第9話

「文化財と景観保全研究会」の活動場所として大学から正式に割り当てられたのは、体育館裏の棟にある、長年誰も使っていなかった古い会議室だった。タケルが陽キャの交渉術で備品申請まで通してくれたおかげで、大太は研究会名目で高性能なカメラ機材と、衣装の保管に十分なスチール棚を手に入れていた。

​大学に存在する、誰にも邪魔されない、完璧な秘密基地。

​その日、大太は講義が終わるや否や、会議室へ直行した。鍵を回し、部屋に入ると、すぐに鍵を内側からかける。パーカーを脱ぎ捨て、地味な「富士見大太」という仮面を外した瞬間、彼の顔には安堵の表情が浮かんだ。

​「これで、アパートの部屋を散らかさずに済む…」

​スチール棚には、家政科高校の卒業制作であるデスゲームの戦闘服から、最新の甘いクッキーモチーフの衣装まで、全てが整然と保管されている。

​大太は、今日の活動記録のテーマを決めていた。それは、「風景に溶け込む衣装の研究」という、サークルの表向きのテーマを完璧にカモフラージュできる題材だった。彼が選んだのは、日本庭園をイメージした、繊細な淡い緑と白の着物風衣装だ。

​まずは、メイクだ。会議室の隅に持ち込んだ簡易的な鏡とライトの前で、大太は集中力を高める。ファンデーションで肌の透明感を極限まで引き出し、着物に合わせて、目元には涼しげなグリーン系のシャドウを入れる。家政科で学んだ技術は、会議室の蛍光灯の下でも、完璧な「風花」を出現させた。

​――富士見大太のモノローグ

​この会議室は、俺の工房だ。外の世界では、誰も俺の顔を見ようともしない。だが、ここで風花として作り上げた俺の身体と声は、今、ネット上で何十万という視線を集めている。

​この緊張感…たまらない。すぐ外を、タケル君のような陽キャたちが通っていく。彼らは、俺がここで何をしているか、想像もしていないだろう。彼らが知っているのは、地味で無口な『文化財と景観保全研究会』の幽霊部員だけだ。

​でも、俺の目的は、景観保全だ。この衣装は、景観の美しさを損なわないための『色彩調和の実験』。このネイルは、和服の柄に合わせた『伝統工芸の考察』。全てがサークルの活動なんだ。

​ウィッグを装着し、着物に着替える。指先には、衣装と完全に調和した、透かし彫りのようなネイルアートが輝いている。彼は会議室の壁を背景に、研究会名義で購入した三脚にカメラをセットし、タイマーを起動した。

​カメラのファインダー越しに映る風花は、完璧だった。

​大太は、撮影した写真の中から、一枚を厳選した。それは、着物の袖がわずかに床に流れ、その上に置かれた手が、指先まで美しいグラデーションのネイルを披露している、「声なき静謐」を表現した一枚だ。

​そして、彼は、この日の活動記録をSNSに投稿した。

​【風花 SNS投稿内容】

​風花(FUKA) @Anonymous_Fuka

​今日の制作記録。テーマは「静かな庭園」。

伝統的な色彩の衣装に合わせ、指先には『侘び寂び』をイメージした透かし彫りのネイルを施しました。

​自分の手で作り上げた衣装を身につけ、その世界観に没頭する時間は、何よりも安らぎます。

​#風花 #和装コスプレ #ネイルデザイン #色彩調和の実験

​この投稿は、風花が「ただのコスプレイヤーではなく、美の探求者である」というイメージを決定づけた。そして、この「文化財と景観保全研究会」という名の秘密基地こそが、風花という偶像の爆発的なコンテンツ生成の源となっていくのだ。

​そして間もなく、弟の悠斗が上京し、美咲も合流することで、秘密のプロデュースチームの「プロの運営」が本格的に始動することになる。

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