第5話 中学入学と雨の日の図書室
制服のスカートがまだ少し長く感じた。
新品の生地が足にまとわりつく感覚がくすぐったい。
中学校の昇降口で上履きを履き替えながらオレ――藤宮千尋はこっそり息を整えた。
今日から中学校生活。だけどオレにとってそれはただの新学期じゃない。
この世界の元となった『恋咲アンサンブル』において、物語が本格的に動き出すのは高校生になってからだ。
中学時代は主人公・神谷悠真とヒロイン・藤宮紗月が「幼馴染みから一歩進むきっかけ」を積み重ねていく、いわば序章の期間。
まぁ正確に言うと紗月が悠真のことを異性として意識するようになるって感じなんだけど。
つまり、今のオレが生きているこの中学校時代こそ本編が始まる前の下積みにあたるわけだ。
もしここで原作通りに進んでしまえば、高校生になった時にはもう二人の関係は手の届かないほど出来上がってしまう。
――だから、その芽は早めに摘む。摘んでみせる!
◆
入学式が終わり、教室のざわめきが落ち着いた頃。
新しいクラスと席順が決まり、オレは内心の警報を鳴らした。
悠真と紗月。同じ班で、席も隣同士。
見間違いじゃない。くじ運という名の運命にまたしてもオレは戦慄した。
机を寄せ合って話してるその姿は、ゲームでも似たような姿を見たことがある。
「また隣同士になった。ふふ、小学校の頃と一緒だね」
「変わり映えしないな」
静かに微笑み合う二人。
はい、フラグ成立までの導線確認完了。
オレは後方の席でペンを握り締めた。
「お姉ちゃんは私が守る」
この決意だけがオレのアイデンティティだ。
だけど小学生の頃と違って、中学生の今はそう簡単にはいかない。
教師の目も、友達の距離感も少しずつ大人に近付いていく。
だからこそオレは静かに、慎重に動くしかなかった。
◆
それから数週間が過ぎたある日の放課後。
空は鉛のような灰色に染まり、雨が窓を叩いていた。
……また雨。嫌な予感しかしない。
思い出すのは小学生の時の出来事。あの時は相合い傘イベントがあった。
でも確か、中学生時代の回想の一つにも雨の日のイベントがあったはずだ。
「記憶が薄れてきてる……わけじゃないけど。細かいこと忘れてきてるなぁ」
なんだかんだ言ってもこの世界でもう十年以上経つ。つまり『恋咲アンサンブル』をプレイしたのも十年以上前だってことだ。
多少おぼろげになる部分も出て来る。まぁ、細かい台詞を忘れたってくらいで起きるイベントはちゃんと全部覚えてる。
今はその記憶を頼りにイベント阻止だ!
「図書室での勉強イベントが起きるはず。あれは一年生の時のイベントだったはずだし」
悠真と紗月が放課後の図書室で一緒に勉強して距離を縮めるシーンがあった。
淡い青春の香りを漂わせる、いかにも恋愛フラグなイベント。
もし今それが起こっているなら――。
オレは傘を持っていたし、紗月からは図書室に本を返しに行くから先に帰るように言われてたけどわざと帰るのを遅らせた。
昇降口の下駄箱を見ると、二人の靴がまだ残っている。ビンゴだ。
「本を返しにいった図書室で偶然悠真と会って、試験に向けて一緒に勉強するって流れだった……はず」
駆け足で図書室に向かって扉を開けると、そこにいた。
窓際で並んで座る二人。
机の上には教科書とノート、そして同じ頁を覗き込む姿。
悠真の声が低く響く。少しだけ声変わりしかけている声だ。
「ここ、こうすると分かりやすいよ」
紗月の肩がわずかに揺れ、優しく笑う。
……うん、これだ。
これが後の「放課後に一緒に帰る関係」に繋がる、中学生編の原型イベント。
一緒に並んで座る二人の姿はあまりにもお似合いで、思わず一瞬足が止まる。
だけどオレは勢いよく図書室へと踏み入った。
「お姉ちゃん!」
二人の肩がぴくりと跳ねる。近付いていた二人の肩が少し離れる。
紗月が振り向く。
「千尋? どうしたの?」
戸惑う千尋にオレは笑顔を作りながら、ずかずかと中へ。
「帰ろうと思ったらすごい土砂降りになっちゃって。天気予報見てたら、もうちょっと待ってたら土砂降りの時間は過ぎそうだったから」
悠真が苦笑いしながらノートを閉じた。
「たしかに、外の音すごいな。それでわざわざ図書室まで来たのか?」
「うん、そうだよ。問題あるの? それともお姉ちゃんと二人の方が良かったの?」
オレは気付けば紗月の隣に座っていた。
「雨が止むまで私も勉強する!」
「え? 千尋も?」
「うん! お姉ちゃんの隣が落ち着くし!」
悠真は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「そっか。ホントに仲が良いよな、二人とも」
何気ない言葉。
けれどその響きが、なぜか少しだけ胸に残った。
◆
外の雨はどんどん強くなり、窓に叩きつける音が室内を満たす。
ページをめくる音、ペン先の擦れる音。
その全てがやけに静かで、不思議な時間が流れていた。
紗月が本を取りに行っている間に、ふと悠真と目が合った。
柔らかな笑み。敵意も下心もない、ただの優しさ。
「千尋って、ほんとに紗月が好きなんだな」
その一言に思わず反射的に言い返す。
「当たり前でしょ! お姉ちゃんが一番なんだから!」
「はは、そっか。なんかいいな。そういうの。俺は一人っ子だからさ。たまに羨ましくなる」
「だったら今からでもおばさん達にお願いしたら?」
「バカお前なに言ってんだよ!」
「ふふん、顔赤くして何想像してるのこの変態。言っとくけど、どんなに羨ましがってもお姉ちゃんはあげないからね。お姉ちゃんは私だけのお姉ちゃんなんだから」
「誰もそんなこと言ってないだろ。ま、紗月はともかく千尋みたいな妹だと苦労しそうだな」
「む、なによそれ。私が問題児みたいに! っていうかそれなら私が悠真の姉だから! 悠真のお姉ちゃんになってあげる」
「いやいや、千尋はどう考えても妹だろ」
「なになに? お姉ちゃんだとか妹だとか、なんの話してるの?」
「あ、聞いてよお姉ちゃん。悠真ったらさぁ――」
雨が弱くなるまでの短い時間、三人で過ごす穏やかな時間。
こういう時間は……うん、まぁ、悪くない。
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