ショートストーリー わたしと彼のヘッドフォン ~静かな目覚めと密やかな共鳴
ピーター・モリソン
わたしと彼のヘッドフォン
わたしと彼のヘッドフォン
わたしたちは、振動している。
この花も――目に見えないほど微細なところで、波のように震えている。そっと花に触れ、教室の花瓶を洗い、水を入れ替える。俯いた拍子に垂れた髪が頬に触れ、指先でそっと耳にかけ直す。そんな何気ない仕草の間にも、わたしたちの波紋は重なりあう。
「水瀬さん、ありがと」
そばにいたクラスメイトに言われ、笑顔を返した。
流しから戻ると、西島の机のまわりに人だかりができていた。自分の席はそのすぐ隣なので、人を避けるように腰を下ろす。ノートをぱらぱらとめくるふりをしながら、西島の声に耳を傾けた。
以前から気になっていた。
けれど今、はっきりと、その声に惹かれている自分に気づく。
西島の声は低くてハスキーだ。母音が口の奥でわずかにこもり、やわらかく響く。話し方のせいもあるのかもしれないが、一音ごとに小気味よさがある。大声で騒ぐよりも、むしろトーンを落としたときの方がいい。高校生にしては、大人びた声なのかもしれない。
夏休み明けに席替えがあり、西島の隣になった。それからというもの、西島のことが気になっていた。
「誰か、買ってくれよ」
嘆きを含んだ言葉に、横目でそっと見る。西島は、高そうなヘッドフォンを手にしていた。着け心地がよさそうな、シンプルな曲線のデザインだった。
取り巻きの男子は冷やかし半分で手に取り、すごいとか、かっこいいとか、音良さそうとか、口々に言いながらも、誰ひとり買う素振りを見せなかった。西島が提示した金額は定価の半額程度だが、高校生が簡単に出せる額じゃない。しばらくすると、物珍しさも薄れ、人だかりは一人、また一人去っていった。
残された西島は残念そうに息を漏らしつつ、ヘッドフォンをスポーツバッグにしまい込んだ。
実は、そのヘッドフォンには興味があった。女子としては珍しいかもしれないが、発売当時からその存在を知っていたし、独自技術で音の広がりをリアルに再現すると聞いている。一度は試してみたいと思いながら、膨らんだスポーツバッグを眺めていると、不意に西島に声をかけられた。
「水瀬、もしかして興味ある?」
親しく話すことはほとんどなかったから、ちょっとどぎまぎした。小さく咳払いをして、なんとか取り繕う。
「少しだけ」
その言葉に、西島ははじかれたようにわたしに向きあった。
「これ売って、新しい服を買いたいんだ。古着にハマってて……」
そうか、古着がほしいのか、とわたしは淡々と思った。
「ネットで売るのは難しくて……。親とかにもばれたくないし」
「……半額は安いと思うけど、そのヘッドフォン」
「え、水瀬、買ってくれるの?」
身を乗り出した西島から距離を取り、辺りを気にした。まさか、そうなるとは思ってもいなかった。けれど、いつの間にか、西島の期待に応えたいという妙な使命感に、わたしは駆られていた。
「土日で考えて、月曜日に返事していい?」
西島は顔をぱっと明るくし、大きく頷いた。
*
あんな約束をしたけれど、西島とは高価な物を売り買いするほどの仲じゃない。授業中のやり取りや、普段の些細な会話くらいしか、したことがなかったから。
そういえば、席替えが終わってすぐに、何度か話しかけてくれたことがあった。けれど、わたしがほとんどなにも返さなかったせいで、西島はこちらを向くことがなくなった。まあ、それはそれで都合がよかった……。わたしはいつも、当事者より観測者でいたかった。
月曜日。
昼休みになってすぐ、西島から声をかけられた。
教室では人目が気になるので、音楽室に行こうと、わたしが提案した。音楽室なら、西島の声をクリアに聴ける気がしたから。
「これ、一応確かめる?」
音楽室のドアを閉めると、西島が紙袋を差し出した。高級ブランドの紙袋の中に、ヘッドフォンが無造作に入っている。
「箱も、説明書も、ステッカーもあるから」
わたしは剥き出しのヘッドフォンを手に取った。鮮やかなブルーで、使用感はまったくない。新品と言われても、おかしくなかった。
「……どれくらいつかったの?」
「三か月くらい。結構聴いたよ。でも、部屋づかいだったら、きれいだと思う」
ボタンの位置やヘッドバンドのテンションを確認し、それを紙袋に戻した。
「水瀬がこういうのに、興味あるって思わなかった」
西島はどこかほっとしたように、声を落とした。
「実は音に関するものは好きで。今、こういうのつかってるの……」
わたしはポケットに忍ばせておいた有線イヤフォンを手のひらに載せ、西島に見せてみた。
「これ、いいやつじゃない? イヤフォンの背面に収音マイクがついてるやつ……」
「そう。見かけはこんなだけど、結構、高かったんだ……」
わたしはイヤフォンを携帯に接続し、つける仕草だけして耳には入れず、首から垂らした。西島の視線を感じながらそれを操作し、携帯をポケットへ戻した。
「あ、そうだ。これ」
わたしはお金が入った封筒を、西島に手渡した。
「本当にいいの、水瀬」
西島は背中を曲げて、封筒の中身を確認する。
「ありがとう、助かる。……水瀬がこんな感じだったなら、もっと話しかけておけばよかった」
封筒をしまう西島を眺めながら、胸の奥が小さく波打つ。
「なんか俺、無視してたわけじゃないんだけど、水瀬には話しかけづらくて」
気にしてないし、こっちも話しかけてなかった、そんなことを伝えてみた。
「これから話しかけてもいいかな?」
「いいよ」
わたしが答えると、西島は照れたように笑って、なんだか気まずそうに俯いた。そのままお互いに黙り込む。会話が途切れてしまいそうな気配に、わたしは慌てて西島に話しかけた。
「そのお金で、なに買うの?」
西島はヴィンテージのバンドTシャツがほしいと言った。
「これ、見てよ」
携帯を差し出して、熱のこもった説明を始める。そこにはお目当てのTシャツの写真が映っていた。
西島の口から、次々と声が湧き上がる。その響きに圧倒されて、言葉の意味が希薄になっていく。西島の声は音楽室の壁や床や天井に広がって、わたしを振動させた。
古着なんて、これっぽっちも興味がないのに、「ほしい」という波動が、わたしの心を揺さぶり始めた。きっと手に入れたらすぐに飽きるのだろうと思いながらも、相手の気持ちを削がないよう、ときどき相槌を打ってみた。
「それを着てフェスに行くんだ」
西島が何気なくそう言った。
誰と行くのと訊くと、少し笑って、友達だという。
その笑みの具合と、名前が出ないことから、なんとなく女の子のように思えた。
なぜだか途端に、わたしの心は重くなった。
*
それから音楽室を出て、残りの授業を受けたが、始終、どこか上の空だった。
フェスか。
帰宅して、制服を脱ぎながらぼんやりと呟く。肩を落とすと、西島の隣に並ぶ女の子の影を勝手に思い描いてしまう。陽気で、自然に踊れて、音楽に詳しいのだろう。
家族と食事をすませ、お風呂に入った。
こんなこと考えても意味ない、そう思いつつも、その女の子の姿はだんだんと鮮明になっていく。陽に焼けて、音の中で笑っている。友達が多くて、ハイタッチなんかする。そんな女の子と、西島はフェスに行くのだ。わたしのお金で買った、あのTシャツを着て……。
そのお金は、お年玉や親戚からもらったものだった。リビングの引き出しにあったカードをつかって引き出した。まさかこんなことにつかうとは思ってもみなかった。きっと、家族は誰も気づかないだろう。
風呂上がり、洗面台で自分の素顔と向きあう頃には、劣等感でいっぱいになっていた。自分でつくり上げた虚像に振り回されながら、髪を乾かし、眼鏡をかける。この顔から幼さがなくなり、化粧を覚え、それなりの服やバッグ、靴を身につければ、こんな気持ちは消えるのだろうか。
火照った身体で部屋に戻り、ベッドに寝転がって、携帯を手に取る。
録音用のアプリを開き、息を呑んで、昼間の音声を再生した。唐突に、西島の声が流れ、慌てて音量を絞る。辺りを気にしてから、スピーカーを耳に押しあて、続きを聴く。携帯をもつ指先が、かすかに震えているのがわかる。
わたしは西島とのやりとりを録音していた。音楽室での会話、そのすべてを。もちろん、西島には黙って……。再生して、現実だと、あらためて思い知る。
これは盗聴というものだろうか、と考える。もし同じことを誰かにされたなら、きっと不快に思うにちがいない。
それでも、わたしはそうしたかった。生まれる前から決まっていたことのように、躊躇うこともなかった。はたから見たら、気持ちの悪い行為だとはわかっている。けど、そうしてまで、わたしは西島の声がほしかった。こんなふうに、自分の手の中に収めてみたかった。
記憶の中の声と、再生される声が、次々と重なると、わたしは笑みを漏らす。片方の耳で、部屋の外の足音を気にしながら……。
会話の間に、自分の声が挟まると、そのたびに我に返り、眉をひそめた。
世界で一番、自分の声が嫌いだった。
わたしは寝返りをうって、携帯に向き直り、編集用のアプリをインストールした。ツールを操作しながら、自分の声を一つ一つ消していく。それから、フェスに行くくだりも、必要ない。
西島とわたしの波形は大きく違う。西島のは大きくゆったりとしていて、わたしのは山と谷が密に詰まっている。ノイズを消し、自分の都合のいい部分だけを残していく。
慣れない作業に没頭していると、時間はあっという間に溶け、気づけば深夜二時を過ぎていた。家族の気配は消え、家の隅々まで夜の静けさが染み渡っている。そのせいか、胸の鼓動がやけに大きく感じられた。
わたしはなるべく音をたてないように、ベッドの下に隠してあった西島のヘッドフォンを取り出した。すぐさまイヤーカップのボタンを押して、携帯とペアリングする。
立ち上がって照明を消し、ベッドに戻り、ヘッドフォンをかぶった。それだけで鳥肌が立つ。イヤーカップに手を添え、クッションの感触を確かめる。ゆっくりと仰向けになり、暗い天井を見上げた。
すべての準備がやっと整ったような気がした。
携帯をタッチし、編集した音声を再生する。
真昼の音がヘッドフォンの中に広がり、その中央に西島の声が現れた。
「本当にいいの、ありがとう、水瀬」
その声に、思わず吐息をつく。
「ごめんな、オレの我儘につきあわせたみたいになって」
「きっとこのヘッドフォンは、水瀬みたいな人につかってもらう方がいい」
「水瀬、落ち着いてるし、ちゃんと扱ってくれそうな気がする」
今、わたしは声を独り占めしている。
達成感と罪悪感、高揚感と敗北感。自分の感情がわからない。目を閉じると、悲しくもないのに涙が頬をつたう。
「八十年代のツアーTシャツ。ブートだけど、生地の色落ちとプリントのひび割れ具合がちょうどいいんだよね。新品じゃ出せない、この雰囲気が古着の醍醐味で」
感情の揺らぎがあらかた収まると、感覚がどんどん研ぎ澄まされていくのがわかる。
わたしの中の分子や原子、さらに小さなものが粒立ち、振動し始めた。自分が人の形をしているけれど、粒の集合であることが、それでよくわかる。その粒と声が共鳴している。声から「西島」という所有格は消え、言葉の意味もなくなり、波だけが残る。
粒と波。
こんな心地良さを、今まで味わったことがなかった。
*
カーテンの隙間から射す朝日が、枕元のヘッドフォンを照らしていた。
昨夜と同じものなのに、それは少し違って見えた。
結局、ほとんど眠れなかった。けれど、不思議と気持ちは穏やかで、頭はすっきりとしている。身支度を整え、何事もなかったみたいに、家を出た。
いつものように鞄を抱え、通学電車のシートに座る。携帯から目を離し、流れる景色を見つめているうちに、一つだけ、はっきりとわかったことがある。
わたしは西島を好きではないということ。あらためて、その声だけが好きなのだ。きっと、そう……。ここまでの出来事が、やっと心の中を通り抜けて、ぽとんと落ちてきたみたいだった。その答えらしきものを摘まみ上げ、さらに考察を深めていく。
その声だけを純粋に好きなのか? いや、それに共鳴している自分のことも、同時に好きなのかも。……はぁ、自分はどうかしている。そんなことも、少なからず自覚した。
他人のすべてを(いや、それは言いすぎかも。たぶん、いろいろな部分を同時に)好きになることはできない。普通の人は、きっと声が好きになって、その好きな部分から、その人に小さな橋をかけて、他人の世界へ渡っていくのだろう。もちろん、幻滅して引き返すこともあるけれど。
わたしはきっと渡らない、その先に興味がない。潔いくらいに。橋の向こうから響いてくる声だけを耳にするだけで充分。それ以上は望まない。たぶん、それがわたしの幸せなのだろう。
電車を降り、駅から学校へ向かう。
挨拶を交わし、席につき、授業を受ける。
少し穏やかな気持ちで、西島の声を隣の席から聴いている。
あれから西島はときどき声をかけてくれるようになった。なんでもない話でも楽しいし、心も身体も自然に揺らめいた。
「……水瀬っ」
授業中、不意に頭を寄せられた。
小声でなにを言うかと思えば、また買ってほしいものがあるのだという。興味はなかったが、とりあえずそれはどうでもいい。……また、二人きりになれるのなら。
わたしは考えるふりをした。とにかく買いたいという衝動を抑えつつ、態度には決して出さないように努めた。……でも、ちょっと待って。わたしは、西島を好きなのだろうか。もう、わからなかった。
「土日で考えて、月曜日に返事していい?」
大きく頷く西島を見て、胸の高鳴りを隠しながら、わたしはそっと笑ってみせた。
〈了 わたしと彼のヘッドフォン〉
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