二度目の刀は西を指す-西部異世界剣豪譚-
園口回
長い長い蛇の足 1/2
意識が浮上する。水面を這い上がるような、重く鈍い感覚。
ここはどこだ。
目を開ける。左目だけが光を捉える。視界がぼやけている。天井が見える。石造り。粗い仕上げで、古い。灰色の石材に染みがついている。
匂いが鼻を突く。血の鉄臭さと、消毒液の刺激臭。それに混じって汗と汚物の臭い。人間が傷つき、死にかけている場所の匂いだ。
うめき声が聞こえる。近くで誰かが苦しんでいる。もっと遠くでは、誰かが看護兵に怒鳴っている。足音。忙しなく動き回る複数の人間。
遠くで轟音。低く、地を這うような振動。投石機の着弾音だ。
北部城砦の医務室。そうだ、ここは王国北部戦線、最前線に位置する北部城砦だ。
だが同時に、別の記憶が重なる。
ここではない場所。木造の屋敷。畳の上。血の匂い。刀を握る手の感覚。違う時代。違う戦場。
二つの声が頭の中で交錯する。
「俺はここで倒れた」
「いや、俺はあそこで死んだ」
どちらも正しい。どちらも間違っている。
◇◇◇
右目が見えない。右側が完全に暗い。
ああ、またこれか。
片目だけで世界を見る感覚。遠近感の微妙な狂い。視界の右端が存在しない違和感。皮肉なものだ。前世でも隻眼だった。この暗さには馴染みがある。
喪失感はない。むしろ「戻ってきた」という妙な既視感だけがある。
二度目の人生が、前世のやり直しであることの象徴。
頭が痛い。激痛だ。ズキズキと脈打つような痛み。頭蓋の内側から何かが押し広げようとしているような感覚。当然だろう。頭が割れたのだから。
右側の頭部に包帯の感触がある。きつく巻かれている。布の下で何かが湿っている。血か。それとも治療の薬か。
首を少し動かす。硬い枕。藁を詰めた粗末なものだ。横を向くと、他のベッドが並んでいるのが見える。負傷兵たちが寝かされている。ある者は意識がなく、ある者は天井を見つめている。看護兵が一人、血まみれの包帯を運んでいく。
遠くの着弾音が、また響く。城壁が微かに震える。
俺は生きている。
なぜだ。
◇◇◇
記憶が溢れ出す。
前世。大名に仕える剣豪だった。隻眼。右目を失っていた。最期の戦い。強敵との果し合い。完敗だった。刃は届かなかった。相手は無傷のまま立っていた。
相手の顔を覚えている。どこか虚しそうな顔だった。
それでも満足だった。望んだ通りの死だった。
人生の他の全ては報われなかった。だが最期だけは、望んだ通りだった。
あれで終わったはずだった。
今世。名家貴族に仕える騎士。北部城砦での戦闘。敵の一撃が頭部を貫く瞬間。倒れる感覚。
なぜまた目を開けた。
二つの記憶が同時に存在している。矛盾しているのに、どちらも確かに俺のものだ。前世の剣技の感覚が手に残っている。今世の主人の顔も思い出せる。
混乱はない。ただ事実として受け入れるしかない。
◇◇◇
俺は誰だ。
その問いに意味はない。俺はこの二つだ。前世と今世。剣豪と騎士。どちらも俺で、どちらでもない。
二つの記憶が一つの自己として統合される。境界が曖昧になる。どちらが本当の俺なのか。どちらでもない。どちらでもある。
刀を握る手の感覚。剣を振るう腕の記憶。二つの武器、二つの戦い方、二つの人生。全てが同時に存在している。
だが同時に、虚無感が生まれる。
前世で完璧な死を迎えた。強敵に敗れ、望んだ通りに死んだ。あれ以上のものはない。あれで全てが終わったはずだった。
それなのに、また目を開けた。
なぜだ。
二度目の人生に意味はあるのか。一度完璧に終わったものを、なぜまた始めなければならない。
また最初からやり直すのか。戦い、傷つき、死ぬのか。
何のために。
答えはない。ただ虚無だけがある。
◇◇◇
「目が覚めたか。動くな」
視界の端に人影が入る。軍医だ。年配の男。白髪交じりの髪、疲れた目。白衣は血で汚れている。新しい血痕と、乾いた古い血痕が混じっている。
声は低く、事務的な響き。何人も診てきた人間の声だ。
俺は何も答えない。答える必要がない。
「右目は駄目だ。ショックだろうが—」
「別に」
軍医が動きを止める。少し驚いたような沈黙。俺の顔を見ている。何を探しているのか。動揺か、絶望か。
ないものを探しても無駄だ。
二度目だ。そう心の中で呟く。
軍医は小さく息をつく。「投石の直撃は避けられたが、瓦礫が当たって……まあ、生きているだけ運がいい」
運。そうか。
俺はただ天井を見上げる。石造りの天井。ひび割れがある。長く、蛇のように這っている。いつか崩れるかもしれない。今ではないだろうが。
遠くの着弾音が激しくなる。城壁が微かに揺れる。また一発。さらにもう一発。
軍医が舌打ちをする。「また始まったか」
そして立ち去る足音。次の患者へ向かう音だ。
右側のベッドで、何かが動く気配。看護兵が二人、担架を持ち上げている。乗っているのは動かない男だ。顔に布がかけられている。
死体だ。
看護兵たちは黙々と担架を運び出していく。誰も何も言わない。死は日常だ。
まだ担架が部屋を出ないうちに、別の看護兵が新しい負傷者を連れてくる。肩を貸されて、よろよろと歩いている男。若い。獣人だ。腹を押さえている。指の間から血が滴っている。
空いたベッドに押し込まれる。男がうめく。看護兵が何か指示を出す。
回転が速い。供給が途切れない。
◇◇◇
着弾音の間隔が詰まってくる。
一発。また一発。三発目。四発目。
城壁が揺れる。今度は大きい。天井から埃が落ちてくる。
天井を見上げる。さっき見ていたひび割れ。大きくなった気がする。
医務室全体がざわつく。看護兵たちが慌ただしく動き回る。誰かが「城壁が保つのか」と叫ぶ。
保たないだろうな。
いつか崩れる。今かもしれない。
ここでこのまま潰されるのは馬鹿馬鹿しい。
俺は身体を起こす。
頭がくらつく。視界が揺れる。だが動ける。左手でベッドの縁を掴む。右手で包帯を確認する。まだ巻きついている。
足を床に下ろす。冷たい石の床。裸足だ。靴はどこだ。
見回す。ベッドの下に軍靴が転がっている。引き寄せて履く。サイズが合わない。誰かのものだろう。構わない。
「おい、何をしている」
軍医の声。振り返ると、こちらを見ている。驚いた顔だ。
「起きるな。まだ—」
「動ける」
「無茶だ。お前は—」
また着弾。今度はさらに近い。壁が軋む音がする。
軍医を無視して立ち上がる。ふらつく。だが倒れない。
どこにこんな力が。軍医がそう呟いた気がする。
知らない。ただ身体が動く。前世の記憶が身体に染み付いている。片目でも、頭に傷を負っていても、身体は戦い方を覚えている。
医務室の出口へ向かう。
◇◇◇
「待て!」
声がする。医務室の出口。男が立っている。
主人だ。名家貴族。今世の俺が仕えている男。三十代半ば。立派な鎧を着ている。装飾が施された高価なものだ。銀細工が光を反射している。
綺麗な鎧だ。
所領で飢えている民の分まで、よく輝いている。
以前の俺なら、ここで立ち止まっていた。膝をついて、頭を下げていた。
今は、その理由が思い出せない。
「無事だったか。良かった」
公明正大な声だ。礼儀正しい。表面だけは。
俺は足を止めない。そのまま歩き続ける。
主人の声のトーンが変わる。僅かに。
「おい、聞いているのか」
聞いている。答える必要を感じないだけだ。
主人が追いかけてくる。俺の前に回り込む。「まだ動ける状態ではないだろう。休め」
以前なら「ありがたき幸せ」とでも答えていた。忠実な騎士として。
「動ける」
主人の目が僅かに細められる。何かがおかしい。そう気づいている。
「お前の忠誠は理解している。だがここは—」
忠誠。
そんなものは、最初からなかった。
もう演じる理由がない。
「どけ」
主人の顔が強張る。驚きと、少しの怒り。そして困惑。
いつもと違う。そう思っているはずだ。
その通りだ。いつもと違う。
いや、違わない。これが本当の俺だ。
見えていない。この男はいつも見えていない。苦しむ者たちが。飢える者たちが。死んでいく者たちが。
自らの輝く鎧しか見ていない。
片目が塞がった俺の方がまだ、世界を見ている。
俺は主人の横を通り抜ける。
主人が手を伸ばしかける。だが触れない。躊躇している。
止められない。止める理由がない。
◇◇◇
廊下を歩く。石造りの城砦内部。壁に沿って松明が灯っている。
武器が必要だ。
自分の装備を確認する。剣帯はあるが、剣がない。どこかで失ったのだろう。鎧もない。着ているのは血まみれの軽装だけだ。
使えない。
周囲を見回す。廊下の先に広間がある。壁に武器が飾られている。ブロードソード、メイス、槍。どれも立派なものだ。重厚で、力強い。
今までの俺なら、それらを選んだかもしれない。
だが今は違う。身体が求めている。細く、速く、正確に。
視線を移す。奥に装飾像が立っている。騎士の像だ。両手で剣を構えている。細身の剣。
近づく。像を見上げる。古いものだ。埃が積もっている。剣は金属製。装飾品だろうが、実用に耐えるかもしれない。
手を伸ばす。剣を掴む。引き抜く。
軽い。細身の剣だ。バランスを確認する。悪くない。
切れ味はどうか。
髪を一房引き抜く。剣の刃に当てる。髪が落ちる。
よく切れる。
だが、細すぎる。重い一撃には耐えられないかもしれない。
「借りるぞ」
誰に言っているのか。像に。それとも誰かに。どちらでもいい。
しかし物足りない。何かが足りない。
廊下の先に食堂が見える。中に入る。
長テーブルが並んでいる。誰もいない。食事の残りが置かれている。パン、肉、果物。酒の瓶もある。
腹は空いていない。だが身体には燃料が必要だ。
肉を一切れ摘む。口に入れる。血の味がする。肉の塩味で気づく。ずっと血の味がしていたのかもしれない。口の中が切れているのか。わからない。噛んで飲み込む。
酒瓶を手に取る。
やめる。
口の中に染みる。
瓶を置く。
テーブルの上にナイフがある。食事用のナイフ。刃は短いが、鋭い。
手に取る。重さを確認する。使える。
ナイフを腰に差す。剣を握り直す。
これで足りる。足りないが、仕方ない。
◇◇◇
城壁へ向かう。階段を上る。石段は濡れている。血か。雨か。どちらでもいい。
足音が響く。誰かが駆け寄ってくる。兵士だ。顔に煤がついている。
「お前、何をしている。負傷兵は下に——」
無視して通り過ぎる。
城壁に出る。
風が吹く。冷たい。北の風だ。硝煙の匂いが混じっている。
城壁の上には兵士たちが並んでいる。弓を構えている者、投石機の破片を片付けている者。皆、疲れている。
外を見下ろす。
城壁の下に戦場が広がっている。味方の騎兵が敵と交戦している。鎧と鎧がぶつかり合う音。怒号。馬の嘶き。
その向こうに投石機が見える。敵兵が操作している。次の石を装填している。
城壁を壊すつもりだ。このままでは持たない。
味方の騎兵は投石機を止めようとしている。だが数が足りない。敵の重歩兵に阻まれている。
誰かが叫ぶ。「次が来るぞ!」
投石機が稼働する。石が放たれる。
着弾。城壁が揺れる。
石が城壁を砕く。破片が飛ぶ。衝撃波。
俺に声をかけてきた兵士が吹き飛ばされる。城壁の上を転がり、縁から落ちる。悲鳴。そして沈黙。
死んだ。あっけない。
このままでは崩れる。
味方の騎兵では間に合わない。
俺は城壁の縁に立つ。下を見る。高い。だが飛び降りられる。
飛び降りる。
◇◇◇
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