第14話
夏季休暇が明け、富士見大太は東京の「底辺大学」の学生ではなくなっていた。彼は、美咲と悠斗が厳選した都内有数の『プロ・ボイス・アカデミー(PVA)』の門を叩いていた。
大太は、オーディションに合格した喜びよりも、極度の緊張を感じていた。ここには、彼がコンプレックスから逃れるために磨いた「声の技術」を、そのまま武器にする覚悟で集まった者たちがいる。
真新しい教室は、どこか殺伐とした熱気に包まれていた。大太は、いつものようにオーバーサイズの地味な服装で、教室の隅の席を選んだ。彼の隣には誰も座らない。彼の異質な「空気感」は、ここでも健在だった。
(ここでは、誰も俺の過去を知らない。風花としての栄光も、地味なオタクだった日々も。あるのは、俺の『声』の可能性だけだ)
彼は、パーカーの袖から覗く爪を見た。普段の地味なマットトップコートが施された爪。指先まで徹底的に管理された彼の肉体は、いつ声優という過酷なプロの道に進んでもいいよう、準備万端だった。
教室を見渡す大太の目に、何人かの個性的な生徒の姿が飛び込んできた。
まず、窓際で台本を読み込んでいる黒川玲(くろかわ れい)。長めの茶髪に、舞台役者特有の張り詰めた緊張感を纏っている。彼は、台本を読む声すら、既に役に入り込んでいるかのように大仰で、古風な響きを持っていた。
「舞台での演技中毒」という性癖を持つ黒川は、早くも周囲の空気とは一線を画していた。大太は、彼の中に、声の技術ではなく「魂の演技力」という、自分が欠けている部分の才能を見た。
そして、その黒川の隣に、ひときわ可憐な雰囲気を纏う中島華(なかじま はな)が座っていた。可憐なショートボブで、友人らしき相手と楽しそうに話している。
「えー、どうしよう〜。もう、絶対、先生に甘い声で甘やかされたいんだわ〜」
語尾に柔らかさを持つ彼女の名古屋弁は、声優志望の家庭で育ったというだけあって、天性の「甘い声の才能」を感じさせた。大太の「風花の声」は、何年もかけて技術で作り上げた『理想の女声』だが、中島華の声は、最初から『甘い女声』の頂点に立っているように感じられた。
大太は、二人の才能に圧倒され、無意識のうちに喉元を撫でた。
「よぉ、隣いいか?」
不意に、明るい関西弁が聞こえた。振り返ると、細身で眼鏡をかけた、気の良さそうな青年、天野翔(あまの しょう)が立っていた。
「あ、俺、天野翔。あんまり喋らないみたいやけど、緊張しとるんか? 大丈夫やで、みんな最初はそうや。俺の声で安心させてやるわ!」
天野の声は、その関西弁の調子と相まって、驚くほど心地よく、大太の張り詰めた緊張をわずかに緩める力を持っていた。「声で相手を安心させることに快感」という彼の性癖は、彼の過去のトラウマ(いじめ)を克服するための、独自の表現方法なのだろうと、大太は瞬時に分析した。
大太は、天野の親切に感謝しつつ、いつもの地声で短く答えた。
「…富士見、大太です」
その時、講師が入室し、全員に自己紹介を促した。
そして、ついに大太の番が回ってきた。彼は、パーカーの袖の下で、手のひらを強く握りしめた。
「さあ、そこの隅の君。名前と、ここへ来た動機を述べてくれるかな?」
大太は、立ち上がった。全生徒の視線が、彼の一点に集中する。その視線は、彼が何年も恐れていた、コンプレックスを指摘する冷たい視線のようだった。
大太は、深呼吸と共に、声帯をコントロールした。彼は、風花としての「究極の女声」ではなく、自分の地声の「高くて細い少年のような声」を、意識的に、しかし「ぶれない安定した響き」で発した。
「富士見大太です。私がここに来たのは…声の持つ、無限の可能性を、証明するためです」
彼の声は、少年のような高音でありながら、その響きには、コンプレックスから逃げず、三年間のストイックな訓練によって培われたプロの技術と揺るぎない覚悟が宿っていた。
教室は、一瞬の静寂に包まれた。
その声は、男性としてはあまりに高く、女性としてはあまりに硬質だ。それは、「性別を超越した、富士見大太自身の声」だった。
大太は、この養成所での競争は、もう「風花の美意識」だけではないことを悟った。ここでは、彼が最も避けてきた「声」そのものが、剥き出しの武器としてぶつかり合う、本当のデスゲームが始まるのだ。
富士見大太の自己紹介が終わった瞬間、教室を覆ったのは、ただの静寂ではなく、「分析」の沈黙だった。
彼の声は、少年のような高音でありながら、その発声技術、特に腹式呼吸と声帯のコントロールは、長年の訓練を物語っていた。風花として究極の女声を作り出すために磨いた技術は、彼の地声を、「性別不明の、しかし完全に安定した音源」に変えていたのだ。
講師は、表情一つ変えず、静かに頷いた。
「…声の持つ無限の可能性、か。面白い動機だ。確かに、君のピッチ(音高)は男性としては非常に高い。しかし、響きは澄んでいる。大切にしなさい」
講師の言葉は、大太の声がこの養成所の標準から逸脱していることを示唆していたが、同時に、その技術的な完成度を認めるものだった。
大太は席に着いたが、周囲の生徒たちの視線が、針のように彼に突き刺さっているのを感じた。
中島華の視線:「甘い声」の王女
大太の斜め前に座る中島華(なかじま はな)は、可憐なショートボブを揺らし、好奇心と警戒が入り混じった瞳で大太を見ていた。
(あんなに高い声、まるで女の子みたいだわ。けど、全然甘くないんだわ。あの人は、自分の声に『甘さ』*を一切入れてない。技術で、感情をシャットアウトしてる)
中島華の才能は、天性の「甘い声」だ。彼女の「甘い声で甘やかされたい」という性癖は、彼女の声そのものを、聞く者の耳を蕩かす蜜のようにしていた。彼女にとって、大太の「技術で完璧にコントロールされた、性別不明の高音」は、自身の『天然の甘さ』に対する、異質な挑戦者に見えた。
「ねぇ、今の、富士見君の声聞いた?すごいね、なんか、すごい『固い音』って感じなんだわ」と、華は隣の友人に囁いた。
彼女は、大太の声に憧れではなく、「敵」としての異物感を感じ取っていた。大太の究極の女声(風花)は、彼女が目指す「甘い声」の理想像だったが、目の前の「富士見大太」の地声は、その裏側にある冷徹なストイックさを証明していた。
佐藤海の視線:「低音」への渇望
教室の反対側、日焼けした肌と筋肉質な体躯を持つ佐藤海(さとう かい)は、腕を組み、不満そうに大太を見ていた。彼の性癖は「低音フェチ」。重く、響くような男性の低音に、無意識のうちに父の不在によるトラウマを埋めようとしていた。
(ちいせぇ声だ。あんな甲高い声で、何が証明できるって言うとや?声優は、魂の響きが大事ったい。まるで、中身の詰まっとらん空き缶が鳴ったみたいに、薄っぺらい…)
佐藤は、彼の故郷である海辺の町の力強い自然を思わせる、骨太な博多弁で内心毒づいた。大太の少年のような高音は、彼の低音への渇望を満たすどころか、むしろ逆のベクトルで彼の神経を逆撫でる。彼は、大太を「技術に頼った、響きのない声」と決めつけ、視界から外した。
彼の目には、大太の必死の覚悟は映らない。ただ、自分の『性癖』を満たさない、不快な音域の存在がいる、と認識されただけだった。
黒川玲の視線:「演技」への分析
しかし、一人、大太から目を離さない生徒がいた。舞台役者上がりで演技中毒の黒川玲(くろかわ れい)だ。長めの茶髪の下から、舞台を観るように鋭く、大太を観察していた。
(ふむ…『声の持つ無限の可能性を証明する』、か。彼のあの高音は、意図的だ。あれは、「自己紹介」ではなく、「宣言」だ)
黒川は、大太の地声が持つ、感情の抑圧と、技術による完璧なコントロールに気づいていた。彼は、大太が、コンプレックスを克服するために、あえて「最も自分の声が異質に聞こえる場所」で、その異質さを武器として晒そうとしているのだと理解した。
黒川の「演技中毒」という性癖は、彼自身のトラウマ(舞台での大失敗)を、役に没入することで忘れるためのものだ。だからこそ、彼は、大太のあの短い自己紹介の中に、「トラウマを克服し、表現者として生まれ変わる」という、強烈な演技の意志を感じ取った。
「面白い。『可能性の証明』とは…その声が、今後どのような『役』を演じるのか。いや、彼自身が、どのような『役』になっていくのか」
黒川は、ニヤリと笑った。それは、ライバルに対する警戒というより、最高の舞台と役者を見つけた喜びの笑みだった。
大太は、彼ら一人一人の視線が、自分の声の「音質」、「響き」、そして「裏側にある動機」を細かく分析していることを悟った。ここでは、「風花」という完璧な偶像の仮面は通用しない。彼の「素の声」そのものが、プロの才能たちによって、容赦なく審査されるのだ。
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