逢魔ヶ時のお客人
夢司
第1話 現実逃避の果てに
水中で浮いている感覚は、まるで半無重力の世界。
自分の呼吸だけが、聴覚を支配している。
そして、それ以上に神秘的な世界が目前に広がっている。
僕の名前は、黒羽優一。
今、初めてのファンダイビングに胸を高鳴らせている。
ファンダイビング・・楽しみのダイビング。
つまり、教習を目的としない楽しむ為のダイビングの事だ。
車の運転で言ったら、初めてのドライブという事になる。
バディ兼ガイドの魚住美夏は、僕を気遣いながらゆっくりと海底へと降りていく。 何を隠そう、彼女は僕の幼馴染でもある。
幼稚園から中学校までずっと同じクラスだった美夏は、幼馴染であると同時にずっと僕の憧れ的存在だった。
中学卒業と同時に彼女は私立の有名女子高に入学し交流は途絶えたが。
一方の僕は中学での成績はそこそこだったが、高校の授業についていけず、留年ギリギリの成績で卒業。三流大学を出た後、小さな会社で営業をやっている。
それも成績は余り芳しくなく、リストラに怯える毎日だ。
退屈で、何も変わらない、水底に沈んだような日常だった。
ある日、ダイビング・ライセンス取得のチラシを見た僕は、思い切って応募してみた。ただの気まぐれだが、この半無重力の世界へ逃避したかったのかも知れない。
とにかく、そこでインストラクターをしている美夏と再会した。
美夏は高校卒業後、4年制大学の英文科をでて貿易の仕事に就いた。
入社早々海外に赴任したと言うから、かなり期待されていたのだろう。
だが、赴任先で趣味で始めたダイビングに魅了され、僅か半年で会社を辞め、インストラクターになったという。
美夏にとって、僕は初めての生徒の一人であった。
「優一君じゃない。ガンバロウね」
と、美夏の方から声をかけてきてくれた。
一瞬、心臓が止まったかと思った。
僕のことなど、優秀な彼女の人生の隅にも残っていないと思っていたからだ。
ましてや合わなくなってから何年もたっている。
確かに受講申込書に名前や生年月日は書いているけど…
「覚えててくれたんだ...」
このことはリストラを怯える僕の日常を、一瞬で色鮮やかな世界に変えた。
そして、去年の秋・・僕は思い切って美夏を食事に誘った。
丁度その頃に僕はスポーツダイバー、つまり船で沖まで行って深いところまで潜れるCカードを取得したのだ。
美夏はそのお祝いを兼ねて(ここはかなり強調された・・)Okしてくれた。
「優一君もはれて一人前のダイバーね。今度仕事抜きで潜り行こうよ」
食事の最後に言った彼女の言葉・・その約束が今日果たされている。
半年以上経ってしまったが、僕のサラリーでは冬場潜るのに欠かせない、高額なドライスーツなど買えないんだから仕方がない。
美夏は折角だから沖縄いこう!
と言ってくれたが、時間的にも金銭的にもそんな余裕はなく、海洋講習で通った・・南紀の串本が精一杯だった。
「まぁ・・初級者には馴れた海の方がいいか・・」
美夏は苦笑していった。
夏の太平洋は少々水が濁り、余り奇麗ではない。夏は沖縄がベスト…
と、愚痴をこぼしながら・・・
美夏が下のほうで手招きをしている。そろそろスポットに近づいたらしい。
少し染め眺め髪が海の中でたなびいている。まるで潮風を受けているようだ。
ウェットスーツで際出された美しいプロポーション。
ゴーグルや、空気を取り入れるために咥えているレギュレターで隠されても、決して衰えることのない美しい顔。
「どんな美女でもレギュレターを咥えるとタコかフグに見える」とチーフインストラクターは言っていたが、美夏だけは別格だ。
ルリスズメ越しに見る美夏は、人魚のようだ....
美夏が案内してくれた場所は人気のスポット、ぺイマン=ケープ。
水深約27メートル。
ここにおよそ4メートルの海底トンネルがあり、海流が余りなく魚達の絶好の住処になっている。
トンネルの出入り口では何百匹とも思えるアジの回遊も見れ、まさに別世界だ。
普段は数グループのバディが居るらしいのだが、今日は珍しく2人だけだった。
僕らは魚達に見守られ、水中デートを楽しんだ。
まぁ・・デートだと思っているのは僕だけかもしれないけど・・・
楽しかった時間は、突如、違和感とともに終わりを告げた。
まず、音が遠ざかった。
自分の呼吸器(レギュレター)から聞こえていた「シュー、ハー」という、聴覚を支配していたはずの排気音が、微かなホワイトノイズのように遠のいていく。
そして、美夏を人魚のように飾っていたルリスズメダイの鮮やかな群青が、周囲の珊瑚の朱色や黄色が、まるでインクを抜かれたように急速に淡いセピア色へと変色し始めた。
「美夏!」
僕は驚き、手を伸ばした。だが、美夏は中性浮力を保ったままアジの群れを眺めている。
『美夏、気づいて無いのか…』
次の刹那、ドシンと、まるで巨大な何かが海底に落ちたかのような衝撃が身体を突き上げた。それは通常の海流とは比べ物にならない、絶対的な力だった。
物凄い海流がトンネル内を襲い、あっという間に僕らは激流に飲み込まれた。
視界は完全に無彩色となり、激しい砂の巻き上げで前方が見えない。
聴覚は排気音も水流の轟音も一切届かなくなり、完全な沈黙に支配された。
触覚も、平衡感覚も、全てが失われていく。
まるで自分が激流の中でただ運ばれていく藻屑のような、半無重力状態の暴走のような感覚だった。
美夏の手を強く握り締める。
離したくなかった、いや離れたくなかった。
何度か壁にぶち当たりながらトンネルの中を疾走していく。
しかも、四メートルほどの短いトンネルのはずが、一向に出口を現さないのだ。
まるで暗黒世界に吸い込まれていくかのように、海流は僕らを運んでいき・・・・
僕は意識が失われる直前、握り締めた美夏の手の体温さえも、もう感じられなくなっていることに気づいた。
そして、光が完全に消えた。
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