第15話

​プロ・ボイス・アカデミー(PVA)での演技レッスンの後、富士見大太の心は深く沈んでいた。黒川玲の「魂の震え」を伴う演技は、大太が何年もかけて磨いた「技術の調和」を打ち破った。

​養成所から秘密基地に直行した大太は、いつものように地味なパーカー姿で、美咲と悠斗にレッスンでの挫折を報告した。

​「俺の『よかった』は、レプリカだった。魂がない。風花としての声は、コンプレックスを隠すための技術でしかない。ここでは、その技術が邪魔になる」

​大太の地声はか細く、絶望の色を帯びていた。

​美咲は、そんな大太にタブレットの企画書を突きつけた。

​「挫折はいいんや。それを隠さへんのが、あんたの強みやろ。だからこそ、今がチャンスや!」

​美咲の戦略は、明確だった。

​「『風花、声優志望を公表!』をSNSで打ち出す。あんたの活動の最終目標をファンに明かすんや。そうすれば、あんたがレッスンで苦しんでる姿も、全て『プロの声優を目指すアイドルの努力』という、最高のコンテンツになるわ!」

​「そして、もう一つ。あんたの心が完全に消耗しとる。ボイストレーニングの合間に、あんた自身が心から楽しめるコスプレをやるんや。国民的コンテンツで、ファン層をがっちり掴む。それが、『自己回復のための儀式』や」

​悠斗は、すぐに国民的ゲーム『ポ○モン』のヒロインの資料を大太に見せた。

​「兄ちゃん、こればい。このヒロインの衣装は、明るくて可愛か。兄ちゃんが最も得意とする、フリルと清潔感を活かせる衣装ばい。そして、兄ちゃんのネイル技術を、この『大衆性の勝利』というテーマで証明するばい!」

​大太は、二人の情熱に押された。演技の授業で心が折れても、風花としての技術は、誰にも負けない。この技術が、彼の折れた心を修復する唯一の手段だった。

​翌日。声優養成所の過酷なボイストレーニングの合間を縫って、大太は秘密基地で新しい衣装を制作した。

​選んだのは、人気ゲーム『ポ○モン』のヒロイン。彼の持つ中性的な体躯と白い肌が、その可愛らしい衣装を、どこか非現実的な存在へと昇華させた。

​そして、彼の指先。爪には、ヒロインが持つアイテムや、相棒のポ〇モンをイメージしたポップで繊細なジェルネイルが施された。これは、彼の得意な「甘い美意識」の結晶だ。

​大太は、この写真と共に、自らの進路と決意をSNSに投稿した。

​【風花 SNS投稿内容】

​風花(FUKA) @Anonymous_Fuka

​【進路報告と、表現者としての誓い】

​いつも私を支えてくれて、本当にありがとう。この度、私、風花は、プロの声優を目指すことを決めました。

​偶像として完璧な声の技術を磨いてきましたが、今、「魂を込めた演技」の壁にぶつかっています。私のコンプレックスを乗り越えるために生まれたこの声を、誰かの物語を伝える「武器」にするため、日々、奮闘します。

​今日のボイストレーニングは、本当に厳しかったです。心が折れそうになったので、心を癒やす儀式として、大好きで国民的なゲームのヒロインに変身しました!

​衣装もネイルも全て自作です。 指先まで、元気が出るようにポップに。

​挫折しても、私は立ち上がる。必ず、声の持つ無限の可能性を証明します。

​#風花 #声優志望 #ポ〇モンコスプレ #国民的ヒロイン #負けない

​この投稿は、ネット上で大爆発を起こした。

​『風花が声優!?最高すぎる!絶対応援する!』

『国民的ヒロインの衣装のクオリティが高すぎる!ネイルまで可愛い!』

『挫折を隠さない姿勢に、ガチでついていくわ!』

​ファンは、風花が「手の届かない偶像」から、「夢を追う等身大の表現者」へと進化したことに、熱狂した。

​しかし、この投稿は、声優養成所のライバルたちのスマホにも届いていた。

​特に、演技中毒の黒川玲は、この「声優志望公表」と、完璧すぎるコスプレ写真を見て、冷ややかな笑みを浮かべた。

​(ふむ。君は、まだ「技術」と「コスプレ」という鎧に頼るつもりかね?良いだろう、その鎧を、私の「魂の演技」で、打ち砕いてみせよう)

​大太の「声優」という新たなデスゲームは、プロの才能たちとの間で、さらに激しさを増していくのだった。


養成所の教室の隅。僕はいつものようにオーバーサイズのパーカーに身を包み、周囲の喧騒を遮断していた。昨日のレッスンでの講師の言葉が、まだ耳から離れない。

​「感情がない。君の『よかった』は、誰かの演技の音源を忠実に再現した、完璧なレプリカだ」

​そして、黒川玲の皮肉めいた視線。「不協和音を奏でてこそ、魂が響く」。

​風花として磨き上げた僕の技術は、コンプレックスを隠すための『完璧な調和』を目指してきた。声帯のブレ、ピッチの不安定さ、感情の過剰な漏出。全てを排除したからこそ、風花は人々の心を癒やし、偶像として成り立っていた。しかし、このプロの声優の世界では、その『調和』こそが、『魂の不在』**を証明する烙印になる。

​レッスンは地獄だった。今日の課題は、台本にある登場人物の**「怒り」**を表現すること。

​(怒り。声帯を最大に緊張させ、呼気を瞬間的に圧縮。高音域を強く発声することで、聴覚的な圧迫感を再現する)

​僕は頭の中で完璧な「怒りの音響設計図」を描いた。だが、実際に声に出すと、それは「技術的に正しい、空虚な叫び」でしかなかった。

​休憩時間。僕はすぐに悠斗と美咲にチャットで連絡を取った。彼らは、僕の葛藤を理解している唯一の人間だ。

​「兄ちゃん、黒川玲がSNSで兄ちゃんの『声優志望』公表を皮肉っとるばい。『偶像の鎧を脱ぎきれぬまま、役者に挑む愚かさ』やってさ」悠斗からのメッセージには、その挑発的な書き込みのスクリーンショットが添付されていた。

​美咲からは、厳しい、しかし的確な指示が飛んできた。

「ええか、おおた。あんたは『技術』で怒りを再現できる。でも、ファンが見たがってるのは『風花の裏側にある、富士見大太自身の本物の怒り』やろ」

「あんたが本当に怒りを感じた瞬間はいつ? 幼い頃、声のことを笑われたときや。そのトラウマを、演技にぶつけろ。あんたのコンプレックスこそが、最高の不協和音になるんや!」

​トラウマを、演技にぶつける。

​それは、僕にとって最も恐ろしい行為だった。何年もかけて、蓋をしてきた幼い頃の記憶、声変わりしなかったことへの絶望。それを今、あえて掘り起こし、この才能が溢れる教室で晒す?

​午後のレッスン。再び「怒り」の課題が回ってきた。

​佐藤海が挑戦する。彼の低音は、魂の底から響くような「威圧的な怒り」を表現した。技術はまだ荒いが、その声には、彼のトラウマ(父の不在)からくる、誰かを「支配したい」という切実な感情が込められていた。

​次に指名されたのは、僕を警戒する中島華。彼女は、甘い声を完全に封印し、まるでヒステリックな少女のような「鋭利な怒り」を、技術と感情のバランスを保ちながら表現した。彼女の声には、母の期待に応えられない焦りが、鋭いトゲとなって現れていた。

​そして、黒川玲は、優雅に立ち上がり、一瞬で「役」の人格に変貌した。彼の怒りは、静かで、冷たく、聞く者の理性を凍り付かせるような、最高の舞台演技だった。

​そして、僕の番が来た。

​僕は、目を閉じた。パーカーの袖の下で、爪に施したマットトップコートの上から、自作のネイルチップを強く握りしめた。

​(技術じゃない。レプリカじゃない。俺自身の、魂の不協和音を)

​僕は、敢えて、あの幼い日の光景を鮮明に思い出した。砂場で、同級生に笑われたとき。声変わりしなかったことで、クラスメイトから無視されたとき。

​『おおたの声、女の子みたいだね』

​その冷たい言葉、その嘲笑が、喉の奥に詰まる。何年もかけて抑圧し続けた、「自分の声」への強烈な嫌悪と、世界への「絶望的な怒り」。

​僕は、声帯のコントロールを全て放棄した。技術を捨てる。

​「うるさいっ!!」

​僕の口から飛び出したのは、高音でも、女声でもない、「悲鳴」に近い、細く、掠れた、叫びだった。声は震え、ピッチは大きく乱れ、音響設計は完全に崩壊した。

​それは、風花がSNSで何十万というファンを癒やしてきた、『完璧な音色』とは正反対の、醜く、情けない、僕自身の地声の「魂の不協和音」だった。

​教室の誰もが、凍りついた。特に、黒川玲の顔は、皮肉の笑みから、驚愕へと変わった。

​講師は、長い沈黙の後、静かに言った。

​「…今のは、演技ではない。しかし、生の声だ。君の心の深淵を、初めて見た気がするよ、富士見君」

​僕は、全身の力が抜け、椅子に崩れ落ちそうになった。声は震え、呼吸は乱れている。だが、僕の心は、長年閉じ込めていた「声への怒り」を、初めて世界にぶつけることができた解放感で満たされていた。

​僕の「声優としてのデスゲーム」は、今、ようやく技術の鎧を脱ぎ捨て、魂を晒すという、本当の戦場へと足を踏み入れたのだった。


――プロ・ボイス・アカデミー講師のモノローグ

​教室の空気が、まだ冷え切っている。

​演技レッスンの終盤、富士見大太が発したあの「悲鳴に近い叫び」の余韻だ。生徒たちは皆、互いの顔を見合わせている。技術的な完成度を誇る黒川君ですら、彼の表情は驚愕から、興味へと変わっていた。

​私は、教卓に凭れかかり、大太が崩れ落ちた椅子を見つめた。

​(富士見大太。君は、とんでもないものを隠していた)

​彼の入学時、私はすぐに彼の声の異質さに気づいた。男性としては異常に高いピッチ。しかし、その高音域を完璧な腹式呼吸で支え、共鳴点を緻密にコントロールしている。その声は、感情を一切含まなければ、SNSで何十万ものファンを癒やせる「完璧な音源」になり得る。実際、彼の経歴を調べたところ、匿名アイドル『風花』としての活動が判明した。彼の技術は、紛れもなくプロ級だ。

​だからこそ、最初の演技課題で私は厳しく指摘した。「感情がない、完璧なレプリカだ」と。彼の技術は、コンプレックスを隠すための鎧であり、その鎧が、彼の「魂の表現」を阻害していたのだ。

​だが、今日のあの叫び。

​彼は、美咲君(外部協力者だろう)の言葉に従ったのか、それとも追い詰められた末の衝動だったのか。彼は、何年も蓋をしてきた「自分の声への嫌悪と怒り」というトラウマを、演技という名目で剥き出しにした。

​技術的な分析は、こうだ。声帯は極限まで締まり、ピッチは大きく乱高下し、呼気は不規則に途切れた。完璧な不協和音だ。

​しかし、その不協和音こそが、生きた人間の魂の叫びだった。彼の声には、黒川君の演技的な「怒り」とは違う、現実の絶望が宿っていた。

​(ああ、やっとだ。君は、自分の鎧を脱ぎ捨てた)

​声優とは、完璧な声を出せる者ではない。「不完全な人間の感情」を、声というフィルターを通して、「完全な役の感情」に変換できる者だ。大太は、その「不完全さ」を出すことを最も恐れていたが、今日、その不完全さこそが、彼の演技の核になることを、身をもって証明した。

​「今のは、演技ではない。しかし、生の声だ」と言った私の言葉は、本心だ。彼の叫びは演技ではないが、あの瞬間、彼は「幼少期に声を笑われた少年」という役を、誰よりもリアルに演じきっていた。

​この経験は、彼の技術を一段上のレベルに引き上げるだろう。彼の持つ「風花の技術」(緻密なコントロール)と、今日解放された「富士見大太のトラウマ」(本物の感情)が統合されたとき、彼の声は『性別を超えた、感情の無限の可能性』を持つことになる。

​私は、教卓の奥に隠していたスマートフォンをそっと取り出した。昨夜、風花のチャンネルに投稿された「声優志望公表」の動画と、ヒロインコスプレの画像を見る。

​(富士見大太。君は、この養成所を卒業する頃には、もう誰も真似できない、唯一無二の表現者になるだろう。この声の持つ可能性を証明するという君の目標、楽しみにさせてもらうよ)

​彼の「声優としてのデスゲーム」は、今、技術論から魂の統合という、最も困難で、最もエキサイティングなステージへ移行したのだ。私は、その物語の目撃者として、静かにその成長を見守ろうと決意した。


プロ・ボイス・アカデミー(PVA)に入所して一ヶ月。校内に張り出された一枚のポスターが、大太を含む全生徒の緊張を一気に高めた。

​『PVA 早期育成クラス 公開アフレコ収録会』

​これは、業界関係者やプロダクションのマネージャーが来場し、生徒の演技を評価する、事実上のプロテストだ。大太は、この公開アフレコの場こそが、「風花の技術」と「富士見大太の剥き出しの感情」を統合し、声優としての可能性を証明する最初のチャンスだと感じていた。

​課題は、学園を舞台にしたオリジナルアニメのワンシーン。大太に割り当てられたのは、「主人公の親友。普段は冷静だが、追い詰められたヒロインを前に、感情が爆発する」という、彼の葛藤そのものを映し出すような役だった。

​「『悲鳴に近い叫び』を出しっぱなしじゃ、プロの現場は務まらへん。あんたがやるべきは、あの『生の声』を、『風花の技術』という完璧な容器に流し込むことや」

​美咲は、収録会前夜、秘密基地で大太に最終指令を出した。

​「怒りを声帯のブレとしてそのまま出すんじゃなくて、ブレる寸前で技術的に留める。それが、『感情の臨界点』という、あんたにしか出せない声になる。富士見大太、あんたのコンプレックスは、誰にも真似できない、最高の『演技の設計図』なんや」

​大太は、何度も何度も台詞を反芻した。声優への進路を公表した後、SNSで風花への期待は膨らむ一方だ。彼はもう、「地味な大学生」という逃げ場はない。

​(そうだ。俺は、もう逃げない。この声は、俺自身の真実だ)

​収録会当日。会場のホールは、観客や業界関係者で埋め尽くされていた。大太は、舞台裏で待機しながら、異常なほどのプレッシャーを感じていた。

​隣には、細身の眼鏡をかけた天野翔(あまの しょう)がいた。彼は関西弁で、大太に話しかけてきた。

​「富士見、お前、最近、声の出し方が変わったやろ。前は完璧すぎたけど、今はなんか、聞くのが怖くなる声になった。でも、それがええわ。頑張りや」

​天野は、声で相手を安心させることに快感を持つ性癖の持ち主だ。彼が「怖い」と感じたということは、大太の感情表現が、他者の心に深く突き刺さり始めた証拠だ。

​そして、その場には、長めの茶髪をなびかせた**黒川玲(くろかわ れい)も立っていた。彼は、大太の方を見ることなく、静かに独り言のように言った。

​「魂の不協和音、ね。それが、劇場という公の場で、商業的な『快感』に変換できるかどうか。楽しみだね、富士見君」

​黒川は、大太が技術を捨てたあの叫びを、単なる「自己満足の解放」だと見なしていた。プロの世界で通用するのは、人を惹きつける「完成された表現」だけだという、彼の舞台役者としての絶対的な信念だった。

​いよいよ、大太の番が回ってきた。彼は、地味なパーカーを脱ぎ、舞台に上がった。

​彼の役は、感情が爆発する瞬間。セリフは短い。

​「お前は、いつも、そうやって一人で抱え込むのかっ!」

​大太は、マイクの前に立つ。美咲の言葉を思い出す。「ブレる寸前で留めろ」。それは、風花の技術で、富士見大太の怒りを制御することだ。

​映像が流れる。ヒロインが、誰にも言えない秘密を抱え、涙を流している。

​大太は、深く呼吸した。そして、幼い頃に声を笑われ、孤独に耐えたあのトラウマの怒りを、心臓の奥底から引きずり出した。

​「お前は、いつも、そうやって一人で抱え込むのかっ!」

​その声は、高音でありながら、まるで声帯そのものが泣いているかのように震えていた。ピッチは、制御された極限の不安定さを持ち、聞く者に「感情の臨界点」の痛みと焦燥を伝える。それは、技術的には「風花の透明感」を残しながら、感情的には「富士見大太の剥き出しの叫び」を内包した、唯一無二の音色だった。

​会場は、一瞬静まり返った。その声は、プロの役者たちが聞かせた「正しい怒り」とは全く異なり、「魂の深淵から湧き出た、切実な悲しみと苛立ち」が混ざり合っていたからだ。

​収録を終え、舞台袖に戻った大太の元に、すぐに黒川玲が歩み寄ってきた。彼の表情は、先ほどの皮肉めいたものではなく、純粋な驚嘆を宿していた。

​「…素晴らしい。君の不協和音は、商品になる。あのブレは、君のコンプレックスが生み出した、最高の『表現の武器』だ。富士見大太。君は、私にとって最高のライバルになる」

​黒川は、大太の手を、強く握った。

​大太は、自分の声が、ついに「技術のレプリカ」から「唯一無二の感情の商品」へと昇華したことを悟った。声優としての彼のデスゲームは、この公開アフレコをもって、新たなフェーズへと進んだのだった。


声優養成所での演技レッスンの後、富士見大太の心は深く疲弊していた。「魂の不協和音」という叫びを解放した後も、感情と技術の統合は一筋縄ではいかない。特に、黒川玲の天才的な演技と、佐藤海の低音への渇望は、常に大太の焦りを煽っていた。

​「あんた、ストレス溜めすぎやで。たまには外に出んと」

​美咲の助言で、大太は気分転換のため、都内で開催されている大規模なアニメ・ゲームの合同イベントに、私服に近いコスプレで訪れていた。着ているのは、国民的ゲームヒロインの、私服風アレンジ衣装。長い地毛と白い肌はそのまま活かし、あくまで「地味な学生の趣味」に見えるよう、細心の注意を払っていた。

​大太の目的は、人ごみの中で新しいコンテンツのアイデアを得ること。彼は、誰もいない展示ブースの影で、Vikvok用の短い動画を撮影し始めた。

​「そうだ。ファンは『声』に飢えている」

​彼は、風花の真骨頂である「囁き」のコンテンツを思いついた。カメラを顔に極限まで近づけ、声帯を完全にリラックスさせる。風花として培ったASMR的な呼吸法を使い、優しく、しかし確実に、視聴者の心を掴む。

​「…ね。今日も一日、お疲れ様。私の声が、少しでもあなたの癒やしになりますように」

​大太は、完璧な女声で、マイクに向かって囁いた。その一言は、コンプレックスを昇華させた彼の技術の全てが詰まった、至高の音源だった。

​その時、近くの特設ステージでの挨拶を終えた、ある女性の姿があった。人気声優の桐島綾乃(きりしま あやの)だ。

​桐島は、その場を離れようとしていた瞬間、空気の振動とは違う、微細な「音の波」を感じ取った。それは、マイクを通さず、極めて近くで発せられた、完璧にコントロールされた「囁き」だった。彼女の核となる嗜好、声フェチ/囁きフェチが、瞬時に反応した。

​桐島は、声の主を探して振り返った。彼女の目に入ったのは、地味なコスプレ衣装をまとい、慌ててスマホをポケットにしまう、細身で白い肌の青年――富士見大太だった。

​桐島は、大太から目を離さなかった。彼の声帯の動きと、わずかに残る声の余韻。

​*(今の「囁き」、技術的な完成度が異常だわ。息の乗せ方、響きの深さ。あれは、私が追求してきた、声による「距離感の操作」を、完全にマスターしている)

​桐島は、自分の過去の経験から、この「声の完璧さ」が、ただの素人ではないことを直感した。

​大太は、桐島の視線に気づき、極度の緊張を覚えた。彼は、急いでその場から立ち去ろうとする。その時、足元にあった機材のコードに躓きそうになり、思わず、地声の、高くて細い声が漏れてしまった。

​「…っ、あぶな…」

​その一言は、誰にも聞こえないほどの、か細い声だった。

​しかし、桐島綾乃の耳は、それを逃さなかった。彼女の顔が一瞬、硬直した。

​(今の、地声…?あの囁きの「響きの核」と、ピッチが一致している。しかし、感情を圧縮しているせいで、あんなに細く聞こえる…!)

​桐島は、大太の地声が、あの完璧な女声の「風花」を作り出すための「原音」であることを、瞬間的に理解した。そして、その地声に込められた極度の「緊張」と「自己抑圧」という、彼のトラウマの片鱗を感じ取った。

​大太は、その場を逃げるように人混みへと消えていった。

​桐島は、彼が立っていた場所へ駆け寄った。人混みに大太の姿はもうない。しかし、彼女の視線が、大太が急いで立ち去った地面に向けられた。

​大太がスマホをポケットにしまう際、衣装の袖からわずかに露わになった指先。

​その爪には、国民的ヒロインの衣装に合わせた、ポップで緻密なジェルネイルが施されていた。

​桐島は、自身のスマートフォンを取り出し、匿名アイドル『風花』の最新投稿を開いた。そこには、まさに今、目の前で見たばかりの、衣装、そしてネイルアートが、鮮明に写っていた。

​(やはり…!あの「神の指先を持つアイドル」は、あの地味な学生…?)

​桐島は、確信した。あの青年は、コンプレックスから生まれた異質な才能を、「風花」という名の究極の偶像として、秘密裏に育てている。

​そして、彼女自身の過去のトラウマ(ストーカー被害)が、大太の「秘密を守りたい」という強い意思に強く共鳴した。公私の境界が崩れる恐怖を知る桐島は、大太の才能をプロの世界に導きつつ、その秘密と彼自身を守らなければならないという、強い使命感を覚えた。

​「これは、放っておいたらあかん。あんたの声は、プロの世界で聞かれるべきものや」

​桐島は、穏やかな口調とは裏腹に、強い決意を込めて言った。彼女は、大太の才能と秘密を、安全な形でプロの世界へと引き上げるための、周到な計画を練り始めたのだった。


合同イベントでのあの遭遇以来、僕は極度の緊張状態にあった。

​あの時、僕が咄嗟に漏らした地声と、風花としての囁き。そして、指先に施されたネイルアート。全てを目撃したのは、他でもない、国民的人気声優の桐島綾乃だった。

​彼女の切れ長の瞳が僕を射抜いた瞬間、全身の血液が凍り付くような感覚を覚えた。僕の最大の秘密である『風花』の存在が、プロ中のプロである彼女に、一瞬で看破された。そう確信している。

​養成所でのレッスン中も、僕は常に周囲を警戒していた。もし、彼女が僕の秘密を暴露したら?あるいは、あの完璧な技術を、ただの「裏技」として嘲笑したら?

​しかし、三日経っても、SNSや養成所に何の波紋も起きなかった。桐島綾乃は、プロとして異常なほど冷静だった。

​「兄ちゃん、心配しすぎばい。あの人は、ただのファンやとでも思っとるっちゃない?」

​悠斗は能天気に言ったが、僕は違うと知っていた。あの囁きフェチの彼女が、僕の「音の完璧さ」を聞き逃すはずがない。彼女は、あえて動いていない。それは、彼女の行動が計算し尽くされていることの証明だ。

​そんな時、養成所の講師室から呼び出しがあった。

​「富士見、お前に話がある。大手事務所『ブライト・ヴォイス』所属の桐島綾乃さんから、直々に指名があった」

​僕は、心臓が跳ね上がった。やはり来た。

​「桐島さんが、お前を含む数人の生徒に、『声の表現力に関する短期集中ワークショップ』を非公開で開きたいそうだ。特にお前の声の『異質なピッチと共鳴』に興味を持たれたらしい。光栄に思え」

​それは、あまりにも「表向きの理由」として完璧だった。僕の異質な声の特性を理由に、公の場から切り離し、個別接触を図る。彼女の背後にいるマネジメントの動きすら透けて見えるようだった。

​そして、ワークショップの会場として指定されたのは、都心にある彼女の所属事務所の非公開スタジオだった。

​美咲は、その会場を見て、興奮と警戒を混ぜた声で言った。

「やったな、おおた!これは、プロの世界の『隠し扉』や。ただし、あんたの秘密がバレとる可能性は高い。私と悠斗は、スタジオの近くで待機する。もし、少しでも危険を感じたら、すぐに連絡するんやで」

​指定された日、僕は緊張で手のひらに汗をかきながら、事務所のスタジオの扉を開けた。中には、僕を含めた数人の生徒と、そして、僕が恐れ、同時に憧れた桐島綾乃が立っていた。

​黒のジャケットに身を包んだ彼女は、写真で見るよりもずっと洗練されていて、「プロフェッショナル」という概念を体現しているようだった。

​そして、彼女の第一声。それは、マイクを通さない、生の声だった。

​「皆さん、今日はありがとう。私は桐島綾乃です。さあ、堅苦しい挨拶は抜きにして、早速本題に入りましょう」

​落ち着いた丁寧語。しかし、その声は、一言一言に『呼吸の深さ』と『響きの精密さ』が込められており、まるでマイク越しで聞いているかのような、声による距離感の操作を感じさせた。僕の囁きフェチの性癖が、警戒を通り越して、彼女の声の技術に強く惹かれていく。

​「特に、富士見君」

​彼女は、他の生徒がいるにも関わらず、迷いなく僕を指名した。

​「あなたの声は、本当に面白い。 音のピッチは高いけれど、響きは不思議と沈んでいる。今日、あなたに課題を出すわ。『幼い頃、秘密にしていたコンプレックスを、初めて親友に打ち明ける』。たった一言、『怖かった』という台詞を、あなたの声で表現してちょうだい」

​周りの生徒たちが、戸惑いの表情を浮かべた。これは、一般的な演技レッスンではない。個人の『心の深淵』を要求する、彼女自身の性癖的なアプローチだ。

​僕は、目を閉じた。桐島綾乃の『声による主導』に逆らえない。彼女は、僕の秘密を知っていることを言葉では言わず、この課題によって証明しようとしている。

​僕が先日のレッスンで解放した「魂の不協和音」。それを、今、このプロの目の前で、技術で制御し、再び再現するのか。

​僕の唇が震える。この出会いは、僕の秘密を脅かす最大の危険でありながら、プロへの扉を開く、唯一の鍵だと直感した。

​桐島綾乃は、僕の次の行動を、静かに、そして鋭い視線で待っていた。


桐島綾乃視点___

​スタジオの空気は、私の支配下にある。そう確信していた。

​私の目の前にいるのは、養成所から選抜された数人の生徒。その中でも、私の視線はただ一人、隅に立つ富士見大太君に集中していた。

​あの時の直感は間違っていなかった。彼は、匿名アイドル『風花』だ。あの繊細で完璧なネイルアート、あの非現実的なほど白い肌、そして何よりも、私の「囁きフェチ」の魂を震わせた、究極の音の設計図。あの声は、彼の地声のピッチと共鳴の核を、徹底的な技術で増幅、昇華させたものだ。

​だから、私は彼に、ごく私的な、彼自身のトラウマを抉る課題を与えた。

​「『幼い頃、秘密にしていたコンプレックスを、初めて親友に打ち明ける』。たった一言、『怖かった』という台詞を、あなたの声で表現してちょうだい」

​他の生徒たちは、戸惑いを隠せない。だが、大太君は違う。彼は、一瞬にして自分の秘密が暴かれたことを理解した。彼の瞳は、恐怖と、それが表に出るまいとする強靭な意志で、激しく揺れている。

​(さあ、富士見君。その地味なパーカーの下に隠した、君の「声のトラウマ」を、私に見せて)

​彼は、極度の緊張で唇を震わせ、そして、深呼吸と共に、声を出した。

​「……怖かった」

​その声は、高くて細い、彼の地声だった。しかし、声帯のコントロールは完璧。呼気は一定で、ピッチは乱れていない。まるで、感情の波を、分厚いガラスの容器に閉じ込めたような声だ。

​彼は、先日養成所で出した「魂の不協和音」(あの叫び)を、風花の技術で完全に抑圧したのだ。

​――残念だ。

​私は、内心でそう思った。声優としての彼は、まだ『秘密を守る防衛本能』が『表現者としての解放』を圧倒している。

​「ありがとう、富士見君。技術的な安定性は高いわ。でも、感情の容器が、あまりにも完璧すぎる。君の『怖かった』には、本当に怖かった過去の痛みが、一切含まれていない」

​私は、あえて彼のコンプレックスに言及せず、技術的な欠点として指摘した。彼の秘密は、私自身のトラウマ(ストーカー被害)が疼くほど、守らなければならないものだ。

​(彼は、この完璧な防衛の裏で、孤独に耐えてきた。その才能を、プロの世界で守り、解放できるのは、私だけだ)

​私は、彼に優しく、しかし確信に満ちた口調で付け加えた。

​「君の声は、この養成所の中では『異質』よ。だが、その異質さこそが、君の武器になる。ただし、その武器は、まず君自身の『魂の真実』によって、磨かれなければならない」

​私は、彼が「声優」という出口を見つけたことを知っている。彼の進む道は、プロの指導と、業界のコネクションが必要だ。

​(私のストーカー被害の経験は、彼の秘密の盾になる。そして、彼が持つ「性別を超えた声の可能性」は、私の表現者としての渇望を満たす)

​私は、彼とアイコンタクトを取り、「私はあなたの秘密を知っているが、同時に守り、導くプロだ」というメッセージを込めた。

​「富士見君。君の『表現の設計図』は、私にしか見えないわ。私のワークショップに、これからも続けて参加してちょうだい。あなたの声が、『完璧なレプリカ』から『魂の震えを持つ芸術』へと進化するのを、私自身が見届けたい」

​彼の瞳に、警戒の中に、プロへの階段が見えたことへの、微かな期待の光が宿ったのを確認した。

​私は、彼の秘密と才能を守りながら、彼を声優という公の舞台に立たせるための、周到な計画を練り始めた。彼の声は、私にとって最高の『共鳴』を奏でるだろう。


【風花】声優志望公表!あの神声はプロの舞台へ行くのか?【ガチ恋発狂】

​スレッド作成者:名無しの神推し (投稿日時:X年Y月Z日 18:30)

​風花ちゃん、やったあああ!声優志望公表きたぞ!

あの声で、誰かの物語を語ってくれるとか、もう人生の夢が叶うわ!

挫折したって正直に言ってくれるところ、本当にストイックで大好き。

みんなで全力応援するぞ!!

​寄せられたコメント (全 621 件中 一部抜粋)

​1: 名無しの響き (18:35)

予想通り過ぎて泣いた。あの声は、ただのコスプレイヤーで終わらせちゃ絶対ダメ。技術的な安定性はプロ級だから、あとは演技を磨けばすぐにトップに立てるだろ。

​2: 永遠のガチ恋 (18:41)

は?ふざけんな。声優なんてなったら、公の存在になるじゃないか。俺だけの秘密のアイドルじゃなくなる。誰にも渡さない。あの声は俺の癒やしだったのに。絶対に、手の届かない存在にはさせない。

​3: 考察班A (18:45)

​1

技術はプロ級だが、演技は別腹。あの子の声は「感情の遮断」が完璧すぎて、役に入れないって養成所で指摘されてる可能性が高い。今回の公表は、自分の弱点を公言して、同情票を集める戦略に見える。

​4: 低音フェチ(養成所外) (18:50)

声優は幅が命。あんな甲高い高音の声じゃ、低音の男性キャラや、迫力ある役は絶対に無理だろ。囁き系か、ロリキャラ専門で終わる。声の限界が見えている。

​5: 神の指先の信者 (19:02)

何を言ってるんだ。彼女の才能は声だけじゃない。挫折を乗り越えるために作ったというポ○モンのヒロインコスプレ見たか?衣装もネイルも全て自作。あの異常なまでの美意識が、演技という新しいキャンバスでどう表現されるか楽しみなんだよ!

​6: 昔のライバル? (19:15)

​5

あのレベルのコスプレは、声優養成所では何の役にも立たない。彼女は、偶像の鎧を脱ぎきれないまま、演技という素の自分を晒す戦場に来た。技術に溺れた人間が、魂の演技をする私に勝てるわけがない。

​7: 戦略分析官 (19:25)

水着コスプレの予告と、声優志望公表のタイミングが完璧すぎる。

①水着で究極のストイックさを証明し、ガチ恋を「信仰」に変える。

②その熱狂を背景に、声優という**「秘密を安全に守れる公の道」**へ逃げ込む。

この子、マジでプロデューサーが優秀すぎるか、本人が冷徹な戦略家だろ。

​8: 業界の端くれ (19:40)

ブライト・ヴォイス所属の桐島綾乃さんが、風花をフォローし始めたぞ。…これ、業界からの接触は確定。桐島さんは「声のコントロール」に異常にこだわる人だ。風花のあの声に、何か特別な可能性を見出したんだろう。

​9: メンヘラ製造機 (19:55)

声優になったら、ラジオで俺に直接囁いてくれる可能性があるってことだろ? もう、最高すぎる。彼女のあの癒やしボイスで「頑張ったね」って言われたい。俺は、ずっとDMを送り続ける。

​10: 地方のオタク (20:10)

地方出身の俺でも、東京の養成所に通えるって希望が持てた。彼女の挫折と努力が、俺の背中を押してる。風花、絶対負けんなよ。声の無限の可能性、証明してくれ!

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