第3話 日曜日の変身(メタモルフォーゼ)

 日曜日。世間一般の高校生にとっては、部活に汗を流したり、友人と遊びに行ったり、あるいは家で惰眠を貪ったりする至福の時間だ。だが、今の僕にとっては「処刑台へのカウントダウン」でしかない。


「……はぁ」


 洗面台の鏡の前で、僕は重いため息をついた。時刻は午前十時。約束の時間は十三時だが準備には時間がかかる。ただ服を着替えて髪をとかすだけなら五分で終わるが、僕が行おうとしているのは「偽装工作」レベルの変身だ。


「アンタ、また朝から辛気臭い顔してんねぇ。せっかくのイケメンが台無しだよ?」


 背後からあくび混じりの気怠げな声が飛んできた。振り返ると、そこにはジャージ姿で缶ビール(朝だぞ?)を片手に持った女性が立っていた。仁科麻耶(にしな まや)。僕の六つ上の姉であり、この家の家計を支える大黒柱だ。ボサボサの髪に、すっぴん顔。だらしない格好で冷蔵庫を漁るその姿からは想像もつかないが、彼女は業界でも名の知れたプロのヘアメイクアップアーティストである。


「姉さん、朝から酒飲むなっていつも言ってるだろ」


「いーの。昨日は深夜まで撮影だったんだから。……で?今日はデートなんでしょ? 『仕事』の」


 姉さんはニヤリと口角を上げた。僕が「レンタル彼氏」をやっていることは、家族の中で姉さんだけが知っている。というか、僕にそのノウハウを叩き込んだ張本人が彼女だ。彼女にとって僕は、可愛い弟であると同時に、自分のメイク技術やコーディネートを試すための「着せ替え人形」でもあった。


「ああ。クライアントは生徒会長だ」


「へぇ!そりゃまた大物が釣れたねぇ」


「釣ったんじゃない、釣られたんだ。……で、頼んでおいた服は?」


 僕が尋ねると姉さんはリビングのソファに無造作に置かれた紙袋を指差した。  高級ブランドのロゴが入った袋が三つ。中身を見る前から値段を想像して胃が痛くなる。


「今回のオーダーは『婚約者のフリ』でしょ?しかも相手は良家のお嬢様。なら、チャラついた格好はNG。かといって、フォーマルすぎると『雇われ感』が出ちゃう」  


 姉さんはビールの空き缶をゴミ箱に投げ入れると(見事なスリーポイントシュートだった)、プロの顔つきになって僕の前に立った。


「テーマは『余裕のあるハイエンド・モード』。キメすぎず、でも安っぽさは微塵もない。育ちの良さとセンスの良さを無言で語るようなスタイルで行くよ」


「……お任せします、師匠」


 僕は観念してドレッサーの椅子に座った。ここからは姉さんの独壇場だ。


「はい、まずはその陰気な眼鏡を外す!コンタクト入れて!」


「うっ、目が乾く……」


「我慢しな!次はベースメイク。アンタ肌白いんだから、血色良く見せないと病人だよ。ファンデは薄く、コンシーラーでクマを消す……よし」


 冷たい化粧水、ファンデーションの感触。姉さんの手つきは魔法のように素早く、的確だ。鏡の中の僕の顔から、徐々に「陰キャの仁科くん」の要素が消えていく。


「髪はどうする?アップにする?」


「いや、相手が御曹司らしいから、少し大人っぽく見せたい。センターパートで、ウェットな質感を出してくれ」


「おっ、分かってるねぇ。じゃあオイルとワックスで……」


 髪に指を通される感覚。ドライヤーの風。スプレーの微かな香りが鼻をくすぐる。仕上げに用意された服に袖を通す。黒のスラックスにシルク混の白いドレスシャツ。その上からチャコールグレーの薄手のジャケットを羽織る。足元は磨き上げられた革靴ではなく、あえてハイブランドのレザースニーカーで「外し」を入れる。手首には、父さんの形見であるシンプルな機械式時計。


「……完成」


 姉さんの満足げな声と共に、僕は恐る恐る全身鏡の前に立った。そこに映っていたのは、教室の隅で本を読んでいた少年とは似ても似つかない男だった。額を出したことで露わになった切れ長の瞳。整えられた眉。仕立ての良い服が、背筋を自然と伸ばさせる。どこからどう見ても、街を歩けばモデルスカウトが声をかけてくるような「S級イケメン」がそこにいた。


「うん、悪くない。これなら西園寺家の御曹司だろうが何だろうが、張り合えるよ」


 姉さんは満足げに頷き、僕の背中をバンと叩いた。


「行ってきな、悠。魔法が解けるのは二十四時じゃないけど、ボロが出ないように気をつけるんだよ」


「分かってるよ。……行ってきます」


 僕は鏡の中の自分に向かって、一度だけ深呼吸をした。スイッチを入れる。ここから先、僕は「仁科悠」ではない。依頼人の望みを叶える、虚構の王子様だ。



 午後十二時五十分。待ち合わせ場所である駅前の時計台広場は、休日を楽しむ人々でごった返していた。家族連れ、カップル、観光客。その喧騒の中に、異質なオーラを放つ少女が一人、佇んでいた。


(……見つけた)


 天童かれんだ。彼女は時計台の柱に背を預け、不安そうにスマホの画面を見つめていた。今日の彼女は学校での制服姿とはガラリと印象が違っていた。淡いブルーのワンピースに、白いカーディガン。清楚でありながら、育ちの良さが滲み出るような「お嬢様コーデ」だ。長い黒髪はハーフアップにまとめられ、うなじの白さが際立っている。通り過ぎる男たちが、ほぼ全員振り返るほどの美少女ぶりだ。だが、彼女が放つ「近寄るなオーラ」のせいで誰も声をかけられずにいる。


 彼女は時折顔を上げては、群衆の中をキョロキョロと見回している。探しているのはもちろん、猫背で眼鏡の「冴えない仁科くん」だろう。


(……さて、どう声をかけるか)


 僕は一度咳払いをして喉の調子を整えた。声のトーンを普段より少し低く、落ち着いた響きに変える。歩き方も変える。俯かず、視線を真っ直ぐ前に向け、堂々と歩く。人波を縫って彼女に近づく。残り五メートル。三メートル。一メートル。


「お待たせ。かれん」


 僕は彼女の背後から、優しく声をかけた。彼女の肩がビクッと跳ねる。恐る恐る振り返った彼女の瞳が、僕を捉えた。


「……え?」


 彼女は僕の顔を見て、きょとんとした表情を浮かべた。そして次の瞬間、パッと視線を逸らし、冷たい声で言った。


「すいません、待ち合わせ中なので」


 ――うん、知ってた。完全に「ナンパ男」だと思われている。彼女は僕を一瞥すらせず、再び群衆の中に「仁科くん」を探し始めた。


「いや、無視しないでくれ。僕だよ」


「しつこいです。私、こういう軽薄そうな方は好みじゃありませんので、他を当たって……」


「『希望条件:口が堅く、絶対にボロを出さない人。ただし、学校内では目立たない地味な人がいい』……だろ?」


 僕が依頼文の一節を暗唱すると、彼女の動きがピタリと止まった。ギギギ、と錆びついたロボットのような動きで、彼女が再び僕の方を向く。その瞳が極限まで見開かれていく。


「……え?うそ……えっ?」


「遅れてごめん。仁科悠だ」


 僕はポケットからスマホを取り出し、アプリの『マッチング画面』を見せた。そこには確かに、彼女の名前と、僕のアカウントが表示されている。彼女はスマホの画面と、僕の顔を何度も往復させた。パニック映画の主人公のような顔だ。


「に、仁科、くん……?本当に……?え、だって……眼鏡は?髪は?それに、その服……」


「仕事だからね」  


 僕は短く答えた。


「君の依頼は『婚約者を諦めさせること』だ。そのためには、相手に見下されるような男じゃ役不足だと思ったから、少し気合を入れてきたんだ」


 少し、どころではない。原型を留めていないレベルの詐欺だ。彼女はまだ信じられないといった様子で、僕の顔をまじまじと見つめた。至近距離で見つめられると流石に照れくさい。彼女の瞳は澄んでいて、吸い込まれそうだ。


「……すごい」  


 彼女はぽつりと呟いた。


「まるで、別人みたい……」


「学校では目立ちたくないからわざと地味にしてるんだ。この姿はここだけの秘密にしてくれよ?」


 僕が人差し指を口元に当ててウインクすると、彼女の白い頬が、ボッと音を立てるように赤く染まった。おっと、やりすぎたか?いや、これくらいでいい。今日の僕は

「愛し合っている彼氏」なのだ。彼女自身にもこの設定に酔ってもらわないと困る。


「さて、そろそろ行こうか。お相手の方はもう来てる?」


「あ、はい……。近くのカフェを予約してあります」


「分かった」


 僕は自然な動作で右手を差し出した。彼女が戸惑ったように僕の手を見る。


「……手」


「恋人設定なんだろ?ここから先は戦場だ。指一本触れないような距離感じゃ、すぐに怪しまれる」


「う……そ、そうですね……」


 彼女は覚悟を決めたように小さく頷くと、恐る恐る自分の手を僕の手に重ねた。  指先が微かに震えている。冷たくて、壊れそうなほど華奢な手だった。僕はその手を優しく、しかし力強く握り返した。


「大丈夫。全部僕に任せて」


「……はい」


 彼女が小さく頷く。その表情からは、さっきまでの不安そうな色は消え、代わりに未知のものを見るような高揚感が漂っていた。人々の視線が変わる。さっきまでは「美少女と、それに声をかけるチャラ男」だったのが、「絵になる美男美女カップル」へと認識が変わったのが肌で分かった。  


「行くよ、かれん」


「はい……悠、くん」


 ぎこちなく名前を呼び合いながら、僕たちは歩き出した。向かう先は、敵が待つカフェ。最初にして最大のミッション、『婚約者撃退作戦』の始まりだ。


 僕の掌の中で、彼女の震えが少しずつ収まっていくのを感じながら、僕は密かに気合を入れ直した。さあ、完璧な「彼氏」を演じきってみせよう。たとえそれが、嘘で固めた数時間だけの魔法だとしても。


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