第12話
マジかよ、風花(ふうか)。ヤバすぎんだろ、あの露出度の高い新作。
俺は講義中にもかかわらず、スマートフォンを机の下でこっそり操作していた。画面には、昨夜Vikvokに投稿されたばかりの、風花の最新動画。お色気担当ヒロインの衣装をまとった彼女は、細く白い肌を大胆に晒し、その強烈な美意識でネットを炎上させていた。
『やっぱ、風花は神。あの指先のネイルまで、ヒロインの持つ武器の模様になってるし。この人、本当に何者なんだよ…』
隣では、富士見大太が相変わらず猫背でノートに何かを書いている。地味なパーカーの袖から、あの白い指先が少し覗いている。俺は、大太がこの風花の動画を見たら、どんな反応をするんだろうかと、ふと思った。多分、「…あ、すごいね」とか、いつもの無関心な一言で終わりだろう。
俺と大太は、サークル創立という共通の秘密(カモフラージュ)を共有しているが、俺の「陽キャ」の日常と、大太の「地味オタク」の日常は、交わることがない。
「富士見!悪い、この後の会議室、ちょっと早く開けさせてくれねぇか?急ぎでサークルの手続き確認したいんだよ!」
講義が終わり、俺はいつもの勢いで大太に話しかけた。
「文化財と景観保全研究会」の秘密基地である会議室。大太は、数十分前に悠斗と美咲が帰った後、一人で片付けをしていた。
悠斗の緻密な管理のもと、撮影後の衣装は丁寧に専用バッグに収納され、メイク道具も片付けられた。しかし、一つだけ、大太が片付けを忘れたものがあった。
それは、今回の露出度の高い衣装に合わせて作った、赤と黒の細いラインが引かれた、鋭利な形のネイルチップだ。撮影の途中で剥がれてしまい、慌てて地味なパーカーのポケットに突っ込んだまま、机の上に置き忘れてしまっていた。
大太が地味なパーカーに着替え終わった瞬間、ガチャリとドアが開いた。
「よっ、富士見!悪いな、急に。例のカメラ機材の申請書、今日中に出さねぇと…」
タケルが、勢いよく部屋に入ってきた。その瞬間、タケルの視線が、大太が着替えに使った長机の上に吸い寄せられた。
そこには、大太が脱ぎ捨てた黒いフリルの切れ端と、手のひらサイズの鋭利な赤いネイルチップが、無造作に置かれていた。
タケルは、一瞬フリーズした。
そして、そのネイルチップが、昨夜自分が何度も再生した、風花の最新動画のヒロインの指先と完全に一致していることに気づいた。
「う、うわあああああ!!!」
タケルは、大声で叫んだ。大太は、その叫び声に全身の血の気が引いた。
――バレた。全てが終わった。
タケルは、机の上のネイルチップを、まるで宝物でも扱うかのように、両手でそっと持ち上げた。
「これ!このネイルチップ!これ、風花の…!!最新のあの露出度高い衣装のネイルだろ!? マジで、この完璧なライン、この鋭角な形…!!」
タケルは、興奮のあまり、大太に猛然と詰め寄った。
「富士見!お前、まさか…風花をフォローしてるだけじゃなくて、グッズも買ってんのか!? ていうか、このフリル、自作だろ!?もしかして、お前、風花コスプレのガチ勢なのか!?」
大ケガをしたのは、大太ではなくタケルの方だった。タケルは、大太が風花の正体であるとは微塵も疑わず、**「富士見大太が、風花の熱狂的な自作コスプレファンである」**と勘違いしたのだ。
大太は、頭の中で猛烈な勢いで思考を巡らせた。この状況は、秘密を守るための最大のチャンスだ。
「…あ、ああ。…すごい、だろ?」
大太は、いつもの地声で、感情を押し殺して答えた。
タケルは、大太の言葉を聞く余裕もない。興奮冷めやらぬ様子で、最新動画への熱い想いを大太にまくし立て始めた。
「ヤバいよ富士見!俺、マジで風花のファンなんだ!あの露出度の高い衣装、一歩間違えたら崩壊するのに、彼女の肉体管理のストイックさと美意識の高さが尋常じゃないだろ!しかも、あの指先!あれはもう、神の域だ!お前もそう思うだろ!?」
「…うん。…そうだ、ね」
大太は、安堵と、誰にも言えない秘密を共有するスリルで、体が熱くなるのを感じた。あの地味で無口な『文化財と景観保全研究会』の代表の裏の顔が、風花の熱狂的なファンだったとは。
「おい、富士見!お前、このネイルチップ、どこで手に入れたんだ!?もしかして、風花の中の人と知り合いなのか!?」
タケルの瞳は、キラキラと輝いていた。
大太は、目の前で自分の魂を熱弁する陽キャを見て、風花という偶像の持つ力の大きさを再認識した。そして、この秘密のファンであるタケルは、大太の活動を大学内でカモフラージュする上で、最高の共犯者になるだろうと確信したのだった。
神崎タケルを「風花の熱狂的なファン」という最高のカモフラージュに利用できることになり、富士見大太の大学生活は、より安全なものとなった。しかし、その安堵も束の間、美咲からの、あまりにも過激な指令が下された。
大学は夏季休暇に突入間近。悠斗が東京へ到着する直前、美咲は、大太が確保した秘密基地で、興奮した様子で企画書を広げた。
「おおた!あんたの露出度の高い衣装の投稿、ネットで大成功やったで!みんなあんたのストイックなまでの自己管理に熱狂しとる。この波に乗るんや!」
美咲の企画書には、大きな文字で「夏季休暇特別企画:風花、水着コスプレに挑戦!」と書かれていた。
「この夏、あんたは水着のコスプレをやる。それも、VikvokとYouTube両方に投稿するんや」
大太は、その提案に血の気が引いた。以前、お色気担当ヒロインの衣装で露出は経験したが、「水着」はレベルが違う。衣装で隠す要素が極限まで少ない水着は、彼の身体の「男としての痕跡」を隠しきることは不可能に近い。
「…美咲。それは、無理だ」
大太は、いつもの地声ではなく、風花としての訓練で培った、硬質な裏声で拒絶した。
「水着は、俺のコンプレックスを全て曝け出すことになる。露出度の高い衣装なら、まだ布のパターンで腰回りのラインを誤魔化せる。だが、水着じゃ…」
大太は、中学時代から続けてきたストイックなダイエットの理由が、「男としての痕跡を消す」ことにあった。特に、骨格や筋肉の付き方、そして胸元は、彼の最後の聖域だった。
美咲は、大太の葛藤を真正面から受け止めた。
「怖いに決まってるやろ! あんたのコンプレックスは、誰よりもあんた自身が一番よく知ってる。でもな、おおた。プロデューサーとして言うわ」
美咲は、企画書を机に叩きつけた。
「あんたは、もう『趣味のレイヤー』とちゃうねん!あんたが作る『風花』は、『究極の美意識の偶像』や!ファンが見たいのは、あんたがどれだけ『男』を消して『美』に全振りしてきたかの証明や!」
美咲は、大太の白い指先を掴んだ。そこには、夏のテーマに合わせた、爽やかな青と白のジェルネイルが施されていた。
「見てみい、この爪!あんたの身体の全てが、最高のキャンバスやろ!水着は、あんたが何年もかけて作り上げた、あの『中性的な肉体』を、世界に証明するチャンスなんや。この夏、最も話題になるのは、露出度の高さだけじゃない。『風花の持つ、性別を超えた究極の美』や!」
「水着は、あんたのコンプレックスを『芸術』に変えるための、最後の試練なんや!悠斗が来る前に、二人で完璧なアングルとライティングを研究して、絶対に成功させたるわ!」
美咲の情熱的な説得は、大太の恐怖心を圧倒した。彼は、中学時代から続けてきた、肉体への宣戦布告を思い出した。すべては、この瞬間のために。
「…わかった。やる」
大太は、静かに頷いた。
「場所は、都内の廃墟ビルの屋上。人工的な光と影が、俺の身体のラインをより非現実的に見せてくれる」
大太は、恐怖を乗り越え、既にプロの表現者としての戦略を練り始めていた。
その瞬間、大太のスマートフォンが鳴った。弟の悠斗からだ。
『兄ちゃん、東京着いたばい!今から秘密基地へ向かうけん!風花の最初の大型企画、張り切ってやろうぜ!ずっと応援しとるけん!』
大太は、スマホを握りしめ、鏡の中の風花を見た。水着の試練と、最強のマネージャーの到着。風花という偶像の物語は、この夏、最も熱いクライマックスを迎えることになった。
弟の悠斗が東京に到着した。秘密基地である大学の会議室で、美咲と大太は、悠斗を迎え入れた。
「悠斗、ようこそ!これで、チーム風花、正式にフルメンバーやな!」
美咲は、満面の笑みで悠斗に企画書を手渡した。
「夏季休暇特別企画:風花、水着コスプレに挑戦!…了解ばい!兄ちゃんのコンプレックスを芸術に変える、最高のプロジェクトになるけん!俺が、最高のライティングで、兄ちゃんの秘密を完璧に守るけんね!」
悠斗は、大太の繊細な葛藤を最も深く理解しているため、そのサポートは感情的かつ論理的だった。彼は早速、大太の身体のラインを分析し、水着コスプレに最適なポーズとアングル、そして「男らしさを完全に消し去る影のつけ方」について、詳細な撮影プランを練り始めた。
水着コスプレ本番は、夏季休暇に入ってからだ。しかし、美咲は即座にティーザー(予告)を打つよう指令を出した。
「露出度の高い企画は、いきなりやったらファンがついてこれへん。段階を踏むんや。まずは、あんたのストイックな努力の証と、夏への期待感を同時に見せる。そして、『風花が次に挑むのは、どれだけハードルが高いか』を匂わせるんや」
美咲が要求したティーザー写真は、「フリル付きのスカートの裾から、まっすぐ伸びた御御足(おみあし)」だった。
大太は、美咲の要求を完璧に実行に移した。彼は、自室に戻ると、ダイエットによって最も細く、最も中性的なラインを保っている脚に、普段の地味な服装では決して見せないフリル付きの膝丈スカートを履いた。
「この足は、何年もかけて、俺が『男らしさ』を削り続けた努力の結晶だ」
彼は、全身の力と集中力を指先に込め、爪には、夏の青空と水面をイメージした、透明感のあるグラデーションネイルを施した。
悠斗は、大太の脚が最も細く、長く見えるよう、カメラアングルを床ギリギリに設定した。美咲は、脚の肌が最も均一に見えるよう、極薄のファンデーションとハイライトを施す。
シャッターが切られたのは、たったの一枚。完璧な構図だった。
写真には、スカートの柔らかいフリルの裾から、まっすぐ伸びた細い脚。そして、その脚の先にある、宝石のように輝くネイルアートが写っていた。そこに映る脚は、性別を感じさせない、純粋な「美のライン」だった。
その日の夜。風花のSNSには、その挑発的で美しいティーザー写真が、美咲の練ったメッセージと共に投稿された。
【風花 SNS投稿内容】
風花(FUKA) @Anonymous_Fuka
【夏季休暇、究極の挑戦予告】
毎日、私の表現を応援してくれてありがとう。
この夏、私は、自分の持つ全てのコンプレックスと、ストイックな美意識を賭けた最大の試練に挑みます。
それは、私の肉体が持つ、「究極の素の美しさ」の証明。
誰も見たことのない、そして、私自身が最も恐れている、最も露出度の高い衣装での撮影です。
失敗は、許されない。でも、この挑戦は、きっと私を次のステージへ導いてくれるはず。
#風花 #究極の美の証明 #この夏を賭けて #ネイルアート
投稿は、即座に大爆発を起こした。
『この脚のライン、CGじゃないの!?』
『「最も露出度の高い衣装」って、まさか水着…?』
『指先まで完璧に管理されてる証拠だ!風花さんのストイックさに狂う!』
ネット上の熱狂は、風花がこれから挑む試練への期待値を、限界まで高めた。大太は、悠斗と美咲に支えられ、この熱狂を背負って、究極の試練の舞台である「都内の廃墟ビルの屋上」へと向かうことになる。
夏季休暇直前の火曜日。「文化財と景観保全研究会」の秘密基地は、緊張感に満ちていた。
弟の悠斗が持ち込んだ分析ツールは、風花の活動に驚くべき緻密さをもたらしていた。悠斗は、モニターに表示された最新のデータグラフを指差しながら、冷静に兄に提言した。
「兄ちゃん、この二日間のティーザー投稿、期待値が限界突破しとるばい。特に、ファンが兄ちゃんの『声』に飢えとる。次の水着コスプレ企画を成功させるには、その前に『風花の声は本物だ』って、改めて証明せなあかん」
悠斗は、美咲が以前提案した「YouTubeでの声出しコンテンツ」の実行を促していた。
美咲も同意する。
「YouTubeライブをやるんや。短時間でええ。雑談と、感謝の言葉だけで十分。ファンとのコミュニケーションで、あんたの『人間味』と『声の安定性』を同時に見せるんや!」
大太は、心の中で戦慄した。ライブ配信。それは、編集がきかず、一瞬のミスも許されない、最も高難度の表現だ。しかし、プロデューサーとマネージャーの視線は、既に彼の覚悟を求めていた。
「…わかった。だが、いつだ」
悠斗は、即座に最適な時間帯を示した。
「今日だ、兄ちゃん。今日のこの時間帯が、最もファンがSNSをチェックし、ネット全体のトレンドが動くゴールデンタイムばい!」
悠斗が示した時間は、奇しくも、大太が最もサボりたくないと思っていた、大学の『必修の一般教養』の授業とモロに被っていた。
その講義は、彼が東京に来た最大の理由である「自由な時間」を確保するための生命線だ。出席単位の取得が緩い大学とはいえ、必修をサボれば、即座に単位を落とすリスクが高まる。
「…必修をサボるのか?」
大太は、地声で問いかけた。それは、彼が何年もかけて作り上げた「地味な大学生」というカモフラージュを、自らの手で破壊する行為だ。
美咲は、大太の隣に立ち、彼の肩に手を置いた。
「おおた、プロってのは、『最も大事なものを犠牲にして、最も大事なものを手に入れる』ことや。このライブを成功させたら、あんたは単なる大学生じゃなくなる。風花という、プロの偶像になるんや。単位なんか、どうとでもなるわ」
悠斗は、すでにカメラと照明を完璧にセッティングし終えていた。
「兄ちゃん、心配せんでよか。今日のライブ配信は、俺が完璧な台本を用意しとる。兄ちゃんは、ただ『風花』という表現に集中するだけでええ。この秘密基地が、兄ちゃんの秘密を絶対に守るけん!」
大太は、教室の隅で地味に授業を受ける「富士見大太」の姿と、目の前の「究極の美を追求する風花」の姿を比較した。彼の人生における優先順位は、既に決まっていた。
「…わかった。やろう」
数分後。古い会議室は、一瞬でプロのライブスタジオへと変貌した。
大太は、シンプルなワンピース衣装を身にまとい、メイクを施し、夏らしい爽やかなグラデーションネイルを輝かせた指先をカメラの前に置いた。悠斗が調整したライティングは、彼の白い肌の透明感を極限まで高め、中性的な顔立ちを完璧な「偶像」へと昇華させた。
「風花ちゃんねる、ライブ配信スタートばい!」
悠斗の合図で、ライブ配信が始まった。
視聴者は、瞬く間に数万人へと跳ね上がった。画面には、『風花だ!生放送だ!』『声、本物かな…ドキドキする』というコメントが溢れる。
大太は、深呼吸と共に、マイクを握りしめた。
「皆さん、こんにちは。風花です。今日は、少しだけ、私の声を聞いてほしくて」
その声は、クリアで、優しく、そして、何よりも安定していた。彼の地声の高さを、技術で研ぎ澄ませた、聴く者の心を癒す「共鳴の音色」だった。
彼は、悠斗が用意した台本に従い、ファンからの感謝の言葉に丁寧に答えた。
「この夏、究極の挑戦をします。それは、私の身体が持つ、『ありのままの美しさ』の証明です。応援、よろしくお願いします」
大太は、終始完璧な「風花」を演じきった。一度も声がブレることも、動揺を見せることもなかった。
ライブ配信は大成功に終わった。コメント欄は『天使の癒やしボイス!』『水着(究極の挑戦)楽しみすぎる!』という熱狂で埋め尽くされた。
配信を終えた大太は、ドッと疲れが押し寄せ、椅子に座り込んだ。しかし、その顔は、充足感に満ちていた。
「やったね、おおた!完璧や!これで、ファンはあんたの声に確信を持ったわ!」美咲は喜びに満ちている。
悠斗は、兄の肩を叩き、力強く言った。
「兄ちゃん、凄かよ!これで、必修の単位を落とすリスクは上がったかもしれん。でも、風花の未来は、確実に上がったばい!」
大太は、講義をサボった罪悪感を、ライブ配信の成功というプロとしての実績で上書きした。彼の秘密の二重生活は、ここから、完全に「風花の活動優先」という道を歩み始めることになったのだ。
――文化人類学教授・片桐(かたぎり)のモノローグ
「さて、今日の欠席者は…と」
ここは、私が担当する一般教養の必修講義。教室は二百人近い学生で埋まっているが、誰もがスマホをいじり、魂はここにない。それがこの大学の日常だ。私も、学生の顔ぶれなど、ほとんど覚えていない。
ただ、記憶に引っかかる生徒が、数人だけいる。
そして、その一人が、富士見大太だ。
彼は、教室の一番後ろの隅に座り、まるで周囲の光を吸収しているかのように、徹底的に存在感を消している。地味なパーカー、長い地毛、そして、あのガラスのように白く透き通る肌。話しかけても、返ってくるのは細く頼りない声。彼が持つ異質な清潔感は、この大学の混沌とした空気の中で、一種の「不協和音」を奏でていた。
だが、今日の欠席者リストに、彼の名前があった。
(富士見大太、まさか、君が必修をサボるとはね。君の地味な仮面は、単位取得への執着でできていると思っていたんだが)
私は、内心で苦笑した。学生としては、落第点だ。
しかし、その瞬間、私の頭の中に、昨日聴いたばかりの、あの透き通るような声が響き渡った。
「皆さん、こんにちは。風花です。今日は、少しだけ、私の声を聞いてほしくて」
ああ、風花(ふうか)。
あの匿名アイドルコスプレイヤーだ。昨夜、私は彼女のYouTubeライブ配信を、ビール片手にリアルタイムで視聴していた。私の研究テーマは「現代社会における匿名性と自己表現」なのだが、彼女の存在は、まさにその究極のサンプルだった。
彼女の声は、私にとって、ただの「癒やし」ではない。それは、コンプレックスという名の暗闇の中で、孤独な修行を積み重ねた者にしか発せない、極限まで純粋化された「技術」の証明だ。彼女の指先まで完璧に作り込まれたネイルアートの美意識は、まさに私が探求する『ネット時代の芸術』そのものだった。
そのライブ配信が、奇しくも、この必修講義と全く同じ時間帯に行われていたのだ。
私は、教卓の陰でスマートフォンを取り出し、昨夜のライブ配信のコメント欄をそっと開いた。
『風花ちゃん、この声は神!』
『天使の癒やしボイス!』
「…富士見君」
私は、空席になった彼の席を見つめた。
(まさか、偶然か?それとも…)
彼のあの高くて細い声と、風花の透き通るような女声。音域こそ似ているが、感情のコントロールと響きの豊かさは、天と地ほど違う。しかし、あのライブで風花が語った「コンプレックスを乗り越えて、身体の素の美しさを証明する」という言葉。その裏側に秘められたストイックな決意は、あの地味なパーカーの下で肉体をデザインし続けた富士見大太の異質な姿と、奇妙なほどに重なって見えた。
私は、大太の欠席をリストにチェックを入れながら、小さく独り言を呟いた。
「学生としては、君の欠席は困る。だが、もし君が、『風花』という名の表現者として、この講義よりも価値のある『文化人類学の新たな一章』を、あそこで創造していたのだとしたら…」
私は、風花のチャンネルを再度開き、昨日保存した美しいネイルアートの画像を拡大した。
「…そう。私としては、『表現者』の勝利を望むほかないだろうね。単位は落としても、魂は落とすなよ、風花」
教授である私の理性と、一人のファンである私の熱狂は、大太の欠席という小さな事件によって、静かに、そしてスリリングに交錯していた。彼の秘密の二重生活は、既に大学の権威的な場所すらも侵食し始めていたのだ。
風花は僕の秘密アイドル
第26章 24時間耐久ライブと、偶像の限界
必修講義をサボって行ったライブ配信は大成功に終わったが、大太の心には常に、教授の片桐が抱くかもしれない疑惑と、必修単位を落とすかもしれないという不安が付きまとっていた。しかし、プロデューサーの美咲の戦略は、そんな不安を打ち消すほど過激だった。
「おおた、水着コスプレの前に、最後の試練や。『風花、24時間耐久コスプレ配信』を実行する!」
秘密基地である会議室で、美咲は巨大な企画書を広げた。
「24時間という長丁場は、あんたの声の持続性、体型の維持、そしてメイクの技術、全てをファンに見せる究極の証明や。これを成功させたら、もう誰もあんたを疑わへん。完璧な偶像として、地位が確立するわ!」
大太は、息を飲んだ。24時間。それは、「富士見大太」としての生活を完全に停止し、「風花」として生き続けることを意味した。特に、彼の声の技術は、長時間のコントロールで疲労によるブレが起こるリスクが最も高かった。
しかし、弟の悠斗は、冷静に兄を分析した。
「兄ちゃん、心配せんでよか。この企画は、兄ちゃんのコンプレックスを逆手に取る。俺が声紋をリアルタイムでチェックし、危険なサインが出たらすぐに休憩を入れる。そして、体型維持のための食事とストレッチのスケジュールを、1時間単位で組み込むばい」
悠斗は、配信中も兄にバレないように指示を出すための、インカムまで用意していた。悠斗の緻密な管理と、美咲の戦略的な衣装チェンジのプラン(24時間で10着以上の衣装、それに合わせたネイルアート)により、大太は覚悟を決めた。
「…わかった。やる。俺の24時間は、全て風花に捧げる」
配信当日。秘密基地は、スタジオと休憩スペース、簡易的なキッチンに区切られていた。
ライブ配信はスタート直後から、驚異的な視聴者数を集めた。「24時間耐久」という企画そのものが、大きな話題となったのだ。
【配信実行(0時間~8時間):技術の証明】
開始直後、大太は最もクオリティの高い衣装とメイクで登場。完璧な女声でファンと交流し、衣装製作の裏話や、ネイルアートの技術を披露した。悠斗は、声のわずかなピッチの揺れも逃さず、大太にインカムで水分補給や姿勢の指示を出し続けた。
美咲は、その間に衣装チェンジとメイク直しを施す。24時間経ってもメイクが崩れないよう、家政科で培った技術の全てが投入された。ファンは、風花の「非現実的な美しさ」が、いかにストイックな努力で維持されているかを目の当たりにした。
【配信実行(8時間~16時間):感情の解放】
配信は深夜帯へ。視聴者数は落ち着くが、熱心なファンが残る。大太は、これまでの感謝の気持ちを、ピアノの弾き語りで表現した。彼の声は、疲労にも関わらず、どこか哀愁を帯びた、透明感のある響きを保っていた。
この時間帯、大太の表情には、一瞬、「富士見大太」としての素の疲労が滲み出る。しかし、悠斗の指示ですぐに修正し、風花の笑顔を取り戻す。この「疲労の中でも完璧を保とうとする姿」が、逆にファンには「人間的な魅力」として受け取られた。
【配信実行(16時間~24時間):限界への挑戦】
夜明けと共に、大太の肉体と声は、限界を迎えていた。
悠斗は、モニター上の声紋データが「危険ライン」に近づいているのを察知した。
「兄ちゃん、あと少しばい!今、喉の共鳴点がズレとる!深呼吸!腹から息を出すんや!」
大太は、全身を震わせ、必死に声帯をコントロールした。しかし、ファンからの質問に答えようとしたその瞬間、わずかに「地声の、高くて細い、少年のような声」が混ざってしまった。
『…え?』
コメント欄が一瞬ざわついた。「声がブレたぞ」「男の声?」というコメントが走る。
大太の顔から、一瞬で血の気が引いた。終わった。
しかし、その瞬間、悠斗がすぐにBGMの音量を上げ、美咲がカメラアングルを、大太の指先のクローズアップへと切り替えた。
画面いっぱいに映し出されたのは、24時間全く崩れていない、完璧に輝くネイルアートだ。そして、大太は、その指先を見つめながら、深呼吸し、再び完璧な女声で、ファンに語りかけた。
「…ごめんなさい。少し、感動で声が震えてしまいました。皆さんの応援が、私の力です」
風花の、感情による「ブレ」という、究極のカモフラージュだ。ファンは、その言葉に熱狂し、コメント欄はすぐに『風花ちゃん、頑張って!』『泣かないで!』という応援メッセージで埋め尽くされた。
24時間後。配信は、大成功の内に幕を閉じた。
大太は、メイクを落とす間もなく、椅子の上で崩れ落ちた。美咲と悠斗は、疲労困憊の彼を抱きしめた。
「やったね、おおた!完璧や!あんたはもう、プロの偶像や!」
「兄ちゃん、すごかよ!コンプレックスを全て、最高のコンテンツに変えたばい!」
この24時間耐久ライブの成功により、『風花』のSNSアカウントは、文字通りトップアイドルの地位を確立した。大太は、必修の単位を犠牲にして、プロの表現者としての揺るぎない覚悟を手に入れたのだった。
風花が成功させた24時間耐久ライブ配信の熱狂は、ネットの渦に留まらず、富士見大太が通う東京の「底辺大学」の日常にまで、静かに、しかし確実に侵食を始めていた。
大学内の話題は、授業やサークル活動ではなく、もっぱら「風花」の話題で持ちきりだった。
陽キャの熱狂:神崎タケルの視点
「富士見!見たかよ、風花の24時間ライブ!マジでヤバすぎんだろ!10回も衣装チェンジして、あのネイルも全部変えてたんだぞ!?」
講義の合間、神崎タケルは大太の地味な机に前のめりになり、熱弁を振るっていた。大太は、必修講義をサボった罪悪感と、ライブ配信の疲労が残る体で、必死に「地味なオタク」を演じ続ける。
「…ああ。見た」
大太は、いつもの地声で短く答えた。
「『ああ』じゃねぇだろ!あの声がブレた瞬間に、機転利かせて指先のクローズアップに切り替えたスタッフ、神だよな!富士見、お前、風花の中の人と、相当仲良いんだろ!? 今度、あのネイルチップ、マジでどこで手に入れたか教えてくれよ!俺、マジで感動して泣いたんだぞ!」
タケルは、大太の地味なパーカーの下に、世界を熱狂させた偶像の肉体が潜んでいるとは微塵も疑っていない。彼は、大太が「風花の内部情報を握る超ガチ勢」だと確信し、その存在を崇拝し始めていた。
「風花のあのストイックさ、マジで尊敬するわ。俺も、文化財と景観保全研究会の代表として、もっと真面目に活動しねぇと!」
タケルの熱狂は、大太にとって最高のカモフラージュになった。タケルは、風花の活動に熱中するあまり、大学内での大太の存在を積極的に「風花ファン」というレッテルで隠蔽してくれるようになったのだ。
一般学生の雑談:キャンパス内の熱気
キャンパスのカフェテリアでは、地味な大学生活に飽き飽きしていた一般学生たちが、熱心に風花の動画を囲んでいた。
「見てよ、これ!風花の新しい動画。マジでこの人、どこの大学の学生なんだろうな?」
「わかんないけど、私たちと同じ世代ってのがアツいよね!うちの大学の界隈から、こんなトップアイドルが出たって感じで、勝手に誇りに思ってるわ(笑)」
「そうだよな。あの声、何回聞いても癒やされる。あの人みたいに、自分の好きなことに突き進んでる奴が、このクソだるい大学にもいるって思うと、ちょっと元気出るわ」
彼らは、風花が同じ大学の学生である可能性など、考えもしない。風花は、彼らにとって、この閉塞した日常から飛び出した「希望の象徴」であり、「底辺大学界隈の誇り」となっていた。
大太は、カフェテリアの隅で、自分の存在がまるで空気であるかのように、その会話を耳にした。彼らが熱狂しているのは、自分のコンプレックスと孤独な努力の結晶だ。彼らが「希望」と呼ぶ偶像は、今、目の前で地味なクレープを食べている。この「現実と偶像の境界線」が、大太の心を激しく揺さぶった。
教授の疑惑:片桐教授の視点
必修講義の静まり返った教員室で、文化人類学の片桐教授は、コーヒーを飲みながら、タブレットで風花の24時間配信のアーカイブを見ていた。彼の研究テーマである「匿名性」の究極のサンプルだ。
(24時間、声をブレさせず、完璧な偶像を演じきったか。驚異的な精神力だ)
片桐は、配信の終盤、声がわずかにブレた瞬間をリプレイした。
「…『男の声?』か。フッ」
彼は、その直後に美咲がとっさに切り替えたネイルアートのクローズアップに感嘆した。完璧な危機回避。
そして、再び、欠席者リストにチェックを入れた大太の席を見た。
(富士見大太。君は、必修の単位を落とすリスクと、24時間配信という極限の自己表現を天秤にかけた。そして、表現を選んだ。)
片桐は、大太が「風花」であるという確証は得られない。しかし、彼の持つ「異質な清潔感」と「徹底された自己管理」、そして「あの声」の相似点は、無視できないほど大きくなっていた。
「単位は落としても、魂は落とすな、か。フッ。君の作品は、私の研究材料として、非常に興味深い」
片桐教授の理性は「富士見大太」という学生の動向を監視するが、彼の心は「風花」という偶像の次の挑戦(水着コスプレ)に対する熱狂的な期待に支配されていた。
大学という最も身近なカモフラージュの場は、すでに風花の熱狂という名の侵略を受け、大太の秘密は、いつ破られてもおかしくない、スリリングな状態に置かれていた。
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