ダリの屍宮ー愛を乞う物語ー

yoizuki

第1話

 第1章

「神は死に、芸術だけが残った」

────────────────────


夜更け。

埃を被った映写機が低い唸りを上げ、白い壁面に小さな光が揺れた。


映っているのは、若き日のガラだった。


笑っている。

残酷なほど美しく。

そして、救いがたいほど他人に残酷だ。


ダリの指先は震えている。

どれほど世間が “天才” と称えようと、この震えを止めることはできない。


成功は手に入れた。

金も、名誉も、狂気という名の冠も。


だが――


> 彼女がいなければ、それらはただの空虚だ。




フィルムの明滅のたび、彼の胸には同じ言葉が滲んだ。


どうして君じゃなきゃ駄目なんだ。


机の上、黒いノートが開かれている。

その表紙にはこう記されていた。


> 《美の屍宮(びのしきゅう)》

──モデル:ガラ・イバノブナ・ディアコノワ




歪んだ愛の証文。

宣戦布告。

処刑台の刻印。


どんなに美しい映像で世界を圧倒しても、

ガラは振り向かない。


金を持つ男。

若さを持つ男。

力を持つ男。


そちらへ平然と歩いていく。

まるで、彼の心を土足で踏みつけることが息をするのと同じだと言わんばかりに。


「……許さないよ」


だがその呟きは、恨みではなかった。


嫉妬と、渇望と、狂った祈りが混ざり合った声。


壊すのは、愛しているからだ。

救えるのは、自分だけだと証明するためだ。


彼の視線はふと、壁に立てかけられた一枚の写真へ向いた。


ガラの肩を抱く、かつての友──レオン。

ほころぶ笑顔。

二人を包む、やわらかな未来の約束。


その未来のどこにも、ダリはいなかった。


破り捨てた。

一度では足りず、二度三度と千切り裂いた。

まるで、後戻りできないことを骨の髄に刻むかのように。


> 愛している。

だから、二度と笑わせない。




彼はノートの最後のページに一行を加える。


> ──ガラは堕ちる。

 みじめに、醜く、世界でいちばん孤独に。




そして最後に、彼の手を取る。

それが、この物語の “ハッピーエンド”。


ダリは映写機を止め、闇を見つめた。


「ガラ。

 これは君のための芸術だ」


その声は震えていたが、確かな歓喜を含んでいた。


愛は、ついに狂気へと変貌した。


夜は静かだった。

そして、恐ろしく美しかった。


────────────────────



第2 主演女優の条件


 アトリエは、撮影準備の熱気で満ちていた。

 照明の設置、セットデザイン、カメラテスト。

 その中心で、ダリは黙々と動いている。


 誰よりも集中し、誰よりも疲れていた。

 それでも、やめるという選択肢はなかった。


 この映画は復讐であり、愛の証明であり、

 自分の存在価値そのものだった。


「……主演のオーディションはどうなった?」


 スタッフに尋ねると、返ってきたのはどこか歯切れの悪い声。


「ええと、一人だけ……まだ残ってます」


「一人? 例の“問題児”か?」


 スタッフは小さく頷いた。


「あの子、トラブルが多すぎるんですよ。

 監督に向かってダメ出しとか……普通、します?」


「天才にはよくあることだ」


 ダリは平然と答えた。

 天才は常に追い詰められている。

 だからこそ、他人も追い詰める。


 ――ドアが開く。


 入ってきたのは、黒髪を後ろで結んだ若い女優。

 挑戦するような、醒めたような目。


「リナ・フォルテ。二十四歳。

 あなたの映画、ぶっ壊しに来ました」


 挨拶の第一声がそれだった。


 スタッフ達が凍りつく中、

 ダリはほんの少しだけ口角を上げた。


「……それは期待できそうだ」


「本気で言ってるんですか?」


「本気でしか言わない」


 リナの瞳が、わずかに揺れた。

 計算された自信に、予定外の興味が灯る。


「あなた、変な監督ですね」


「奇才と呼んでくれ」


「自分で言うんだ」


 まるで漫才のようだが、

 会話の奥底には妙な理解があった。


 リナは台本を捲る。

 演じる役の名を見て、眉をひそめた。


「ガラ・イバノブナ・ディアコノワ

……? パリコレモデルの"ガラ"ですか?

本名そのままじゃないですか」


「問題あるか?」


「訴訟の未来が見えるんですけど」


「未来を恐れて芸術が作れるか」


「いや普通に捕まりますよ」


 呆れたように言いながらも、

 リナは台本から目を離さない。


 その役は――美しく堕ちていく女。

 救いも同情もない、徹底的な転落劇。


「……恐ろしい役ですね」


「恐ろしく演じてくれ。

 モデル本人が後悔するほどに」


 リナはダリを見つめ返す。

 その眼差しには、言葉にならない問い。


 どうして、ここまで?


 ダリは答えない。

 代わりに、淡々と指示を出す。


「ガラ役の稽古を始めよう」



 その日から、地獄の演技指導が始まった。


 ダリは狂気と愛の狭間を演じさせるため、

 執拗なリテイクを繰り返した。


「違う。もっと醜く。

 男に依存しきって、プライドは粉々に」


「いや言い方!」


「君の声が綺麗すぎる、もっと濁せ」


「濁せってどうやって!?」


 夜、休憩しながらリナが呟く。


「ガラって……そんなに嫌な女だったんですか」


「……好きだったよ。今もな」


「え、好きなのにこんな映画作るの?」


「愛しているから壊す。

 壊して、俺のものにする」


「サイコパスじゃん」


「芸術家だ」


 ダリは涼しい顔で言い切った。


 その歪な愛情に触れた瞬間、

 リナは言葉を失った。


(この人、本気だ……)


 狂気は、演技ではない。

 本物の執着。


 ゆえに――彼は強い。


 そして。


 弱い。



 ガラ・イバノブナ・ディアコノワ


「悪い女よ。男を金で転がしてるって」


「ダリさんを利用して、捨てたんだとさ」


「次は大富豪のヴィクター? 節操ないわね」


噂は、安い毒を含んでリナの耳にも届いていた。


稽古の休憩中、彼女は意を決しダリに尋ねる。


「ガラは……あなたに何をしたんです?」


ダリは笑った。

けれど、その笑みはどこにも届かない。


「信じていたんだ。世界の誰よりも」


拳が震えていた。


「彼女のすべてが欲しかった。

 でも……」


喉が詰まり、言葉を搾り出す。


「ガラは僕の心を餌にして、

 別の男の皿で踊っていた」


彼の視界の端で、照明が滲んで揺れる。

ピントの合わない世界。

孤独だけが、くっきりと映っている。


「レオンって男がいる。

 彼は…ガラを救ったんだ」


かつてダリにとって唯一無二の親友だった男。


まだガラが無名だった頃。

彼女が貧しい家庭に育ち、夢さえ見失いかけていたとき、

手を差し伸べたのはレオンだった。


彼は見返りなど求めなかった。

ただ彼女に、


> 「君は愛されていい存在だよ」

と教えた。




その優しさは、ガラが最初に知った“救い”だった。


……だから、彼女はレオンを選んだ。


ダリは知っていた。

ガラの瞳に映る未来に、自分がいないことを。


それでも信じた。

いつか振り向いてくれると。


しかし現実は残酷だった。


親友はガラの恋人になり、

自分は愛ではなく材料になった。


「奪われたんだよ。

 僕の尊厳だけじゃない。

 僕の唯一の親友まで――」


ダリが笑った瞬間、

その笑顔はひび割れた仮面のように見えた。


ただ一人でいい。

たった一人でいいから

自分を選んでほしかった。


それなのに、

世界は彼の願いを

ことごとく踏み潰していった。



呼吸が荒くなる。


「彼はガラに

 “愛される資格”を教えた。

 僕ではなく、彼が」


自嘲が滲む。


「僕は神になれると思った。

 でも――ただの人間だった」


うなだれた背中は、

天才とは思えないほど小さかった。


ほんの一人でいい。

ただ、自分を選んでほしかった。


それだけの願いさえ、

叶わなかった。


リナは震えながら口を開いた。


「……私、ちゃんと演じます」


その声が、

彼の折れそうな心を支える

唯一の支柱だった。


「そのガラより、ずっと強く。

 ずっと美しく堕ちてみせる」


 ダリは顔を上げる。


「それは、僕の復讐に協力するってことかい?」

 リナは、少しだけ笑った。


「未練の、後始末ですよ」


 その言葉に、ダリの心臓が跳ねた。

 図星すぎて、返す言葉がない。


 狂気の映画は、静かに動き始めた。



---



第3章


― 稽古は古傷を呼び起こす ―


「監督、ここ。もっと“愛されていると信じ切っている女の表情”をどうぞ」


リナは台本を片手に、無表情のまま言った。

まるで天気予報でも読み上げるかのような温度。


「え、えっと……それって、どんな感じだろう?」


「自分を見てる人間は全員家畜。

でも全員、自分がいないと死ぬと思ってる顔です」


「そ、そんな顔……できる?」


「できます。私は女ですから」


淡々と即答し、ダリを見た瞬間だけ、

薄く笑った。


――それだ。

まさにその顔だった。


脳裏に、ガラの声が蘇る。


> 「あなたがいないと…私、壊れちゃうかも♡」




壊れていたのは自分のほうだったのに。



回想は、唐突に胸を刺す。


ある日、ガラはこう言った。


> 「私、あなたが作った“私”じゃないとダメなの。

 だからメイクは全部あなたがやって?」




睡眠2時間のまま、彼はファンデーションを塗った。

彼女の毛穴ひとつ許されなかった。


「目の下、クマが」


「あなたのせいよ。

私がこんなに努力してあげてるんだから?」


努力――?

自分は努力“されていた”のか?



別の日。


> 「今日、会えない。撮影?知らないわ

 あなたの都合を押し付けないで」




ダリは編集室で携帯を握りつぶしそうになった。

徹夜明けの目に滲んだ光は涙か画面か。


そして、連絡の返ってこない理由を

彼は後で知る。


ヴィクターとの笑顔の写真。


> 「あの人、私をちゃんと見てくれるの。

あなたと違って」




“ちゃんと”とは何だ?


ダリは、世界でいちばん彼女を見ていたはずなのに。



稽古場に現実が戻る。


リナが、首をかしげた。


「ねえ監督。

ガラって、どれくらい最低だったんですか?」


その問いは鋭い。

ダリの胸の奥に沈殿していた痛みを引き上げる。


「……言葉にするのは、難しい」


「じゃあ、こうしましょう」


リナは近づき、小さな声で囁いた。


> 「“あなたって、人間だったの?”」




ダリの手から台本が落ちた。

指先が震える。


まるで、脳に直接ナイフを突き刺されたような一撃だった。


リナはそれを観察し、淡々とメモをとった。


「なるほど。

そういう顔をしていたんですね。

“愛が殺される瞬間の顔”」


「そ、そんな言い方しなくても……」


「創作に必要な情報なので」


彼女は無表情。

でも不思議と冷酷さがない。

ただ――正確なだけだ。



ダリは笑うしかなかった。


「僕、どれだけザコキャラなのかな……」


「天才は大抵ザコですよ。

恋愛においては」


その言葉はなぜか優しかった。


リナはカメラを指差す。


「撮りましょう。

あなたが生きてきた、あなたの地獄を」


「……うん」


レンズが回り始める。


暗闇から、過去の声がまた聞こえる。


> 「私はあなたのものじゃない。

 でもあなたは私のものよ?」




> 「才能は私が与えた。

 だから全部差し出して?」




> 「ねえ、あなたって、人間だったの?」




――俺は、神様なんかじゃない。

ただ惨めに愛しただけの、ひとりの男だ。


レンズの向こうで、リナが笑む。


「監督。

もっと憎んでください」


「……愛しているから憎むんだ」


その言葉がフィルムに記録された瞬間、

撮影所に静かな狂気が満ちていった。


‐‐‐


完成した。


サルバドール・ダリ──いや、“奇才監督”は、

編集室でガラの名が大きく映し出されるエンドロールを見つめながら、

ゴクリと喉を鳴らした。


> これで、君は僕から逃げられない。


ー裁きの幕は上がるー



‐‐‐


第5章 上映会


赤い絨毯がまっすぐ伸びる、上流階級のための映画館。


天井には水晶のシャンデリア、香水とシャンパンの匂いが混ざる。


大理石の床にハイヒールの音が響くたび、会場全体が軽く震えた。




その夜は、芸術家・ダリの最新作『美の屍宮(The Mausoleum of Beauty)』の特別上映会だった。


映画祭の会場は満席だった。

マスコミ、投資家、評論家、そして──ガラ本人。


彼女は隣に若い男を連れていた。

名前はヴィクター。

眉間に札束を挟んでも落ちないような、金の匂いしかしない男。


スポットライトに照らされるガラは完璧だった。


その微笑みは磨かれたガラスのように滑らかで、


誰もが「美」という言葉を思い出すために彼女を見た。


リナは舞台袖で、歩いているだけで死にそうな監督を励ます。


「ダリ監督、顔色悪いですよ。

 ちゃんと食べてます?あ、食べてる暇ないか。

 でも寝てください。あと水飲んでください。あと人生もちゃんとしてください」


「……ありがとうリナ。

 君の言葉、半分刺さるけど半分救われるよ」


「半分刺されば十分です」


彼女は相変わらず淡々としていた。

それがダリには心地よかった。



会場が暗転する。



スクリーンに映るのは、

あの醜悪なヒロイン。

虚栄と欲望にまみれ、周囲を傷つけ、

己の美だけを信仰した女。


──ガラ・イバノブナ・ディアコノワ―


そのものだった。


観客がざわつき始める。

数名はガラとスクリーンを見比べ、あからさまに口元を歪めた。


ガラは膝の上のバッグを握りつぶしそうな勢いで震えた。


「これ……私を、モデルに?」


ヴィクターが低く吐き捨てる。


「おいガラ、どういうことだ」


「し、知らない……!知らないわよこんなの!」


だが映画は容赦なく続く。


・愛を利用し男を飼い殺しにするガラ

・疲れ果てたダリをポイ捨てするガラ

・レオンを裏切り、新しい金づるに乗り換えるガラ


ガラは立ち上がり、叫んだ。


「やめて!上映を止めて!!」


しかし、止まらない。


止められない。


> これは裁きの儀式だ。


スクリーンには、地獄のような美が映し出されている。


ガラという女が、どれだけ残酷で、虚栄に満ち、

他人の心を踏みにじってきたか。

その“真実”が、容赦なく観客の瞳へ突き立てられていく。


蒼白になる者、目を逸らす者。

それでも誰も席を立たない。


なぜなら――これは、確かに芸術だった。


そして、ラストシーン。

堕ちきったガラがただ一つ絞り出す願い。


ついに映画はクライマックスへ。


スクリーンの中でヒロインがすべてを失い、

薄暗い部屋でひとり嗚咽しながら呟く。


> 「……ねぇ、誰か。

私を愛してよ……」




その声は、あの日ダリが聞きたかった言葉だった。


会場は沈黙に支配された。

照明が戻ると、ガラは俯き、肩を震わせていた。

隣のヴィクターは席を離れ、どこかへ消えていた。


観客席のあちこちで、拍手が起きる。


やがてそれは割れんばかりの歓声へと変わった。


「ブラボー!美と狂気の革命だ!」

「今年最高の作品だ!」

「ガラって、あのガラ?……うわ最悪」



拍手は、地鳴りのようだった。

上映終了直後、観客は総立ちになり、喝采はダリを包み込んだ。


天才だ。

革命だ。

映画史を書き換えたと。


ダリは、勝利を確信した。

これでガラは自分のもとへ戻ってくる。

この芸術が、彼女の心を屈服させる。

そう…信じていた。


そして、彼は彼女に向き合った。


「どうだい?」


声が、会場のど真ん中に落ちる。


> 「相当な性悪だっただろう?」




観客は一斉にガラへ視線を向ける。

ガラは固まったまま笑顔を保とうとして――崩れた。


照明が照らす中、ダリはさらに踏み込む。


> 「僕のこと、今も“人間”に見えない?」


スクリーンの中で暴かれた

“醜さ”

“虚栄”

“依存”

全てが、観客の脳裏に焼き付いていた。


ダリは背を向け、出口へと歩き始める。


> 「だから君は、世界中の誰からも愛され選ばれても、

もう僕から選ばれることはないんだ」




それは、ダリにとっての解放だった。


……が。


ダリが想像していた未来とは、違う方向に転がった。


沈黙。

重い、重い沈黙。


ダリは耐え切れず、振り向いてガラを見た。



「っ……は、はぁ……っ……」


ガラは胸ぐらを押さえ、目を大きく見開き——


パニック発作。

過呼吸。

ガラは椅子から崩れるように倒れた。

突然、呼吸が乱れる。

肩が痙攣し、酸素を掴むようにもがく。


「ガ、ッ…ハ…!」


観客席が騒然となる。

数人が駆け寄り、救護係が叫ぶ。


その瞬間――

空気は反転した。


拍手は止み、称賛は消え――

代わりに、怒号が渦を巻いた。


「最低だ!」

「彼女を精神的に追い詰めたんだ!」

「虐待じゃないか!」


ダリは呆然と立つ。


おかしい。

これはガラの罪の償いのはずだった。

ガラが孤立するはずだった。


なのに――

孤立したのはダリだった。


✦✦✦


そして、避けられない言葉が突き刺さる。


「訴えます。」




ガラが震える声で告げた。


その瞬間、ダリの人生は幕を下ろした。


✦✦✦



第6章 孤独の天才、無職になる


拍手喝采の会場を、

ダリは勝ち誇った神のように見下していたはずだった。


しかし現実は違った。



---


上映会翌日。

ダリはネットニュースに躍る自分の名前を見た。


> 《元天才監督ダリ、女性を精神崩壊に追い込む》 《芸術の暴力だ》《最低の男》《反省しろ》




表情の筋肉が引きつり、視界がぐにゃりと滲む。


「成功したのに……どうして僕が悪者なんだ……?」


世界は拍手をやめ、砂利を投げてきた。



---


数ヶ月後。

スタジオ契約は全て打ち切られた。


> 「ダリ?あぁ、女の敵の」 「一緒に仕事?冗談やめて」




一度狂気を見せた芸術家は、

次に雇ってもらえないらしい。


ダリは、映画の名声の代わりに、借金と中傷を手にしていた。


 自宅の郵便受けには裁判所からの封筒が増え続け、  SNSでは「最低の人間」「芸術の皮を被った加害者」と罵倒され、  お問い合わせフォームには迷惑メールより多くの殺害予告が届いていた。


 彼は、世界中から嫌われていた。


 まるで世界そのものが、ガラのために一致団結したかのように。


「……誰でもいいから、味方になってくれよ」


 ダリは床に座り込み、虚ろな目で天井を見上げた。

---


一年後。

家賃を滞納し、アトリエは差し押さえ。

古いフィルム缶だけ抱えて部屋を出る。


雨の中、傘はない。


ただフィルムを守るために

自分の上着を脱いで包んだ。


「……君は僕を裏切らないよな」


フィルムは重かった。

だが手放せなかった。



---


二年後。

ダリは小さなアパートでひっそり暮らした。

部屋には段ボールと古ぼけた机だけ。


友人はひとりもいない。

電話は鳴らない。


> 「人間じゃなかったのは僕だったのかもしれない」




自嘲気味に笑うと、

ドロリと涙があふれた。


夜の闇が深くなるたび、

胸の隙間が冷たく広がっていく。



---


三年後のある夜。

ダリは冷たい床の上で、声を失うほど泣いた。


> 「誰でもいい……誰か……僕を……見てくれ……」




その哀願は宙で溶け、

壁にも届かず消えていった。


愛した女のために全てを捧げ、

世界で一番美しい作品を創ったはずなのに。


手元にあるのは、

失った名声と、

壊れた心と、

ひとりぼっちの現実だけ。


涙は出ない。  泣き疲れて、もう枯れ果ててしまった。


 その時、ふと思った。


> 「皆は、僕の映画を見て泣いたくせに──

僕が泣いているとき、誰も見ていない」




 乾いた笑いが漏れる。


 認めたくない真理があった。


 自分の芸術は、誰かと分かち合って初めて意味を持つ。

 どれほど美しくても、独りで眺めるだけでは“無価値”なのだ。


「……ガラ、僕は…君と…ただ…一緒に……」


 声にならない声。


 布団に潜り込み、丸くなる。


 暗闇だけが、彼の味方だった。


 そしてダリは思い知った。


 孤独とは、死よりも残酷な罰だということを。



---


それでもフィルム缶を抱きしめながら、

ダリは荒い息の中で笑った。


> 「ガラ……君は今、どこにいるんだろう?」




その時、机の上の埃だらけのスマホが震えた。


通知:

差出人:ガラ


震える指で開く。


> 《会いたいの。話がしたい》




 


ダリの心臓は、

まだ死んでいなかった。



---


第7章 「終幕と、それから」


広場の噴水前。

夕焼けが暗くなっていく頃。

ガラは、これまで見たことのない顔で立っていた。


震える声でガラが言う。


「……あなたは一体、私に何を求めてたの?」


ダリは唇を噛み、震える息を押し出す。


「僕は、君に……抱きし、めて、欲しかった……」




ごく短い沈黙。

そして――ガラの口から吐き捨てるような

一言が飛んだ。


「クタバレ、クソヤロウ」



その切っ先は容赦なく、 ダリの最後の幻想を断ち切った。


ガラは続ける。


「ねぇダリ。私はね、 あなたのこと本当に人間だと思ってなかったの。 自分のために働く……家畜か何かだと」


ダリの胸の奥で、 何かがぎち、と音を立てる。


「でも違ったのね。 あなたにも感情がある。 私、馬鹿だったわ」


ガラは初めて、弱さを見せた。


「私は、ずっと恐れてた。 誰よりも美しくあらねばならないことを。 選ばれなければ価値がないと思ってた」


ゆっくり、ダリの手を取る。


「あなたが私の醜さを暴いてくれた。 ……ありがとう」


「ガラ……」


「私、レオンとやり直すわ。 今度こそ逃げない。 幸せになってみせる」


彼女は自分には他の相手がいるとダリに告げた。


ダリは穏やかなに淡々とガラに尋ねた。

「…聞いてもいいかい?なぜレオンなんだ?」


ダリの問いに、ガラが目を伏せてた。

ダリを見ようとしないのはガラはダリの愛に「応えられない」と理解しているからだ。


「私はね、レオンに救われたの。

美しくなくても…私を見てくれた人なのよ」


---


ガラの脳裏に、遠い記憶がよみがえる。


昔、まだ貧しくて明日の生活もわからなかった頃——

泣き腫らした目で途方に暮れていた自分を、

そっと手を引いてくれた男がいた。


レオン。

自分が「愛されていい存在」だと、初めて気づかせてくれた人。


彼の前では、取り繕う必要なんてなかった。

美しくなくても、価値があった。


——ああ。

私が本当に欲しかったのは、

見上げられる愛じゃない。

隣で肩を寄せ合える愛だったんだ。


‐‐‐


ガラは思い出して恥じらうかのように笑った。


それはかつてダリが一番欲しかった、

あの笑顔だった。


そして彼女は振り返らることなく去って行った。


···


ダリは去って行くガラの後ろ姿に思わず

見惚れていた。

ガラは…最後まで、美しい女だった。


ダリはガラの後ろ姿を見送った後、現実に戻る。

> (僕には……何も残っていない)



名声は地に落ち、

仲間は離れ、

愛する者は別の男のもとへ。


ダリはしばらく動けなかった。 足元には、彼女が落とした涙の跡がまだ光を残していた。


> どうして、こんなにも苦しいんだろう。




救いが欲しかったのではない。

赦しが欲しかったのではない。


ただ――

誰かと同じ景色を見て、

同じように笑いたかった。


何一つ手に入らないまま、すべてを失った気がした。



—――


気付けば夜が明けていた。

重いまぶたをこすって歩き出す。


この街には、まだ朝が来るのか。

その事実だけが少し腹立たしい。


そんなときだった。


「おじちゃん、泣いてるの?」


ぱちり、と大きな瞳。

小さな男の子――名前はニコだと名乗る。


無邪気な笑顔。

太陽みたいな声。


「おじちゃん、見て!あの雲、ウサギみたい!」


ニコは小さな指で空をさす。

そこには、本当にウサギがいた。

ふわふわで、どこか情けなくて、だけど可愛いウサギ。


ダリは空を見上げて――

笑ってしまった。


涙がぼろぼろ溢れた。


たまらなく、どうしようもなく。


「……ああ。本当だ。

すごく……可愛いウサギだね」


ニコは慌ててポケットをごそごそ探り、 しわくちゃのハンカチを差し出す。


「泣かないで。

おじちゃんも、ウサギさんみたいに笑って?」


ダリは声にならない声で笑う。


> これだった。

これが欲しかったんだ。




美は、共有して初めて美になる。

誰かと見るから、世界は意味を持つ。


失って初めて気付くなんて――

なんて愚かで、人間らしい。


ニコはにこにこしながら言った。


「ねえ、おじちゃん。

また一緒に空見ようよ!」


「ああ……いいよ」


本当に、いい。

泣き笑いでぐちゃぐちゃの顔でも。


少しだけ前に進める。

それだけで十分だ。


ダリは立ち上がり、息を吸い込む。


まだ泣いているし、まだ孤独だ。

でも――もう死んでいない。


***


差出人:リナ

件名:監督へ


> 『第2作、作りましょう。

今度は“幸せ”を撮るやつ。

監督にしか撮れないやつ、私、信じてます』




ダリは吹き出した。


「幸せ?僕に?

……いいだろう。撮ってやるさ」


そして付け加える。


> 「主演は……誰にしようかね?」



ダリは歩き出す。

少し猫背で、少し誇らしげに。


---


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