ファインダー越しのサヨナラ

@yuzuyuzuyuzu00597

ファインダー越しのさよなら

余命半年。

医師からその宣告を受けたとき、私の心に浮かんだのは「恐怖」ではなく、「悔しさ」だった。

まだ何もしていない。

制服のリボンを綺麗に結べるようになったばかり。放課後のタピオカも、テスト期間の徹夜も、そして何より――。

「……春樹(はるき)くんに、好きって言ってない」

私の幼馴染であり、高校の写真部でいつもカメラを構えている男の子、春樹。

彼への想いを、私はまだ伝えていなかった。

両親は泣き崩れ、即入院を勧めた。でも、私は頑として首を縦に振らなかった。

「最期まで、普通の女子高生でいたいの。お願い」

それは私の人生で最初で最後の、命がけのわがままだった。

そうして私は、とびきりの「嘘」をつくことに決めた。

病気のことは誰にも言わない。学校に通い、笑い、恋をする。

私の命の砂時計が、もう残りわずかだとしても。

翌日、学校へ行くと、いつものように春樹が教室の窓際で空の写真を撮っていた。

「あ、紬(つむぎ)。おはよう」

ファインダーから目を離し、彼が優しく微笑む。その何気ない笑顔だけで、胸が締め付けられるように痛かった。

「おはよ、春樹。また空?」

「うん。今日の雲、なんかいいから」

私は知っている。春樹が私のことを、ただの幼馴染以上には想ってくれていることを。

目が合うと少し照れるところ、私が他の男子と話すと露骨に静かになるところ。

私たちは「両片思い」だ。誰が見ても明らかなのに、今の関係が壊れるのが怖くて、二人とも「好き」の一言が言えずにいた。

でも、私にはもう「次」がない。

だから決めたんだ。

この半年間、私は春樹の専属モデルになる。

彼のフィルムの中に、私が生きた証を焼き付けるために。

「ねえ春樹。私を撮ってよ」

「え?」

「空じゃなくて、私。……練習台になってあげる」

春樹は驚いた顔をして、それから耳を赤くして頷いた。

「……うん。いいよ」

シャッター音が響く。

『カシャッ』

その乾いた音が、私の寿命を刻む秒針のように聞こえた。


夏が来た。私の体調は少しずつ、けれど確実に悪化していた。

貧血のような眩暈(めまい)が増え、微熱が下がらない日が増えた。

それでも私は、日焼け止めを厚く塗り、チークで顔色の悪さを隠して登校した。

「紬、こっち向いて」

放課後の屋上。夕焼けが校舎をオレンジ色に染める「マジックアワー」。

春樹の愛機、古いフィルムカメラが私を捉える。

「笑って」と言われなくても、春樹の前だと自然と笑顔になれた。

レンズ越しに彼と見つめ合う時間は、言葉のない告白のようだった。

(好きだよ、春樹)

(もっと私を見て。私のこの瞬間を、永遠に残して)

「……なんかさ、最近の紬、綺麗になったな」

シャッターを切ったあと、春樹がボソリと言った。

心臓が跳ねる。

「なにそれ、口説いてるの?」

「ち、違うよ! なんていうか……雰囲気が、儚いっていうか」

春樹は勘が鋭い。

私は平静を装って、フェンスに背を預けた。

「褒め言葉として受け取っておくね。……ねえ春樹、もし私が急にいなくなったらどうする?」

「は? なんだよ急に」

「もしも、の話。転校とか、遠くに行っちゃったら」

春樹は少し考えて、真剣な眼差しで私を見た。

「……探しに行くよ。どこにいても」

「ふふ、ストーカーみたい」

「うるさいな。……それくらい、俺にとって紬は大事だってことだろ」

その言葉が嬉しくて、そして残酷だった。

ごめんね、春樹。

あなたが私を探す場所は、この世界のどこにもないかもしれないのに。

夏祭りの夜。私たちは二人きりで花火を見上げた。

人混みを避けた神社の階段。

浴衣の袖が触れ合う距離。

『ドーン』と夜空に大輪の花が咲き、一瞬で消えていく。

「綺麗だけど、寂しいな」と春樹が言った。

「ううん。消えるから綺麗なんだよ」

私は彼の手をそっと握った。震える指先を悟られないように、強く。

春樹が驚いて私を見る。握り返してくれる、温かい大きな手。

このまま時間を止めてしまいたい。

あと一秒、あと一分。

死ぬのが怖い。あなたと離れるのが怖い。

喉元まで出かかった「好き」の言葉を、私は花火の音にかき消されるように飲み込んだ。

今伝えてしまえば、彼を縛ってしまう。

私が死んだ後、彼が新しい恋に進めなくなる呪いになってしまうかもしれない。

だから私は、最高の笑顔を作って彼を見た。

「来年も、また一緒に見ようね」

叶わない約束を、口にした。


秋の気配が深まるにつれて、私は学校に行けなくなった。

「ちょっと長引く風邪」という嘘も、もう限界だった。

入院生活が始まった。

白い壁、消毒液の匂い、点滴の管。

窓の外に見えるイチョウの木が、鮮やかな黄色から枯れ葉へと変わっていく。

私の体は鉛のように重く、鏡を見るのも嫌になるほど痩せてしまった。

春樹からのLINEは毎日届いた。

『今日は文化祭の準備だった』

『紬がいないと、クラスが静かだ』

『いつ見舞いに行けばいい?』

私は『伝染る病気だからダメ』『すっぴん見せたくないから嫌』と断り続けた。

こんな姿、見せたくない。

春樹の中の私は、あの夏の屋上で笑っている「綺麗な紬」のままでいてほしかった。

でも、嘘はいつかバレる。

11月の雨の降る日、病室のドアが乱暴に開かれた。

「紬……!」

息を切らして立っていたのは、制服姿の春樹だった。

雨に濡れた髪、青ざめた顔。

先生に無理やり聞き出したのだろうか。

彼は私の姿――痩せ細り、帽子を被った姿――を見て、言葉を失い、その場に立ち尽くした。

「……なんで」

彼の声が震えている。

「なんで、言わなかったんだよ。ただの風邪だって、すぐ治るって……」

「ごめん、ね」

「半年って……なんだよそれ。俺、何も知らないで……呑気に写真なんか撮って……!」

春樹が泣いていた。

いつも穏やかな彼が、子供のように顔を歪めて泣いていた。

私はベッドの上で彼の手を握った。もう、握り返す力もあまり残っていなかったけれど。

「春樹が笑っててほしかったの。湿っぽいのは似合わないから」

「ふざけんなよ……! お前がいなくなるのに、笑えるわけないだろ!」

「……ごめんね。でも、春樹のおかげで、私の人生は最高のハッピーエンドになりそうなの」

春樹は私のベッドの端に座り込み、私の手を額に当てて泣き続けた。

その涙の熱さが、私がまだ生きていることを実感させてくれた。


冬が来た。

窓の外には雪が舞っている。

もう、体を起こすことも難しくなっていた。

意識が水底に沈んでいくような感覚が、日に日に長くなっている。

今日が、きっとその日だ。私にはわかった。

「春樹……きて、くれたの?」

薄目を開けると、そこに春樹がいた。

毎日通ってくれていた彼は、少し痩せたけれど、以前よりもずっと大人びた顔をしていた。

手には、あのフィルムカメラ。

「当たり前だろ。……紬、今日は顔色がいいな」

優しい嘘。

私は酸素マスクの下で微かに笑った。

「ねえ、春樹。最後にお願いがあるの」

「なんだよ、最後なんて言うなよ」

「いいから、聞いて。……カメラ、構えて」

春樹は躊躇ったが、私の真剣な眼差しに負け、カメラを持ち上げた。

「……何撮ればいい?」

「私。……一番、可愛い顔するから」

レンズが私を向く。

あの夏の日と同じ。黒くて丸いガラスの瞳。

その奥に、泣き出しそうな春樹の目がある。

「春樹」

「ん」

「ピント、合ってる?」

「ああ、バッチリだ。世界一、可愛いよ」

私は残った全ての力を振り絞って、酸素マスクを少しずらした。

そして、あの日、花火の下で言えなかった言葉を紡ぐ。

「……春樹。ずっと、言えなくてごめんね」

ファインダーを覗く春樹の手が震えている。

「私、春樹のこと……大好きだったよ。友達としてじゃなくて……男の子として、愛してた」

シャッター音はしなかった。

その代わり、春樹がカメラを下ろし、私の顔を真っ直ぐに見た。

彼の頬を涙が伝う。

「……知ってたよ」

春樹が、私の頬に触れる。

「ずっと前から知ってた。……俺もだ。俺も、紬が好きだ。誰よりも、何よりも」

「……よかった。両想い、だね」

「ああ……ちくしょう、もっと早く言えばよかった。もっと早く抱きしめればよかった」

「ううん、今がいい。……今が、一番幸せ」

視界が白く霞んでいく。

春樹の顔がぼやける。でも、温もりだけは鮮明だ。

怖いと思っていた死が、今は不思議と怖くない。

大好きな人が、最期まで私のことを見てくれているから。

「春樹、写真……撮って」

「……ああ」

「私が生きてた証拠……残して」

春樹が再びカメラを構える。

私は精一杯、口角を上げた。

人生で一番の笑顔。

あなたに出会えてよかったという感謝を込めて。

『カシャッ』

その音を最後に、私の世界は静寂に包まれた。

遠くで春樹が私の名前を呼んでいる。

ありがとう、春樹。

愛してる。


紬が旅立ってから、三ヶ月が経った。

季節は巡り、また桜の蕾が膨らみ始めている。

僕、春樹は、学校の暗室にいた。

あの冬の日以来、カメラに触れることができなかった。

紬のいない世界を切り取ることに、何の意味も見出せなかったからだ。

でも、今日、ようやく現像する決心がついた。

彼女が最期に残した「証」を、暗闇の中に葬ったままにはできない。

現像液独特の酸っぱい匂いが充満する中、印画紙を液に浸す。

ゆらゆらと、白い紙に像が浮かび上がってくる。

夏の日、屋上で風に吹かれる紬。

眩しそうに目を細め、こちらに悪戯っぽく微笑む紬。

そして、最後の1枚。

病室のベッドの上。

痩せ細り、管に繋がれ、それでも。

彼女は、今まで見たどんな瞬間よりも、強く、美しく笑っていた。

その瞳は真っ直ぐに僕を見ていた。

「幸せだよ」と語りかけていた。

写真の下には、余白に彼女の字でメッセージが書き込まれるように、僕の脳裏に彼女の声が蘇った。

『春樹、泣かないで。私はあなたのレンズの中で、ずっと生きてるから』

涙が止まらなかった。

でも、もう絶望の涙ではなかった。

僕は写真を丁寧に乾かし、アルバムに収めた。

そして、カメラを手に取り、暗室を出た。

春の光が校庭に降り注いでいる。

紬が愛した、この世界。

彼女が見られなかったこの続きを、僕が撮り続けよう。

彼女がここにいたことを、僕が証明し続けるんだ。

ファインダーを覗く。

そこにはもう紬はいないけれど、彼女が好きだった光が溢れている。

「行ってきます、紬」

シャッターを切る。

その音は、僕たちが共に生きた季節への別れと、新しい季節への始まりの合図だった。

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