五感の精霊と痛い世界で生きていく
Liyracat
第一章 痛い世界に起きた奇跡
第一話 痛みで目覚める朝
痛い――
そんな感覚を目覚まし代わりに、私の意識が少しずつ現実の世界へと戻される。私を取り囲む暗い世界の中で、自分の両手をそっと両耳に添えた。そのままうっすらと目を開ける。頭上の方から漏れるようにして鋭い光が差し込んでくる。
「朝……」
私は思わずそんなことを呟いていた。耳に手を添えたまま、布団の中で更に体を縮こませる。
恐る恐る両手を耳から離した。大丈夫。何も聞こえてこない。今なら動ける……
目を閉じ、慎重に布団から顔を出した。ゆっくり、本当に、ゆっくりと。顔に朝日が当たる気配を感じた。思わずもう一度布団の中に舞い戻る。突然の熱感が私の肌を突き刺す。そうだ、私…… 昨日は疲れてカーテンを閉めずに寝てしまったんだった……
一瞬だけ映った瞼の裏側にある私の細い血管。あれが私の生きている証。その生きている証が、今度は私の耳を襲う。耳を塞いでも体の内側の音は消すことはできない。テレビのノイズ音ともまた違ううるささ。体のノイズ音。ドクン、ドクン。ザザザザ……それが寝起きの私の思考をかき乱す。
うるさい…… うるさい…… つらい…… にげたい……
心療内科での先生の言葉を思い出す。
「高瀬結さんは、どうしても薬が効きすぎてしまうようですから、睡眠薬の処方は控えたほうがいいかと……」
心配そうな先生の目が私を貫く。それでも私は、震える声で振り絞るように、こう言ったんだ。
「ただ、静かに眠りたいだけなんです」
現実の私も、ポツリと言葉を零していた。音にしても何も返ってこない無の時間。ただの空っぽ。
いつの間にか目に溜まっていた涙が、頬を伝って、そのままシーツに小さな跡を作った。
意を決して、目を閉じたまま布団の外に出る。枕元に置いておいた室内用のサングラスを手探りで手に取り、自分の目元へとかける。それでもなお目は開けず、布団から滑り落ちるようにして外へと出た。床の冷たい感触がふくらはぎをツキンと突き刺す。背中を太陽がジリジリと焼く。そんな生々しい痛みに、私はパジャマさえも着ずに眠ってしまったのだと気がついた。だから、久しぶりに眠ることが出来たのだとも納得した。しかしそのせいで、今の私はいろんな刺激に体を攻撃されている。せめて、パジャマさえ着ていれば背中は守れただろうに……
這いつくばりながら、やっとの思いでカーテンを閉めた。そこでようやく一息つく。
最近の遮光カーテンの性能は本当にすごい。閉めてしまえば、たとえ朝だろうが昼だろうが室内は夜同然となるほどの暗さとなるのだから。太陽光という侵入者を防ぐには、最強の盾だと思う。
けれど、常にカーテンを閉めておくわけにもいかない。実家から贈られてきたミニサボテンは、どうしても光を必要とするから。それに太陽を招き入れないと、どうにも部屋が湿っぽくなってしまう。私の鼻はそんな小さな変化すらも丁寧に感じ取ってくれてしまうようだ。だからやっぱり、カーテンは開けなきゃならない。
「……いや、さっさと服着よ……」
私は目を開けゆっくりと立ち上がる。久しぶりに眠れたとはいえ、睡眠負債が私の三半規管を容赦なく襲ってきた。眩暈…… 吐き気…… 頭痛…… もうそんなのは、慣れっこだ。
肌を刺激しない簡素な綿の白シャツに、軽くて柔らかいハイウエストのサスペンダーパンツを履く。これならば肌を刺さないし腰も締まらない。突っ張りもない。サスペンダーも布製で幅広で、肩に食い込んでしまわないように気を遣っている。その上から淡いベージュのコットンのカーディガンを羽織った。これもほんのりと温かいのに軽くて楽だ。
鏡を見ればそこには、室内用のオレンジ色がかかったサングラスをかけ、ゆったりとしたシルエットの…… 言ってしまえば寸胴で細身で凹凸の欠片が微塵もない小柄な女が映っていた。
これが私。高瀬結。
食事をする前に、医者から処方された薬を飲む。漢方ならばまだ効きが緩やかだからと出されたが、これを飲んだとしても楽になった感覚はない。
ストレス過多による自律神経失調症だと先生は言っていた。発症したのは中学二年生の時。そこから世界は私に牙を剥いた。光が私の目を潰す。音が私の鼓膜を破く。匂いが私の鼻を潰す。服が私の肌を切る。食事が私の胃をひっくり返す……
世界が、大きく変わってしまった。世界が、私を拒んだ。
きっかけは………… きっと私が真面目過ぎるからなんだろう。生きることに向いていなかった。ただそれだけのことなんだと思う。
口の中に水を溜め、粉薬を流しいれる。粉っぽい感覚にむせそうになるのを堪え、そのままごくりと飲み干す。口の中で漢方の苦みが私の吐き気を誘った。しかしそれもいつものこと。口をゆすぐようにして水を口に含み、もう一度飲み込む。同じことを、もう三回繰り返す。オブラートを使えば?と言われ試してみたが、あれは二度と使いたくない。オブラートが喉に張り付き、薬が口の中でこぼれだし、痛みと吐き気で死ぬ思いをしたことがあるのだ。水を飲んでも飲んでも、張り付き感と薬の苦みが一向に消えない。最終的に全てを吐き出してしまって…… そのままオブラートも捨てた。あとから使い方が間違っていたのだと知ったが、もうあんな思いは二度と御免だ。親でさえも使い方を知らなかったんだから、私だって知らなくて当然だろう。
朝食を取らなければならない。炊飯器を開ける前にマスクをし息を止める。そのまま茶碗にさっと盛り付け、さっさと蓋を閉めた。米が炊ける匂いがダメだなんて妊婦さんみたい、と笑われたことがある。なら妊婦として優しく扱ってね、って言い返せるぐらいの度胸が、私にもあったらよかったんだけど。そんな軽口が言えるほど、私は器用じゃない。
そのまま冷蔵庫にしまわれた小さな漬物壺に手を伸ばす。自分で漬けた梅干し。吐き気を誘発する添加物なんてもちろん入っていない。梅干しのあの突き刺すようなしょっぱさは苦手なのだけれど、白米だけの朝食というのも味気がない。クエン酸は疲労に効くというし、物は試しで自分で漬けて毎日食べている。
酸っぱい。顎の下に強く痺れる感覚と共に唾液が口内で溢れる。この感覚が、本当に、苦手。
「お父さん!! 白菜はそっちじゃないよ!!」
突然の外からの叫び声に、反射で耳を塞いだ。勢いで箸が床に落ち、コンッと高い音を鳴らした。その音にもまた顔を歪める。
隣の八百屋さん夫婦の声だ。とても元気で、とても仲がいい。けれど私の耳には、どうしても刺激が強すぎる。
木造の築三十五年のアパート。一階には大家さん。二階には私が住んでいるだけの、寂れた住まい。安くて立地もいいが、如何せん防音性が皆無ゆえに、朝のこの賑やかさは皮肉にも私の目覚ましとして機能してくれている。
慌ててイヤーマフを手に取り耳へと当てる。落としてしまった箸を軽く水で洗い、もう一度食事へと戻った。イヤーマフによる顎付近の圧迫により、食事がなんとも摂りづらい。
「……ごちそうさま」
軽く食器を洗って、小さなカバンを手に持つ。仕事に行かなければならない。たとえ世界が私を拒んでも、私は、生きなければならない。
□ □ □
普通の人ならばどちらを選ぶんだろう? 止まることなく襲い掛かる吐き気と眩暈のある環境と、少しだけ休むことは可能だけれど頭の奥に鋭い打撃を受けながら肌を焼かれる環境。
……こういうと、大げさなことは分かってる。電車通勤か徒歩通勤のどちらを選ぶか、っていう単純な話。でも私には、こんな二択に見えて仕方がないんだ。
私は目深にかぶったキャップ帽に黒味の強いサングラスとイヤーマフ、そこにマスク姿という不審者以外の何者でもない格好で駅のホームに降り立った。たった一駅の移動なのだけれど、私はわずかに残った平衡感覚を頼りに駅のベンチに座り込む。
吐き気をごまかすように、大きく深呼吸をする。しかし肺の中に入るのは電車内のエアコンが放つ、カビを纏った臭い空気。それを大量に取り込んでしまい、吐きこそしないもののえずいてしまった。
口の中を潤そうと水を求めて自動販売機へと向かうが、残念ながらここには硬度がやや高めなミネラルウォーターしかない。仕方なくそれを購入し、口の中を水で濡らした。何とも言えない違和感が口内に広がる……ザラッとか、ギリッとか、そういう分かりやすい感覚ではないのだけれど、でも確かに「硬い」と思わせる感覚。
不快感に包まれたままフラフラと改札を通り抜ける。最初こそこんな格好の私を駅員さんが呼び止めたりもしたが、毎日のことなので今はチラリと見られるだけで何も言われない。
そのまま歩みを会社に向かって進める。駅前徒歩一分の好立地。本当に、本当に、ありがたい。
会社に着き、帽子を脱ぐ。イヤーマフも外し、サングラスも室内用の物にかけ替える。本当は耳栓をしたいところなのだけれど、耳の圧迫感と外耳炎に悩まされて使用をやめるしかなかった。幸い、会社では私の体質を理解してもらっている。可能な限り部屋の中央に机を配置してもらい、刺激を減らすためにパーテーションを設置してもらっていた。IT系の小さな会社ならではの温かい待遇だ。
ただ、今はとてもタイミングが悪い。二年もかけて作り上げたサイトのリリースが、一か月後に迫っているのだ。普段はコードをマイペースに書いている仕事なのだが、人手が足りないため私もバグが存在しないかの確認作業に追われている。
設計書とサイトを見比べながらの間違い探し。別に嫌いではない。心静かに作業ができるのならば、むしろこれは好きな方だ。でも遠くで、ピリピリした上司が貧乏ゆすりをしながら書類を眺めている。先輩たちが「ここを優先して作業するよう言ったよね?」と感情を容赦なく投げつけ合っている。同僚がパソコンの画面に向かって舌打ちを鳴らしている。そんな中で、私は小さく縮こまりながら、黙々と作業をしている。
別に悪い人たちではない。ただ本当に、今が忙しいだけ。今がピリピリしてしまう時期なだけ。
「……ふぅ」
気がついたら、私は大きくため息をついていた。吐き気はないが、頭痛はする。机の脇に置いてある、ピッチャーに備長炭を沈ませた水を一口、二口とゆっくり飲み干した。
久しぶりに眠れたとはいえ、寝不足であることには変わりはない。私は音を立てないようにそっと立ち上がり、そのまま休憩室へと足を運んだ。
休憩室には小さな机とソファーがL字に並んでいる。その長い方に私は腰を掛けた。ドサッと体に衝撃が来る。でも、苦しいと思うよりもだるいが勝りそのままソファへと体を預けた。
背もたれに頭を預け、天井を見上げた。電気のついていない、薄暗い部屋。ソファのざらつきが髪越しに伝わってくる。遠くで先輩たちがまだ言い合っている声が聞こえてくる。
「もう少しだけ…… 静かにして…… 私を、休ませて……」
そんなことを呟いて、ゆっくりと、そっと、目を閉じた。
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