第10話
東京での新生活が始まり、数週間が経った。美咲は専門学校の授業の合間を縫って上京し、大太が確保した「文化財と景観保全研究会」の秘密基地、すなわち古い会議室に足を踏み入れた。
「ええやん!このスチール棚とカメラ機材!あんた、本当にサークルの名目で全部揃えたんか。天才やわ!」
美咲は、会議室という名の裏作業場を見て、興奮を隠せない。
大太は、いつものパーカー姿で、壁際に置いた衣装棚を眺めていた。あの衝動的な初投稿と、その後の和装コスプレ投稿により、『風花』のフォロワーは既に数十万に達していた。
「…美咲。次のステップについて、話がしたい」
大太は、いつもの地声で、細く静かに切り出した。彼の顔には、SNSの成功とは裏腹に、極度の緊張感が漂っていた。
「もちろんや。次のステップは、『収益化』と『ファン層の拡大』。ここが正念場やで」
美咲は、手に持ったタブレットを広げ、熱心に提案した。
「うちの戦略は、メインプラットフォームをYouTubeにする。あそこは収益化のシステムが整ってるし、長尺の動画でファンに『風花のストーリー』を深く届けられる。例えば、ASMRとか、自作衣装の制作過程のボイスオーバーとか、あんたの声を活かすコンテンツをどんどん作らなあかん!」
大太は、その提案に即座に難色を示した。彼の表情が、一瞬、恐怖に歪む。
「……YouTubeは、無理だ」
「なんでや?こんなに声の評判がいいのに!」
「YouTubeは、コントロールがきかない。ライブ配信も、長尺の動画も、少しの油断で、地声の俺の特性が漏れる。編集でどうにもならない、『素』の部分を晒すことになる」
大太にとって、風花の「声」は、コンプレックスを昇華させた、極限まで磨かれた技術だ。しかし、それは繊細な感情と呼気のコントロールによってのみ維持される。長時間の会話や、突発的なリアクションを求められるYouTubeは、彼の持つ技術の「持続性」と「安定性」の限界を試す、最大のリスクだった。
「俺がやりたいのは、**Vikvok(ヴィクヴォク)**だ。短い動画なら、完璧なポーズと、完璧な声の演技を、何度も撮り直して編集できる。俺が作り上げたいのは、一瞬の美を極めた、動く美術品なんだ」
大太は、風花という偶像のクオリティと、秘密の安全性を優先した。一方、美咲は、プロデューサーとして、風花という「商品」を、いかにビジネスとして成立させるかを考えていた。
「もったいないわ、おおた!あんたの才能はVikvokの流行で終わらせてええんか?ファンは、あんたの**『感情』が欲しいんや!うちが撮る写真や衣装の動画じゃなくて、あんた自身の『声の表現の幅』**に、みんなは熱狂しとるんやろ!」
美咲は、大太の声が持つ、人を惹きつける力の大きさを知っていた。それは、彼のコンプレックスを糧に生まれた、世界に二つとない共鳴の音色だったからだ。
二人の意見は、表現の方向性、そして秘密の境界線をめぐって激しく対立した。
最終的に、美咲が妥協案を提示した。
「わかった。じゃあ、まずはVikvokでフォロワーを増やしつつ、YouTubeは**『声出しなしのメイク動画』と、『台本を用意した短編ボイスドラマ』**だけを投稿するんや。ライブ配信は、悠斗が東京に来てから、三人で体制が整うまで禁止。これなら、あんたの安全も、コンテンツの幅も両立できるやろ?」
悠斗の合流を待つという条件は、大太にとって安心材料だった。悠斗は、大太の声のわずかなブレや、ファンの動向を瞬時に分析できる、唯一無二のマネージャーだ。
「……わかった。そのプランでいく」
大太は、美咲の提案を受け入れた。彼は、一歩ずつ、慎重に、秘密の境界線を広げていくことを決意した。
そして、その夜、大太のスマートフォンに、弟の悠斗から興奮したメッセージが届いた。
『兄ちゃん、東京行きの夜行バス、予約したけん!明日にはそっちに着くばい!ずっと応援しとるけん、風花の活動、バリバリやろうぜ!』
秘密のアイドル『風花』の、最強のプロデュースチームが、ついに東京の秘密基地に集結する。
弟の悠斗が東京に到着するまで、あと二日。美咲は専門学校の課題で、週末も多忙を極めていた。大太は、大学の「文化財と景観保全研究会」の秘密基地で、一人黙々と衣装製作と声の訓練を続けていたが、創造のインスピレーションは限界を迎えていた。
「このままでは、コンテンツがマンネリ化する」
これまでの撮影は、すべて会議室の壁や、背景を合成した加工写真が主だった。ファンが求めているのは、「二次元から飛び出してきた風花が、現実の世界に存在している」という、リアリティのある証拠だ。
大太は、極度の不安と、それを上回る「表現者としての飢え」に駆られていた。
(誰も俺を知らない東京の街で、風花として歩いたらどうなる?)
それは、秘密の境界線を自ら踏み越える、最も危険でスリリングな行為だった。
その日の夕方。大太は、地味なオーバーサイズのパーカーと、ゆったりしたパンツの下に、風花の衣装の中でも最もシンプルで、私服に近いデザインのワンピースを仕込んだ。ポケットには、メイクポーチと折り畳み式のウィッグケース、そして三脚付きのスマートフォン。
彼は、人通りが減り始める時間帯を選び、アパートを後にした。
目的地は、都心の主要駅から少し離れた、緑豊かな公園。彼は、その公園の公衆トイレの個室に籠もり、わずか十分で「富士見大太」から「風花」へと変身した。
鏡の中の風花は、いつもの完璧な偶像だった。しかし、ここは会議室の壁の前ではない。扉一枚隔てた向こうは、**「現実」**だ。
大太は、深呼吸と共に、そっと扉を開けた。
東京の街は、容赦なく大太に襲いかかった。
歩道を行き交う人々、車や電車の音、複雑な建物の色彩。その雑踏の中で、風花は**「風景に潜む偶像」**として、ただそこに立っていた。
大太は、スマホを手に、人通りが少ない路地の壁や、レトロな建物の前で、Vikvok用の短い動画と写真を撮影し始めた。
彼のテーマは、「日常生活に潜む一瞬の美」。
カフェのテラス席の影に、そっと座り込み、カメラを見つめる一瞬。
自動販売機のネオンを背景に、ネイルアートを施した指先を翳すクローズアップ。
誰もいない横断歩道で、ポーズを決めて立ち止まる、僅か数秒の動画。
一つ一つの動画や写真は、美咲が求める「一瞬の美」を極めるための、ロケでのストイックな訓練だった。
大太は、撮影の合間に、自分の身体が極度に緊張しているのを感じた。それは、通行人の視線が、いつ彼の秘密を見破るかという、極度のスリルから来ていた。彼が最も恐れていた「他人の目」が、今は彼の表現のリアリティになっている。
撮影中、一組の若いカップルが、風花の横を通り過ぎた。
「え、今の子、めちゃくちゃ可愛くない?」
「うわ、マジだ。モデルさんかな?肌が白い!」
彼らの会話は、大太の地声でのコンプレックスを一切刺激しない、「風花」への純粋な賞賛だった。大太は、それを聞いて、一瞬で力が抜けるのを感じた。この東京では、誰も「富士見大太」を知らない。彼らが認識しているのは、**「完璧な偶像」**としての風花だけだ。
彼は、その解放感とスリルをそのままコンテンツとして昇華させることを決意した。
アパートに戻った大太は、急いでその日の写真をSNSに投稿した。
【風花 SNS投稿内容】
風花(FUKA) @Anonymous_Fuka
今日の制作記録は、「街角の静寂」。
賑やかな都会の風景の中に、一瞬だけ潜んでみました。
誰も知らない場所で、心を込めて作り上げた衣装と、指先を景色に溶け込ませる時間。
このスリルが、私にインスピレーションを与えてくれます。
#風花 #都会の風景 #ストリートスナップ #秘密の散策
この投稿は、風花のコンテンツに**「現実感」**という新しいスパイスを加え、ファンを熱狂させた。そして、この「秘密の散策」で得たスリルと、都市の風景こそが、彼のVikvokやYouTubeコンテンツの、重要なネタ源となっていくのだった。
そして翌日、弟の悠斗が東京へ到着する。最強のプロデュースチームの結成は、もう間近に迫っていた。
【風花】街角の静寂!ついに現実世界へ降り立った偶像について語るスレ
スレッド作成者:アキラ(古参ウォッチャー) (投稿日時:X年Y月Z日 15:30)
俺だ、初期の風花のヤバさに気づいて速攻で拡散したアキラだ。みんな、昨日の最新投稿見たか?
ヤバすぎる。今まで会議室の白い壁を背景に、神業レベルの衣装とメイクで「二次元の住人」を演じていた風花が、ついに現実の東京の街角へ出てきた。
これ、単なるロケじゃない。「誰も知らない場所で、心を込めて作り上げた衣装と、指先を景色に溶け込ませる時間。このスリルが、私にインスピレーションを与えてくれます。」—このキャプションが全てを物語っている。彼女は、「秘密を守るスリル」そのものを、コンテンツのスパイスにしているんだ。
マジで、彼女の活動はコスプレじゃない。究極の自己表現のデスゲームだろ。
寄せられたコメント (全 512 件中 一部抜粋)
ID: GodHandObserver (15:45)
アキラさん、待ってました!私も同意見です。あの自動販売機のネオンを背景にした指先の写真、震えました。初期の血飛沫ネイル(卒業制作)とは対極の、都会の色彩に調和したデザイン。あの白くて細い指が持つ美意識の高さに、改めて戦慄しました。
ID: EarlyBird_FUKA (15:52)
わかる。「街角の静寂」ってタイトルも秀逸。あの雑踏の中で、誰にも気づかれないように一瞬だけ立ち止まって、『私はここにいる』という強烈なメッセージを発してる。高校の文化祭の時みたいに、大勢の視線の中でこそ輝く人なんだろうな。
ID: VoiceListener (16:01)
今回の投稿は写真とテキストだけだけど、あの場所で、彼女が実際に訓練した「声」を出していたんだろうなって想像したら、鳥肌が止まらない。あのコンプレックスを昇華させた、透き通る声が、東京の騒音の中でかき消されずに存在している、その事実だけで、もう感動です。
ID: StrategicThinker (16:15)
美咲さん(プロデューサーと予想)の戦略勝ちですね。
会議室: 技術的な完璧さを証明(衣装、ネイル)。
お菓子作り: 人間的な親しみやすさを付与(ギャップ萌え)。
都会の散策: 現実感とスリルを付与(二次元のリアリティ)。
この流れで、風花は完全に「触れられない偶像」から「秘密を共有する親しみやすい偶像」へと進化しました。大学生活を利用した活動拠点の確保も、全てが理詰めで恐ろしい。
ID: FanOfSimplicity (16:30)
初期のデスゲーム衣装も凄かったけど、個人的には今回の私服に近いシンプルなワンピースの方が、彼女自身の体型と美しさが際立ってて好きです。あの細さと白い肌は、並大抵の努力じゃない。私たちが知らない裏側で、どれだけストイックに自己管理しているんだろう。
ID: NoMoreHiding (16:48)
風花さんには、このまま活動の幅を広げていってほしい。いつか、雑踏の中じゃなく、正面から、カメラ目線で、あの「声」を聞かせてほしい。あなたの才能を、もう隠さないで!
悠斗が東京に到着する朝。富士見大太は、いつものオーバーサイズのパーカー姿で、ターミナル駅の改札前で待っていた。周りの喧騒と、自分の心臓の鼓動が、静かな緊張感となって大太を包む。
夜行バスで到着した悠斗は、大太を見つけるなり、大きなリュックを背負ったまま、満面の笑顔で駆け寄ってきた。
「兄ちゃん!バリバリ待っとったばい!」
悠斗は、背が高く、健康的な肌をした、ごく普通の明るい高校生に見える。その太陽のような笑顔は、人目を恐れて常に俯きがちな大太とは対照的だった。
「…悠斗。おかえり」
大太は、地声が震えるのを抑え、小さくそう答えた。悠斗の屈託のない笑顔が、大太の張り詰めた緊張を、少しだけ和らげた。
「さっそく、秘密基地を見せてくれんや?美咲姉ちゃんは、もう来とるん?」
「ああ。大学の会議室だ。美咲は、もうそこで待ってる」
二人は大学へ向かい、裏手の誰も来ない棟の古い会議室――「文化財と景観保全研究会」の秘密基地へと足を踏み入れた。
部屋の中では、美咲が大量の電源コードと、これから作るコンテンツの企画書を広げて、既に準備万端だった。
「遅いぞ、おおた!そして、悠斗!よく来たな!」
美咲は、悠斗とハイタッチを交わした。
悠斗は、会議室の隅に整然と並んだスチール棚と、衣装の数々を見て、目を輝かせた。
「すげぇ!ここが、風花が生まれる場所なんか!卒業制作のデスゲーム衣装も、実物見たらやっぱり鳥肌が立つばい!」
大太が、その場で美咲と悠斗に、これまでの経緯と、大学内でタケルを巻き込んでサークルを立ち上げた事情を説明した。
「つまり、ここは『風花が表の世界に現れるための裏側』ってわけか。タケルさんって陽キャ、面白いね」
悠斗は、即座に状況を理解し、チームの役割分担について切り出した。
「兄ちゃん、改めて、役割分担を決めよう。俺は、兄ちゃんの声の特性、体調、ファンの動向、全てをデータで管理する『インテリジェント・マネージャー』になる。兄ちゃんが不安なYouTubeの長尺コンテンツの編集と、声のブレのチェックは全て俺が担当するけん。兄ちゃんは、『風花』としての表現に集中してくれ」
美咲も頷いた。
「私は、引き続き『プロデューサー兼衣装・メイク統括』だ。風花の方向性、そして収益化の戦略は全て私が立てる。おおた、あんたはもう、制作に悩む必要はない。あんたの才能を、どう世界に魅せるかだけを考えろ」
大太は、二人の揺るぎない信頼と熱意に包まれ、初めて自分の秘密が、「孤独なコンプレックス」ではなく、「共有された才能」になったことを実感した。
「…わかった。俺は、風花という、最高の偶像になる。衣装製作、声の訓練、そして、表現。全てを完璧にやる」
大太は、いつもの細い声で静かに誓いを立てた。その声は、もう怯えてはいなかった。そこには、二人の大切な家族と友人に守られ、世界と戦う覚悟だけが宿っていた。
チーム結成の儀式のように、三人は早速、最初の活動記録の制作に取り掛かった。
美咲は、大太がVikvokで話題にしたいと選んだ、「夜の都会に咲く、幻想的な花」をテーマにしたコスプレ衣装を取り出した。
悠斗は、購入したカメラ機材のセッティングと、照明の調整を行う。そして、カメラを覗き込み、兄に熱い視線を送った。
「兄ちゃん、心配いらん。俺が、兄ちゃんの秘密を絶対に守る。…さあ、風花になるばい!」
美咲のメイクと、悠斗の緻密な機材管理のもと、富士見大太は、再び風花へと変貌していく。この日、東京の底辺大学の隅にある古い会議室で、匿名アイドル『風花』の、本格的なプロデュース活動が、静かに、そしてスリリングに始動したのだった。
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