放課後の変数は青く綴る~書けなくなった元天才作家、小説教室でかつての恩師(数学教師)と再会する~
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第1話 停滞する変数と、再会の教室
人生という方程式に、解がないことに気づいたのはいつだったか。
十六歳。鮮烈なデビュー。神童。天才少女。
そんなきらびやかな変数は、十年という時間を代入した結果、見事にゼロへと収束した。いや、マイナスかもしれない。
書店のバックヤードは、古びた紙と埃の匂いで満ちている。
私は段ボール箱に詰め込まれた文庫本の山を見下ろした。背表紙には見覚えのある名前。「夏目忍」という、かつての私の記号。
返本だ。
売れ残った在庫たちが、墓場へと送り返されていく。
その死体の山を、私は無表情に積み上げている。指先が微かに黒く汚れた。インクではない。ただの埃だ。
「夏目さん、悪いけど休憩入っていい? あ、その箱は業者が来るから裏口に出しといて」
店長の弛緩した声が、蛍光灯のブーンというノイズに混じる。
「はい。了解しました」
私の声は、私自身の耳にも他人のもののように響く。
重い段ボールを持ち上げる。腰に鈍い痛みが走る。
十六歳の私が、今の私を見たら何と言うだろう。
きっと何も言わない。ただ軽蔑の眼差しを向けて、その場を立ち去るに違いない。
裏口の鉄扉を開ける。
空は曇天だった。
色彩を剥奪されたような、のっぺりとした灰色。
まるで、書き損じの原稿用紙の色だ。
私は深く息を吐き出す。肺の中の空気が、外気と混ざって白く濁る。
今日は、書店のシフト上がりにある余計な仕事が入っていた。
*
駅前の雑居ビル。五階。
エレベーターの扉が開くと、消毒液と安っぽい芳香剤が混ざった独特の空気が鼻をつく。
カルチャースクール「学びの森」。
リタイア後の高齢者や、趣味を探す主婦たちが集う場所。
私は友人の作家、高村から半ば強引にここへ送り込まれた。
『産休に入るからさ、代打頼むよ。初心者向けの小説講座。リハビリにちょうどいいでしょ?』
リハビリ。
彼女は悪気なくそう言った。私が複雑骨折したまま放置されたアスリートのような状態であることを、彼女なりに気遣ったつもりなのだろう。
だが、今の私に教えられることなど何もない。
敗北の味か。才能の枯渇の恐怖か。あるいは、世間の忘却速度についてか。
教室のドアノブに手をかける。金属の冷たさが掌に伝わる。
心拍数は平常。期待も不安もない。ただ、契約された時間を消化するだけの作業。
ドアを開ける。
十数人の視線が一斉にこちらへ向く。
予想通り、年齢層は高い。定年退職した男性や、子育てを終えた女性たち。
その中に、異質な定数が紛れ込んでいた。
最前列。
窓際の席。
背筋を定規で引いたように正し、両手を机の上で組んでいる人物。
白髪交じりのショートカット。縁の細い銀色の眼鏡。
白衣は着ていない。
首元までボタンを留めた薄青色のシャツに、グレーのカーディガン。
けれど、その佇まいは、私の記憶にある座標から一ミリもズレていなかった。
思考が停止する。
脳内の処理落ち。
なぜ。どうして。ここは高校の教室ではない。私はもう制服を着ていない。
彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、私を捕捉する。
驚きはない。
まるで、計算通りの解が出た時のような、静かな眼差し。
「……時間だ」
その人が、腕時計を見ずに言った。
声。
低く、よく通る、あの日々何度も聞いた声。チョークが黒板を叩くリズムと同じくらい、私の鼓膜に刻まれた周波数。
佐伯薫。
私の高校時代の恩師であり、数学教師。
そして、私が保健室のベッドで丸くなっていた時、唯一、見捨てずに傍にいてくれた人。
「……佐伯、先生?」
喉から漏れた音は、掠れていた。
教室の空気が固まる。
彼女はゆっくりと立ち上がった。椅子を引く動作ひとつに無駄がない。
「今は先生ではない。受講生だ。夏目先生」
先生。
その呼称が、鋭利な刃物のように胸に刺さる。
彼女は微かに口角を上げた。笑っているのではない。認識のズレを修正しようとしているのだ。
私は教壇まで歩く。足元の感触が曖昧だ。
鞄を置き、ホワイトボードに向き合う。
マーカーを握る手が震えそうになるのを、左手で押さえつける。
震えるな。
私はもう、十六歳の子供ではない。
深呼吸を一つ。肺の奥に溜まった澱を吐き出すように。
振り返ると、佐伯先生――いや、佐伯薫さんが、じっとこちらを見ていた。
まるで、難解な証明問題の出題を待つかのように。
「……初めましての方も、そうでない方も」
視線が絡む。逃げられない。
「今日から三ヶ月間、小説の書き方講座を担当する、夏目忍です」
拍手はまばらだった。
自己紹介を促し、受講生たちが順番に語っていく。
「孫に読ませたい」「自分史を残したい」。動機は様々だ。
そして、彼女の番が来た。
佐伯さんは席を立ち、周囲を威圧するような冷静さで口を開く。
「佐伯薫。六十歳。先月、定年退職した」
短い。
必要最小限の情報量。
彼女はそのまま着席しようとする。
私は思わず口を挟んだ。
「……あの、佐伯さん」
「なんだ」
「小説講座です。志望動機くらいは話していただかないと」
「ふむ」
彼女は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
思考する時の癖だ。
数秒の沈黙。教室内の空調の音がやけに大きく聞こえる。
「未解決問題を、解きに来た」
「……はい?」
「人生という名の難問だ。数学では解けない領域に、その解があるらしい」
周囲の受講生たちが、ぽかんと口を開けている。
私も同じ顔をしていただろう。
数学しか愛していないような人だった。
世界を数式で記述することにしか興味がないと思っていた。
そんな人が、よりにもよって、最も論理から遠い「小説」の世界へ?
「意味がわかりません」
私は正直に言った。
講師としての仮面が一瞬で剥がれ落ちる。
「先生が小説? 冗談ですよね?」
「私は冗談を言わない。君も知っているはずだ」
「でも、先生は国語のテストの採点基準が曖昧だと職員室で喧嘩していたじゃないですか」
「過去のデータだ。現在は違う」
彼女は鞄から一冊のノートを取り出した。
キャンパスノート。大学受験用の、A罫のやつだ。
それを机の上に置く。
表紙には、太い油性ペンで『物語』と書かれている。
その文字の筆圧の強さに、私は息を呑んだ。
「どうしても、書きたいものがある」
佐伯さんの声のトーンが、わずかに落ちた。
そこには、私の知らない熱が滲んでいた。
数学教師の冷徹な仮面の下にある、マグマのような何か。
「言葉にしなければ、消えてしまうものがあるからだ」
消えてしまう。
その言葉が、私の内部にある空洞に反響した。
忘れ去られる恐怖。
私の書いた本が、誰にも読まれずに断裁されていくイメージ。
佐伯さんは、私を真っ直ぐに見つめて言った。
「教えてくれ、夏目先生。変数Xに言葉を代入して、永遠という定数を導き出す方法を」
彼女の瞳に、教室の照明が反射して光っている。
それは冷たい光ではない。
遠い昔、保健室の窓から見上げた、あの青空のような。
私は知っている。
この人は、いつだって本気だ。
そして、この再会が、私の止まっていた時間を無理やり動かそうとする外乱であることも、直感的に理解していた。
「……わかりました」
私は観念して、ホワイトボードのキャップを外す。
キュッ、と乾いた音が教室に響いた。
「ただし、スパルタですよ。元教え子だからって手加減しません」
「望むところだ。補習も辞さない覚悟で来ている」
彼女が微かに笑った。
その瞬間、私の視界の隅にあった灰色の曇り空に、一筋の亀裂が入ったような気がした。
次の更新予定
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