震える、クチビル

アリスの鏡

震える、クチビル

「俺じゃダメですか?」


世界の彩度が、そこだけ変わってしまったのかと思った。街灯の薄明かりを浴びた悠太は、ここが近所の見慣れた公園であることを忘れさせるほどに美しくて、形の良い唇で紡がれる言葉すらも現実味を失って響く。


頭が何も指令を出してくれないから、唇は空気を柔らかく喰むように、ただハクハクと動くだけ。


「あの人には、彼女がいるじゃないですか」


逸らすこともできない大きな瞳が、私の反応を伺うように微かに潤んでいる。膝の上で握りしめられた拳が、小刻みに震えているのが視界の端に映った。


「……部室で隠れて泣いてたこと、俺が知らないとでも思った?」


彼の指先が、涙の痕をなぞるように私の頬を滑っていく。


「センパイが強がってるの見てると、腹立つんだよ。俺なら、絶対に泣かせたりしないのに」


少しだけひんやりとする公園のベンチも、頬を撫でる風も、全てはいつもと変わらないはずなのに、体を駆け巡る血だけが沸騰したかのように全身が熱い。


心臓が鐘を打ち鳴らす。それに耐えられないとでもいうように、いつの間にか大きな手に包まれた指先が、じんと痺れていく。


「……センパイ、俺を」


私に触れた手がとても熱いから……


「好きになってよ」


男の子なんだと思った。


「まっ……」


「待たない」


瞬く間に、なんてスムーズにはいかなくて。私の頬を包み込む大きな彼の瞳が、不安と熱をはらんで、まるで手探りをするように、少しずつ、ほんの少しずつ近づいてくる。その距離がもどかしくて、でも、その不器用な優しさに胸が高鳴る。


頬に触れた手があまりにも優しくて、私を溶かしていく。でも、その手のひらがほんの少し、ほんの少しだけ震えているから、私はゆっくりと瞳を閉じた。


「ん……」


秋の夜のひんやりとした風が、私たちの間をそっと吹き抜けていく。それなのに、触れるか触れないかという柔らかな温もりが、私の唇にそっと触れた瞬間、全身に抗えない熱が広がっていく。ただ触れるだけの、まるで確認し合うような、探るような優しいキスが、私の静まっていた鼓動を乱暴に変えていく。


「ん、はぁ……」


思わず漏れた甘い吐息は、静かな夜の空気に吸い込まれていく。彼は少しだけ唇を離して、熱っぽい眼差しで私を見下ろした。


「……そんな声、出さないでよ」


彼の声は低く、少し掠れていて、まるで自分を抑えつけているみたい。


「もっと……したく、なる」


今度は、触れるだけのキスじゃなかった。唇を噛むような焦燥と、逃がさないと言わんばかりの強い力が、私を強引に縫い止める。微かに震えていたはずの彼はもうどこにもいなくて、ただ私を求める熱だけが押し寄せてくる。彼の吐息が熱くて、少しだけ乱暴で、その熱に、私の頭の芯までとろりと溶かされていく。


息も忘れそうなほどに。


「ん……っ」


抗えない甘さに、唇から小さく声が漏れる。すると、彼の腕の力が一層強くなった。


私はされるがままになっている自分に少しだけ戸惑いながらも、そっと彼の胸に手を置いた。制服越しに伝わる悠太の心臓は、まるでこれから走り出すかのように早く脈打っている。


逃がさないと言わんばかりにきつく抱き締められ、熱い吐息が零れる。微かに汗の混じった、でも甘く感じる彼の匂いが私を包み込んだ。


「センパイ……俺だけ見てよ」


懇願にも似たその声は、掠れて、低く、痺れるような音になって鼓膜に届く。


「ゆう、た……」


私が彼の名を呼ぶと、悠太は一瞬、私から唇を離したが、すぐに額と額をくっつけて、瞳を熱っぽく細めた。


「……もう引けないよ。俺のものにするから、覚悟してね」


その低く甘い響きは、もはや問いかけでも懇願でもなく、私の逃げ道を完全に塞いでしまった。

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震える、クチビル アリスの鏡 @alicenokagami

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