第6話 論理による完全論破
ラウンジの空気が張り詰めた弦のように震えていた。周囲の客たちは、すでに食事の手を止め、この異様な「決闘」の行方を固唾を呑んで見守っている。西園寺誠也は、自身のブランド物のスーツの襟を正し、侮蔑と優越感が入り混じった笑みを僕に向けた。
「いいだろう。学生風情が『論理』で俺に勝とうなどと片腹痛い。社会の厳しさも知らぬガキに、経営者としての視座の違いを教えてやる」
彼は尊大な態度で、テーブルに肘をついた。
「そもそもだ。今回の結婚は天童家に対する『救済』だと言ったはずだ。経営難に陥った企業を大資本が吸収合併(M&A)して救う。これは経済合理性に基づいた正義だ。お前の言う『愛』だの『意志』だのは利益を生まない感情論に過ぎない」
西園寺は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。なるほど、ビジネスの土俵で戦うつもりか。僕は静かに頷き、あくまで冷静に口を開いた。
「M&A、ですか。悪くない例えです」
「ほう?理解できるか?」
「ええ。ですが、あなたのプランには致命的な欠陥がある。M&Aにおいて最も重要なのは、買収後の統合プロセス――PMI(Post Merger Integration)です」
僕が専門用語を口にすると、西園寺の眉がピクリと動いた。
「企業文化や社員のモチベーションを無視した敵対的買収が、いかに高い確率で失敗するかご存知でしょう?あなたは今、天童かれんという『最大の資産(ヒューマン・キャピタル)』の意志を無視し、強引に支配下に置こうとしている」
「それがどうした。経営権を握れば社員は従うしかないんだよ」
「いいえ。モチベーションを失った人材は輝きを失い、やがて組織を内側から腐らせる。あなたは『飾り人形』が欲しいと言いましたが、魂の抜けた人形に何の価値があるのです?それは投資ではなく単なる浪費(コスト)だ」
僕は畳み掛ける。
「つまり、あなたの行動は経済合理性すら欠いている。あなたは『救済』という美名の下で、自身のサディスティックな支配欲を満たしたいだけだ。それを『ビジネス』と呼ぶのは、世界中の経営者に対する冒涜ですよ」
「ぐ……っ!」
西園寺が言葉に詰まる。ビジネス論で殴り返されるとは思っていなかったのだろう。だが、彼はすぐに気を取り直し、さらに声を荒らげた。
「へ、屁理屈を!結果がすべてだ!俺には金がある!権力がある!この世の99%の人間は、金を持っている人間に頭を下げるんだよ!お前のような持たざる者が何を吠えようと、俺が黒と言えば黒になる、それが『勝者の理屈』だ!」
彼は顔を真っ赤にして自身の絶対性を主張した。典型的な権威主義。中身のない人間ほど、外側の鎧(金・地位)の厚さを誇りたがる。
「……哀れですね」
僕はため息混じりに呟いた。
「な、なんだと……?」
「あなたは先ほどから、『俺には金がある』『家柄がある』としか言っていない。では聞きますが、その鎧をすべて剥ぎ取った時、あなたという人間に一体何が残るのですか?」
僕は西園寺の目を真っ直ぐに見据えた。眼鏡のない、冷徹な捕食者の瞳で。
「あなた自身の知性、ユーモア、優しさ、品性……そういった『人的資産』が空っぽだ。だからあなたは他者を金で殴ることでしか自尊心を保てない。それは『勝者』の姿ではない。自分の無価値さに怯える『敗者』の虚勢だ」
「き、貴様ァァ……ッ!!」
図星を突かれた西園寺が、獣のような声を上げて立ち上がった。握りしめた拳が震えている。論理で勝てないと悟り、暴力に訴えようとしているのだ。隣でかれんが「ひっ」と息を呑む。僕は動じない。むしろ、待っていた。
「殴りますか?」
僕は冷ややかに言い放った。
「どうぞ。ですが、その拳を振り下ろした瞬間、あなたの敗北は確定する。議論(ディベート)において暴力に訴えるのは、『私にはもう反論する知能がありません』と白旗を上げるのと同じですからね」
「~~ッ!!」
西園寺の動きが止まる。振り上げた拳が行き場をなくして空中で震えている。殴れば負け。殴らなければ気が済まない。そのジレンマに彼のプライドはずたずたに引き裂かれていく。
そこへ、トドメの一撃を入れる。
「それに……あなたは勘違いをしている」
僕はゆっくりと席を立ち、かれんの肩に手を置いた。
「天童家は確かに今は苦しいかもしれない。ですが、彼女を見てください」
僕に促され、西園寺の視線がかれんに向く。彼女は恐怖に震えながらも、僕に守られることで勇気を得たのか、西園寺を気丈に見返していた。その瞳には、かつての「諦め」の色はない。
「彼女には、気高さがある。逆境でも折れない芯の強さがある。そして何より、自分のためではなく家族のために泥を被ろうとした優しさがある」
僕は言葉に力を込めた。
「これこそが金では買えない『本物のブランド』だ。あなたのような親の七光りで威張り散らすだけの成金(ニューマネー)には、逆立ちしたって手に入らない輝きですよ」
「な……な……」
西園寺はパクパクと口を開閉させた。反論できないのだ。彼自身、心のどこかでコンプレックスを抱いていたのだろう。歴史ある天童家の血筋と、金だけの自分。その劣等感を埋めるための婚約だったことを、僕に見透かされたのだから。
「しょ、承知した……」
長い沈黙の後、西園寺は掠れた声で唸った。顔色は土気色になり、額には脂汗が滲んでいる。
「今日のところは……引いてやる。だが、覚えておけ。西園寺家を敵に回したことを……必ず後悔させてやるからな!」
捨て台詞。それは敗走者のファンファーレだ。西園寺は乱暴にジャケットをひったくると、逃げるようにラウンジの出口へと歩き出した。その背中は、来た時よりも一回りも二回りも小さく見えた。
周囲の客席から、パチパチ……と控えめな拍手が起こる。最初は数人だったものが、やがてラウンジ全体に広がり、ささやかな賞賛の雨となった。僕は彼らに向かって、大げさにならない程度に軽く会釈をした。
「……行ったね」
僕は大きく息を吐き出し、張り詰めていた空気を解いた。そして、隣で呆然としているかれんに向き直った。
「かれん。大丈夫?」
「え……あ、はい……」
彼女は夢を見ているような顔で、僕を見つめていた。その瞳が潤み、頬が林檎のように赤く染まっていく。
「悠くん……本当に、すごいです……」
「そうかな?ちょっと言いすぎたかも。姉さんに知られたら『客商売失格』って怒られそうだ」
僕は苦笑して肩をすくめた。今の僕は、冷徹な論客モードから、優しい彼氏モードへとスイッチを切り替えている。
「いいえ、そんなことありません。私……あんなに胸がすくような思いをしたの、初めてです」
彼女は興奮気味に身を乗り出した。
「あの西園寺さんが、一言も言い返せなくなって……すごかった。本当に、魔法使いみたい……」
「魔法じゃないよ。ただのハッタリさ」
「ハッタリだなんて思いません。全部……私の胸に届きましたから」
彼女は胸に手を当て、熱っぽい瞳で僕を見つめた。……まずい。その目は、「感謝」の域を超えている。吊り橋効果とカタルシスの解放。そして僕の「完璧な彼氏演技」。これらが化学反応を起こして、彼女の中で何かが芽生えてしまったようだ。
「……私、悠くんのこと、誤解していました」
「誤解?」
「はい。最初は『地味で安全な人』だと思っていました。でも……違いました。あなたは、誰よりも頼りになって、誰よりもカッコいい……」
彼女の手が、テーブルの上にある僕の手に、そっと触れる。今度は、震えていない。確かな熱を持った、能動的な接触。
「ありがとう、悠くん。私……今日のことは、一生忘れません」
彼女の笑顔。それは『氷の女王』というあだ名が嘘のように、春の陽射しのように温かく、そして可憐な笑顔だった。心臓が、トクンと跳ねる。演技をしているはずの僕自身が、一瞬だけ言葉を失うほどの破壊力。
(……おいおい。これは計算外だぞ)
僕は内心で冷や汗をかいた。ミッションは成功した。婚約者は撃退した。だが、その代償として――僕はもっと厄介なものを呼び覚ましてしまったのかもしれない。
「さあ、行こうか。今日はまだデートの途中だろ?」
「……はい!行きましょう、悠くん」
彼女は弾むような声で答え、僕の腕にぎゅっとしがみついてきた。その距離感が、来る時よりも明らかに近くなっている。
僕たちは拍手に送られながら、ラウンジを後にした。背中に感じる視線と、腕に感じる柔らかい感触。僕は天井を見上げ、心の中で冴島を呪った。
――これ、絶対に後で面倒なことになるやつだ。
しかし、今はまだ、この勝利の余韻に浸らせてほしい。隣で笑う彼女の横顔を守れたことへの、ささやかな誇りと共に。
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