第21話

『デストロイシティ』クイーン・ヴィーネ役の最終オーディション。

​富士見大太は、張り詰めた緊張感の中で、ブースへと足を踏み入れた。最終選考に残ったのは、全国200名以上の応募者から選ばれたわずか数名。その中に、デビューしたばかりの「風花」がいること自体、異例中の異例だった。

​審査員席には、監督、音響監督、プロデューサーといった重鎮が並ぶ。そして、その中央には、この作品の生みの親であり、ヴィーネというキャラクターの全てを知る原作者、目白琥珀が座っていた。

​目白琥珀は、一切感情を表に出さない、冷徹な視線で知られる人物だ。その視線が、大太の顔、そして指先に施された紫の毒々しいネイルアートを一瞬捉え、すぐに台本へと戻った。

​(この場の誰もが、僕が『光の園のラジオ!』の陽向八尋だということを知っている。その僕が、史上最悪のゲスい悪役を演じる。このギャップこそが、僕に与えられた最大の武器であり、試練だ)

​大太は、心の中で深く息を吸い込んだ。

​――優雅な裏切りの演技

​オーディションの課題は、ヴィーネが最も信頼していた部下を処刑する直前の、「優雅な裏切りのモノローグ」だった。

​大太は、静かにヘッドホンを装着し、マイクの前に立った。役に入り込むスイッチとして、彼は全身に纏ったヴィーネの「影」のコスプレを思い浮かべた。

​「では、風花さん、お願いします」

​監督の声に、大太は目を閉じた。そして、「風花」の核である、高くて澄んだ声帯のコントロールを保ちながら、そこに黒川玲が要求した「冷酷な刃」の感情を注入した。

​「フフ…ああ、可愛い子。貴方の流した血は、きっと、この都市の明日を照らす光になるでしょうね」

​彼の声は、一切のノイズを含まない、究極の透明感を持っていた。しかし、その声は「癒やし」とは真逆の、極めて硬質な響きを帯びている。まるで、高純度の氷から発せられたかのように冷たい。

​彼は、最も残酷な一言を、あえて陽向八尋が使うような穏やかな関西訛りに乗せて囁いた。

​「…けど、あんたの忠誠心、全部、偽物やったんやね。ざんねんやわ」

​その瞬間、ブースの中にいる審査員全員の空気が凍りついた。優しさの象徴であったはずの「関西訛り」が、「親愛を装った、最も悪質な裏切り」の音色へと変貌したのだ。大太のトラウマから生まれた「誰にも触れさせない声」が、逆に、他者の心に最も深く刺さる刃となった。

​――原作者の「絶望」

​誰もが息を詰める中、微動だにしなかった目白琥珀が、初めて動いた。彼は、台本から顔を上げ、大太の目を見た。その瞳は、深淵を覗き込むように鋭い。

​「もういいです」

​琥珀は、静かに、しかし有無を言わせない声で言った。

​「…風花さん。貴方の声は、『絶望』を知っていますね」

​大太の心臓が跳ね上がった。僕のコンプレックス、僕の秘密が、たった今、この原作者に見抜かれたのだ。

​琥珀は続けた。

​「ヴィーネは、ただの悪役ではない。彼女は、『希望』というものを、愛し、求め、そして、それを『絶望』へと変える瞬間に、最高の悦びを感じる。他の誰の声にも、本物の悪意が滲む。だが、貴方の声には、『純粋な光』がある。だからこそ、それを裏切ったときの冷酷なまでの透明感が、完璧な**『優雅なサイコパス』**を完成させる」

​目白琥珀は、静かに頷いた。

​「素晴らしい。私の想像を超えた『ヴィーネの声』でした」

​その一言が、オーディションの結果を決定づけた。大太は、「光の偶像」として、最も遠いと思っていた「影の領域」に、最高の形で足を踏み入れたのだった。

​ブースから出た大太は、体中の力が抜けるのを感じた。

​「…美咲、悠斗」

「大丈夫ばい、兄ちゃん」

​悠斗は、すぐに大太を抱きしめた。

​養成所での黒川玲の課題、橘ほのかとの共鳴、そして桐島綾乃の戦略。全てが、この「絶望の共鳴」という一瞬のために収束していたのだ。風花の声は、今、光と影の二つの翼を得て、新たな舞台へと飛び立とうとしていた。


――『デストロイシティ』原作者・目白琥珀のモノローグ

​アフレコブースから、風花という青年が去っていった後も、審査員席の空気は熱を帯びたままだった。監督やプロデューサーは興奮した様子で、異例の即決を促している。

​私は、一切感情を動かさずに、テーブルの上に置かれた風花の経歴書を見つめていた。匿名アイドル『風花』。デビュー作は恋愛ノベルゲームの陽向八尋役。その声は「光の共鳴」「癒やしの周波数」と評されている。

​(まったく、安っぽい偶像だ。だが、その声の核は、本物だ)

​私の探求しているテーマは、常に人間の「希望とその破滅」だ。クイーン・ヴィーネは、単なる悪役ではない。彼女は、「希望」というものを純粋に愛し、それを自らの手で「絶望」に変える瞬間に快感を覚える、究極のエレガント・サイコパスだ。

​他の候補者の演技は、どれも「ゲスさ」や「悪意」が先行していた。それらは単なる「人間の影」だ。ヴィーネが求めるのは、そんな生ぬるいものではない。

​そして、風花の声。

​彼が発した「貴方の流した血は、きっと、この都市の明日を照らす光になるでしょうね」という台詞。あの声は、一切のノイズを含まない、高純度の「光の音源」だった。彼の声は、長年のコンプレックスとストイックな自己管理によって、ネガティブな感情の濁りを全て濾過されている。

​だが、その「光」が、「…けど、あんたの忠誠心、全部、偽物やったんやね。ざんねんやわ」という裏切りの言葉に乗せられた瞬間。

​優しさの象徴であったはずの穏やかな関西訛りが、最高の「悪質な刃」に変わった。それは、裏切りではなく、祝福だ。光を、最も冷酷な形で断ち切ることで、聴く者に「本物の絶望」を届けることができる。

​(そうだ。彼が恐れている「コンプレックス」は、彼自身の声の「純粋な光」だ。彼は、その光を誰にも汚されたくないから、必死で守ってきた)

​その「光」を知っているからこそ、彼は「影」を完璧に演じられる。

​私は、ゆっくりと立ち上がった。私の判断は、既に決まっている。

​「監督。この役は、風花以外にあり得ません」

​私の視線は、まだ熱狂が残るブースに向けられていた。

​「彼の声には、『希望』がありすぎる。だからこそ、ヴィーネが彼を選び、彼を通して絶望を語ることに、商業的、そして芸術的な価値がある。彼を起用することで、この作品のテーマである『デストロイシティ』の深淵が、初めて表現される」

​これは、感情ではない。作品の完成度のための、冷徹なまでの判断だ。

​風花という青年は、自分の人生をかけて磨いた「光の偶像」という鎧を身に纏いながら、私の創造した究極の「影の悪役」を演じることになる。彼がこの役を演じきったとき、彼は声優という枠を超え、光と影、二つの極を支配する、異質な表現者となるだろう。

​私は、ヴィーネというキャラクターの運命が、あの白い肌と高い声を持つ青年の手に委ねられたことに、最高の悦びを感じていた。

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