華表小へようこそ

@Fuyuno_hajime

1.未来を見つめて

 丁度この前萎んだ紫陽花のような、淡い色の夏空だった。

色褪せた犬探しのポスターが電柱に貼られている。七月も後半に入って、蝉が煩く鳴いて番を探していた。

そろそろ夏休みだ。手に持ったソーダ味のアイスキャンデーをもう一口齧ると、溶けたそれが棒を伝って人差し指を汚す。アイスごと指を口に近づけて舐め取った。

アスファルトに覆われたコンビニの駐車場はあまりに暑くて、頭がくらくらする。

取り出したスマートフォンすら熱を持っていた。通知を辿ってトークアプリを開く。昼頃、母親に送信した“頭痛い、早退する”なんて短いメッセージには二時間経っても既読すらつかない。

いつもの日曜日がそうであるように、本当なら今日も一日中塾に籠って授業を受けるはずだった。高校受験がすぐそばまで迫っていることは知っていた。

ただ余りに味気なくて、昼食に用意していたコンビニパンを平らげた後、教室に入ってきた講師に「頭痛がする」とだけ告げて教室を出た。



 一軒家の扉を開けると、冷気が漏れ出してきた。人の気配は無い。

軽く手を洗って自室に駆け込み、ベッドに潜り込んだ。どうにも気になってトークアプリを開くと、母の既読がようやく付いたようだった。

返事のない画面を眺めながら、年度初めの顧問の言葉を思い出す。


「引退制作のテーマは将来の夢。テーマに沿ってりゃ何を撮ってもいいが、文化祭で上映するから気合い入れて作れよ。」


映像研究部は五人の部員と一人の顧問が所属する弱小部活だった。

部長になった唯一の同級生は古びた旧校舎の片隅に用意された小さな部室に満足しているようだったが、彼女が埃だらけの陰鬱な教室のどこに魅力を見出したのだか理解できなかった。

同級生のことなんかよりも先に、自分は将来の夢が何かすら分かっていないのだから大問題だ__布団代わりのブランケットを被ったまま、思考が飛躍する。

未来がどうなっているかなんて誰も知らない。将来のことなんて考えても仕方ない。鬱々とした思考に脳が呑まれて、本当に頭が痛い気すらした。

考えることを辞めて目を閉じる。意識が遠のく。ああ、今日も一人だった。



 ボールが床に跳ね返る独特な音に叩き起こされた。

緑色のネットが張られた天井が見える。緩慢な動作で頭ごと視線をずらすと、バスケットゴールにボールが入るのが見えた。


「夢……?」


久しぶりに何かを喋ったような気がした。喉はからからで、声は空気が混じって掠れている。


「夢だよ!」

「うわっ」


唐突に、溌剌とした声が降ってきた。視界に影が差し、一対の目に覗き込まれる。

あまりに唐突な声に上体を跳ね起こして漸く、自分が体育館の隅にいるらしいことに気がついた。

長い沈黙が空間を包む。目の前の女性をまじまじと見つめる。右脇に抱えたバスケットボール、黒くて長い髪、同じ色のジャージと、首にかけたホイッスル。赤と白のスニーカー。二十代ほどに見える。

見知らぬ彼女に腕を掴まれ、引っ張り起こされる。強制的に上体を起こされて頭がくらくらしたが、そんな自分に構いもせずに彼女は口を開いた。


「おはよ!寝てたの?名前は?どうやってここに来たの?あ、キャッチボールする?体動かした方が楽しいもんね!」


口を挟む隙すら与えられないままボールを押し付けられる。

呆けていると、いつの間にか距離を取っていた彼女が叫ぶ。


「投げて!」


その声が余りに大きくて、思わずボールを投げ出してしまう。それは女性が伸ばした両腕に綺麗に吸い込まれていった。

軽やかに投げ返しながら、彼女はこちらに話しかけ続ける。


「君の名前、分かんないと呼びづらいよね。ないの?私がつけてあげようか?」

「いや、その……三条透です。数字の三に、条件の条に、透明。」


不審者に名前を教えてはいけない、とは思っていたが、この飛躍した状況で不審者に逆らうのも危険だ、と思い渋々答える。勢いで漢字まで教えてしまった。

夢にしては自分の意識がしっかりしていた。ただ、現実にしては意味不明な状況すぎた。ジェスチャーで催促され、ボールを投げかえす。それを、またすぐに投げられる。


「透くんね、覚えた!私、ハナノイメメ!花に、片仮名のノでしょ、井戸の井と、植物の芽と、ノマの合体みたいなやつ。」

「……メメさん。」


息継ぎをする様子もないまま一気にそれだけ喋られる。口頭では何も分からなかったが、彼女がメメだ、ということだけはなんとか把握する。

いざとなったら警察にでもなんでも駆け込める筈だ。ボールの応酬は続いている。

それが手から離れた隙に周囲を確認する。出口は二つあり、どちらも扉が開いていた。ステージの幕には“市立華表小学校”と刺繍してあったが、そんな名前は見たことも聞いたこともない。恐る恐る口を開いた。


「あの、俺、家に帰りたいんですけど。」

「お家?いいんじゃない?待ってたら帰れると思うけど……」


何一つとして噛み合っていない気がする答えが、当然のように返される。

やはりメメは不審者なのだろうか。しかし、兎に角話を聞かなければ自分の状況すら分からない。


「待ってる……?えっと、最寄駅とか教えてもらえれば多分、自分で帰れると思うんで……」

「えーっと……モヨリエキ?っていうのは、分かんないかも。ごめんね。」

「はぁ?」


困惑を通り越して、だんだん苛立ってくる。メメは困ったように続けた。


「でも、起きれば帰れるはずだよ。透くんが来てから結構経ってるし、きっともうすぐ帰れるから。安心して!」

「……はず?メメさんも分からないんですか。」


どう考えても噛み合っていない話に思わず怒鳴りそうになるが、苛立ちを抑えてそれだけ聞く。

投げ返されたボールが、ぽん、と手の中に収まった。


「うん。今までここに来た子はいっぱいいるけど……皆、ここは夢だって言ってたし。透くんも、ここに来る前に寝てるんじゃないかな。」


そういえば。ここで目覚める前をよく思い返してみれば、塾を早退して自分の部屋で寝たような、そんな気もする。

なおさら意味が分からない、と苛立ちながら乱暴にボールを投げ返す。

メメが捕り損ねたボールが、床に落ちて跳ねる。それを拾いながら、彼女は口を開いた。


「また来てね、透くん。私、役に立てると思うから!」


それを最後に、目が覚めた。



 重い瞼を開けて時計を見上げると、まだ朝の五時だった。

妙にはっきりした夢だったな、と思いながらもう一度布団に潜り込む。

寝過ぎたのか、慣れない頭痛を感じた。腹も減っている。

二度寝を諦めて布団を跳ね除け、制服に袖を通す。夏休み前最後の月曜日だった。


いつもより時間に余裕がある、と油断していたら、いつの間にか遅刻しそうになっていた。

駅へ走り到着した電車に乗り込むと、見知った顔を見つける。

カバンにコアラのキーホルダーをじゃらじゃらつけた同じクラスの友達が、真剣な目で単語帳を見つめていた。


「おはよ、優馬。」

「お、透。」


彼は単語帳から目線を上げて、目の前に立った自分に軽く手を上げる。

優馬とは三年程の付き合いだったが、いくら受験期とはいえ、彼が真剣に勉強している光景はいつ見ても慣れなかった。


「お前も勉強とかするんだ。」


失礼だな、と足を蹴られる。

電車の中でふざけすぎるのはやばい、と思うが、同じことを思ったのか優馬もそれ以上のことはしてこなかった。その代わり、彼の口から意外な言葉が飛び出てくる。


「俺将来、オーストラリアの大学行きたくてさ。英語できなきゃやばいよなって思って、焦ってんだよ。」


将来、という言葉に、顧問の声が蘇る。それを誤魔化すみたいに聞き返した。


「オーストラリア?」

「うん。コアラの研究したくて。」


優馬のカバンをもう一度見る。そういえば、小さい頃からコアラが好きだと言っていた。


「お前は?やりたいこととか、ないの。」

「んー……俺も海外の大学行こうかな。夢はでっかく、オックスフォード。」

「無理だろ。」


あはは、と顔を突き合わせて笑う。決まってない、とは言えなかった。


“次は___長木____長木____お出口は左側_____”


車内放送で到着を知る。扉が開いて、二人で慌てて降りた。

メメは最寄り駅を知らなかったなと、なんとなく思い出していた。



 夏休みが近いこともあってか、クラスメイトも教員もどこかピリピリしていた。日直の号令が終わるか終わらないかで教室を出る。ふと今日が映研の活動日だと思い出したが、撮るものも決まっていなければすることもない。忘れたことにして家に帰ったことに、後になって罪悪感が湧いた。


今日も一人で夕飯を食べて、部屋に引き篭もる。

数学の問題集を解いていると、スマホから通知音が鳴った。

集中が切れて、イライラしながら画面を見る。部長、つまりは唯一の同級生からの連絡だった。


“引退制作、何撮るか決めた?”


表示されたその一文だけで気分が落ち込んだ。

そのほかにもいくつか送られてきたが、全て無視してポップアップを削除し、そのまま机に戻る。

黙々とノートに向かったが、自分がどこに向かっているのかも分からないまま勉強するのは無意味なんじゃないか。心のどこかでそう思ってしまった。

努力するだけ無駄に思えてきて、参考書を閉じて布団に潜り、スマホゲームを起動する。暗い空間でキャラクターを追っているうちに眠気がやってきて、いつのまにか朝になっていた。


(見なかったな、夢。)


顔を洗おうと洗面台へ向かう。

もう二度と見るはずのない、体育館とメメの夢が記憶に残り続けていた。

本当に話を聞いて、助けになってくれたら。そんな人がいたら、どんなに楽だろうと思う。

皆悩んでいるんだから。皆頑張って、勉強しているんだから。厳しい部活と受験勉強を両立している人もいる。それに比べたら楽なものだ。誰かに相談しても、そう言われて終わる気がしていた。何より、自分自身がそう思っていた。



 酷い頭痛がする土曜日だった。

変な夢を見てから、何事も無く一週間が経とうとしていた。

いよいよ夏休みが見えてきて、友達と話していても部活の引退や将来の話を聞くことが段々多くなってくる。その度に誤魔化し続けるのが辛くなってきていた。

それでも、明日は塾が休みだと、ほんの少し軽い心で家路に着こうとする。しかし、下駄箱で呼び止められてしまった。


「三条?久しぶり!」


映研の同級生、大沢だった。

部室に顔を出していないだけでなく、メッセージを見てすらいないことを思い出して目を逸らした。


「何?」

「いや、特にないけど……合作の話、どうかなと思って。」

「合作?」


何の話か分からないのを隠そうともせずに聞き返す。

彼女は呆れたように「メッセージ。」とスマホを取り出し、トークアプリの画面を見せてくる。

どうやら、月曜に無視したメッセージは引退制作を合作しないか、という提案だったらしい。


「せっかくだから、自分たちのことを撮れたらいいなって思ってる。一応構成のイメージはあるけど、三条の撮りたいものに合わせて変えられるし。」


どう?と聞いてくる彼女に短く返す。


「まだ、撮るもの決めてなくて。多分、できないと思う。」

「……そっか。ありがと!」


ばいばい、と手を振って、大沢は走っていく。そう、できないんだ。俺の意思じゃない、仕方なく断っただけ。頭痛が酷くなっているような気がした。



 見慣れた家のドアノブに手をかけると、珍しく鍵が開いていた。

リビングに入ると、ソファーに灰色のスウェットを着た姉が転がっているのが見える。


「あ、おかえり。」


それだけ言って、姉はスマホに視線を戻した。模試だか行事だかで早く帰ってきたのだろうとあたりをつける。

二歳も年上だからか、それとも性差があるからか、昔から姉が苦手だ。

小さい頃は仲が良かった記憶もあるが、いつからか話しかけられても相槌すらろくに打たないような関係になってしまっていた。今更それを改善しようとは思わないが。


自室に上がってしばらくは勉強をしていたが、どうにも頭が痛くて集中できない。少しだけ休んでからにしようと言い訳してベッドに入り、目を閉じた。



 どこかで、音が鳴っている。ぴぃぴぃ煩い音だ。

アラームなんて設定しなかったような気がしたが、手探りでベッドサイドにあるはずのスマホを探した。しかし、どれだけ探しても何も手に当たらない。

その音に耐えかねて、とうとう目を開ける。異様に高い、ネットの張られた天井を見て跳ね起きた。

今回も、体育館の隅のほうで寝ていたようだ。反対側にあるステージに腰掛けたメメがホイッスルを吹いている。

止めてください、と声を掛けようとしても掻き消されてしまう。近づいてジェスチャーでもしようかと思ったが、近寄れない程の音量で諦める。仕方なく、息を吸い込んで思いきり叫んだ。


「メメさん!!止めてください!!!」


それで漸く届いたのかホイッスルを離した彼女は、前回見た夢と全く同じ服装をしているように見えた。やはり、夢だからだろうか。


「透くん!久しぶりだね!」

「あ……」


ステージに手招きされる。てっきり初めましてからかと思っていたが、続いているらしい。内容が引き継がれている夢を見るのは初めてだった。

幕には変わらず、“市立華表小学校”の刺繍がある。よく見ると上のほうには校章のようなものも縫い付けられていた。

そういえば、メメのジャージの胸元にも同じ模様のワッペンがついている。前回、こんなものをつけていただろうか。

思っていたよりも低いステージに乗り上げると、彼女は自慢げにクレヨンとA4の画用紙を見せてきた。


「こんなの、体育館にあるんですね。」

「これはね、図工室から借りてきたんだ!」


これで絵でも描こうと思って。メメはそう言うが、彼女が座って大人しく絵を描いているところが想像できない。

それよりも、この夢に図工室という概念があることが意外だった。


「体育館じゃないところもあるんですか。」

「そりゃそうだよ、ここは学校だからね!そこに書いてあるじゃん。かひょうしょうがっこう、って。」


不服とでも言うように唇を尖らせて刺繍を読むが、言い慣れていないのか殆どカタコトだった。

他の教室にはどうやって行くのだろうか。廊下があるのか。だが、自分にそこまでの想像力がある気がしなかった。単なる辻褄合わせなのかもしれない。

メメがいきなり口を開いた。


「透くん、なんかあったの?」

「え、何でですか。」

「んー……なんとなく。この前より悲しそうな顔してるから。」


眉尻を下げてそう言う彼女に、何もないですよ、と呟く。

しかし、返ってきたのは「うそだあ。」という不服そうな声だった。


「何でそう思うんですか。」

「んー……上手く言えないけど、ここ、時々透くんみたいに外の人が来てさ。私、その子達の話を昔からずっと聞いてるんだ。」


そういえば、前回もそんなことを言っていたような気がする。メメの話は続いた。


「大体皆、嬉しい時は何話してても嬉しそうで、悲しい時は何話してても悲しそうなの。」

「はあ。」

「でね、最初は分かんなかったけど、経験かな。なんとなーく、この子は悩んでるとか、この子は楽しそうとか、分かるようになってきて。透くん、悲しそうだよ。」


ほんとに何も無いの?と聞かれると、どうにも誤魔化せないような気がして、少し迷ってから「無い訳じゃないですけど……」と曖昧に言葉を返す。


「ほら、やっぱり。どしたの?」


ころころ笑って、メメは俯いたこちらを覗き込んでくる。

一度否定した手前、話すことに少し抵抗感があった。それに、何から話せばいいのかも分からない。

自分にとって、一人では何ともならない重大な問題だからいつまで経っても解決しないのだと、分かってはいるのだ。

それでもいざ他人に話を聞かれる状況になると、今までの何もかもが誰かに相談するまでもないような、些細なことに感じてしまった。


「でもそんな、人に話すようなことは何も……」

「そんなこと言ったって、どうせ夢だよ?話しといた方がお得じゃない?」


解決するかは分かんないけど、と申し訳程度に付け足される言葉。確かにそうかもしれない、という気もしてくる。

こんな時に限ってメメは何も喋らないし、動きもしない。その沈黙がいたたまれなくなって、思わず口を開いてしまった。


「夢が……」

「夢?」

「将来の夢なんですけど。それが、周りにはあるのに、俺だけなくて。」


口に出してしまえば、本当に些細なことのようだった。それでも、口が止まらなかった。


「やりたいこともないし、未来の自分とか分かんなくて。高校も、適当に家から近いところ目指してるだけだし……面談も受験も部活も夢のことばっか聞かれるし、周りの話にも乗れないし……」


彼女は受験やら進路面談やら、そういう言葉はわからないのではないか。そう思って隣を見ると、メメは眉間に皺を寄せて何かを考え込んでいた。


「透くんは、将来の夢が欲しいの?」

「え?……そりゃ、欲しいですけど。」

「何で?」


一瞬、言葉に詰まる。


「何でって、必要だからです。聞かれた時にすぐ答えられるし、どこに向かって頑張らなきゃいけないとか、分かった方が楽ですし。」


自分で言って、自分で変だな、と考えていた。

なりたいものは、自分の将来は、理想は、こんなに必要に迫られて決めるようなものだっただろうか。

同じことを考えたのか、んー……と唸る目の前のメメが、納得がいかないように口を開く。


「じゃあ、ほんとにやりたいことじゃなくても良いってこと?」

「それは……違います。それが見つからないから困ってるんです。」


嘘を吐こうと思えば、夢なんていくらでもできる。現に、それで誤魔化したことは何度もあった。

それでも悩んでいるのは、本当にやりたいことがわからないからだ。はりぼての目標に向かって努力して、上手くいくとは思えなかった。

友達が語るように、自分も本心から将来の夢を語りたかった。それができる周囲が羨ましかった。


「そっか。透くんは、ほんとにやりたいこと、どうやって探してるの?」

「え?」


それは予想もしない言葉だった。探すのに方法も何もあるだろうか。

夢なんてものは、ただ日々を過ごして、その中で出会う感動だとか、興奮だとか、それこそ優馬のように好きなものなんかから自然に見つかるもので。

だから、無味乾燥な自分の日常では見つからないのだ。本当に?

ぐるぐると考え込んでいるうちに時間は過ぎていって、メメは隣で画用紙に何かを描き始めていた。

それにツッコむ気も起きずに、俯いたままぽつりと言った。


「夢って、探すものなんですか。」

「え?知らないけど……でもまあ、なんでも、探さないものは見つかんないんじゃない?」


彼女は画用紙に向き合ったまま、あっけからんと言葉を返してくる。


「でも、夢なんか探しようがないじゃないですか。何が向いてるのかも、何を楽しいと思えるかも分からないから将来の夢が欲しいのに。」


画用紙から顔を上げたメメは、それじゃホンマツテントーだねぇ、と笑っている。

でも……と、その言葉は続いた。


「やりたいと思わなくても、ちょっとでもできそうと思ったこと、全部やってみればいいじゃない。向いてるとか楽しいとか、やってみないと分かんないでしょ。」


それが探すってことなんじゃないかな。と言いながら再びクレヨンを持ち直す彼女の言葉が、少しだけ心に刺さった。

相変わらず画用紙に目を向けているメメの横顔が、楽しそうに言葉を紡ぐ。


「凄く小さなことでも、何が夢に繋がるか分かんないし。それに…………」


おまけのように、ぽつ、と付け足される。


「外には楽しいことがいっぱいあるんだから。やりたいことがないうちにいろんなことをやってみなきゃ、勿体無いよ。」


何かを描き終わったのか、クレヨンを手放したメメが再びこちらを向く。この短時間で見慣れた笑顔が、心なしか真剣さを帯びているようにも見えた。


「…………そんな、軽い気持ちでやっても、失敗するだけじゃないですか。」

「そう?でも、知らないものをやりたいとは思えないよ。失敗して、楽しくもなかったら、別のことやればいいでしょ。」


死んじゃう訳じゃないんだし、とやっぱりからから笑う彼女。

そういうものだろうか。腑に落ちないのだか、納得したくないのだか、自分でも分からない。


「そういうもんですか。」

「もちろん!それに……透くんができることは、透くんにしか決められないよ。」


あ、と思った。

自分ができることは、自分にしか決められない。

心当たりのありすぎるそれは、それだけは、ささくれ立った思考の中にも自然に入り込んできて。

当たり前なことのはずなのに、なぜか今、言われて初めて気付いたような気さえした。

ふと思い出したかのように、メメが手元に放られていた画用紙を手に取る。


「そうだ、これあげる。将来の夢、見つかるといいね。」


そう言って折り畳みもしないそれを押し付けられた。

オレンジ色の向日葵が一輪、ざらざらした画用紙の中央に堂々と咲いていた。

ここに咲く訳がない向日葵をなぜ描けるのか、これを寄越してどうしようというのか、何も聞く気になれなかった。


「また来てね、透くん!」


また、その言葉を最後に目が覚めた。



ずり落ちている布団を引き戻して二度寝の体勢に入ろうとしたが、とても寝る気にはなれなかった。仕方なく起き上がる。

ベッドサイドの時計は午後二時を指していて、昨日の夕方からどれだけ寝ていたのかと気が遠くなる。

メメがくれた向日葵の画用紙を手探りで探すが、どこにもない。当たり前か、と落胆した。

腹が減ってキッチンに向かう。道中のリビングで、やっぱり姉がスマホを弄っていた。

両親は仕事が忙しいようで、今日は姉と自分しか家にいなかった。だからこんなに寝坊したのか、と唖然とする。


「あんた寝過ぎ。私起こしたからね。」

「…………ごめん。」


素直に謝ると、気味悪いものを見るような目で見られる。

その視線から逃れるように自室に戻ってスマホを開いた。アプリから“大沢”と書かれたトークルームを見つける。文字を打っては消して、幾らか繰り返してからアプリを閉じてしまった。

そのままネットニュースを漁っていると、目の端に一枚の画像が映る。天を見上げて咲く、向日葵。

妙に気になって開いてみると、それは隣町の自然公園の紹介記事のようだった。様々な草花の写真と共に、植物の特性や花言葉などの情報が載っている。

なんとなくスクロールして指を止める。燃えるような色鮮やかなオレンジ色の向日葵が映し出された。情報が羅列されるのをぼんやりと見つめてから、メメのことを思い出す。

サンリッチオレンジ。茎や花首が丈夫で、花が上を向いたまま折れにくい。花言葉は、“未来を見つめて”。

偶然かもしれない。ただの夢だと言えばそれまでだけれど、その特徴に、その言葉に、何故かメメのあの笑顔が見えてくるような気がして、もう一度トークルームを開いた。


“引退制作、何撮るか決めた?”

“撮りたいものあるんだけど、内容薄くて構成決まんないんだよね”

“私一人じゃ無理そうでさ。三条がよかったら、合作とかしない?”


三年間、殆どやり取りをしなかったトークルームに、それだけが並んでいる。

自分ができることは、自分にしか決められない。メメの言葉を繰り返す。

自分の背中をほんの少し押したそれを、自分と同じように夢の無い、誰かに伝えられたら。

一度は“できない”と嘘を吐いたけれど、上手くいかなくても、挑戦だけでも、してみたくなって。

テキストボックスに打ち込んだその文字を、何度も見返して確認する。覚悟を決めて、送信ボタンを押した。


“返信できてなくてごめん。”

“撮りたいもの、俺も決めた。”

“合作、この前はできないって言ったけど、やっぱやってみたい。まだ間に合う?”


急に緊張が襲ってきてスマホを閉じるが、すぐに軽やかな通知音が返信を知らせてくる。恐る恐る、画面へと視線を移す。


“ほんと?全然間に合うよ、夏休みもあるし!”

“色々相談したいんだけど、明日部室来れる?”


そのポップアップを見て、再び画面を伏せる。目を閉じても、あの体育館には行けなかった。

窓の外では満開の向日葵みたいな太陽が、まだ終わらない夏を照らしていた。

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