第3話
その日はそこで下校時間になった。唯一決めたのは、『この話をするのは四人で直接会っているときに限る』という掟だ。スマホでのやり取りは、家族や友人に通知が見られる可能性があるとナベが指摘したからだった。
宿題が手につかなかった。いつもは集中力が切れてギターを触ってしまうが、今日は身体がうずいて座っていられなかった。シールドをアンプにぶっ刺して勢いよく弾くと家中が揺れた。ヘッドホンが抜けていたことにも気づかなかった。父親に怒鳴られたが、そんなこと関係なかった。ギターはひさしぶりにオレを遠くまで連れて行ってくれた。
時計はもう二時を過ぎていた。手つかずの宿題をカバンに放りこんだ。明日、授業前にナベに見せてもらおう。
ベッドに入っても眠れなかった。スマホで『学校 乗っ取り』と調べてみたが、学校の乗っ取り方は出てこず、サイバーセキュリティの話ばかりだった。まったく眠くならず、何度も寝返りを打った。このまま起きていたほうがいいかもしれない。今寝たら朝が辛くなる。それでも朝日の訪れとともに眠気が来た。最後に見た時計は4:28を示していた。
翌朝、身体が重かった。ベッドは泥になったようで、すこしでも目を瞑ったらそのまま沈みそうだった。顔を洗って寝癖を整え、パンを一口かじり、制服に着替えて外に出ると、弾力のない鋭敏な感覚に襲われた。深く息を吸うと吐き気を覚えた。学校が妙に遠く感じられ、坂道が辛かった。
二時間半の睡眠は身体に応えた。だが仕方ない。面白いことが始まろうとしているのだから。そんなことを考えると身体の奥底から温かいものが湧き上がるのを感じた。オレは笑みを必死に抑えた。こんなことで計画が露呈したら一生の不覚だ。
遅刻寸前に教室へ着くと、ナベ、キョーイチ、ゴトウ、三人とも目の下にクマを作っていた。その姿にふたたび笑いそうになるのを我慢した。
「ギリギリじゃねえか」
席に着くなり、隣のヨカワが声をかけてきた。サッカー部の朝練を終えて、制汗剤のニオイがキツかった。オレは吐きそうになった。
「お前くせえよ」
「なんだよ、いつもと同じだろ」ヨカワは自分の腕を嗅いだ。
オレは頬杖をついて横目でヨカワを見た。そうしないと頭が支えられなかった。
「お前、目の下のクマがヤバイぞ」
「昨日遅くまで起きていたんだ。眠くて倒れそうだ」
「自業自得だろ」ヨカワは呆れた表情になった。
朝のホームルームが終わり、一時間目は数学だった。オレは宿題を見せてもらおうとナベの席に向かった。
「オレもやってない」
ナベは話すのが億劫そうに口を開いた。行動の一つひとつがゆっくりしていた。
「マジかよ、ナベが頼りだったのに」
オレが嘆くと、近くにいたシズカが笑った。シズカはいわゆる学校のマドンナで、他校にもファンクラブがあるとか原宿でスカウトされたとか、そんな都市伝説がまことしやかに囁かれていた。そんなシズカを笑わせられただけでも寝不足は無駄じゃなかった。
「オレは徹夜だ」
ナベはオレだけに聞こえるように小声で言った。肌が白くて細身のナベが、クマを作って笑うとまるで亡霊みたいだった。
宿題はいつもナベが見せてくれていた。他に当てはなかった。キョーイチはバカだし、ゴトウは字が汚くて解読に時間がかかる。ヨカワは大抵やってこない。
チャイムが鳴って、成果なく席に戻ったが、こういう日に限って宿題の答を発表するよう指名されるのは、教師の勘が鋭いからなのだろうか。もちろんオレは答えられなかった。よりによって数学教師は機嫌が悪く、受験生としての覚悟がないのか、たった一問くらいこの場でも解けなくてはならない、と喚きたてた。ちなみにナベは一番難しい問題を答えて、正解した。オレは廊下に立たされた。ヨカワも一緒だった。オレが答えられず、隣のヨカワが指名されたが、こいつも宿題をやっていないから答えられなかった。教師は激怒した。みんなニヤニヤしていた。そもそもその場で解いて答えられるのはナベくらいだ。
「なんでオレまで立たされてるんだよ」
「宿題やってないからだろ」
「今日は指されないと思ったんだけどな」
「その自信はどこからくるんだよ」
廊下に立たせるという前時代的な指導が今でも存在するのは、この学校くらいだろう。五月の風が廊下を抜けるのは心地よいが、真夏や真冬は拷問だ。それでも教師は嬉々として廊下に立たせてくる。アイツらは本当に頭がおかしいんだと思う。
授業中に廊下に立つときは、声を潜めて話さなくてはならない。廊下の声は意外と響くのだ。ヨカワは慣れたもので柱にもたれかかってリラックスしている。オレも同じように柱の逆側に身体を預けた。急に眠気に襲われた。立っているのか横になっているのか感覚がなくなった。このままでは寝てしまう。オレは目を開けて直立不動に戻ろうとしたが、身体が柱とピッタリくっついて離れなかった。その瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
「おい、何やってる」
数学教師が目の前に立っていた。ビンタされたと気づくまでに時間がかかった。視界の隅でヨカワが笑っていた。
オレは反省文四枚と宿題としてワーク三十ページ分を追加で課された。休み時間は眠るつもりだったのに、とんだ災難だった。腹が立ち、反省文の四枚目を『。』だけにして職員室に提出しに行ったら、数学教師の隣から国語教師がしゃしゃり出てきて、作文用紙の使い方云々と説教を始め、最終的には成績の話までされた。結局、三枚しか書いていないとされ、オレはその場で『以後気をつけます』と乱暴に書き足して提出した。職員室を出る間際、ワーク三十ページは明後日まで、一日遅れるごとに一ページ追加な、と声が掛かり、教師たちは笑った。オレは学校を乗っ取るだけじゃなくて、火でもつけてやろうかと思った。
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