第1話:殺意の天使としょっぱいお弁当
プロローグで恐怖のドン底に叩き落とされた翌日。
俺、速水悠斗は、もはや生きた心地がしなかった。
昨日の放課後、俺は全てを思い出した。
白鳥こころの潤んだ瞳。震える声。「殺すなんて、思ってないのに」という、殺意以外のあらゆる感情が込められた言葉。
そして、赤黒く点滅する殺意:999999の表示。
登校中、俺は道の端を歩き、背後を常に警戒し、電信柱の影にすら怯えた。
靴紐がほどけてるのに気づいたけど、しゃがんだら背後から襲われそうで結べない。
平和を愛する俺が、なぜこんなサスペンス映画の主人公みたいな目に遭わなければならないんだ。
教室のドアを開ける。
手が、汗でベタベタしてる。
心臓が、早鐘のように鳴る。
そこに、白鳥こころがいたら?
ナイフでも突きつけられたらどうする?
いや待て、そもそも学校にナイフ持ち込めないだろ。
でも殺意999999だぞ。常識が通用するのか?
だが、俺の目に飛び込んできたのは、予想とは全く違う光景だった。
白鳥こころが、俺の席の周りを小さなハンカチで拭いている。
机の上を丁寧に。椅子を丁寧に。
朝日が窓から差し込んで、彼女の髪を照らしている。
完璧な美少女が、俺のこの地味な男の机を、なぜ?
理解が追いつかない。
彼女は俺の存在に気づくと、ビクリと肩を震わせハンカチをスカートのポケットに隠した。
その仕草がやけに慌てている。
そして、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
足音が、静かな教室に響く。
逃げろ。
俺の本能が、最大級の警報を鳴らす。
だが、足は床に縫い付けられたように動かない。
こころは俺の目の前で立ち止まると深々と頭を下げた。
白いリボンが、さらりと揺れる。その匂いが甘い。
「昨日はごめんなさい。怖がらせてしまいましたよね」
声が震えている。
「あ、いや……」
「これ、昨日のお詫びです。その……もし、よかったら」
彼女が差し出してきたのは、可愛らしい風呂敷に包まれた二段重ねの立派な重箱だった。
いや、お弁当箱と言うべきか。
ずしりと重い。
お詫び?
お弁当?
俺の脳内は処理能力の限界を超えていた。
スマホをポケットの中で起動し、こっそりとアプリを立ち上げる。
画面が一瞬ノイズを走らせた。
アプリの注意書きの隅に、小さな赤字で警告文が表示される。
【WARNING: 感情波形の測定限界を超えています】
【NOTE: 観測対象の感情が極端な場合、翻訳精度が低下する可能性があります】
感情波形?
翻訳精度?
まるで、感情を物理量として測定しているかのような表現だ。
読んだ記憶はないのに、なぜか"知っている"感じがした。
でも、意味は分からない。
感情波形?
測定限界?
まるで、感情を物理量として測定しているかのような表現だ。
俺は、その警告文を何度も読み返した。
しかし、理解できない。
(これは、何を意味しているんだ?)
俺の混乱は、深まるばかりだった。
表示される数値は、やはり昨日と同じ。
殺意:999999。
間違いない。
俺は今、カンストした殺意のこもったお弁当を差し出されている。
これは、毒見か?
俺がこれを食べたら死ぬのか?
それとも、これを食べなかったら社会的に殺されるのか?
どちらにせよ、俺に選択肢はない。
「あ、ありがとう……」
震える手で重箱を受け取る。
ずしりと重い。
この重さは、俺の命の重さか。
いや、そんなわけないだろ。落ち着け。
でも殺意999999だぞ。
俺の机の引き出しにそっと重箱を押し込む。
開けたくない。
開けたら、中から何が出てくるか分からない。
チャイムが鳴る。
ホームルームが始まる。
担任の先生が何か言ってるけど、頭に入ってこない。
午前中の授業は、全く集中できなかった。
机の引き出しの中の重箱が、まるで時限爆弾みたいに感じる。
そして、昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、俺は親友の三浦ひなたに、事の経緯を小声で話した。
「は? 白鳥さんがお前に弁当? しかも殺意999999?」
ひなたは、心底意味がわからないという顔で首を捻った。
「なあ、速水。お前、何かしたんだろ。白鳥さんに、何かとんでもない無礼を働いたんだよ」
「してない! 挨拶くらいだ!」
「挨拶の仕方が悪かったとか?」
「普通に『おはよう』って言っただけだ!」
「声のトーンが気に入らなかったとか」
「知るか!」
俺の声が大きくなって、周りの生徒がこっちを見た。
やばい。白鳥さんに聞こえたら……。
「じゃあ、あれだ。イジメだ」
ひなたが小声で言う。
「イジメ!?」
「そうだよ。クラスの地味な男子にわざと手作り弁当を渡して、周りの反応を見て楽しむっていう、高度なイジメ。俺、詳しいんだ」
「お前、どこでそんな知識仕入れてんだよ」
「ネット」
ひなたの突拍子もない推理に俺は眩暈がした。
殺意か、イジメか。
どちらにせよ、地獄じゃないか。
「でもさ、食わないわけにいかないだろ」
ひなたが重箱を覗き込む。
「断ったら、それこそ殺されるぞ」
「分かってる」
俺は重箱を開ける手が震えた。
俺は覚悟を決めてお弁当の蓋を開けた。
中から現れたのは、完璧に彩られた芸術品のようなおかずの数々だった。
タコさんウィンナーが、恥ずかしそうにこちらを見ている。
そして真ん中には、綺麗なハート型の卵焼きが鎮座していた。
ハート。
殺意とハート。
情報量が多すぎる。
俺は意を決して、その卵焼きを口に運んだ。
箸が震えている。
ひなたが固唾を飲んで見守ってる。
次の瞬間俺は味覚を疑った。
しょっぱい。
とんでもなく、しょっぱい。
「んっ……!」
思わず変な声が出た。
砂糖と塩を間違えたレベルじゃない。
待て。
この塩分濃度、明らかに異常だ。
人間の味覚が「しょっぱい」と認識する閾値は約0.2%。
これは、推定で5%を超えている。
海水の塩分濃度が約3.5%だから、これは海水より濃い。
塩の塊をそのまま食べているようだ。
喉が...痛い。
水。水が欲しい。
でも、ペットボトル机の中だ。
取りに行ったら、こころに気づかれる。
「速水……お前、顔色やばいぞ」
ひなたが小声で言う。
「大丈夫か? 吐くなよ。ここで吐いたら、白鳥さんに殺されるぞ」
「分かってる……」
俺は必死に唾を飲み込んだ。
「……速水? どうした、その顔」
俺が顔面を痙攣させていると、いつの間にか隣に来ていたこころが、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
距離が近い。
こころが、俺の弁当箱の上に視線を落としたまま、長いまつげを震わせた。
何かを言いたいのに、飲み込んでいるみたいに。
「ご、ごめんなさい! やっぱり、しょっぱかったですよね!? 昨日の夜、緊張してその……塩と砂糖の容器を全部……」
彼女はそう言うと、わなわなと震え始めた。
ぽろっと一粒、机に落ちた涙を彼女自身が驚いたように見つめた。
小さな音がした。
その涙が落ちた瞬間、彼女の目に映るのは、自分の手だった。
その手が、また『失敗』を繰り返してしまったことへの悔しさ。
だが、それ以上に——
その失敗が『また起きてしまった』という、逃げられない運命感。
まるで、自分の感情が、自分の意志を超えて暴走しているかのような。
「しょっぱ……かったですよね……?」
声が卵焼きよりふるえていた。
その震えは、ドジをした少女の恥ずかしさだけではない。
もっと深い、何かが宿っていた。
だが、俺には、それが何なのか分からなかった。
待て。
涙の塩分濃度は約0.9%。
卵焼きの塩分濃度は推定5%以上。
つまり、彼女の涙の方が卵焼きよりも遥かに「しょっぱくない」。
なのに、なぜ俺は卵焼きより彼女の涙の方が、胸に染みるんだ。
「う、うわーん! ごめんなさーい!」
殺意の塊のような弁当を作ってきた張本人が泣いた。
しかも、俺のせいで。
クラス中の視線が俺に突き刺さる。
「速水白鳥さん泣かしたぞ」
「最低だな」
という幻聴が聞こえる。
違う。俺は被害者だ。
そう叫びたいのに涙を流す彼女の顔を見たら、何も言えなくなった。
子どもの頃、泣いてる誰かを見るのが苦手だった。
それが自分のせいなら尚更だ。
その顔はただの美少女だった。
ドジをして好きな男の子の前で泣いてしまった、ただの女の子の顔だった。
殺意なんてどこにもない。
少なくとも今の彼女の顔には。
俺はしょっぱい卵焼きを、もう一口、口に放り込んだ。
喉が焼ける。
「ううん、しょっぱくない。美味しいよ」
嘘だ。
大嘘だ。
しょっぱさが舌に突き刺さる。
まるで、塩が暴走族みたいに暴れている。
口の中が砂漠みたいにカラカラだ。
でも、俺がそう言うと、こころは泣き止んで、ぱあっと顔を輝かせた。
「本当……ですか……?」
鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔。
でも、その笑顔はやけに眩しい。
笑った瞬間、教室の空気が一瞬止まった。
殺意999999より先に、俺の心臓がカンストした。
その笑顔の破壊力は、殺意999999とは別の意味で俺の理性を吹き飛ばすのに十分だった。
窓から差し込む太陽の光に照らされて、彼女の笑顔が輝いている。
「速水……お前、マジで食ったのか……」
ひなたが呆れた顔で言う。
「お前、優しすぎるだろ……」
違う。
これは優しさじゃない。
ただの保身だ。
殺意999999から逃げるための必死の演技だ。
でも、なんでだろう。
胸が温かい。
(第1話 完)
次回予告
殺意弁当事件の翌日。
速水悠斗は、白鳥こころがカラスに襲われている場面に遭遇する。
彼女が手にしていたのは、昨日よりも豪華になった「リベンジ弁当」だった。
悠斗は彼女を助けようと飛び出すが——。
次回、第2話『リベンジ弁当と空飛ぶ殺意』。
殺意は重力に逆らい、好意は地面に落ちる。
この恋は、まだ落下の途中だ。
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