第11話:手紙の余白に、残る声

朝、私は潮の香りに目を覚ます。

窓の外には、静かな海が広がっていた。

離島の暮らしにも、少しずつ慣れてきた。

けれど、心の奥には、まだ白波が立っていた。


郵便受けに、一通の手紙が届いていた。

見慣れた筆跡。

封を開ける前から、胸がざわめいた。


「麻衣子さんへ」

その書き出しだけで、指が震えた。

私は、畳に膝をつき、静かに読み始めた。


――あなたがいなくなってから、家の空気が変わりました。

美月は無言のまま、僕を責めることもなく、ただ静かに日々を過ごしています。

赤ちゃんの胎動を感じるたび、彼女は笑います。

その笑顔が、僕には痛い。


でも、麻衣子さん。

あなたがいない世界は、僕にとって空虚です。

あなたの声、あなたの手、あなたの気配が、僕の中に残って離れません。


探すなと言われても、探してしまいました。

そして、あなたの姿を遠くから見つけました。

窓辺に立つあなたを見て、涙が出ました。

それでも、声をかけることはできませんでした。


今夜、港の待合室で待っています。

もし、あなたが来なければ、私の人生は終わります。

でも、もし来てくれたら——

僕は、もう一度、あなたの名前を呼びたい。


康彦


手紙を読み終えたとき、私はしばらく動けなかった。

畳に落ちる陽の光が、手紙の文字を照らしていた。

『もし、あなたが来なければ、私の人生は終わります』

その余白に、彼の声が残っているようだった。


私は窓辺に立ち、海を見つめた。

波は静かに寄せては返し、何も語らない。

けれど、心の中では、言葉にならない感情が渦巻いていた。


行くべきではない。

それが理性の声だった。

でも、彼の声が、私の名を呼ぶたびに、胸と体の奥が疼いた。


夕暮れが近づくにつれ、私は身支度を整えた。

風呂敷に手紙をそっとしまい、茶色の鞄を手に取る。

それは、私が過去を背負う証のようだった。


港までの道を、私はゆっくりと歩いた。

夕陽が海を茜色に染めていた。

その色は、あの日、家を出た朝と同じだった。


待合室のベンチに、康彦の姿があった。

彼は俯き、手を膝に置いたまま、動かない。

私は、静かに足を止めた。


彼が顔を上げ、私に気づいた。

その瞳に、驚きと喜びと、少しの涙が浮かんだ。


「麻衣子さん……」

その声に、私は小さく頷いた。


何も言わず、ただ隣に座る。

風が二人の間を通り抜ける。

それは、再会の言葉の代わりだった。


私は、まだ彼を愛している。

それが、罪でも、過ちでも——

この瞬間だけは、許されたいと思った。


――つづく。

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