読み込み中...
姉森 寧
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――その結び目を解くつもりなの?
どうして結び目と踊らないの?
私の意図が伝わるといいな。
◇◇◇◇◇
僕は普通の暮らしをしている。
二十八歳の男性として、普通の暮らしをしている。
恵まれている環境に置かれている自覚はある。
それでも、僕は普通の暮らしをしている。
そのはずだ。
付き合い始めてから約二年半になるパートナーの
「普通」として扱ってくれる。
それにはとても感謝している。
◇◇◇◇◇
そんな「普通」が歪み始めたのは、今年の夏だ。
会社帰りに未音の友達に偶然会った時に、
「あの子、浮気してるよ」
軽い調子でそう言われたのが発端だ。
僕はすぐに探偵を雇った。
すると、程なくしてから、その探偵から証拠の写真を見せられ、音声まで聞かされる事となった。
「でも、結婚してないと、訴えるとかは難しいですよ?」
探偵に指摘された事くらいは知っている。
「そんな、訴えたりなんてしませんよ。事実が把握できさえすればいいんです」
その時、僕はそう答えた。
未音を訴えるなんて、そんな事ができるはずもない。
未音には感謝しているからだ。
探偵から得た情報により、未音の浮気相手と面会した僕は、八月末の喫茶店で話をした。
「未音とはもう二度と会わないでください」
それから、僕よりも少し年下の男性に、彼の三か月分の給料くらいの金を渡した。
◇◇◇◇◇
それからは何もなかった。
僕たちは普通に二人きりの時間を過ごしたり、外へ出かけたりした。
未音とは趣味が合わないけれど、それらの違う価値観が僕を普通にしてくれた。
……はずだった。
◇◇◇◇◇
クリスマスの直後の土曜日、元々、未音は僕の家に来る予定だった。
それが、
「明日友達連れていくね」
当日、
「初めまして。未音ちゃんの会社の同期の
未音より少し背の高い地味な女性と二人でやってきた。
「
僕が普通の挨拶をすると、
「今日は二人に大切な話があるの。早く入ろう」
未音は友達の加藤さんの背中をぐいっと押した。
リビングに二人を案内すると、未音はソファに座り、
「もなみんはここ!」
自分の隣をバンバン叩いた。
(あれ? 未音、様子がおかしいな)
今日は動作が大袈裟だ。
しかも、いつもはさりげなく香水の匂いをさせているのに、今日はアセトアルデヒド臭がする。昨日、飲み過ぎたのだろう。
ちなみに、友達の加藤さんからはそのにおいはしていないし、他の何の香りもしない。
「埃が立つよ」
それに呆れた様子でそう言ったにおいのしない友達の加藤さんは、未音の隣に座ってから、
「今日は慶太さんを紹介してくれるだけじゃなくて、別の話があるの?」
と尋ねた。
僕もその話には興味があるのかもしれない。
普段僕がいる場所には友達の加藤さんがいるので、僕は未音の前の床に直に座った。
そして、傾聴のつもりがあるという態度で、
「何かあったの?」
と質問した。
今日は様子のおかしい未音は、おかしな事を言った。
「私は慶太とお別れします! これは決定です!」
まあ、ここまではおかしくなかったかもしれない。
多分、おかしな事ではない。
しかし、
「そこで、慶太にはもなみんと付き合ってもらいます! これは別に決定じゃないです! もなみんさえよければ、です!」
これは絶対におかしい。
「よくないよ」
即答の友達の加藤さんはおかしくないが、
「じゃあ、お友達から始めてください!」
未音はやっぱりおかしい。
おかしな未音は事情を説明した。
「慶太はお上品すぎて無理。だからマチアプでセフレ探そうとしたんだけど、ヤリモク禁止のとこばっかりだったの。表向きだけかもしれないけどね。だから、それなら思い切って別れて、そんで、セフレ兼彼氏を探そうと思ったんだぁ」
その説明が僕の右耳から入り、左耳から抜けていった時、
「未音ちゃん、それは普通に『彼氏』だけでよくない?」
友達の加藤さんが指摘したので
「そ、そうだね」
僕も同調してみた。
未音は「あっ」と呟いた後、
「それはそれとして、何でもなみんは慶太がよくないの? 慶太、いいよ? 性欲ほぼないからおすすめ。鈴木さんみたいにすごい事もしないからおすすめ」
またおかしな事を言い始めた。
「未音ちゃん、別れる宣言したからってぶっちゃけ過ぎだよ。慶太さんは知らないんじゃないの?
しかし、今度は友達の加藤さんもおかしい。
「どういう事?」
だから、僕は話を聞いた方がいいのかと思った。それについては、
「私の元彼が未音ちゃんのセフレだったんです。でも、今は関係解消したそうです」
何と、友達の加藤さんからそんな説明があった。
僕が絶句していると、
「訴えないでくださいね。未音ちゃんは私の恩人なんです。私は週に二回も三回もできるほど強くないんです。っていうか、月イチか、いや、半年に一回、いや、年イチ、違うな、三年に一回、ううん、ゼロでいいんです。そんな私を救ってくれたんです。私の心と体を助けてくれたんです。ピルやめてから体が軽いんです」
どんどんおかしくなる友達の加藤さんからの告白に重ねて、
「もなみん、ごめんねぇぇぇぇ!!」
やっぱりおかしな未音が声を上げながら友達の加藤さんに抱きついた。
何が何だか分からない。理解の範疇を超えている。
特に、
「あの、僕は未音を訴えたりしないよ?」
の部分だ。
「は?」
しかし、友達の加藤さんには異論があるようだ。
「……ああ、プライド高すぎて、訴えるとかは恥ずかしいんだ」
未音の背中を撫でつつそう吐き捨ててから、
「じゃあいいですけど、今回は未音ちゃんの浮気が原因で別れたんじゃないですからね? 未音ちゃんが慶太さんを振ったんですからね? そこはきちんと弁えてください」
冷たい目で僕を見ながら、やっぱりおかしな事ばかり言った。
その後は当初の予定通り、僕が作った昼食を三人でとった。
ここには僕のパートナーは一人もいないというのに、僕は昼食を作ったのだ。
僕もおかしくなっているのかもしれない。
「おいしい」
ただのアマトリチャーナに対して友達の加藤さんが目を丸くしたので、
「お口に合ってよかった」
僕が普通の事を言うと、
「はいはい」
友達の加藤さんはそれを軽く流した。
◇◇◇◇◇
おかしな土曜日の翌日の日曜日、おかしくなっている僕は、更におかしな事に巻き込まれた。
「はい、いらっしゃーい」
気怠げなノーメイクの部屋着姿の友達の加藤さんが僕の目の前にいる。
そう、僕は今、一人暮らしの友達の加藤さんの住むマンションの部屋の前にいる。
部屋の中に入り、ラグの上に置かれたローテーブルの前のクッションにめいめいに座ったところで、
友達の加藤さんは宣言した。
「未音ちゃんから聞いてると思いますけど、これからは、慶太さんは私の事を『加藤さん』じゃなくて『萌菜美ちゃん』って呼んでください」
という訳で、
「聞いてるよ、『萌菜美ちゃん』」
僕が新しい呼び方を早速使用したところ、
「私の方は何でもいいって事になってます。だから、たまには『おい』とか『お前』とか呼んでいこうかなって思ってるんです。よろしくお願いします」
萌菜美ちゃんは斬新な事を言い出した。
今日の会合は、僕と萌菜美ちゃんを、
「お付き合い」とまでは行かないにしても、「お友達」くらいにはしようという未音の企みだ。
なのに、
「はぁ……、無理」
萌菜美ちゃんはもう諦めているようだ。
萌菜美ちゃんの家はとても綺麗に整えられている。
それほど広くはないが、物があまり置かれていないので、それで充分なのだろう。
そして、キッチンからシチューの匂いがする。
料理をするという事は昨日のうちに聞いていたが、市販のルーではないきちんとしたシチューの匂いがする。
未音は「家庭的なんだよ」と話していたが、それなら、僕だって家庭的だ。
そうやって僕が部屋の様子に気を取られていると、
「あの、値踏みするのやめてもらっていいですか? ってか、やめろ」
萌菜美ちゃんは僕を冷たい目で睨んだ。
(まただ)
この目を見る機会はなかなかない。
僕にこの目を向けた事がある人は、……ある人は、えーと、……これまでにいたかな?
「なかなかない」のではなくて、「全くなかった」のかもしれない。
(そうだった。僕はそうだった)
それに気づいて、
「そんな、値踏みなんてしないよ。シチューの匂いがするなって思っただけ」
この場を取り繕おうと試みた。が、上手くいかなかった。
「そのシチューも含めて値踏みしてるんでしょ? 私は人権侵害にはもう屈しないんです。『俺の方が上手いわ』とか『店で食べた方が美味いわ』とか思ってる人には、昨日の残り物の二日目のシチューはあげません。床でも舐めてろ」
でも、萌菜美ちゃんはそう言ってから、いそいそとキッチンへ行ったかと思ったら、
レンジの前で何かカチャカチャやった後、お盆の上にマグカップを二つ乗せて戻ってきた。
「床だと私が人権侵害しちゃう事になるから、これ飲んだらいいですよ」
そこにはほんのり蜂蜜の香りがするホットミルクが入っていた。
萌菜美ちゃんは僕にチャンスをくれると言う。
「私は今、誰とも付き合いたくないんです。一人を満喫してるんです。誰ともしなくていい、誰にも邪魔されない人生を楽しんでるんです。でも、慶太さんがどうしても私と付き合いたいって言うなら、考えてあげなくもないです」
僕は少し驚いた。こんな事を誰かから言われたのは生まれて初めてだからだ。
ホットミルクがおいしい事にも驚いていたが、それを超える驚きだ。
「それなら、僕は萌菜美ちゃんのお邪魔はしないかな?」
でも、平静を装ってそう言ってみたら、また睨まれた。
その視線は僕に説明を求めているのだと感じた。
「僕はまだ未音の事が好きだし、すぐに別の人とお付き合いする必要はないと思ってるから、ご縁があったら分からないけど、しばらくはいいかな」
そこで、こんな話をしてみたところ、
「嘘つき」
萌菜美ちゃんは凍りつくような声でそう言った。
(「嘘つき」)
僕の頭の中でその声が繰り返されたと思ったら、
「未音ちゃんが浮気してた事に全然動揺してなかったでしょ? 前のセフレの事も含めて知ってたんですよね? 何か『え、嘘……』みたいな顔作ってましたけど、バレバレです。未音ちゃんは天真爛漫だから気づいてないかもだけど、私は性格悪いから気づきましたよ?」
今度は責め立てる言葉を次々と並べた。その剣幕に動揺して、
「いや、九月以降の事は知らなかった――」
僕が思わず口走ると、
「あ、そうだったんだ。逆に気づけよ」
それに萌菜美ちゃんは僕を嘲笑する言葉を被せた。
僕は黙り込んだ。何を言ってもムダだと思った。
何をどう取り繕っても、全部がムダでしかないと感じた。
この無力感は久しぶりだ。
きっと、僕は打ちのめされているのだろう。
それなのに、
「私、あなたは無理。世界中を見下してるあなたが無理」
更に僕を打ちのめす言葉を投げかけてきたし、
「お金持ちのお家に生まれ育って、顔もよくて背も高くて、頭がよくていい大学出てていい会社入って稼いでて、しかも最終的に実家継ぐんでしょ? そんなイージーモード人生だから、私みたいなその辺の人なんて眼中にない。ああ、『人』とすら認識してないかもな。そう、とにかくそうでしょ?」
未音から聞いていたのか、僕の生い立ちを絡めて人格を否定してきたし、
「未音ちゃんの事も見た目だけで選んだんじゃないの? あの子は付き合ってみたら、『中身こそが最高にかわいい』って実感した。そんないい子なのに、『イケメンの僕の隣に並べるのは、まあ、このくらいのルックスの子なのかな?』ってテンションで付き合ってたんじゃないの? これはまあ憶測だけど、そんな感じしますよ?」
とうとう、憶測だけで攻撃してきた。
でも、心当たりはある。
これまでにも何度も言われてきた。
「見下してる」って。
何度も言われた事がある。
「上から目線」って。
その度に「そんな事ないよ」って釈明し続けてきたけど、誰にも信じてもらえなかった。
だったら、僕が「普通」になったらいいだけだと思って、努力してそうしてきた。
未音はそんな僕に騙されてくれてた。
なのに、目の前にいるこの人はそうはいかない。
僕よりもIQが低そうなのに、僕よりも何枚も
「あれ?」
萌菜美ちゃんが慌て始めた。
「え、慶太さん、大丈夫?」
それから、向かいに座る僕の右隣へ移動して、優しく背中を撫でてくれた。
「私、事実しか言ってないんですけど、意外とメンタル弱いんですか?」
だけど、また僕の人格を否定したから、
「弱くないもん……」
僕はさっきから止め処なく溢れていて、滝のように流れている涙をそのままにして、反論した。
◇◇◇◇◇
お昼になった。
僕はシチューを食べさせてもらえた。
シチューはすごくおいしかった。
萌菜美ちゃんはすごいなぁと思った。
僕以外にすごいなぁと思う人はあんまりいないと思ってたけど、
よく考えたら、結構いっぱいいるなぁとも思った。
◇◇◇◇◇
それからは、僕は毎日萌菜美ちゃんにLINEするようになった。
でも、年末年始は会えなかった。
三重県最大の都市、四日市市の実家へ帰ってしまったからだ。
僕もそれなりの大都市、神奈川県横浜市の実家へ帰った。
「そろそろ結婚を考えなさいとか言われた
28歳だよ?
まだ早くない?」
実家の自分の部屋で、僕がLINEで萌菜美ちゃんに嫌だった事を話すと、
「私も25歳なのに言われました
しないって言いました」
萌菜美ちゃんはこんなかっこいい返事をくれた。
萌菜美ちゃんはかっこいい。
こんなかっこいい人、見た事ない。
◇◇◇◇◇
年が明けてからしばらくして、
一月十三日の土曜日に、萌菜美ちゃんの家へまた遊びにいった。
「あのね、また僕の企画が通ったからってね、みんなが僕の事、『調子に乗ってる』とか言ってるんだ。面と向かっては言わないけど、何か聞こえたんだ」
僕がホットミルクを飲みながら嫌だった事を話すと、
「調子に乗ったっていいじゃないですか。それ相応の結果出したんだから」
萌菜美ちゃんは自分の感想を交えながら話を聞いてくれた。
「そうなのかな……?」
僕が泣きそうになると、ローテーブルの上のティッシュの箱を指で僕の方へ押してから、
「気にするだけムダ。それより、何か楽しい事したらどうですか? ゲームとか」
物凄く適当っぽいけど、物凄くいい事を言ってくれた。
やっぱり、萌菜美ちゃんはかっこいい。
◇◇◇◇◇
しばらくはそんな感じだった。
萌菜美ちゃんはかっこいいし、僕が素直になってからは、すごく優しくしてくれてる。
かっこよくて優しい萌菜美ちゃんに憧れてる僕は、一生懸命仕事とかワークアウトとかを頑張った。
何か頑張れた。
去年よりもいっぱい頑張れた。
そんなある日、突然、僕は気づいてしまった。
それは僕を凄く不安にした。
「こんな事考えたら、萌菜美ちゃんに嫌われる……」
僕がメソメソしながら言うと、
「慶太にもそういうのあったんだねぇ。……いや、うん、ワンチャンいけるかもよ? 『嫌』って言われたらやめればいいんだよ」
平日の夜に実家住まいにも関わらず押しかけた僕を未音は励ましてくれた。
こんなにいい子だったなんて、付き合ってた時には気づかなかった。
「未音、ありがとう。僕、未音とお付き合いできて幸せだったよ」
ここは感動の涙を流しながらお礼を言うしかない。
◇◇◇◇◇
ワンチャンいけるかもしれないので、僕は次の土曜日に萌菜美ちゃんの家で告白した。
「僕は萌菜美ちゃんが好きなので、ぎゅうってして欲しいです」
でも、ワンチャンはなかった。
「それは他の人にお願いしてください」
萌菜美ちゃんは僕のお願いをかっこよく断った。
◇◇◇◇◇
でも、萌菜美ちゃんはこれまで通りに接してくれた。
二月に入ってからも、それは同じだった。
二月十三日は金曜日だ。
同僚たちと「十三日の金曜日会」を開く事になった。
毎回開いてる訳じゃないけど、今回はそれになった。
「高橋さんはこういうお店大丈夫?」
幹事で僕の事を狙ってる渡辺さんに気を遣われたので、
「好き嫌いはないよ。お酒も種類があるんでしょ? 楽しみだね」
本当はあんまり好みじゃないけど、そう言っておいた。
好みじゃないお店は「ちょっとおしゃれな居酒屋」という風情だ。
壁の所にちょっとした仕切りがある「半個室」という形態で、周囲の声は聞こえても、姿はそれほど見えたりしない。
渡辺さんの事を狙ってる伊藤さんと、狙ってない山本さんと、僕の事を狙ってない中村さんの合計五人で、まずは飲み物を注文する事にした。
種類はあるけど、飲みたいなーって思う物がなくて、
(もうこのクラフトビールでいいや)
僕が諦めたところで、
「小林さんはもなみんと同じ二十五歳だよ! 私だけ二十七歳!」
という未音の声が聞こえた。
僕は立ち上がった。そして、声がした方を覗き込んだ。すると、
「あ、こんばんは」
そこには萌菜美ちゃんがいた。
そして、その隣にちょっと派手な女の人と、あと、後ろにちょっとだらしなさそうな男の人三人もいた。
もちろん、さっきの声の主の未音もいた。
あからさまに目を泳がせている未音は、
「お食事会、楽しみだね……」
くるっと僕の方に背を向けて、だらしなさそうな男の人たちにそう言った。
怪しい。
これは怪しい。
怪しくない訳がない。
あんな相談したっていうのに、
あれからもちょくちょく相談してたのに、
いかがわしいお食事会に萌菜美ちゃんを誘ったんだな?
未音の事、信じてたのに。
「え、
派手な女の人が未音を気にして声をかけると、
「ああ、あの人、未音ちゃんの元彼なんだよ。私もお食事会楽しみー」
萌菜美ちゃんはちょっと派手な女の人に声をかけてから、席の方へ移動し始めた。
「芸能人かと思った! 未音ちゃんってやっぱすげぇな!」
だらしなさそうな男の人その一が僕を見て失礼な態度を取ったのに、
「ねー」
萌菜美ちゃんはいつもみたいにかっこいい事は言わなかった。
◇◇◇◇◇
こちらのお食事会も始まった。
クラフトビールはおいしくなかった。
何もかもがおいしくなかった。
(ホットミルクがいいな)
でも、そんな物はメニューにはない。
隣の席からは萌菜美ちゃんたちのグループの楽しそうな声が聞こえてくる。
「萌菜美ちゃんってどんなタイプが好きなの?」
だらしなさそうな男の人その二の質問を聞いて、
(僕も知らない)
そう思って、思った事自体が悲しくなった。
僕は萌菜美ちゃんは男の人が好きじゃないと思ってたから、そんな話はした事がなかった。
だから、
「見た目は何でもいいですね。とにかく思いやりがある人。いっぱい甘えさせてくれる人がいいなぁ」
僕とは正反対の人が好きなんだと知って、また悲しくなった。
「じゃあ、俺がいいって事?」
だらしなさそうな男の人その三が調子に乗るので、
(駄目だよ。僕も駄目だけど、君も駄目)
心の中から否定してみたのに、
「あ、そうかも」
萌菜美ちゃんは僕を否定した。
◇◇◇◇◇
僕は萌菜美ちゃんのお陰で自分に素直になれたけど、中身は前と同じまま。
同じまま、相変わらず他人を見下してる。
もしかしたら、萌菜美ちゃんが僕以外の人を好きになるなんて発想もなかったかもしれなくて、
それは萌菜美ちゃんの事も見下してるって事だから、
そんな僕は萌菜美ちゃんみたいなかっこよくて優しい人に好きになってもらえない。
せっかく羽根をもらえたのに、僕はまだ留まってる。
その羽根がどこにあるのか分からなくなりかけてて、
よく見ようとしても、
目の前にあるのは、自分の嫌なところばっかり。
全部剥き出しになって顕になった嫌なところが、僕にこう言う。
「私、あなたは無理。世界中を見下してるあなたが無理」
◇◇◇◇◇
その後の事はよく覚えてない。
メニューにテキーラがあったから、ずっとそれを頼み続けてた事までは覚えてるけど、
それからどうなったのかは分からない。
「高橋さん、帰れそう? タクシー呼ぶ?」
渡辺さんがベタベタ触ってくるけど、もうどうでもいい。
でも、
「あ、こいつは私が連れて帰るんで」
っていうかっこいい声が聞こえたら、どうでもよくなくなった。
◇◇◇◇◇
次に気がついたら、僕はタクシーに乗っていた。
隣には萌菜美ちゃんがいた。
「はい、お水」
そして、ペットボトルをくれた。
僕がペットボトルの蓋を開けようとして、何か手が滑って上手くいかなくて、その事に絶望してたら、
「覚えてますか? 私、『慶太さんがどうしても私と付き合いたいって言うなら、考えてあげなくもないです』って言いましたよね?」
萌菜美ちゃんはちょっとだけ僕の指に触れてから、蓋を開けてくれた。
優しい。
あと、指に触ってくれて嬉しい。
「うん。でも、付き合わないって言った」
嬉しいけど、僕は朦朧としながら事実を話す事しかできない。
しかも、タクシーが揺れてるから、水が上手く飲めない。
何か全部こぼれる。
「あんなの、『どうしても』じゃないでしょ? もっと本気で挑まなきゃ」
そう言いながら、優しい萌菜美ちゃんはいつの間にか手に持ってたタオルで僕の服を拭いてくれたし、
ペットボトルを手で支えてくれた。
◇◇◇◇◇
何とか家まで辿り着いた僕は、玄関で靴を脱ごうとしたのに、何故か転んでしまった。
凄く痛かった。
だから泣いた。
「痛いよぉ……」
しくしく泣いた。
萌菜美ちゃんはドアの鍵をかけてから、
「運べない。自分で歩いてください」
そんな事を言いつつも、僕の靴を脱がせてくれた。
優しい。
そのまま玄関で突っ伏して泣いてる僕の隣に座り込んだ萌菜美ちゃんは、
「泣いてるんだったら帰りますよ?」
ちょっと怒ったみたいに言って、
「さっきせっかくヒントあげたのに、まだプライド捨て切れないんだ」
今度は呆れたみたいに言った。
僕はまだ泣いてるけど、泣きながらも反論した。
「萌菜美ちゃんは僕の事なんか好きじゃないもん。だったらもういい。本当は僕だけに優しくして欲しいし、ぎゅうってして欲しいし、なでなでして欲しいけど、僕にはそんな資格ないもん。僕は優しくできないし、僕ばっかり甘えてるから、萌菜美ちゃんの好きな人になれないんだもん……」
反論したら自分が情けなくなって、それからは何も言えなくなって、泣く事しかできなくなった。
「はぁ……」
そんなため息の音がしても、泣くのをやめられなかった。
泣いてるから帰るのかと思ったのに、萌菜美ちゃんは帰らない。
その代わりに、僕の隣に寝転んだ。
狭い。
狭いから、僕の顔のすぐ傍に萌菜美ちゃんの顔が来た。
「私も結構飲んだんですよ。だから、帰るのめんどいんで、ここで寝てもいいですか?」
その綺麗な顔がそう言うから、
「風邪ひくから、お布団で寝て」
思わず僕が自分を棚に上げると、
「じゃあ、お布団に連れてってください」
萌菜美ちゃんは僕にぎゅうってしてくれた。
◇◇◇◇◇
僕たちはお布団で寝た。
着替えもせずに、一緒のお布団で寝た。
ただ寝ただけなんだけど、確かに一緒に寝た。
◇◇◇◇◇
次の日は土曜日、バレンタインデー。
チョコレートはないけど、
二日酔いの僕は、
一日中、萌菜美ちゃんにいっぱいぎゅうってしてもらった。
今日だけなのかな?
◇◇◇◇◇
その次の日は日曜日、バレンタインデーの次の日。
二日酔いは治ったけど、
夕方まで、萌菜美ちゃんはいっぱいいっぱいぎゅうってしてくれた。
でも、その後は帰っちゃった。
次もしてくれるのかな?
次もしてくれたらいいなぁ。
そのためだったら、僕は何だってするんだろうなぁ。
それくらい、僕は萌菜美ちゃんがぎゅうってしてくれるのが好き。
萌菜美ちゃんが好き。
大好き。
◇◇◇◇◇
どこへ行っても、
ただ、僕の気持ちは僕次第ってだけ。
君が僕のものだったらいいなってだけ。
君が僕のものだったらいいなってだけ。
読み込み中... 姉森 寧 @anemori_nei
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