第2話

​富士見大太が小学校高学年になると、周囲との差異はますます顕著になった。クラスの男子は、休み時間になると日焼けを気にせず校庭を走り回り、声は低く太い響きを帯び始め、急激な変声期を迎える者もいた。しかし、大太の声は、あの五歳の時から変わらず、高く細いままだった。

​その声のせいで、彼は完全に孤立した。「地味オタク」という空気のような存在は、その地位を揺るぎないものにした。

​しかし、大太の部屋の鍵が閉ざされた秘密の空間では、「風花」の進化が始まっていた。彼は、遊び半分だった低学年の頃とは違い、完全に独学の表現者として、女装コスプレを芸術の域に高めようとしていた。

​裁縫の技術は磨かれ、古い布切れや母の残した端切れで、より複雑なフリルやリボンを縫い上げる。メイクは、母のコスメだけでなく、小遣いを貯めて買った百円ショップの新しい道具を試すようになった。

​ある日、アニメの女性キャラクターの画集を見ていた大太は、ある決定的な事実に気づいた。

​「風花の肌は、もっと、透明でなければならない」

​彼は自分の手を見た。体育の授業や、たまに外で遊ぶときに浴びた日光で、少し日に焼けている。アニメやアイドル、そしてハルカお姉さんが残した写真の中の女性たちは、皆、驚くほど肌が白く、均一な色をしている。

​風花を完璧な存在にするためには、「肌の色」という、最も抗い難い身体的な要素を、コントロールする必要があった。

​それは、大太にとって、大きな決断だった。

​日焼けを避けるということは、外で活動する男子としての日常を、さらに諦めることを意味した。だが、風花の完璧さのためには、妥協はできなかった。

​大太は、ドラッグストアで立ち止まり、家族の買い物に紛れるように、一番小さな日焼け止めクリームのボトルを手に取った。レジに持っていくとき、心臓がバクバクと鳴った。「男の子なのに日焼け止め?」と店員に思われるのではないかと怯えた。

​その日から、彼の秘密の稽古には、新たな儀式が加わった。

​朝、学校へ行く前。トイレの個室に閉じこもり、鏡を見ながら、顔と首に薄く日焼け止めを塗る。そして、体育の時間。外に出る直前に、シャツの下に隠れる手の甲や、首筋に、こっそりと日焼け止めを塗り込むのだ。

​「これで、大丈夫」

​日焼け止めを塗る行為は、彼にとって、単なる紫外線対策ではない。それは、「自分は風花という表現者である」という誓約であり、無口な大太から、輝く風花への心のスイッチだった。

​彼は、日焼け止めによって、自らの「男の子の体」と「理想の風花の体」の間に、境界線を引いた。クラスの男子たちが汗をかいて日焼けしていく中で、大太の肌だけは、いつまでも白いまま保たれた。

​この頃、彼は、日々の努力を誰かに見せたい衝動に駆られ始めていた。誰かに認めてもらいたい、この声、この表現の力を知ってほしい。

​彼は、ウィッグと衣装を着けた完璧な風花の姿で、鏡の前で囁いた。

​「…いつか、私の声で、誰かを感動させてみたい」

​まだその術を知らない大太だったが、日焼け止めという「秘密の盾」と、磨き上げた「声」という「武器」を手に、風花は来るべきSNSデビューの時を待っていた。この孤独な稽古こそが、後に彼をトップアイドルへと押し上げる、揺るぎない基盤となったのだ。


クラスメイトの女子から見た富士見大太(小学校高学年)

​ねぇ、知ってる? クラスに、「透明な男の子」がいるの。

​名前は富士見大太。あだ名はそのまま『オタク』だけど、彼は騒がしい男子たちの中にいると、まるで水に溶け込んだみたいに見えなくなる。いつも静かで、声を聞くのは週に一回あるかないか。

​男子たちが「声変わりきたぜ!」とか「低音がかっこいい」とか言い合ってる中で、大太の声だけは、ずっとあのまま。どこか寂しげで、ガラス細工みたいに高い声。あの声を聞くたびに、私、彼が誰かに傷つけられた過去があるんじゃないかって、勝手に想像しちゃうの。

​だって、高学年になって、男子ってすぐに「男子らしさ」を強調したがるじゃない? 校庭でサッカーして、顔を真っ赤にして、すぐに日焼けしちゃう。でも、大太だけは違う。彼はいつも、どこか日陰を選んでいるみたいに、肌が透き通るように白いの。

​あれ、最初は気のせいかなって思ったんだけど、ある日、彼が体育の授業前に、こっそりポケットから白いチューブを取り出すのを見てしまった。

​「え、日焼け止め?」

​男子がそんなもの使うなんて、ありえない。しかも、まるで誰にも見られないように、手の甲に薄く塗り込む仕草が、すごく慎重で、まるで秘密の儀式みたいだった。彼は外の世界から、何か大切なものを守ろうとしている。その「大切なもの」って、きっとあの白い肌なんだろうな、って。

​図工や家庭科の時間になると、また大太の雰囲気が変わる。

​彼は裁縫セットを扱うのが本当に上手で、みんながガタガタに縫う布を、彼は魔法みたいに、細かく、繊細なフリルにしていくの。その時の大太の指先は、普段の無口な彼からは想像もつかないくらい、生き生きとして、優雅なのよ。その指が、日焼け止めで守られている白い指だって気づいたとき、私、ドキッとした。

​富士見大太という男の子は、地味で、無口で、存在感がゼロ。

でも、彼の白い肌の裏には、彼が必死で守っている「誰にも知られてはいけない、美しい秘密」がある。

​それは、まるで古い物語に出てくる、呪いをかけられて声が出せなくなった王子様が、夜になると魔法で別の姿に変身して、誰にも見せずに踊っている、みたいな。

​私は、彼の秘密を覗き見る勇気はないけど、いつか彼が、その綺麗な白い肌と、あのガラス細工みたいな声を、誰にも隠さずに、思いっきり輝かせてくれる日が来るんじゃないかって、密かに期待しているんだ。

​彼にとっての「日焼け止め」は、きっと、世界から自分を守る『魔法の結界』なんだろうね。

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