛田の名前出しただけでビビって逃げちゃうし」
彼女は自嘲気味に笑った。カーストトップの彼女だが、その地位は脆い。周囲にいるのは取り巻きばかりで、本当の危機に身体を張ってくれる味方はいないということか。
「……じゃあ、なんでボクなんだ?」
「匂い」
「え?」
「あんたからする匂い。……あれ、ただの姉貴の趣味じゃないでしょ」
彼女は一歩踏み出し、僕の胸元に顔を近づけた。至近距離で見上げる彼女の瞳は、野生の勘とでも言うべき鋭さを帯びていた。
「あたし、鼻だけはいいんだ。あのヘアオイル、すっごく高いやつだよね?それに、あんたの雰囲気。……教室じゃ死んだ魚みたいな目をしてるけど、昨日の図書室の時も、今も……たまに『男の目』になる」
ドキリとした。バレている。完全に正体を見抜かれているわけではないが、「仁科悠はただの陰キャではない」という確信を持たれている。彼女のようなギャルは理屈ではなく感覚(センス)で生きている。その動物的な直感は、時にどんな論理的思考よりも真実を突く。
「お願い、ニシナくん」
彼女は僕のシャツの袖を掴んだ。その指先が小刻みに震えているのが伝わってくる。強気な態度は仮面だ。本当の彼女は、暴力の影に怯え、助けを求める一人の少女でしかない。
「あんたなら、なんとかしてくれる気がするの。……お金なら払う。アプリの相場通りに。だから……」
彼女の手が、震えながらポケットからスマホを取り出す。画面には『Secret Connect』の依頼ページ。
『依頼内容:元カレ撃退デート』
『報酬:言い値で』
僕は大きく息を吐き出した。断ることはできる。「無理です」「怖いです」と泣き真似をして逃げればいい。そうすれば彼女も諦めて他のカモを探すだろう。だが――そうした場合、彼女はどうなる?剛田という暴力装置の前に、無防備に晒されることになる。最悪の場合、取り返しのつかない事態になるかもしれない。
それに……。彼女の瞳。怯えながらも、必死に前を向こうとするその強さは、昨日の天童かれんとも重なって見えた。
(……姉さんの教えが、呪いみたいに効いてるな)
『女の子の涙を見過ごす男は、男以前に人として三流だよ』
脳内で再生される姉の声に、僕は観念したように肩をすくめた。
「……はぁ。分かったよ」
「え……?」
「引き受けるよ、その依頼」
僕が答えると、莉々の顔がパッと明るくなった。
「ま、マジで!?やってくれるの!?」
「ただし、条件がある」
僕は人差し指を立てて、ビシッと言い放った。ここからはビジネスだ。陰キャの演技は捨てないが、交渉の主導権はこちらが握る。
「一つ。学校では今まで通り、ただのクラスメイトとして接すること。話しかけるのも必要最低限だ」
「う、うん。分かった」
「二つ。僕の指示には絶対に従うこと。勝手な行動はしない」
「了解!あたし、言うことは聞くタイプだし!」
「そして三つ目。……これが一番重要だ」
僕は少し声を潜めた。
「デートの時、君が知っている『仁科悠』はそこにはいない。……どんな姿を見ても、笑わないこと」
「へ?どういうこと?」
彼女が首を傾げる。僕はニヤリと口角を上げた。
「君のオーダーは『剛田を諦めさせるような、強くて新しい彼氏』だろ?だったら、今のままじゃ話にならない」
僕は自分のよれよれのシャツを摘んだ。
「相手は不良だ。半端な優等生コーデや、スーツ姿じゃナメられる。……毒には毒を、悪には悪を。相手の土俵に立った上で、格の違いを見せつける必要がある」
「そ、それって……」
「任せておけ。君の彼氏になる男だ。……世界一カッコよく仕上げてくる」
僕の言葉に、莉々はポカンと口を開けた。普段の「ニシナくん」からは想像もつかない、自信に満ちた言葉。だが、次の瞬間、彼女は嬉しそうに、悪戯っぽく笑った。
「……ふふ。やっぱり、あたしの目に狂いはなかったかも」
「どうかな。後悔しても知らないよ」
「しないよ。……ありがと、ニシナくん」
彼女は最後に、もう一度だけギュッと僕の腕を掴んだ。その体温が、契約成立の証印のように熱く残った。
「じゃあ、決行は今度の日曜。場所は繁華街のセンター街前で」
「了解!楽しみにしてる!」
莉々は軽い足取りで、夕闇の中に消えていった。その後ろ姿を見送りながら、僕は再び深いため息をついた。
(……やっちまった)
勢いで引き受けてしまったが、これは天童かれんの時よりも数倍リスキーだ。相手は話が通じるか怪しい暴力男。しかも、クライアントは勘の鋭いギャル。さらに言えば、僕は今、生徒会からも目をつけられている真っ最中だ。
「……姉さんに電話しなきゃ」
今度の変身(メタモルフォーゼ)は、前回のような「正統派王子様」ではない。もっと攻撃的で、もっと鋭利な……「ストリートのカリスマ」を作り上げる必要がある。
僕はスマホを取り出し、姉の発信ボタンを押した。コール音を聞きながら、夜の空を見上げる。星は見えない。あるのは、街の灯りと、これから始まる波乱の予感だけだった。
「もしもし、姉さん? ……ああ、また『仕事』だ。今度は……ちょっとヤンチャな服を用意してくれ」
電話の向こうで、「あら、面白そうじゃん」と笑う姉の声が聞こえた。賽は投げられた。S級レンタル彼氏・仁科悠、第二のミッション。ターゲットは、狂犬のような元カレ。武器は、最強のファッションと、少しの暴力(護身術)。
僕の平穏な週末が、またしても犠牲になろうとしていた。
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