竜の力 自己犠牲とナノマシン③
クロード先輩は孤児院育ちで、同じ施設で暮らす沢山の子供たちから「お兄ちゃん」と慕われている。
孤児院育ちの多くは自由労働者組合(ワーカーズ)で働くことになる。おとぎ話に出てくる冒険者、などと脚色されてはいるが、その実態は日雇い派遣の都合のいい労働力と言われている。
とはいえ、連邦においてその存在は欠かす事ができない立派な職業だ。職業の適性を測るには、実際に働いてみなければ自分に何ができるのかわからない。経験を積むにはもってこいの働く側にとっても都合のいい職業だ。
わたしも少しの間お世話になったけれど、まだ幼すぎることと、養ってくれる父親がおり経済的に困窮していないのであまり仕事を斡旋してもらえなかった。
メリクル主任に直接指名されたので、結果的に郵便組合で配達士として働くことが出来たがそれでも、わたしはまだ未成年者で戸籍上ではまだ十二歳になったばかりの子供だ。
世間一般では十二歳と言えば、一通りの義務教育課程を修了して親元を離れて本格的に職業体験や訓練をし始める年頃だ。家業を継ぐ選択肢もあるが、若者は往々にして外の世界に憧れを抱くものだと言われている。
ある意味、配達士という職業も諸国漫遊ができる冒険者のような認識を受けているが実際にそんなことができる人はあまり居ないし、蓋を開ければ事務仕事の毎日だ。配属先が終点街だなんて言われた日には、直前になって面接を取り止める者が後を絶たない。
そんな中、新しい職員が増えることはなく、わたしにはまだ後輩がいない。かと言って、何か不自由な思いをしているわけでもない。すっかり一人前として扱ってもらっているので、現状には満足している。
とはいえ、子供扱いを受けるのはもう仕方がないことなんだと思う。受け入れようが受け入れまいが、どちらに転んでもわたしが幼い子供の見た目をしている事実は覆らない。だからそんな扱いに憂いていても仕方がない。
わたしは今も主任の秘書を続けている。そもそもずっと前任者がいなかった空席の役職で、主任から仕事を教えてもらっているうちに正式に採用されてしまった。
「チビねーちゃん」「ちびねー」「リリねえ」
これも仕事のうちだけど、子供の無尽蔵な元気ってどこから湧いてくるんだろう。アニマギアを装備してなかったらとてもじゃないけどやってられない。外見的にはわたしよりちょっと上くらいの子供たちに囲まれて授業にならない。
「なんでパンツはいてないの?」「毛皮ないよ、すべすべだよ?」「寒くないの?」
それが挨拶と言わんばかりに、当たり前のようにわたしのスカートを捲る。アニマギアが物珍しいのだろう。刺激に対してかなり敏感になっているのでぺたぺたと柔らかい手に触られるとくすぐったくてたまらない。
「みんな、授業始まるから席に着いて。あと、これでも先生だからね一応。授業が終わったあとで遊ぼうね」
定期的に主任とドクターとわたしの三人で終点街の孤児院で先生をしている。先生と言っても簡単な読み書きや算数を教えている程度だけど、地域の支援活動も各組合の立派な仕事のひとつだ。尤も、終点街を拠点に活動している組合はウチの郵便組合くらいしかないので消去法で仕事が全部回ってくる。
幸いにも孤児院の子供たちはクロード先輩が普段から面倒をみていることもあり、みんな聞き分けのいい子たちで「はーい、ちび先生」「約束だよー」と言うとおとなしく席に着いてくれた。教室の後ろの方でクロード先輩が合掌しながら頭を下げて謝っている。わたしも最初は戸惑ったものだけど、段々と子供たちとの付き合い方を覚えてきた。
終点街の孤児院は、リオの所有する荘園をシーナ様が管理して維持している。自然が豊かなところで、子供たちはリオの使用人さんたちと一緒に農作業や牧畜を手伝い基本的に自給自足の生活をしている。里親の募集なども頻繁にしているので実は子供たちもそこまで多くはない。それでも十人以上はいるのでわたしの手には余る。あと、年齢にもばらつきがあるので勉強を教えるのも大変だ。教材などは実際の学校などで使われているものを取り寄せて扱っているけど、問題なのは学年ごとの内容をわたしが全て覚えないといけないのと、テストなどの採点もしなければならない。
わたし、学校の先生じゃないよね。と自問自答する時もある。
黒板に「自習です、わからなくなったら手を挙げて呼んでね」と書き、子供たちが贈ってくれた似顔絵や手紙が散乱した教卓に着くと精神的な疲労で笑えてくる。チビ先生って、わたしの専門は一応錬金術なんだけどなぁ。
でも、リオを慕うわたしってこの子たちみたいな感じなんだろうかと思うと、自分の身の振り方を考えさせられる。
息つく暇もなく、元気な子供たちが呼ぶ声がする。
チビ先生、チビ先生と。みんな、学習意欲があるのは喜ばしいことだとは思うけど。問題なのは、あの子のことだ。陽当たりの良い窓際の席でいつもひとりぼっちの四肢の欠けた白猫の少女。少女とは言っても外見はわたしよりもお姉さんなんだけど、車椅子に座っているその子は子供たちからはクレアねえちゃんと呼ばれていて、クロード先輩の実の妹だ。ドクター曰く、難病を罹っているそうだ。しかし、そんなことをまるで気にする様子もなく、熱心に勉強を受けてくれる。怪我や病気の影響で、片目の視力はほとんどなく、聴力も弱い、味覚も薄く、嗅覚も機能していない。声を出すことも難しくて、意思の疎通は主に手のひらを介した筆談でのみ行われる。
強い竜の力の影響下に晒され続けた者は、多臓器不全に陥りやがて死に至る。不治の病、竜鱗症。俗に、竜の呪いと呼ばれているその病の罹患者は大きな特徴として体の一部に竜の鱗のような角質層が形成される。それは次第に全身を蝕み細胞を徐々に壊疽させていく。かつて、竜の力を求めて竜の血を飲んだ者たちの多くは同様の症状で死んだ。
竜の力によって再構成されたこの世界ではすべての生物は微弱ながらも常にその影響を受けて生きている。それでも、強い竜の力の影響下にあると言う状態は、あまり現実的な問題ではない。しかし、稀に竜の影響を受けやすい体質がある。そういった者は大体が短命である。本格的に鱗化の症状が出た者ならば、それから半年も生きられないだろう。これは、シーナ様の力を以てしても治せない唯一の病だ。竜の力を使って癒してしまえば、病状は一気に悪化してしまうからだ。とはいえ現在では技術の進歩によって不治の病と言うわけではなく、適切な投薬治療を続ければ時間はかかるが改善の余地はある。
彼女の場合は、竜の影響を受けやすい体質であり、かつ幼い頃に竜鱗症の魔物に襲われたことで感染した。左腕は根本から切断され、右足は膝から下がない。
あちこちにある傷痕は壊疽が広がる前に焼き壊されていた。素人目に見ても、正しい処置を受けたものとは思えない。魔物に襲われたより、人から拷問を受けたようにしか思えない。木製の簡素な義肢を付けていて、外見的には普通に見えなくもないがあまりにも残酷だ。
本来ならば、安静にしていなければならないが。安静にしていて、快方に向かうわけでもない。むしろ寝たままにしていれば床擦れで病状が悪化してしまう可能性が高い。竜鱗症の解毒薬は非常に高価なもので、シーナ様から支援を受けているとはいえ、先輩は施しに甘えるようなことをせず、代金を支払っている。シーナ様は今時珍しい殊勝な若者だと先輩を褒めている。
彼女が手を挙げているの見ると、わたしは他の子たちと同じように接する。
「何か質問がありますか?」と、手のひらをなぞると。彼女は笑いながら頷く。この子はどうして、笑顔でいられるのか、不思議でならなかった。クレアさんは優等生で、正直わたしが教えるようなことは何もなかった。ただ、生真面目に学問を修めようとしていた。わたしなんかよりも頭がいいのはわかる。
クレアさんは、読み書きや計算も地理や歴史などの義務教育課程を修了しており、他の子たちとは違い薬学の勉強をしている。正直、かなり専門的な分野まで踏み込んでいて、直接ドクターに教わったほうが良いのではないかと思うけど、ドクターには知られたくないみたいだった。先輩にも、主任にも。どうしてわたしを選んだのかはわからないけど、わたしも彼女と一緒に勉強をした。
いつか病気が治ったら、お医者さんになって自分と同じ苦しみを味わっている人を元気にしたい。働き者の兄さんにも楽させてあげたいし、シーナ様の助けになりたい。だから、リリ先生、秘密にしていてくださいね。びっくりさせたいんです。と、クレアさんは笑っていた。兄妹は似るものなんだろうなと思いながら、わたしは前に怪我をした時にドクターに怒鳴り声を上げていた先輩のことを思い出していた。たぶん、クレアさんとわたしの姿が重なっていたのかもしれない。目の前の儚げな少女は、陽の光で溶けてしまいそうなほど白く美しい冬のような姿をしていた。
孤児院の医務室では「嫌じゃ、嫌じゃ」と呟きながらも採血に協力しているシーナ様の姿を見た。竜鱗症の解毒薬の材料の主成分は竜の血なのだそうだ。毒を以て毒を制する、ということなのだろう。正確にはシーナ様の癒しの力から竜の成分を完全に分離させたものを解毒薬として用いているらしいので、他の竜からでは薬は作れないそうだ。加えて、純度の高い癒しの力は治癒能力が高すぎて常人の細胞の寿命を一瞬で使い切ってしまうほど強力な劇薬なので何万倍にも希釈する必要があるとか。
わたしは、医務室に鍵をかけて幕を閉じて内部の様子が漏れないように扉の前に立っている。
「……おぬし、医者じゃろう。もっと上手くできんのか、毎度のこと痛くて泣けてくるわい」
「聖女様、竜人の頑丈さはよくご存知でしょう」
「わかっとる、よーくわかっとるが痛いもんは痛いんじゃ!?」
「はい、我慢してください」
「ぐぬぅっ、ヘルメスゥ!児童虐待じゃぞ!」
「児童、誰のことですかね」
ドクターはシーナ様の鱗の隙間を的確に狙い、注射器の針を沈めていく。シーナ様が暴れないように縄でぐるぐる巻きにされているが、縄の方が先に限界を迎えそうな音を立てている。
ドクターの本当の名前は、ヘルメス・トリスメギストス。
伝説的な錬金術師として知られている存在だ。
普段はしがない町医者だと自称して偽名を名乗っている。わたしもつい最近まで正体を知らなかったんだけど、ドクターはウチの店のただの常連さんで組合の駐在医として生活することを望んでいる。ちなみに今日は主任は休みなので、シーナ様がどれだけ悲鳴を上げて、罵詈雑言を浴びせようとも。秘密が漏れることはない。
主任は働きすぎによる過労で倒れたらしい。無理してでもきっと働こうとするのでドクターが薬で眠らせて来たそうだ。ちなみに孤児院の子供たちはドクターのことが大好きだが痛い注射をするお医者さんだと思っているので、わたしたちが今いる医務室には戯れにも近づこうとすらしない。クロード先輩ですらそうだ。
「よし、あとはこれを分離機にかけて、と」
「のう、ヘルメス。こんなところによくわからん機材を持ち込んでもよいのか。おぬしの研究とかは、なんというか、秘匿しなければならないのではないか?」
「薄暗い洞穴で、どろどろの液体を棒でかき混ぜているような真似でもすれば満足ですか」
うんざりしたような声色で、ドクターは遠心分離機のスイッチを押した。
「いや、そういうわけではないが、まあイメージはそうじゃな」
ドクターは浅くため息を吐いた。
「やめてくださいよ、おとぎ話の魔女じゃないんですから。第一に、自己管理の行き届いていない不衛生な環境で薬なんて作れませんよ恐ろしい。リオネッタ様の所有する施設で、シーナ様の管理下にある安全と呼べる場所なんて世界中探しても数えるくらいしかありませんから。それに、もしも好奇心旺盛な子供たちが忍び込むようなことがあっても危ない物は全部持ち出していますので」
「病的なまでに心配性じゃな」
「ええ、人の正体を言いふらすような竜のおかげで」
「わ、悪かった」
不老不死、とは言ってもドクターの肉体はリオが作った全身義体を基にした人造生物(ホムンクルス)らしい。本来の肉体はとうの昔に朽ち果てて、今となっては魂だけの存在だそうだ。不老不死を気取られないように普通に生活しているだけあって、かなり用心深い。本来は風来坊な遊び人気質なこともあってか、自制するために禁欲的な生活を送っている内に色々とくたびれたおじさんになってしまったと自嘲するけど、わたしにはよくわからない。
「まあ、ええんじゃないかの、肉体を取っ替え引っ替え出来るんじゃ。男も女も楽しんだのであろう?」
「聖女様は随分と俗物でらっしゃる」
「して、男と女はどちらがよかったんじゃ?」
「リリくんの前でそんなこと言えるわけないじゃないですか、血は採りましたから、ほら、もう帰っていいですよ」
「おまえさんは子供には甘いのう。わしかて今は子供じゃぞ?」
「あなたは子供ではなく幼稚なだけです」
血液から分離された半透明な液体を確認しながら、シーナ様には追い払うような手の動きをする。
「なんにせよ、私は聖女シーナ様には微塵も興味はないので。万能な癒しの力は医者に喧嘩売ってるようなものですから、正直あなたの力を使って病を治すのも本意ではないんです。面白くない。とはいえ、個人的な感情で現状治せる病を放っておくわけにはいかないので渋々あなたの力を使ってるんですが」
「ふむ、媚び諂うような奴は大概嫌いじゃが、そう邪険にされるのも寂しいのう」
「とりあえず、子供たちの前ではその注射痕を見せて怖がらせておいてください。怪我や病気に繋がるものを関連付けて印象に残せば、自ずと危機管理能力も上がりますから」
わたしなら注射が怖かったら病気を隠してしまうかもしれないけど、ドクターから怪我や病気を隠すことは不可能だろう。指先をちょっと紙で切ったくらいの傷でも見逃さないから。それに、もしもやり過ごせたとしても、悪化したら苦い薬や痛い注射から逃げられなくなるのだから、素直に従うほうが長く苦しまないで済む。危機管理能力とはよく言ったもので、ドクターの躾は飴と鞭の使い方が上手だ。でも、ドクターの注射は痛みをほとんど感じない。叫ぶほど痛がっているのはシーナ様だけだ。刷り込みというやつだろうか。
シーナ様は不満げに医務室から出て行く。
「さてと、随分と待たせてしまいましたねリリくん」
「いえ、お話があるのはわたしの都合なので、お時間をとらせていただき、ありがとうございます」
「なんです、そんなに畏まって」
ドクターがヘルメス・トリスメギストスということを知ってから、わたしはどうも緊張してしまう。数多くの著書の中にはリオの研究している『アヴァターラ』の基礎設計に関わる話もある。輪廻転生(リインカーネーション)や不老不死の開祖だ。ヘルメス主義という学問があり、その歴史は旧人類まで遡ることになる。旧人類最後の砦『モノリス』の設計者もヘルメス・トリスメギストスだと言われている。
つまり、今こうして当たり前のように獣人が人類として台頭しているのもすべて賢者ヘルメスの叡智の上に成り立っている。こういう表現は、あんまり好きじゃないけれど、創造主……神様という存在なのかもしれない。宗教的な観点を抜きにしても、賢者ヘルメスという存在はあまりにも偉大すぎる。
「いや、だって、ドクターはこの世界の創世に関わっていたくらい凄い人で、わたしは、どう接したらいいのかわからないんです」
「大袈裟ですよ。それに、私ひとりでやったことではないですから。何か事を成したわけでもありません。結局は、私たちは世界の崩壊を食い止められなかった凡愚だったのです。失敗した。たったそれだけです」
ドクターは、シーナ様の血液に色々と手を加えて、いつの間にか白い錠剤をいくつか精製していた。
「竜の力が全てを解決してしまったことで、私は己の無力を痛感しました。身の程知らずだったんですよ」
白く淡く輝いて見える竜鱗症の解毒剤。このような特効薬は存在してはいけない。本来ならば、長年の投薬治療でようやく改善する程度の工程を省略して直接病巣を叩く解毒剤でなければ、クレアさんの命を救うには間に合わない。ドクターがシーナ様の血の薬を使うのは苦肉の策だった。
「ですから、いつも通り接してください。私は畏れるような人物ではないので」
「……はい、ドクター」
ドクターは「あなたはいい子ですね」と、悲しそうな顔をしながらわたしの頭を撫でてくれた。
「それで、私に聞きたいことがあるんですよね。わかる範囲ではお答えできるとは思いますが」
「あの、ドクターに聞きたいのですが、その、わたしのお父さんは、お父さんなんですか?」
「ええと、リリくん落ち着いて、説明できるかな?」
「あ、はい、すいません、その」
ドクターは、不安でいっぱいのわたしが冷静になるのを待ってくれていた。自分の口から説明できるように。
異変の兆候があったのは、最近に限った話ではない。ずっとわたしの血だけを吸ってきたお父さんは、なんというかわたしに似てきたように感じるのだ。別にお父さんが女の子になったとか、そういうことではないのだけれど、最近なにかがちょっとおかしい気がする。アニマギアの改良で感覚器官が鋭くなったわたしだけの違和感なのかもしれないけど。
ドクターに相談すると、興味深そうに思案していた。
「そうですね、精密に検査してみなければ断言はできませんが、吸血鬼の遺伝子の変化はそう珍しいことではありませんね。偏食、と言っては失礼かもしれませんが、リリくん以外にも様々な種類の人から吸血するほうが健康には良いのですが、それはそれで難しい話なんですよね」
「あの、お父さんは……?」
「無責任な事は言えないから、まずは診てみないとね。そうだね、今夜にでも伺います。診察料はおいしい料理を貰えると嬉しいかな」
「は、はい」
ドクターは、わたしの頭を撫でると。「チビ先生、子供たちが待っていますよ」と、送り出してくれた。
夕刻。
喫茶店ヤドリギの一番慌しく楽しい時間がやってきた。誰もが思い思いのお気に入りを注文して、満足そうに空腹を満たしていく。お父さんは「ウチって一応喫茶店なんだけどねえ」と困ったように笑うけれど、満更でもなさそうだ。
メリクル主任とクロード先輩、ドクターと教官が同じ食卓を囲んでいた。主任は半日以上食事を摂らずに眠っていたので、睡眠薬を盛ったドクターに怒りを露わにしていた。
先輩は孤児院の子供たちへの食事を作り終えてから、掻き入れ時に大人数でお店に押しかけるわけにもいかないので閉店後にお父さんやココノさんから料理を教えてもらう為にと足繁く通っている。
教官は、ほとんど毎晩のように家族と一緒に来ている。みんなすっかり常連で、特にこの四人は顔を合わせる頻度が多い。郵便局員の間では、職場の上下関係なく無礼講であることが暗黙の了解らしい。
わたしは給仕の合間に会話を聞くくらいしかできないけれど、みんないつも楽しそうだ。
「ここの卵料理は文句なしに最高なのよ。ふわふわのとろとろで素人には真似できない至高の逸品。はじめてオムライスを食べた時の衝撃から、もう一日一回オムライスを頼まないと気が済まないわ」
「俺はカツ丼かな、出汁(ダシ)玉子で閉じたのを白米と一緒にかっこむのが最高に幸せだ。ワリシタがカツの衣に染み込んで絶妙なんだよなぁ」
「それなら私は親子丼を推しますね、主任とクロード君の二人も味わってみるといいですよ。鶏肉と玉ねぎを卵で閉じ、煮凝りが料理の熱で融解し、味わい深いソースになるのです」
「卵料理も捨てがたいが、ヤドリギの看板といえばカレーを忘れちゃいけねえよ。野菜嫌いだったウチの娘もカレーに入れた野菜は残さず食うんだ。スクランブルエッグをトッピングしたカレーも絶品だぜ?え、ああ、それは邪道か?じゃあ卵料理だったらおっさんは茶碗蒸しだがな」
四人はどの卵料理が美味しいかの談義をしていた。主任はオムライス、ドクターは親子丼、クロード先輩はカツ丼、教官は茶碗蒸しを必ず注文する。それから他の卵料理を注文して、どの料理が一番美味しいのか改めて議論し始める。
「甲乙つけ難いけど、私はやっぱりオムライスです。ケチャップ以外にも、カレーをかけても、シチューをかけても餡掛けタレをかけても楽しめるので、なによりマスターが焼いた卵のふわふわでとろとろを味わえるのはオムライス以外にごさいません」
「さっきカレーに卵トッピングすんのは邪道とか言ってなかったか?」
「まあ、オムライスも確かにすげえ美味えけど、ちょっと俺には物足りないかな。もっと腹持ちのいいガッツリしたメシが食いてえ。つうか、なぁ。自分でやると卵料理ってふわふわにならねえんだよな。あいつらにも美味いメシ食わせてやりたいけど、難しいな」
「卵料理って簡単なように見えて美味しく作るとなると、途端に難しくなるのよ。マスターはオムレツとか簡単に作っているけど、あの逸品と比べたら大層な肩書を持ってる実家の料理人なんか霞んで消えてしまうもの」
「お嬢様、辛辣でございますねぇ」
茶化した先輩に主任から容赦無く平手打ちが飛んできて、先輩は一撃で沈んだ。
「まあ、偉かったのは曾祖父様(ひいおじいさま)なんだけどね」
主任がお父さんに目配せすると、恐縮ですと言いたげに困った笑顔を浮かべていた。奥の厨房ではロマさんが今日だけで何個目かわからない食器を粉砕する音が聞こえて、ココノさんには馬鹿力を呆れられていた。
「つか、教官何飲んでんだ?酒は飲まないんじゃねーのか?」
「あぁ、ちげえよ。コレは酢だよ酢、果実酢。健康のためにな」
「んなこと言って奥さんに内緒で酒飲んでんでしょ。もーらい」
「お前、馬鹿っ。滅茶苦茶酸っぱいんだぞソレ」
「ゲッフォオオオッ?!」
「果実酢は、疲労回復にダイエット効果や血糖値の改善など健康的な物ですが酢なのでそんなジュースみたいな飲み方したら、まあ身をもって経験したでしょう」
「先に、先に言っツッフォオッ?!」
主任は「あーもう、ばか、本当にばか」と、咽せる先輩を見てお腹を抱えながら押し殺したような笑い声を上げていた。
「はー、苦しい。ちなみに、リリのおすすめの卵料理は何かしら」
藪から棒に話題を振られてどうしようかと悩んでいたら、ついさっき食べた賄いごはんを思い出した。
「わたしですか、わたしはスコッチエッグが好きですよ。ハンバーグの中に卵が入っているような料理なんですけど、お肉が美味しいです」
「そ、そうね、あなたはなによりお肉が好きですものね」
「最近は海のお魚のお肉も好きですよ。シーフード?と言うらしいです」
「待って、海の幸まで食べられるの?」
「はい、毎朝新鮮なものが届きますよ。貝とか、タコとかイカとか、お魚もたくさん」
「川エビとか川魚や森苔タコではなくて、本物の海のもの?」
「そうです」
主任が爛々と瞳を輝かせている。
「あー、死ぬかと思った……で、海ってなんだ?」
一方で蒸せていた先輩はしゃがれ声で首を傾げていた。
「うーん、連邦の外側を取り囲む大きな海洋。この世界は陸地が六割で残りは海で出来ているの。塩水の張られた大きな湖って言ったらわかりやすいかしら?」
「は?水がしょっぱかったら飲めねえじゃん?それに塩湖なら知ってるけどほとんど生き物が住めないから、死の湖とか言われてるし、そんなところに食える生き物なんているのか?」
「そうね、たぶん海はこの世で最も多種多様な生物がいる環境かもしれないわね。中(なか)つ国(こく)、アースガルドだなんて言われてるから内陸部のこの首都ビヴロストで生活していたらあまり知る機会は少ないかもしれないけど、海の食べ物は淡水魚とはまた違った美味しさがあるの。特に新鮮な生魚を捌いた刺身は癖になる程美味しいらしいわ」
「えぇ……、魚を生で?」
「肉だって生食できるんだから別に驚くようなことではないんじゃない?」
「……世界って広いんだな」
「あなたは学習意欲がなさ過ぎです。おさらいといきましょうか、クロードくん」
先輩は「げっ」と嫌そうな顔をしながら、いきなり始まったドクターの授業を受けることになった。
この世界は、地球の表層の岩盤(プレート)が崩落、地殻(リソスフェア)が大きく欠如して出来た。
旧人類が暮らしていた世界の地表『オーバーグラウンド』と呼ばれ、わたしたち獣人が暮らす窪んだ崩落の穴の底の世界は『アンダーグラウンド』と呼ばれて大きく分けて二階層ある。海水の一部は穴に流れ込み現在もなお、絶え間なく空から降り注いでいる。
塩害に弱い植物は淘汰され、一部には死海と呼ばれる塩の湖があることもまた事実だ。地底から見た地表は天気のいい日でも薄っすらと見える程度で、その距離は随分と離れているようだ。わたしたちの暮らしているビヴロストは、『アンダーグラウンド』でも数少ない『オーバーグラウンド』との貿易がある国だ。その大きな違いは、住んでいる獣人の種類だと言われている。地底では主に肉食動物や水生生物の獣人、地表では草食動物や鳥類の獣人。
そのどちらも、統治しているのは竜人であるそうだ。言語は統一され、公用文字も爪文字と牙文字に統一されている。アルファベット、という古代の文字も継承されていて度量衡(どりょうこう)もほとんどはメートル法で統一されているようだ。ただし一部の精密さを要求される職人や技師の間ではメートル法とは異なるものを扱っているらしく、日々物議を醸しているそうだ。
「ドクタぁー、勘弁してくださいよ」
ドクターの授業を終えた先輩はテーブルに突っ伏したまま動かなくなってしまった。
わたしはそんな先輩たちが噂していた生魚の刺身を届けるようにお父さんに言われていた。身を削がれてもまだ動いているのは、ココノさんの卓越した包丁捌きの為せる技だ。和食、というものを作らせたらココノさんの右に出る者はいないとお父さんは言う。
「お父さ……店長からの差し入れです。お代は結構なので試食をお願いしたいみたいです。醤油に山葵(わさび)を適量溶いて付けて、少し辛くてツーンとした感じで食べると美味しくいただけますよ。苦手なら醤油だけでも大丈夫です」
今、来店しているお客さん全員にサービスする予定だけど、魚は焼くものという固定概念から遠慮されがちだからとりあえずいい感想を貰おうと常連の四人が選ばれた。
一番最初になんの先入観もなく食べたのはドクターだった。添えられていた二本の棒、ハシを器用に使い刺身を山葵醤油に付けて一口。そして「おいしい」と一言だけ言うと「ちなみに醤油には殺菌作用が、山葵には抗菌作用がありますし、これだけ新鮮であればそもそも食中毒になる可能性はありません。まあ、そうですねマリネ感覚で食べてみてください」と医者としての説明をしながら二口、三口と食べ進めていた。
ドクターに釣られて残りのみんなも食べ始めた。喧喧諤諤(けんけんがくがく)としていた他のお客さんも魚の刺身を頼み始めた。行き着いた結論は、ついついお米が欲しくなる味だそうだ。
料理を取りに行く時、珍しくココノさんが上機嫌だった。「確かにこれは痛快だな」と食文化が広まる様子を見て笑みを浮かべていた。
仕事が終わり、店の片付けがひと通り終わったあと、お父さんは半裸に剥かれてドクターの診察を受けていた。ちょうどいい空き部屋なんてないのでわたしとお父さんの部屋でだ。
見れば見るほど、お父さんの体は傷だらけで痛々しい。思わず、孤児院のクレアさんの姿を彷彿とさせる。つまり、拷問のような痕を。
一通り触診を終えてからドクターは思案するように唸った。
カルテにペンを走らせるドクターを尻目に、お父さんは隣に座るわたしを見てため息を漏らした。
「余計なことだった?」
「いいや、心配してくれてありがとう」
わたしの頭を撫でながら、お父さんは微笑む。
獣人には比較的珍しい毛髪がお父さんにも生えている。
一般的な常識では、髪は主に二次性徴前後の女性に生える特徴的なものだけど、それでもすべての女性がそうであるかと言えば否だ。髪のある獣人の男性だっている。女性は数百人に一人、男性は数万人に一人かそれくらいの割合らしい。一説にはホルモンのバランスが影響してくるようだ。何故女性の方が髪が生えやすいのかはよくわかっていない。
ともあれ、そんな俗説からお父さんはよく女性に間違われることがある。中性的で華奢な体つきをしていることもあり、男性から求婚されたことも少なくない。
もっとも、連邦において婚姻には性別は関係ないそうだけれどお父さんは断り続けている。書類上では既婚者ってことになっているけど、実はお父さんってずっと独身で、女性との交際経験は一度もないのだそうだ。
一応、ココノさんとはそれらしい仲であるらしいけど、どちらかと言えばお互いただの料理友達だと言う。けれど色々と都合がいいので、ココノさんはわたしのお母さんってことになっているらしい。ロマさんは養子で、わたしのお姉ちゃん。
そういう関係でも違和感はなさそうだし嫌じゃない。ともあれ、偽装結婚の指輪をはめずにネックレスにしているのは料理の邪魔になると理由を付けて交際を断るいい言い訳に使われている。ちなみにお父さんはいつも引詰め髪の上にバンダナを巻いていることもあり、それで面倒を避けているそうだ。
「……月経前症候群ですかね」
長い沈黙の末にドクターが病状を口にして、再び長い沈黙が訪れた。
「先生、男性にも月経ってあるんですか?」
「ありませんよ、冗談です」
「ですよね」
「とはいえ、あなたは肉体的には性器の欠如した男性で、子宮と乳房のない女性みたいなものですから」
お父さんはがっくりと肩を落として落ち込んでいた。わたしには意味がわからなかった。だけど、原因がわたしにあることはなんとなくわかった。わたしがドクターを呼ばなければお父さんの心が傷付くことはなかっただろうから。
「お父さん、わたし悪いことしたんだよね、ごめんなさい」
「ああ、リリさんのせいじゃないよ。心配してくれたんだから謝らないで。私は元々そういう体なんだ」
「そういうからだ?」
「……うーん、言いづらいなあ。吸血鬼になるずっと昔、私のお父さんに無理矢理女の子として育てられていたから男の人じゃなくなっちゃったんだよ。どちらでもない中途半端な体になったんだ」
「わかんない、お父さんはお父さんだよ?」
「ありがとう」
お父さんは優しくわたしの頭を撫でながら、苦笑いをしていた。ドクターは咳払いをして、丁寧な口調でわたしに語りかけてきた。
「まあ、病気ではありませんが。リリくんのお父さんは他の人より少しだけ疲れやすい体質なので、できる限り労わってあげてくださいね」
「お父さん、疲れてる?」
「大丈夫だからね、最近はリリさんもよくお手伝いをしてくれているから助かっているんだよ」
「本当?」
「本当だよ、それよりリリさんこそ無理してないよね。いくらそのアニマギアとやらがすごい装備でも無理はしないでね」
「うん、わかった」
普段からお父さんにしか見せないあどけない反応をしてしまい、それをドクターに見られていることなどまったく意識しておらず、気がついたときには温かい視線を向けられていた。羞恥心に火がついたかのように、顔が真っ赤に燃え上がる感覚だ。
「ドクター、違うんですよ。わたし、普段はもっとちゃんとしてます。そんな、子供を見るような目でわたしをみないでください」
「いえ、お気になさらず。他言したりしませんから、それより次はあなたの番ですよ、リリくん」
ドクターは既に採血用の道具を揃えていた。
「ドクター、これは?」
「リリくんの血がお父さんに与えている影響を調べるので、お二人から採血させてください」
「わかりました」
「えぇ、リリさん意外と抵抗ないんだ。私は血を見るのはあんまり好きじゃないんだけど」
「吸血鬼なのに?」
「そう、吸血鬼なのに」
他愛のない冗談を言いながら、順番に少量の血を抜かれた。痛みは嘘みたいになくて、シーナ様が痛がっていた理由がよくわからない。もしかしたら、竜人に使う針は何か特別なものなのかもしれない。錐(きり)で穴を開けるみたいに。想像したらかなり痛そうだ。
「今すぐに結果を出すことはできないので、後日また報告しに来ます。それでは、ちょっと面倒な上司を待たせていますので、リリくんみたいに可愛げがあればいいんですけどね」
どうやら主任を待たせているらしい。十二人会の一人が護衛も付けずに外出するのもおかしな話だとは思っていたけれど、どうやら他のメンバーにも監視を兼ねた護衛が一人につき十人以上はこっそり付いているらしい。
「これは医者の勘ですが、深刻な問題ではないと思いますよ。ですので、あまり心配しないようにしてください。以前調べたリリくんの血液は良性なものでしたから、お父さんに悪さをするようなことはないでしょう」
階下からは主任が捲し立てるようにドクターを呼んでいる。ドクターを見送るためにわたしたちも階段を降りると、バックヤードのソファに押し倒されている主任がいた。叔母(おねえ)ちゃんに。
「誰かこの酔っ払いを、酔っ払いを追っ払いぃ!」
主任に接吻を迫り、それを静止するロマさんが力負けしている。
「こ、こここっ、ココ、助けて!」
「ドクター、ウチの馬鹿な妹によく効く薬ってありませんか?」
「シーナ様にはよく効く毒なんですけどねえ」
泣きべそをかきながら、ロマさんは眼前まで迫るカミラお姉ちゃんの顔を突き放そうとしている。解放された主任は小動物のような素早い動きでドクターの後ろに隠れると、怯えた瞳でわたしを見つめて来た。
「大丈夫ですよ、別に取って食われたりなんてしませんよ」
「今まさに取って食ってるじゃない!?」
主任が指を向けた先には、ソファに押し倒したロマさんに口付けをしているお姉ちゃんがいた。
「やだぁ、お酒くさいよ!ココぉ、たすけてえ!!」
「人身御供」
ココノさんは我関せずと、片付けをしている。ドクターも主任も面倒ごとに巻き込まれる前に足早に帰宅して行った。
「この人でなし!鬼ぃ!悪魔ぁ!」
そう、本当に生け贄なのだ。あの酒に酔ったキス魔は誰にも止められないから、お客さんに手を出す前に誰か身内の女性を捧げなければならない。
翌朝、ロマさんは乱れた下着姿で「もうお嫁にいけない」と部屋の隅で縮こまって泣いていた。結構な頻度でよく見る光景で、その餌食になるのがわたしかココノさんかロマさんかシーナ様かの違いでしかない。いつも泣いているのはロマさんだけだけど。
「ぐすッ。あの人、ひぐっ。絶対、おかしい。頭、ひっ。おかしいよ。うぇッ、ひんッ。ココ、ココのばかあ、助けてって、助けてって言ったのに」
あぁ、血まで吸われて、流石に気の毒だ。
ココノさんはロマさんをあくび混じりになだめながら目を擦っていた。件の頭のおかしいあの人は、床に転がって気持ちよさそうに眠っている。いびきをかいて、お腹を出して。
「……ロマさんお姉ちゃんがごめんね、その、大きな蚊に刺されたと思って」
「なんで、なんでみんなは平気なの、おかしいでしょあの人ッ?!」
「わたしは慣れちゃった」
「でかい猫みたいなものだ、お前で慣れてる」
「わしも」
当たり前のようにシーナ様がにやにやと笑みを浮かべながら、お姉ちゃんのお腹をつついていた。
「うがぁああ、ロマさんはあんたが嫌いだぁ!!」
「おひょひょひょひょっ」
ロマさんがシーナ様の肩を掴んで激しく揺すっている。なんて事のない、いつも通りの日常だ。
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