ツバメ令嬢は空を舞いたい -How to Raise your Swallow-
神永 遙麦
My dearest Swallow
「ねえ、お祖母様。このリンゴ、パイにしたらきっと美味しくなりますわ」
「そうねぇ。ではパイにしますか?」と私は幼い“スワロー”に微笑みかけた。「もうすぐ冬ですからね」
私の言葉にスワローはわぁと瞳を輝かせ、頬を赤く染めた。リンゴを1つ2つもぎ取り、幌のようにしたスカートに入れた。
リンゴ摘みはスワローに任せ、私はベンチに腰掛けた。眩しい日差しを感じ、私は思わず目を瞑った。
*
娘夫婦のもとにスワローが生まれた日のことはまだ覚えている。私がちょうど娘夫婦の家に滞在していた時に生まれてきた。出産を終えたばかりのエリザベスは顔を紅潮させ、熱っぽく早口だった。
「こんなにも美しい赤ちゃんがこの世にいるのでしょうか、お母様。ええ、分かっていますわ。私の娘はこれで7人目だって。だけれどね、これほど美しい娘はいなかったわ。見て下さいな、生まれたばかりの赤ちゃんなのにこんなにも鼻筋が通っていて、青い目も綺麗に開いていますの」
淡白なケイレブ――エリザベスの夫――も生まれたばかりのスワローを褒めそやしていた。乱れた髪を整えエリザベスは、看護婦が止めるのも聞かず唇に紅を引いた。
「こんなに綺麗な子ですもの。マリア・アンナだの、カタリーナ、エリザベス、マーガレットだなんて、平凡な名はつけられませんわ。ねぇ、あなた」
「ガブリエラ……、いやセラフィーナはどうだ?」
エリザベスはゆっくりと首を横に振り、頬に手を当てた。アクアマリンのような瞳がシャンデリアのように煌めいた。赤い唇が弧を描いた。
小さな赤子の声が響き渡る。ケイレブとエリザベスは赤子に目もくれず話し合いを続けている。雇われたばかりの乳母が揺りかごの子を抱き上げた。リンゴのように赤い顔をした赤子は涙目のまま手を伸ばしている。海の温かさ、空の深さ、星の煌めきを閉じ込めた瞳を持っている。青い目を持つ赤子は珍しくないけれど、驚くほど引き込まれる美しさを持っている。聖母マリアを想わせる青だ。
エリザベスは「クリスディアーナなんていかがかしら?」と壁に飾られた絵を見た。
「非凡かつ美しい響きの名だな」とケイレブは唇の端を上げた。
寝室の壁には水浴するローマ神話の女神ディアーナの絵が飾られている。反射的に眉根に皺が寄った。
「エリザベス、ケイレブ様。本気で仰っているの? クリスディアーナだなんて。聞いたこともない罰当たりな名だと思いもしなかったのでしょうか?」
「しかし、お母様――」
「言い訳など聞きません。神を冒涜するような名を子につける親など要りません。選択肢は2つに1つ」
ケイレブは目を細めた。娘の未来よりも、妻の信仰よりも、目の前の状況だけを見ている。妻を諌めることもせず、自分だけ密かに愉しむ目だった。
私は赤子と、エリザベスに目を向けた。
「あの子を私に渡すか、他の……聖書もしくは聖人から取った名をつけなさい」
引き攣るようにエリザベスの下唇が動いた。ケイレブは愉快そうに片眉を上げた。
「いいでしょう。私とエリザベスの子は息子が6人、娘が7人。娘の1人くらい喜んで、子の少ないあなたにお渡しいたしましょう」
目尻の筋肉が小さく引き攣った。
それから私と、ケイレブ・ド・ヴィア公爵は赤子の養子縁組の契約を交わした。
「この子の名前はどうなさるおつもりですか?」とケイレブは横目で、咽び泣くエリザベスを見た。
「新年までに考えておきますので、安心なさいませ」
1882年、クリスマスの数日前のことだった。
*
私は目を開いた。スワローは椅子に掛け、忙しくランタンの手入れをしている。私は手にしていた編み棒と膝に置き、背もたれに見を預けた。
私も年かしらねぇ。11年以上も昔のことを思い出すだなんて。ケイレブがグレイウッド王陛下の甥であり公爵だからと、エリザベスとの結婚を許したのが間違いだった。
仕事を終えたスワローは丁寧にランタンをテーブルに置いた。
「これで冬を迎えても勉強が続けられますね、お祖母様」とスワローはリボンを取った。「ねえ、お祖母様。市場へ行っても良いでしょうか?」
私が口を開く前にスワローは身につけていた髪飾りを取った。私が苦笑していることにも気づかず、スワローは慣れた手つきで金髪をお下げにしている。
また頭痛と吐き気がする。背中にも微かな痛みがある。簡素な作りのエプロンを着けたスワローは膝を屈め、私の額に温かな手を当てた。
「お祖母様、また頭に痛みがあるの?」
スワローは心配そうに唇を震わせながら私の顔を覗き込んでいる。孫娘を心配させるなんて……。スワローの小さな手を軽く握り、私は首を横に振った。
「大丈夫よ、スワロー。市場に行くのなら、私もついて行きますよ。この時期は人の行き来が多いもの」
「お祖母様がついてきてくださるのは嬉しいけれど……」とスワローは困ったように頬に白い手を当てた。「そうだ! カタリナに聞いて来ますね!」
ろうそくのように顔を輝かせたスワローは部屋を出て、階段を駆け下りていった。あまりにも侯爵家の養女に相応しくない言動だった。エリザベスと正反対の意味で、育て方を間違えたかもしれない。
スワローが戻ってきた。隠密行動をしている騎士のようにドアを開け、部屋に入ってきた。カタリナに注意されたのだろう。
「それでは、お祖母様。市場へ行きましょう!」
スワローは馬車に飛び乗った。私はスワローが差し伸ばした手を取り乗った。ブラウスのままのスワローに外套を掛けてやった。
「今日は市場へ何をしにいくの?」
「メリノウールを買いたいの。ねえ、お祖母様。温かいお布団とコートではどちらがより温かいのでしょうか?」
「コートかしらね。お布団は夜しか使えないでしょう?」
「本当だわ! ありがとう! お祖母様」
馬車が市場に着いた。私の頬にキスしたスワローは馬車から飛び降りた。道行く人々に威勢よく挨拶しながらスワローは走っていった。布売りの屋台の前にスワローは仁王立ちした。
「コセアおばさん、こんにちは! あのね、厚めのメリノウールが400ヤードくらい欲しいの。まだ在庫はあって?」
「もちろんあるよ。何を作るんだい、スワローちゃん?」
「コートよ。とりあえず100人分作りたいの」
「出来たら教会に寄付するのかい?」とコセアは厳しい顔を和らげた。
「ええ、もちろんよ。知ってる? ゴーディラックではもう雪が振ったんですって。去年よりは少し遅めだけど、寒くなることには変わりないでしょ? おばさんはどう思って?」
「そりゃ寒くなるだろうね」
スワローとコセアのやり取りを見ながら私は町歩く人々を見た。貧民であろうと住む家はある。この国に浮浪者などいない。しかし、コートどころか寸法のあっていない服を着ている人々は多くいる。
スワローは寒さから頬を赤く染め、10スティアと5スティア硬貨をコセアに渡した。
私はそっと白い息を吐いた。私は近い将来、天に帰るでしょう。スワローは嫁ぐまで、息子一家が養ってくれるでしょう。けれど、嫁ぎ先では? あまりにも貴族らしくない子に育ってしまったスワローは、幸せになることができるのかしら? 目を上げた。
400ヤードもの厚いメリノウールを頑張って抱えるスワロー。思わず笑みが漏れた。この子は宮廷貴族には嫁がない方が良いでしょう。ならば……。目の前を一台の二頭立ての馬車が通って行った。あの紋章は確か辺境伯の……。
その夜、重い荷物運びを終えたスワローはぐっすりと眠った。私は滅多になく夜ふかししながら、一通の手紙を認めた。
翌朝からスワローは乳母カタリナを始めとした使用人を数人動員してコート作りに取り掛かり、アドベントに入った日曜日の礼拝後にコートを寄付した。頭痛と背の痛みに密かに悩みながらも私はスワローと楽しく冬を過ごした。本を読み、ピアノを弾いた。クリスマスには侯爵家の本邸へ行き、
春一番の燕が空を滑るころ、私は手紙を開いた。モンテルス伯爵家からの招待状だった。スワローは下唇を突き出しながらも晴れ着に袖を通した。四頭立ての馬車に乗り込むとスワローは少し襟を緩めた。
「お祖母様、モンテルス伯爵家ってどのくらい時間がかかるの? 土曜日にはローズマリーとピクニックがあるんだけど間に合うかしら?」
「ピクニックには間に合うわよ。ええ、モンテルス領には今夜到着するから」
スワローはため息を吐き、少しカーテンを捲ってから外を眺めた。その瞬間、大きく馬車が揺れた。町を出たようだ。春が訪れたばかりの冷たい風が混ざる柔らかな陽気の中、スワローは猫のようにあくびをしコームを取った。半分だけ纏めていた髪がふわりと落ちた。やがて穏やかなスワローの寝息が耳に届いた。私は少し手を伸ばし彼女の暖かな金髪を撫でた。
穏やかに夕日が沈み始めた頃、馬車が停まった。従者が馬車から降り、呼び鈴を鳴らした。
「スワロー、起きなさい」と私は軽く揺すった。
スワローはイモムシのように体を動かしたあと、伸びりと腕を伸ばした。やや不満げに目に力が入っているし、下唇を突き出している。メイドに迎えられ、客用寝室へ向かった。私は鏡を見て、自分の身だしなみが整ったことを確認した。隣の客用寝室へスワローの様子を見に行った。スワローは帽子を持ったままぼんやりと立っていた。侍女はベッドにドレスを広げている。私は息をこぼし、目を細めた。
「スワロー、髪飾りはどこへやったの?」
「ポケットの中よ。着けなくちゃダメかしら?」
「もちろん着けなさい」と私は呆れ息を吐いた。「ちゃんと身だしなみを整えなさい、“ジョセフィン”」
スワローは硬直したように体を震わせた。数年ぶりに本名で呼ばれたからだろう。
「ジョセフィン。今回の訪問にはあなたの将来が掛かっていること、本当はあなたも分かっているのでしょう?」
スワローは小さく頷き、鏡を見ながら花のついたコームを着けた。細身の鼈甲が映え瞳は一層青く見えた。侍女がもじもじとしている。私は部屋から出た。少し待つと部屋から出るよう促すメイドの声がした。廊下に出るとクリームホワイトのモスリンのドレスに着替えたスワローと会った。私は静かに目を細めた。盛装するだけで彼女は侯爵家の令嬢らしく見えた。スワローが窓の外の鳥を見ようと頭を動かすたびに髪飾りのサクラが揺れる。
「行きますよ、スワロー」と私はスワローの手を取った。
普段と違いキッドの手袋をはめているためスワローの手はいつもと感触が違った。まだ私より小さいが数年前と比べると大きくなったスワローの手。痛みを隠すように私は胸を押さえたが、スワローは目ざとく祈りを紡ぐように小さく唇を動かした。
サロンの扉が開くと、スワローは緊張したように私の手を強く握ったがすぐに手を緩めた。かつて私が見た柔らかな空気はまだこの部屋に残っていた。ランプの炎が乳白色の壁に溶け込んでいる。暖炉の上には青いアイリスが生けられていた。
緑色のドレスを纏った40歳前後の女性が立ち上がった。私は裾を軽く摘み、膝を折って一礼した。
「モンテルス伯爵夫人、長らくご無沙汰しております。お招きいただき、光栄に存じます」
「まあ、ラングレッド侯爵未亡人。ようこそお越しくださいました。お変わりなくて何よりです」とにこやかな声がサロンに柔らかく響いた。
「こちらは孫娘であり養女のジョセフィンでございます」
ジョセフィンは不安そうに私に目を向けた。私はスワローの背に手を伸ばした。スワローは観念したように息を吐き、一歩前に出た。緊張から頬を赤く染めながらも小さく裾を広げ、頭を下げた。
「お初にお目にかかります。ジョセフィン・デボラ・アメデア・ド・ヴィア=ラングレッドと申します。この度は……お招きくださりありがとうございます」
「まあ、なんて可愛らしい。あなたは……お母様とよくお顔立ちが似ていらっしゃるのね」とモンテルス伯爵夫人は微笑み掛けた。
スワローはお礼を述べながらも小首を傾げた。モンテルス伯爵夫人が席につくよう勧めてくださった。モンテルス伯爵夫人は暖炉の側に掛けた。私はモンテルス伯爵夫人の向かい側に座り、スワローは私の左隣に掛けた。
「私ってヴィアの方のお母様に似ているの?」とスワローがこそっと私に近づいた。
「似ているかもしれませんねぇ……。ヴィア公爵や私の夫にも似ているけれど……」と歯切れの悪い意見をこぼしてしまった。
この子は誰に似たのでしょうか? 16、17歳になれば素直で心優しいスワローは皆が振り返り、王子妃となることを望まれるほどの美貌を宿すようになるでしょう。この子は確かに美しかったエリザベスと似ている、けれど何かが違う。その違いは性格や信念の違いからだけではない。
考え込んでいると気づかぬ間にお茶の用意が整っていた。
モンテルス伯爵夫人は「旅路はいかがでした? 道中はもう春の花で賑やかでしたでしょう」と百合が描かれたカップを手にした。
「ええ、とても素晴らしい景色でしたよ。モンテルス領へ向かう途中、冷涼な丘陵地に広がるラベンダー畑が、小さく色づき始めておりましたよ。王都ではすでに満開ですが、こちらでは春がゆっくりで……その慎ましさに心を奪われましたよ」
「そちらでは今どのような花が咲いていますの?」とモンテルス伯爵夫人は栗色の瞳を輝かせた。
「あら、我が家に咲く花に関しましてはジョセフィンの方が詳しいのですよ。庭の手入れを楽しんでいますの」と私は横目でスコーンを食べるスワローを見た。
スワローは慌ててスコーンを飲み込むと背筋を伸ばした。モンテルス伯爵夫人は柔らかくクスリと笑った。
「まあ、それは素敵ですこと。ラングレッド嬢、今年はどのような花が咲きましたの?」
「フリージアやアーモンド、あとローズマリーが咲いています。私の部屋では鈴蘭も咲いています」
「あら、お部屋に鉢植えを置いていらっしゃるの? 私とおそろいね、私も温室で育てたアネモネを部屋に咲かせていますの。息子のイーリアスも先日ラベンダーのポプリを作って部屋に置いていましたの」
モンテルス伯爵夫人が意味ある視線を私に送った。私はそっと小さく息を吐き瞠目した後、首肯した。
彼女は「きっとあなたと私の息子は話が合うのではないかしら?」と鈴を鳴らし、メイドを呼んだ。
スワローはテーブルの下で、手袋を引っ張り指先の布を折って遊び始めた。視線は壁の隅にいる小さな蜘蛛に注がれている。呼吸が浅い。慣れないコルセットのせいでもあるのかもしれない、今回の来訪の目的であった人物と会うことに緊張しているからなのかもれしれない。
扉が開いた。青年になりかけと言う年頃の貴公子が入ってきた。彼は眩いものを見たように柔らかく目を見開いた。夕光を受け金褐色の髪がろうそくのように輝いた。彼は丁寧に一礼した。モンテルス伯爵夫人は息子を指した。
「ラングレッド嬢、こちらは私の息子イーリアス・テラーヌ・オリアン・ド・モンテルスです」
スワローは椅子から立ち上がった。モンテルス伯爵夫人はイーリアスを手招きした。
「イーリアス、こちらはラングレッド侯爵未亡人と、その養女であるジョセフィン・ジョセフィン・デボラ・アメデア・ド・ヴィア=ラングレッドよ」
イーリアスは「お初にお目にかかります、ラングレッド嬢。遠路よくお越しくださいました。お目にかかれて光栄です」と軽く頭を下げた。
「こちらこそ光栄です、モンテルス様」とスワローは軽くお辞儀した。
躓いたのかスワローは一瞬だけよろめいたがすぐに体勢を戻した。金色の髪が一房、肩に落ちた。イーリアスは見下ろすようにスワローの頭を見ている。12歳のスワローの頭は、イーリアスの胸に届くほどだった。スワローが顔を上げるとまつ毛が頬に長い陰を落とし大人びているように見えた。夜が近づいている。
「さあ、お2人とも座って。お茶が冷めてしまいますわ」とモンテルス伯爵夫人が柔らかく促した。
スワローはサッと席に戻った。イーリアスはモンテルス伯爵夫人の右隣の席についた。モンテルス伯爵夫人はスワローに微笑み掛けた。
「ラングレッド嬢、お勉強はどのようなことをなさっているの?」
「ゴーディラック語とギリシア語と古典詩、それから歴史も少し教えていただいています」
「あら、ギリシア語を。イーリアスもギリシア語が堪能ですの」とモンテルス伯爵夫人はイーリアスに目を向けた。「そうでしょ、イーリアス」
「はい」とイーリアスは固いまま頷いた。「ギリシア語とラテン語を学んでおります」
スワローは踊るような眼差しを窓の外に向けた。口を開くか迷っているのか小さく動かしている。それから暖炉の上に掛けられた聖家族の団欒を描いた古い油絵に横目を向けた。
「イーリアス様はギリシア語で聖書を読めますか? いつか読んでみたいと思っているのですが、まだ学びの途中で読めていないのです」
「いえ。ギリシア語ではまだ読んだことがございません。ラングレッド嬢はギリシア語で聖書を読んでみたいとお考えなのですか?」
「はい」とスワローは勢いよく頷いた。「だって最初に書かれた聖書はギリシア語なのでしょう? だからいつか読んでみたいと夢見ておりますの」
スワローは頬に炎が宿ったように紅潮させた。彗星の如く瞳を輝かせ、将来に期待する眼差しをイーリアスに向けた。イーリアスは困惑したように硬直した。モンテルス伯爵夫人はイーリアスの表情を窺った。やがて微笑みながら紅茶を飲んだ。イーリアスは思考するように瞑っていた目を開いた。
「ラテン語でなら読めますよ。以前、領地にある教会の牧師から手ほどきを受けたことがございますから」
「昔はラテン語で聖書を読むのが主流だったと習いましたが、こちらでは今もそうですの?」とスワローは首を傾げた。
「いいえ。こちらでもティレアヌス語で読みますよ。ただ歴史資料のように教会に残っているのです」
わぁ、とスワローは感嘆の眼差しをイーリアスに向けた。モンテルス伯爵夫人はさり気なく柱時計を見た。
「ラングレッド嬢、お疲れになっていないかしら? 長旅の後ですもの、おやすみになってはいかが?」
「そうね、ジョセフィン。そろそろ休まないとね」と私はスワローの背に手を当てた。
「はい」とスワローは立ち上がった。「それでは失礼します」と退室した。
スワローとイーリアスの初対面は恙無く済んだ。私は胸を撫で下ろした。
老いた体に鞭打ち晩餐会に出席し、眠りについたころには日付が変わる直前だった。翌朝、身支度を終え食堂に出た。
「おはようございます、ラングレッド侯爵未亡人」とイーリアスが近づいてきた。
「おはようございます、イーリアス様。どうなさいましたの?」
「ラングレッド嬢と遠乗りに出てもよろしいでしょうか? 目的地は教会です」と緊張した面持ちだ。
「ジョセフィンはなんと?」と私は無理やり笑みを作った。
「ラングレッド嬢にはまだ何も話しておりません。彼女はまだ12歳なのでまずあなたに話してから、と考えました」
「もちろん、どうぞ」と私は痛む胸を押さえ、イーリアスに頷いた。
スワローが猫のようにあくびをかきながら降りてきた。私の隣に掛けた。珍しく眠れなかったのか目の下に薄いクマができている。
イーリアスは「お疲れは取れましたか? ラングレッド嬢」と楽しげな目をスワローに送った。
スワローは答えを誤魔化すように目を逸らした。私は痛むこめかみを抑えた。モンテルス伯爵夫人の目が弧を描いた。
「ラングレッド嬢。あなたは刺繍やピアノなどはお得意ですか?」
「はい」とスワローは頷いた。「このスカートも自分で刺繍しましたの」
「あらら」とモンテルス伯爵夫人は口元を軽く手で隠した。「そのブラウスやジャケットの刺繍もあなたがなさったの?」
「あ、はい」とスワローは腕を上げた。
自然と視線がスワローの袖口に集まった。冬の間、スワローが暇に任せてよそ行きのドレスに刺繍してしまった時のものだった。跳ねたり寝ている羊と軽やかに舞う青い鳥の画が刺されている。私はホッと胸を撫で下ろした。モンテルス伯爵夫人のお陰で、皆が食事中にスワローのスカートを覗き込む、だなんて事態を避けられた。
朝食を終えスワローに注意しようと袖を引いた。音を立てイーリアスが立ち上がった。
「ラングレッド嬢」とスワローの隣に回った。「昼前、遠乗りに行きませんか?」
「え、と……」とスワローは座ったままイーリアスを見上げた。「どこまでですか?」
「この村を出ない範囲です」
「お祖母様……」とスワローは不安げな眼差しを私に向けた。
「行ってくればよいでしょう? モンテルス領が美しい村なのはあなたも知っているでしょう」
スワローは上目遣いのままイーリアスに頷いた。イーリアスは安心したように顔を緩めた。スワローの頭に手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。
2人が遠乗りへ出た。私とモンテルス伯爵夫人はテラスから見送った。モンテルス伯爵夫人は刺繍枠に布を取り付けた。
「ラングレッド嬢は未熟な点も見受けられますが、静かに人を慮る眼差しを向けられる娘ですね」
「ええ。あの子のその優しさには私も関心していますの」
「優しくしようと考えている様子はないのに、優しくできるのは天賦のものでしょうね」
針に赤い糸が通らず、モンテルス伯爵夫人は手を目と同じ高さにした。ようやく糸が通ると彼女はホッと手を下ろした。
「イーリアスは来週から王都へ行きますの。あの子が16歳になったのが冬のことですが、そのころあの子は要塞にいましたので」
「これからの2年間、ですよね?」
「ええ……」
私は編み針を脇に置き、モンテルス伯爵夫人の震える手を軽く抑えた。モンテルス伯爵夫人は綻ぶように笑った。
「明るいあの娘がイーリアスの妻になってくれたら、と昨夜考えてしまいましたの。我が家とこの領地をどれほど明るく照らしてくれるのかと、想像してしまいますの」
そう言っていただけて幸いですわ。
そんな言葉が口から出ない。エリザベスより年下のモンテルス伯爵夫人。相次ぐゴーディラックからの攻撃により近隣の領地が刈られてからまだ2年。気丈に振る舞ってはいる。だが、ティレアヌスとゴーディラックの関係次第で夫と一人息子を失う可能性もあるのだ。その中にスワローを放り込むのだ。
私から望んだスワローとモンテルス辺境伯嫡男の縁談だ。ここで私が一言出せば婚約は瞬く間に内定するだろう。唇を噛みレースを編んだ。
モンテルス伯爵夫人はようやく刺繍を始めた。少しずつ、ゼラニウムが姿を現していく。赤い糸を切り、緑の糸を取ろうとし手を止めた。刺繍枠をカゴに仕舞い、居住まいを正した。
「ラングレッド侯爵未亡人。ご令嬢を私の長男の未来の婚約者とすることを許し願えませんか?」
胸を内で十字を切った。スワローの未来はどこにあるのでしょうか。空は青く南より舞い戻ってきたツバメが滑る。やがて1羽のツバメがテラスの屋根の下に潜ってきた。新しく巣を作るのでしょうかね?
指先を忙しなく動かしレースは少しずつ大きくなっていく。このレースはいずれスワローかローズマリーが使うでしょう。
「良いでしょう。正式な婚約はジョセフィンが成人する3年後となりますが、そちらの点はよろしいでしょうか?」
「ええ。それまでゆっくりと交流を持てますわ」とモンテルス伯爵夫人は安堵したように笑った。
それからモンテルス伯爵夫人は手仕事を続けた。
「先の冬はよく雪が積もりましたから、今年の墓は肥えませんね。ありがたいことですわ」
「ええ。昨年と違い市場も落ち着くでしょうねぇ」と私は瞼の裏にスワローを浮かべた。「きっと今年は政治に問題がなければ食に困る人は少ないでしょう」
「そう言えばラングレッド嬢の実のお父君はバルムント王陛下の従兄弟なのでしょう。今年もお子様のどなたかのご結婚の予定がおありなのでしょうか?」
「ええ。今年は夏にグラツィアナがユンテルス海軍大佐と結婚しますのよ」
「まあ、おめでたい。グラツィアナ嬢はラングレッド嬢よりおいくつ年上なのでしょうか?」
「グラツィアナは18歳です。それからその弟のジョナサンも秋に結婚しますのよ」
「まあ、なんて素晴らしい神の恵みでしょう。神様に愛される家門ですわね」
モンテルス伯爵夫人は憂いを秘めた笑みを浮かべた。私は目を伏せたが、すぐに顔を上げた。スワローの高い声が聞こえた。イーリアスと話が弾んでいるようで、笑い合う声が木霊する。モンテルス伯爵夫人は愛おしさを籠めた眼差しをイーリアスたちの影に送った。
綻ぶ口元を隠すため編み物を続けた。手に収まるほどだった小さな円いレースは、指を動かすたびに少しずつ大きくなり手から余るほどになって行く。視線を下ろし籠から白い糸を取り、切れていた糸に継ぎ足す。正しく刺される控えめな模様。今は幼い少女がいつか花嫁となった時、その手で華やかで若々しい紋様を描くでしょう。あの子達が好きな花を刺すことができるよう、今は土台となる白く規則的な柄だけを刺しましょう。
やがて滞在の日程を終えた。旅行着に着替えたスワローは私の後ろにつきサロンに入った。モンテルス伯爵夫人とイーリアスが席についていた。
「モンテルス伯爵夫人」と私は片足を引き、裾をつまんだ。「此度は私どもを温かくお迎えいただき、心より御礼申し上げます。モンテルス辺境伯とお会いできず残念でしたが、ご領地のご繁栄とご家族皆様のご健康を祈っております。また新年に王都でお会いできれば嬉しゅうございます」
「ええ、そうですね。ラングレッド侯爵未亡人。けれどできれば新年の前にもあなたとラングレッド嬢にまたお会いしとうございます」とモンテルス伯爵夫人は社交的な笑みを浮かべた後、息子に視線を向けた。「あなたもそうでしょ、イーリアス?」
イーリアスは頷いた。そして躊躇うようにモンテルス伯爵夫人と私の顔を交互に見た。それから彼は朝日を背に立ち上がった。静かにスワローに近づき、椅子3つ分離れたところで立ち止まり一礼した。
「ラングレッド嬢、また近いうちにあなたとお話することができればと願います」
横目でスワローの顔を見やると、満更でもないというように笑顔だった。婚約者の前なのだからもう少し品のある表情をして欲しかった。私はそっとスワローの背を押した。スワローはイーリアスの前に立ち、子どものように手を取った。
「イーリアス様。昨日は教会へと遠乗りに誘ってくださりありがとうございました。あんなに素朴な教会がある町ですもの。また、お誘いくださいますか?」
「はい」とイーリアスはさり気なく手を離した。「いつか、また、必ず」と楽しげに期待する眼差しをスワローに向けた。
イーリアスはスワローを、いつか愛するだろう。ふと、そう感じた。
昨夜教え込んだ礼法から外れているがスワローは、モンテルス伯爵夫人に礼と別れの挨拶をしている。モンテルス伯爵夫人はスワローの額に軽く口付けた。彼女もスワローを気に入ってくれた。
サロンを退室し、モンテルス辺境伯邸を出た。馬車に乗り込むと、スワローはさっさと手袋を外した。馬車が動き始めた。スワローは窓から見えるモンテルス伯爵夫人とイーリアスに向け手を振り続けた。門を出るまでスワローは屋敷の方向を見つめていた。スワローもいつか、私の小さなスワローもいつの日にかイーリアスを愛するようになるだろう。
「ねえ、お祖母様」
「なあに? スワロー」
「午前中にモンテルス領を出たから明後日のピクニックには間に合うかしら?」
思わず笑ってしまった。スワローは不満げに大きく頬を膨らませた。
「お祖母様、笑わないでください! ローズマリーとの春一番のピクニックですもの!」
「ええ、ええ。よほどのことがない限りは間に合いますよ」と私は目尻に浮かんだ涙を拭った。
「良かったわ。あのね、昨日、イーリアス様とローズマリーへのお土産に可愛いブレスレットを選んだの。私とお揃い。喜んでくれるかしら?」
私は頷いてから、スワローの頭を抱き寄せた。温かい。子どもだ。今はまだ、子どもでいてくれる。
翌夜、我が家に着いた。なぜかローズマリーが玄関にいた。
「曽祖母様、スワロー、おかえりなさい!」
ローズマリーは、馬車から降りたスワローに抱きついた。従妹からの歓待を受けたスワローは活き活きと土産話を始めた。微笑ましいが、私は息を吐いた。
「スワロー、ローズマリー。おしゃべりなら玄関先でなくお部屋でなさい」
「はーい、曽祖母様」
「失礼します、お祖母様!」
2人は手を繋いだまま走って行った。きっとローズマリーは今夜泊まって行くだろう。
「この荷物を運んでちょうだい、スワローの荷物も」と私は従者に指示を出した。
スワローの部屋の前を通ると、スワローは寝巻きに着替えながらまだ喋っていた。少し寝巻きが短くなったようだ。一冬着ていただけの寝間着があっという間に短くなる。来週に届く春と夏用の寝間着は長さが間に合うのでしょうか?一足早く春夏の寝間着を着ているローズマリーの長さは大丈夫みたい。
「ローズマリー、夕食はもう取ったの?」と私は部屋の中に向かって呼びかけた。
「ええ、もう取りましたわ。曽祖母様!」
「スワロー、あなたは食べなくていいの?」
「ええ。実はさっきサンドイッチを買いましたの!」
私は軽く呆れの息を零した。部屋の前を去る時、一瞬だけスワローの顔を見た。
不思議と美しく見える額の広さはヴィア公爵からでしょうね。あの金髪は夫の祖母から。聖母マリアのような瞳は私の母から。あとはエリザベスと似ている。けれど、あの心根の出どころだけが私には分からない。
ローズマリーの顔立ちは概ね孫のピートルからでしょうね。青みかかった金髪だけがジュヌヴィエーヴァから。
15人兄弟の13番目の子で祖母である私の養女として別邸で育ったスワロー。ベネディクトの長男ピートルの一人娘であり本邸で育ったローズマリー。近い親戚同士でありながら対照的と言ってもいいような2人なのに、1歳しか年が変わらないからか本当に仲がいい。兄弟の数の多さより子どもたちの仲を良いことを神の恵みと言いたい。
穏やかな思いから笑みが溢れた。自室に入り、服を脱ぎ寝間着に着替えた。旅を祝福してくださったと、無事に帰ってこられたことの感謝を神に返した。それから……。
カーテンをめくり、優しく平穏に輝く春の星の海を眺めた。家族の平和と祝福を神に祈った。寝台に入り、目を閉じた。まだスワローとローズマリーの話し声が聞こえる。楽しそうで微笑ましいが、いい加減寝るよう促しに行きたい。それなのに体が重い。長旅の疲れだろう。笑い声が聞こえる。私は息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます