第12話

 辰馬が奇跡的に目を覚ました年、東大理Ⅲに合格した準の息子は卒業後に晋先生達と同じく脳外科医になった。海外留学などを経た彼もまた、現在は上司となった準の下で担当医となり、退院後における辰馬のリハビリや経過観察を行っている。

 二十九年余りという長い昏睡状態から目を覚ましただけでも、本来神がかった出来事だ。昏睡状態が一年以上続けば、通常意識が戻るケースはほとんどないから当然だろう。

 ただ海外で似たケースはあった。辰馬の事件より三年遅い一九八四年、アメリカで交通事故に遭った当時十九歳のテリーという男性が昏睡状態に陥り、回復の見込みがないとされていたが、十九年後に突如目を覚ました事例だ。

 しかし残念なことに、その人は二年前に五十七歳で亡くなった。辰馬と時期が重なっていた為、生命維持などにおいて彼が入院するアメリカの病院とは互いに情報共有していたこともあり、その男性が目覚めたとのニュースが出た時は皆喜んだ。辰馬にも希望があると思えたからである。

 ただその男性は事故の後遺症で四肢が麻痺し、会話も少し単語を話せるようになったものの、健常者には程遠い状況だった。その上、目を覚ましてから十九年後に家族による献身的な介護の努力虚しく、この世を去ったのだ。

 そう考えると、辰馬はたまに起きるてんかんの発作以外は目立った後遺症もない。また通常の健常者とほぼ同じ生活を過ごせている状態に加え、大学に合格し通えるようになるまでに回復したのだから、驚くべきことなのだ。

 てんかんとは、脳にある神経細胞の異常な電気活動が引き起こす発作が、繰り返される状態を指す。辰馬の場合は脳の損傷が原因だが、千人の内五人から八人は、遺伝などの要因で誰もがかかる可能性があるありふれた脳の病気の一つであり、薬の服用などで抑えられる。

 発作は体の一部が固くなったり、手足がしびれたり、吐き気がしたりなど様々な症状がおきるが、彼の場合はそう不安視するほどではないらしい。

 よって今のところ突然死の心配はないものの、長くは生きられないかもしれないとの不安を抱えたまま、亡くなった晋先生や準、そして竜が彼の健康に心を砕いてきたし、今も続けている。

 また、辰馬の事件から十年経った一九九一年に事故で昏睡状態に陥り、二十七年後の二〇一八年に目覚めたというアラブ首長国連邦での事例もあった。その女性患者は現在会話できるまで回復しリハビリを続けているが、まだ辰馬ほどの早い回復は見せていない。

 脳というものは解明されていない点が多く、だからこそ時々こうした奇跡が起こるのだろう。しかしその反面、いつ容態が悪化するかもしれないというリスクを抱えている。

 もちろん今日に至るまで、多くの難局が待ち構えていた。意識が戻った後、通常の会話ができるまで一年以上かかっている。並行して、内臓を動かすものを含め、弱った筋肉を取り戻す為の、血が滲むような懸命のリハビリが続けられた。

 彼がようやく歩けるようになったのは、さらにその三年後である。晋先生や準が様々な投薬や電気治療を行い、さらに由美の献身的な介護もあった上で、本人の強い意志と努力の結果、退院することができたのだ。

 話は少し変わるが、震災の混乱により、外科病棟にある薬の一部が紛失するなどの不祥事が発覚し、その責任を準が取らされるといった騒ぎがあった。ただ、担当していた辰馬が目を覚ますという功績が認められ、それほどの問題にはならなかったのが幸いだった。

 無事退院した後も辰馬は通院を続けつつ、体を鍛えあげた。それにより当然全盛期には劣るものの、それでも当時を彷彿ほうふつさせるほどの腕力を取り戻している。

 筋肉は裏切らない、との言葉通り激しいトレーニングで培った屈強な力は、とても還暦を越えたとは思えない動きができるまでになった。

 その上眠っていた間の空白を埋めるかのように、彼は様々な知識を頭に叩き込み、とうとう大学生にまでなったのだから驚きだ。

 よって則夫は言った。

「本当に凄いのは、タッチャンですけどね」

「それはそうだ。あいつには誰も敵わない。とんでもない運を引き寄せるだけの徳を積んできたから、これだけ人を集められるんだろうし。それに六十を過ぎて大学生だってよ。しかも俺が入ったところより、ずっと偏差値が高いところだぞ。信じられないだろう」

「高校までは、勉強なんてからっきしでしたからね」

「それも由美のおかげだな。昏睡状態での二十九年に渡る睡眠学習が効いたに違いない」

「そうかもしれませんね」

 辰馬がいる席に視線を移した二人は、少し離れた席で静かに佇んでいる由美を見ながら笑った。

 そうしていると、近くにいた湯花亨や白海咲季が近づいてきた。

「何をニヤついているのかな」

「いや、別になんでもないですよ。亨さん」

 栄太が先に答えると、顔が少し赤らんだ咲季が口角を上げて言った。

「どうせ、スケベな話でもしていたんじゃないの」

「そ、そんな訳、ないじゃないですか」

 則夫は思わず否定した。彼女も栄太と同じく同級生だが、元レディースの幹部だったこともあり当時の怖い印象が拭えず、つい敬語になってしまう。魔N侍の元特攻隊長だった誠の兄の亨は、別の高校だが年上の先輩でもあるから栄太でさえ敬語なのでいいのだが。

「だって、由美のほうを見て笑っていたじゃないの。則夫は昔、彼女と付き合っていたことがあるから、もしかしてやきもちを焼いていたんじゃないかな、と思って」「咲季、お前、酔ってるんじゃないのか。飲みすぎんじゃないぞ」

 栄太はたしめてくれたが、彼女はヘラヘラと笑いながら反論した。

「別にいいじゃない。めでたい席なんでしょ。それに私はただ忠告してやっただけ。則夫には、あんな可愛いお嬢さん達が二人もいるんだから、家庭を大事にしなきゃ駄目だってね」

 今日は陽菜乃と未知留の二人も会場に来ている。幼い頃から言い聞かせて来たからだろう。彼女らにとっても辰馬は大事な人だと言い張り、自らの意思で参加しているのだ。

 会場の多くが六十前後の高齢者ばかりの中、大学二年と高校二年の二人が目立つ為か、その周辺にも人だかりが出来ていた。彼らにとっては孫に近い年齢だからかもしれない。

「ど、どういう意味ですか」

 彼女は意味あり気な表情をして言った。

「色々、問題を抱えているようじゃないの。あの子達がぼやいていたわよ。仕事と辰馬さんのことばかりで、奥さんとも余り上手くいってないみたいじゃない」

 突然の鋭い指摘に、則夫は慌てた。確かに最近は妻とギクシャクし始め、その影響からか娘達とも距離を感じていたところだ。ただ難しい年頃というだけでないのは理解している。

「そ、そんなことはないですよ。あいつらが何を言ったか知らないけれど、大した話じゃありません。どこの家庭だって、揉め事の一つや二つはあるでしょう。た、ただそれだけです」

「じゃあ、どうして今日は奥さんだけがいないの。昔は二人でお見舞いにも来ていたのに」

「ち、ちょっと他の用事があったからですよ。お互いいい年ですし、子供達も大きくなりましたからね。ずっと一緒って訳にはいきませんよ。そ、それぞれに付き合いがありますから」

 何とかそう言い訳をしていると、栄太が助け舟を出してくれようとしたのか口を挟んだ。しかしそれは、余りいい話題では無かった。

「そういうお前はどうなんだ。健吾の姿が見えないけど、来ていないのか」

「あっ、それは、」

 幹事として出欠席の確認をしていた際、彼は今回遠慮すると聞いていた。その理由も知っていたが、辰馬と由美以外には敢えて伝えなかったのだ。

 咲季は途端に表情を険しくし、則夫を横目で睨みつけた後、吐き出すように言った。

「ハッ。ちょっと考えれば分かるでしょうが。こんな状況で、あの人が来られるわけがない」

 かつて多くの男子生徒を震え上がらせた彼女の迫力は、六十過ぎとは思えない程だった。しかし相手は元三軍神だ。しかも長年警察組織に身を置き、悪党共を捕まえる立場にいた栄太である。怯むことなく鼻で笑い、首を傾げつつ彼女を見下ろしながらガンを飛ばし返した。

「フンッ。今更怖気おじけづいたのか。しょうがない。今までは俺達みたいに、物分かりの良い奴らとしか顔を合わせてこなかったが、今日は違う。関西に住む元魔N侍のメンバーが相当数駆け付けたんだ。それこそあの抗争以降、四十二年振りに会う奴らもいるだろう。そんな奴らに酔って絡まれたら、ボコボコにされかねない。下手をすれば、殺されるかもしれん。逮捕され刑期を終え賠償金を払い続けているといっても、恨みを消せない奴らは多いからな」

「なんやてっ!」

「何や、ホンマのことやないか。本気で許しとんのは辰馬だけや。少なくともあそこに来とる元也なんかは、全く認めてへん」

 興奮したのか標準語から昔の関西弁の口調で栄太が言い、咲季からずらしたその視線の先には、丁度酔って大声を出している一人の男の姿があった。

 元也だ。それを辰馬が懸命に宥めていた。

「辰馬は甘いんや! 俺が今日、わざわざ関西から来たんは、合格祝いの為だけやない。奇跡的に目覚めた後も、俺は駆け付けて言うたやろ。あのボケを叩きのめさせてくれって」

「分かったって。もう耳タコや。せやけど俺が眠っとった間やって、お前らは敵討ちなんてアホなことをせんと、我慢してくれとったやないか」

「それは晋先生や準に、勝手なことをしたらアカンて言われとったからやないか。総長の辰馬が目を覚ますまで待つんやってな。それで何とか耐えとっただけや」

「そうらしいな。二十九年間もよう辛抱した。そんだけ出来たんや。もうええやろ。あの震災の日からでさえ、十三年も経つんやぞ。抗争の日から数えたら、四十二年以上やないか」

 辰馬がそう言い聞かせようとしたが、は聞く耳を持たなかった。

「アカン! 俺は我慢ならん! 何で今日は来てへんのや! これからあいつを呼び出してくれ! 辰馬の言うことやったら何でも聞くんやろ!」

 元也は辰馬が意識不明になった後に後を継ぎ、魔N侍の総長となった。そして敵討ちの為に犯人探しをし始めたが、先に警察が健吾を見つけ逮捕した為、振り上げた拳のやりどころを失ったのである。そこからかなり揉めた。また彼はその後の人生を、大きく狂わせたのだ。

 というのも、辰馬の事件は奪洲斗露異全体の連帯責任だと主張し始めた元也は、その意見に賛同するメンバーと共に、幹部だけでなく既に解散し関係が無くなった奪洲斗露異の兵隊達まで捕まえては叩きのめす、という乱暴な行為を繰り返したのである。

 ただ彼に従ったのは全員ではない。栄太はそれに反対し、辰馬に加え誠も大怪我で入院していた状況もあり、統率力を欠いたチームは二つに割れた。

 その結果、元也を始めとする数人が傷害の容疑で警察に逮捕され、その後少年院に入ることとなったのだ。

 そうして魔N侍は解散した。二年の刑期を終え出所した元也は、辰馬の父に声をかけられ、経営する工場で働き始めた。その後結婚し子供を一人授かったが、やがて酒癖と家庭内暴力が原因で離婚。妻と子は出て行き、それから今までずっと一人暮らしをしていると聞く。

 仕事は、辰馬の父の跡を継いだ次期社長の下で今も引き続き働いているそうだが、ギャンブルと酒に溺れた生活を送っているらしい。暴力行為に加担しなかった栄太が、高校卒業後に東京の大学へ進学し警察官となった今とは、あまりに対照的だった。

「せや、せや! 白海の野郎を呼び出せ!」

 元也に同調するかつての仲間達も騒ぎ始め、それを以前は栄太に付いていただろう人達が、辰馬と同じく彼らの騒ぎを収めようとしていた。

 しかしそこで、とんでもないことを口走った奴がいた。

「そうや! 白海の嫁が来とったやろ! あいつが来うへんのやったら、代わりに嫁をボコボコにしたったらええんとちゃうか! そしたら慌てて駆け付けて来るやろ!」

 その言葉を合図に、多くの目が一斉に咲季がいるこちらへと向いた。これにはさすがの栄太もまずいと思ったのだろう。背中で彼女を隠すように立ちはだかり、大きく首を振った。

 だがそこで辰馬が、かつて総長だった頃を想起させるほどの怒鳴り声で一喝した。「誰や! 今、アホなことを言うたんわ! 出てこい! お前か!」

 少し前まで純粋だった目が細められ、鋭い眼光に変わった。その余りの威圧感に、先程まで騒然としていた会場が一気に静まり返る。

 その中を辰馬がつかつかと前に進み、一人の男の胸倉を掴んだ。そいつは震えあがり、離れた場所からでもわかる程、顔が青ざめていた。元魔N侍の兵隊なら、いくら四十二年の時を経ても彼の怖さは十分身に染みているからだ。

 ただ冷静になれば、六十過ぎ同士の喧嘩は多少滑稽に見える。またあの辰馬が、あれほどまでに回復している状況に改めて驚かざるを得ず、則夫は心の内だけで拍手をしていた。

「おい、辰馬。こいつは勘弁したってくれや」

 元也が間に入り歩み寄ると、手を放した辰馬は次に彼の胸倉を掴んだ。

「ワレが最初にいらんことを言いだしたからやないけ! 俺と殴りおうって、今度はオンドレを昏睡状態にしたろうか! オウ! 永眠させたってもええんやぞ!」

 身長は辰馬より少し低いけれど、六十過ぎとはいえ四十年近く整備工場で働き続けてきた元也の体はがっしりとし、腕もまだまだ太い。

 一方の辰馬は、二十九年もベッドで眠り続けた分、やや見劣りがする。それでも十三年に及ぶリハビリの成果と、元々備えていた人としての気迫の差が出たのだろう。また酔いも一気に醒めたに違いない。

「す、すみません」

 吊り上げられ爪先立ちのまま謝った彼を放り投げ、辰馬は会場に響き渡る声で怒鳴った。

「俺が今、こうして生きとれるんは、ここに集まったみんなのおかげじゃ。そやから今日はこの四十二年間の感謝を込めて招待したんや。せやけど、残念ながら訳あって来られんかった奴らもおる。二年前に亡くなった北目黒晋先生もその一人や。そうした人らの支えを含め、誰一人欠けとっても、俺はこうしてここに立ってはおれんかった。元也もそうや。健吾も同じじゃ。一人一人が俺の体を作っとる。せやからその一人に文句があるんやったら、ボコボコに殴りたいと思うんやったら、先に俺を殴れ! この命を助けてくれたもんが困っとる時、悩んどる時、苦しんどる時、そいつのそばにおって盾になるのが、とっくに失のうとったはずの命を授かった俺の役目やと思うとる。自分で稼いだ金なんぞあらへんし、働いた経験もない。大学に合格できたからと言うて、大した頭やないから知恵もない。俺に出来るのは周りのおる奴を守りたいという気持ちと、この体だけや。さあ、来い。健吾をボコボコに殴りたいんやろ。憎んどるんやろ。そやったら、俺が全部受け止めたる。かかってこいや!」

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