第9話:灯を消して、風になる
朝の光が、障子越しに柔らかく差し込んでいた。
台所からは、美月が立てる音が聞こえる。
康彦の足音も、いつも通り廊下を通り過ぎていく。
そのすべてが、私にとっては最後の音だった。
私は静かに箪笥を開け、必要最低限の衣類を風呂敷に包んだ。
長年使ってきた茶色の手提げ鞄に、通帳と少しの現金を入れる。
それだけで十分だった。
これからの暮らしに、贅沢は必要ない。
居間の柱に、短く手紙を残した。
「私を探さないで下さい。そして生まれて来る赤ちゃんと幸せに暮らして下さい」
それだけの言葉に、私のすべての決意を込めた。
誰にも告げず、誰にも見送られず、私は家を出た。
庭の萩が朝露に濡れていた。
その花に、最後の視線を送る。
それは、私の心の一部だった。
駅までの道を、私はゆっくりと歩いた。
見慣れた商店街、通い慣れた八百屋の前を通り過ぎる。
誰も私に気づかない。
それが、少しだけ寂しくて、少しだけ心地よかった。
電車に乗り、遠くの町へ向かう。
窓の外を流れる景色が、過去を洗い流していくようだった。
私は、誰の母でもなく、誰の女でもない、ただの麻衣子として生きていく。
フェリーで降り立った場所は、小さな離島の港町だった。
潮の香りが鼻をくすぐり、風が髪を揺らす。
ここなら、誰も私を知らない。
ここから、もう一度始められる気がした。
古びた民宿に一泊し、翌朝には民宿のご主人から借りた小さな家に住むことにした。
畳の部屋に、窓から海が見える。
それだけで、十分だった。
夜、布団に横たわると、康彦の声が耳に蘇る。
「麻衣子さん……」
その呼びかけに、胸が疼く。
けれど、もう戻ることはできない。
私は、彼の未来から静かに姿を消したのだ。
携帯電話は電源を切った。
誰にも連絡しない。
それが、私の選んだ償いだった。
窓の外に、月が浮かんでいた。
その光が、私の孤独を優しく照らしていた。
私は、風になる。
誰にも触れられず、誰にも縛られず、ただ静かに、遠くへ。
――つづく。
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