第7話
桜が舞う季節。富士見大太は、家政科高校の卒業証書と、自作の衣装を詰めたトランクを手に、東京へ向かう新幹線に乗り込んだ。故郷を離れる寂しさはなかった。彼の心は、これから始まる秘密の二重生活と、風花という偶像の未来に対する、冷徹なまでの期待で満たされていた。
彼の進学先は、出席単位の取得が容易で、活動時間を確保しやすいと判断した、東京の「底辺大学」だ。学問ではなく、風花の活動拠点を得るための戦略的選択だった。
東京で借りたアパートは、都心のイベント会場や撮影スタジオへのアクセスが良い、簡素なワンルーム。荷解きを終えた大太は、すぐに「風花」としての第一歩を踏み出すことを決意した。
これまでの風花は、デスゲームの衣装やストイックなポーズなど、「戦う美しさ」をテーマにしてきた。しかし、SNSで人気を維持し、幅広いファン層を獲得するには、「日常的な親しみやすさ」も必要だ。
「完璧すぎる偶像は、人間味がない。少しの『隙』が、ファンとの距離を縮める」
大太は、美咲から受けたアドバイスを思い出し、新たな趣味としてお菓子作りを始めることにした。家政科で調理実習は経験している。これもまた、彼の技術を活かせる分野だ。
その日の午後、大太は近所のスーパーで材料を買い込み、小さなキッチンで初めてのクッキーを焼いた。完璧な衣装製作とは違い、分量や火加減がシビアな調理は、彼にとって新鮮な挑戦だった。
結果は、形が少し不揃いで、焼き色がまだらな、「素人らしさ」が残るクッキーだった。しかし、大太は満足した。この「素人らしさ」こそが、風花に必要な人間味だ。
彼は、そのクッキーと、上京に合わせて新たに施したネイルアートを組み合わせ、写真に収めた。
ネイルは、春を意識した桜色を基調に、クッキーのモチーフである淡い砂糖菓子のようなデザインを、極細の筆で描き込んでいる。デスゲームヒロインのネイルとは対照的な、優しく、繊細な、「甘い美意識」を象徴するものだ。
大太は、その写真と共に、SNSにメッセージを投稿した。それは、風花というアイドルが、東京で新たな日常を始めたことを告げる、最初の声だった。
【風花 SNS投稿内容】
風花(FUKA) @Anonymous_Fuka
故郷を離れ、新しい生活が始まりました。ドキドキしています。
上京記念に、ずっと挑戦してみたかったお菓子作りにトライ!
🍪初めてのクッキーは、形がちょっとバラバラですが、味はまあまあかな?(笑)
🌸指先も、春の訪れに合わせておめかし。指先まで、心を込めて。
これからも、様々な表現に挑戦していきますね。応援、よろしくお願いします。
#風花 #ネイルアート #お菓子作り #新しい挑戦
投稿は、瞬く間に拡散された。
ID: GodHandObserver のような古参ファンは、ネイルアートの技術的な進化を絶賛した。
『指先!見てください、この淡い色合いとデザインの繊細さ!デスゲーム衣装とはまた違う、アイドルとしての完成度が高まってる!』
しかし、それ以上に反響があったのは、「お菓子作り」という新しい要素だった。
『風花さんが料理!ギャップが可愛すぎる!完璧な美少女なのに、クッキー焼くなんて、人間味あって親近感湧く!』
『あのストイックな美しさの裏で、こんな女の子らしいことしてるの?ギャップ萌えで死んだ…』
『#天使のクッキー』
大太は、通知が鳴り止まないスマホを見ながら、自分の戦略が成功したことを確信した。
彼は、東京という巨大な街で、「地味で無口な大学生」として学業の時間を最小限に抑え、裏側で「技術と親しみやすさを持つ匿名アイドル」として活動するという、スリリングな二重生活をスタートさせたのだ。
東京の「底辺大学」に入学した富士見大太の大学生活は、彼が想定した通り、極めて自由で緩かった。授業の出席は適当でよく、学業のプレッシャーは皆無。彼の目的である「風花の活動時間」は、最大限に確保された。
しかし、大太にとって、大学はあくまで「風花の活動拠点」をカモフラージュするための装置だ。この装置を完璧に機能させるためには、彼自身の「富士見大太」というキャラクターを、周囲に『無害な、地味なオタク』として認識させる必要があった。
大太は、上京後すぐに大学の公式サイトで校則を隅々まで確認した。髪色や服装に関する具体的な制限は、ほとんどない。この緩さが、彼の「秘密のオシャレ」を可能にする。
――富士見大太のモノローグ
東京に来た。ここは、誰も俺を知らない戦場だ。大学の連中は、俺の過去も、声のコンプレックスも知らない。だからこそ、完璧に『透明な存在』を演じなければならない。
校則は緩い。だが、目立ちすぎると、風花の活動に支障が出る。俺が目指すのは、「校則ギリギリで、誰にも気づかれないレベルで美しさを維持する」という、究極の『透明なオシャレ』だ。
まず、髪。家政科時代から伸ばしてきた地毛は、男子としてはかなり長い。これを活かす。女子のように派手なアレンジはできないが、清潔感を保つために、丁寧にトリートメントを施し、低く一つに結ぶ。これは、顔立ちの中性的な美しさを際立たせ、ウィッグを被らない時の『風花の素の美しさ』を維持する最低限のラインだ。
次に、服装。底辺大学の生徒は、Tシャツにジーパンが多い。俺もそれに倣うが、家政科で培った知識が活きる。選ぶのは、流行りのオーバーサイズのパーカーやシャツ。体型を隠し、地味に見える。しかし、俺が選ぶのは、肌の色が最も白く見える「ニュートラルカラー」の服だ。素材は、洗濯しても毛玉になりにくい、肌触りの良いものを選ぶ。誰も気づかない。でも、俺の『白い肌』は、最大限に守られる。
そして、指先。風花の魂の細部であるネイルアートは、絶対に人前で披露できない。だから、普段の「富士見大太」の爪は、徹底的にケアする。形を整え、表面を磨き、その上から「マットタイプのトップコート」塗る。光沢がないから誰も気づかない。だが、爪の表面は滑らかに守られ、風花として活動する際のネイルチップの持ちも良くなる。
こうして完成した「富士見大太」の姿は、「無口で、服のセンスは無いけど、なんか肌と髪だけ綺麗で、やたらと丁寧な男子」という、絶妙に『どうでもいい』キャラクターだった。
教室の隅で、オーバーサイズのパーカーの袖に手を隠し、ノートに視線を落とす。誰も話しかけてこない。
その完璧な静寂こそが、大太の望みだった。
(誰も知らないだろう。このパーカーの下の身体が、どれだけストイックに管理されているか。このマットな爪の下に、どれだけの情熱が隠されているかを)
授業が終わり、大太は誰にも声をかけられることなく、大学を後にする。足早にアパートに戻り、扉を閉める。
その瞬間、地味なパーカーを脱ぎ捨て、ウィッグとメイク道具を広げる。
「よし。今日の俺は、甘くて優しい『風花』だ」
彼は、キャンパスでの無口な地味な時間をエネルギーに変え、東京という舞台で、秘密のアイドル『風花』として、再び世界に向けて声を放つのだ。彼の二重生活は、こうして完璧なカモフラージュのもとにスタートした。
神崎タケル視点___
俺、神崎タケル。高校卒業して、まあノリと勢いで東京に来た、普通の陽キャ大学生ってやつだ。入学した大学? あー、まあ、単位が取りやすいことで有名。別に勉強する気ゼロだし、サークルとバイトがメインの、典型的な「底辺大学」ライフを満喫する予定だった。
授業はだるい。特に一般教養のクソデカい講義室なんて、みんなスマホいじってるか寝てるか。それがここの普通。
俺も友達と後ろの方で適当にだべりながら、教授のクソつまんない話を聞き流してたんだけど、ある日、視界の隅になんか妙なやつを見つけた。
そいつ、名前は…確か、富士見大太。
別に目立ってるわけじゃない。むしろ、徹底的に目立たないようにしてる。
オーバーサイズの地味なネイビーのパーカーに、誰もが履いてるような暗い色のパンツ。髪は男子にしては長いけど、顔に影を落とすように低く一つに結んでて、いつも俯いてるから、顔なんてよく見えない。教室の隅の席を定位置にしてて、まさに「透明な背景」を演じてる感じ。
でも、俺にはその「透明さ」が、逆に異様に目立って見えたんだ。
「…あいつ、なんか変だよな?」
友達に聞いても、「ああ、あの無口なやつ?いるっけ?」って反応。誰も気にしてない。でも、俺だけは違和感が消えなかった。
そいつの何が変かっていうと、全てが地味なのに、清潔感が異常すぎるんだ。
髪は長いくせに、艶があって、まるでプロの手入れを受けたみたいにまとまってる。服は地味だけど、シワ一つない。そして、たまに動く指先。
大太はいつもパーカーの袖に手を隠してるんだけど、ノートにペンを走らせる瞬間だけ見える手が、病的に白くて綺麗なんだ。爪なんか、マニキュアは塗ってないけど、形が完璧に整えられてて、妙に滑らかに光ってる。
(なんだ、あいつ。地味な格好してんのに、なんで肌と髪と指先だけ、モデルみたいに完璧なんだ?)
周りの女子たちは、肌荒れや爪の甘皮を気にせず、派手なネイルを塗ってるのに。この男は、誰にも見せない部分に、狂ったような美意識を注ぎ込んでる。まるで、『ここに俺はいないぞ』って叫びながら、最高のオシャレしてるみたいで、俺は興味津々になった。
きっかけは、本当に些細なことだった。講義中に俺がペンを落として、それが大太の席の真下まで転がったんだ。
「すまん、ペン落ちたんだけど」
俺はいつもの調子で、気さくに声をかけた。
大太は、ビクッと全身を震わせた。まるで、この世に存在しないはずの幽霊に話しかけられたみたいに。
ゆっくりと顔を上げようとするんだけど、その動作すら、ものすごく緊張してるのが伝わってくる。フードの影から見えた彼の顔は、噂通り細くて整ってるけど、目が泳いでて、まるで怯えた小動物みたいだ。
「…あ…の、これ、ですか?」
ペンを拾って渡してくれた彼の声は、予想通りすごく細くて、少年みたいな高い声だった。周囲の男子の野太い声とはかけ離れてて、聞いているこっちが耳を疑うレベル。
俺は、一瞬の沈黙の後、ニカッと笑った。
「サンキューな!助かったわ、富士見。お前、いつも隅っこで静かにしてるから、話しかけるの躊躇してたわ!俺、神崎タケル!よろしくな!」
彼の名前を呼んだ瞬間、大太はさらに緊張で固まった。彼は、自分の存在が認識されることを、恐れている。
「…ふ、富士見、です」
「知ってるよ!富士見!ほら、せっかくだし、この後の必修、一緒に受けるか?」
俺の勢いに、大太はただただ圧倒されていたけど、なぜか断らなかった。
俺にはわかった。この富士見大太ってやつ、根暗なんかじゃない。彼の「透明なオシャレ」や、誰にも聞かせたくないであろう声の奥には、何かすごいエネルギーと秘密が隠されてる。
俺は、直感的に、「こいつといたら、このつまらない大学生活が、一気に面白くなる」と確信したのだった。俺の陽キャセンサーが、最高に面白い「秘密の偶像(アイドル)」の予兆を捉えた瞬間だった。
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