第9話 疑惑の眼差し
心臓が、早鐘を打っていた。教室の自席。机に手をついて覗き込んでくる、ミルクティー色のボブヘアの少女。クラスカーストの頂点に君臨するギャル、久我莉々(くが りり)。彼女の顔が、近い。長いまつ毛、派手なアイシャドウ、そして甘いココナッツのような香水と、微かに混じるタバコの匂い(校則違反だぞ)。
「……あんたさぁ」
彼女はもう一度、鼻をクンと鳴らした。狩りをする猫のような、鋭くもしなやかな動作だ。
「『いい匂い』、するね?」
その一言で、僕の思考回路は警報を鳴らしまくった。まずい。昨日、姉さんにセットされた時に使ったヘアオイルだ。シャワーで二回洗ったが、髪の芯に残っていたらしい。それはドラッグストアで売っているような安物ではない。姉さんが撮影現場で使う、一本一万円は下らないプロ仕様の代物だ。ファッションやコスメに敏感な莉々のようなギャルなら、その「格の違い」に気づいてもおかしくない。
(言い訳だ!今すぐ言い訳を用意しろ!)
脳内会議が0.1秒で結論を出す。僕は顔を引きつらせ、眼鏡の位置を直し、喉を震わせて「ニシナ声」を出した。
「あ、あ……あね……」
「あね?」
「あ、姉のヤツですぅ……!姉は美容師で……ボ、ボクを練習台にするのが趣味で……今朝も無理やり整髪料をつけられて……!」
ド定番の「姉の練習台」作戦。これなら、陰キャの僕から高級な匂いがしても、「姉の趣味」として処理できる。「虐げられている弟」というストーリーの方が、僕のキャラにも合っているはずだ。
しかし――莉々の反応は、僕の予想とは違っていた。
「…………へぇ」
彼女は笑わなかった。キョトンとするでもなく、ただ静かに、僕の瞳を覗き込んできたのだ。その瞳は、まるで嘘発見器のように冷たく、そして熱っぽく僕をスキャンしている。
「美容師のお姉さん、か」
「は、はいぃ……。迷惑な話ですよねぇ……」
「……ふーん」
彼女は意味深に呟くと、僕の耳元に顔を寄せた。吐息がかかる距離。
「ま、そういうことにしておいてあげる」
「え……?」
「でもさ。アタシ、その匂い……好きかも」
ゾクリ、と背筋が震えた。彼女は一瞬だけ、寂しげな、何かにすがるような目を僕に向け――すぐにいつもの派手な笑顔(営業スマイル)に戻った。
「ありがとね、ニシナくん。」
彼女は僕の肩をポンと叩くと、ヒラヒラと手を振って自分の席へ戻っていった。周囲の男子たちが「おい、莉々ちゃんと何話してたんだよ?」と騒いでいるが、僕にはそんな声は届かなかった。
(……バレたか?)
いや、確証までは持たれていないはずだ。だが、今の「そういうことにしておいてあげる」という言葉。あれは明らかに、僕の嘘を見抜いた上での保留宣言だ。
(……勘弁してくれ)
僕は机に突っ伏した。なんとかその場は凌いだが、目をつけられたことには変わりない。久我莉々は、見た目は軽そうだが、勘の鋭さは野性動物並みだ。これ以上、彼女の半径二メートル以内には近づかない方がいい。
だが、一難去ってまた一難。僕にはまだ、クリアしなければならないミッションが残っている。――生徒会副会長、真壁梓による「事情聴取」だ。
♢
昼休み。僕は購買部のパン争奪戦(という名のモブによるおこぼれ回収)を早々に諦め、逃げ込むように図書室へ向かった。ここなら静かだし、生徒会の監視の目も届きにくい――
「お待ちしていましたよ、仁科悠」
考えが甘かった。図書室の入り口、その影に、腕を組んで仁王立ちする銀縁眼鏡の姿があった。真壁梓。まるで獲物を待ち構える蜘蛛のように、彼女は冷ややかな瞳で僕を見下ろしていた。
「ひぃっ!?ふ、副会長……!?」
「静かに。ここは図書室です」
彼女は人差し指を口元に当てると、顎で「来い」と合図した。連行されたのは、書架の奥にある閲覧スペースの死角。周囲に人はいない。完全に尋問モードだ。
「さて、単刀直入に聞きます」
梓はバインダーを開き、事務的な口調で切り出した。
「今朝の、会長のあの態度は何ですか?」
「あ、あの……ボ、ボクにも分かりません……。いきなり髪を触ろうとされて……怖かったですぅ……」
「嘘をつかないでください」
ピシャリと言い放たれた。彼女の眼鏡がキラリと光る。
「会長は、男性に対して鉄壁のガードを持っています。業務以外で特定の異性にあそこまで心を許すなど、幼馴染の私ですら見たことがありません」
鋭い。彼女はかれんの性格を熟知しているからこそ、今の状況の異常さを正確に把握している。
「昨日の日曜日、あなたは何をしていましたか?」
来た。アリバイ確認だ。僕は昨日の今日で、この質問が来ることを予測していた。 だから、答えは用意してある。
「えっと……昨日は一日中、家にいました……」
「証拠は?」
「ずっとゲームしてました……。『ファンタジー・クロニクル』のレイドボス戦があったので、十八時間くらいぶっ通しで……」
僕は早口で、かつ少し興奮気味にまくし立てた。オタク特有の「自分の好きな話になると早口になる」ムーブだ。
「ギルドのメンバーが役に立たなくてぇ、ボクがヒーラーとタンクを兼任してたんですよぉ!ログもあります!見ますか!?ほら、ここ!スクショ撮ったんですけど!」
僕はスマホを取り出し、昨日(深夜に慌ててプレイして作った)のゲーム画面を彼女の顔の前に突き出した。
「……結構です。近すぎます」
梓は露骨に嫌な顔をして、半歩下がった。作戦成功だ。彼女のような潔癖で真面目なタイプは、オタクの熱量と不潔感(演技)を嫌う。生理的な嫌悪感を煽ることで、追求の手を緩めさせる。
「一日中ゲーム、ですか。生産性のない時間の使い方ですね」
「そ、それがボクの生き甲斐なんで……」
「はぁ……。まあいいでしょう。あなたのその様子を見る限り、会長が興味を持つような要素は皆無ですしね」
彼女は僕を頭のてっぺんから足の先までジロジロと眺め、呆れたように鼻を鳴らした。「無害認定」のフラグが立ったか?そう思った瞬間だった。
ヒュッ。
梓が持っていたボールペンが、僕の目の前に落ちた。手から滑り落ちたのではない。明らかに、僕の反応を見るために「わざと」落とした軌道だ。
反射神経。僕の身体能力(S級)なら、空中で掴むことなど造作もない。脳からの指令が右手に伝わり、筋肉が収縮しようとする。だが――僕はそれを、意志の力で無理やりねじ伏せた。
(掴むな!落とせ!)
僕はあえてワンテンポ遅らせ、不格好に手をバタつかせた。
「あ、あわわっ!?」
カラン、コロン。
ボールペンは無情にも床に落ち、乾いた音を立てて転がった。僕は大げさに体勢を崩し、膝をついてそれを拾い上げた。
「す、すいません……ボク、運動神経悪くて……ど、どうぞ……」
「…………」
梓は僕からペンを受け取ると、探るような目で僕を凝視した。その瞳の奥には、まだ疑念の残り火が燻っている。もし今のをスタイリッシュにキャッチしていたら、
「やはりただの陰キャではない」と確信されていただろう。危ないところだった。
「……ありがとう。どうやら、私の考えすぎだったようですね」
梓は小さく息を吐き、バインダーを閉じた。ようやく警戒レベルを下げてくれたようだ。
「ですが、勘違いしないでくださいね。会長はあなたのような人間が気安く近づいていい方ではありません。今後、不審な挙動があれば生徒会則に則り厳正に対処します」
「は、はいぃ!肝に銘じますぅ!」
僕は何度もお辞儀をした。彼女は冷たく一瞥をくれると、踵を返して図書室を出て行った。その背中が見えなくなった瞬間、僕は書架にもたれかかり、ズルズルと座り込んだ。
「……はぁ。寿命が縮んだ」
冷や汗で背中のシャツが張り付いている。西園寺との舌戦よりも、よほど神経を削られた気がする。あんな鋭い監視者が近くにいるなんて、かれんとの接触はますますリスキーだ。
(もう金輪際、依頼は受けない。絶対だ)
僕は固く心に誓い、震える手でスマホを取り出した。時間潰しのためにニュースサイトでも見ようとして――通知欄に表示されたアイコンを見て、硬直した。
アプリ『Secret Connect』からの通知。
『評価が届きました』。
『メッセージが届きました』。
……嫌な予感がする。恐る恐るアプリを開くと、画面いっぱいに星5つのエフェクトが飛び散った。
『ユーザー:Karen_T』
『評価:★★★★★』
『コメント:昨日は本当にありがとうございました。最初は不安でしたが、あなたの優しさと頼もしさに救われました。あの時の言葉、一生忘れません。また……会えますか?会いたいです』
重い。文面から漂う湿度が、物理的に画面を曇らせそうなほど重い。そして極めつけは、その下に追加されたメッセージだ。
『追伸:今日の学校での髪型、ワイルドで素敵でした。服装検査だなんて言ってごめんなさい。つい、話しかけたくなってしまって……。今度、おすすめのヘアオイル教えてください』
「…………」
僕はそっとスマホの画面を閉じた。見なかったことにしよう。これは幻覚だ。「ワイルドで素敵」?ボサボサの寝癖頭が?恋は盲目と言うが彼女のフィルターは高性能すぎて現実を歪曲している。
(……詰んだかもしれない)
副会長の監視、ギャルの嗅覚、そして会長の暴走する恋心。僕の平和な学園生活は、すでに崩壊の序曲を奏でている。
重い足取りで図書室を出ようとした時だった。廊下の向こうから見覚えのあるミルクティー色の髪が歩いてくるのが見えた。久我莉々だ。だが、今朝のような元気な様子はない。彼女はスマホの画面を睨みつけ、深刻そうな表情で爪を噛んでいる。
「……また?しつこいんだけど……」
すれ違いざま、彼女の呟きが耳に入った。スマホの画面には大量のメッセージ通知が並んでいるのが一瞬だけ見えた。
『今どこ?』『誰といる?』『俺は見てるぞ』
そんな、背筋が凍るような羅列。
(……ストーカーか?)
僕は見て見ぬ振りをして通り過ぎた。関係ない。関わってはいけない。僕には自分の身を守るだけで精一杯だ。他人の恋愛トラブルに首を突っ込む余裕なんてない。
そう自分に言い聞かせて、僕は歩調を早めた。だが、すれ違った瞬間に漂った、彼女のココナッツの香りが、微かに震えていたような気がして――妙な胸騒ぎが消えなかった。
――僕はこの時、まだ知らなかった。この胸騒ぎが、次の「S級依頼」への導火線になっていることを。そして、その導火線に火をつけるのが、他ならぬ彼女自身であることを。
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