第7話 第2章 2011年3月某日―由美
平日だけれど、由美は病院を訪れていた。大抵は土日のどちらかに来ているが、今日は午後から半休を取ったからだ。
通い慣れた病室のドアを軽くノックし、声をかけて開ける。しかし誰もおらず、個室のベッドには相変わらず目を閉じ、横たわる辰馬の姿だけ見えた。
由美はそばに置かれた椅子に腰かけながら、お約束の言葉をかけた。
「今日も懲りずに来たよ」
もちろん彼は一切応えない。だがそれもとっくに慣れた。もう三十年近く、こうしたやり取りを続けている。
正確に言えば昨年の十二月で丸二十九年が経ち、三十年目に入って三カ月が過ぎようとしていた。それでも彼が今日も息をし、この世に存在しているだけで由美は安心できた。
今から約三十年前、後頭部を殴られ病院に運ばれた彼が、意識不明の重体に陥ったと知った頃は、もちろん目覚めて欲しいと強く願ったものだ。
何とか一命を取り留め脳死は避けられたものの昏睡状態が続き、いつこのまま息を引き取るか分からないと聞かされた時は涙が止まらなかった。
そして毎日のように家の仏壇や、学校近くにある神社やお寺を見かけたら、必ず頭を下げて彼の回復を祈っていたのである。
そんな日々が半年、一年と続き、さらに五年、十年を過ぎ三十年目を迎えた今となっては涙などとっくに枯れ果て、眠ったままの彼が当たり前の姿になっていた。
現実問題、十八歳の彼が来月で四十八歳になろうとするまで生き延びている状況自体が奇跡なのだ。脳に外傷を負い植物人間になった大半は、六か月以内で死亡するという。それを越えたとしても、せいぜい二年から五年が限界だというのが通説らしい。
しかし彼はそんな常識を
もちろんここまでの
彼が病院に運び込まれた際、出血が激しく脳に大きな損傷を負っていたという。その為、大変な手術だったと聞いている。
ただ幸いだったのは目撃者による通報が早く、さらに対応したのが脳外科専門の優秀な医者だった点だ。もしそのどちらかが欠けていたら、半年以内には命を落としていただろうと耳にした。
さらに最長と言われる五年持ち
その二つを克服する為に心血を注いできたのが、担当医の北目黒晋先生と第一発見者の北目黒準の親子である。
代々医師一家で裕福な家庭を築いて来た北目黒家が、彼の治療を全面的にバックアップしてきたからこそ、神が味方したと言っても過言ではない。
本来、事件が起きた年度末に別の病院へ赴任予定だった晋先生は、辰馬の病状が安定するまではと在任期間を延長した。その上、整備工場の経営者とはいえ決して裕福ではない辰馬の家庭の経済事情を
それでも不足する医療費の捻出の為、自らの資産を投げ打ち基金を創立し広く寄付を呼びかけ、かつ地元企業の支援や医療機関との特別協定を結ぶ等、ありとあらゆる手を尽くして来たのだ。
その後病院も点々とした。最初の二年は当初の羽立大学病院で治療し、もっと医療環境が充実する大阪の病院へ、晋先生と一緒に移って五年、そこから大阪の別の病院に五年、さらに東京の病院へと移り五年、そして今の病院に転院して十三年目になる。
その間に当時四十八歳だった晋先生は、この病院で担当医を二年続けた後に六十七歳で退職し、今は都内だが郊外にクリニックを開いて地域医療に貢献している。
後を継いだ新たな担当医は、彼の息子で同じく脳外科医になった準だ。彼は辰馬の容態を心配しながらも父親に任せ、自らは合格した東大医学部で学び脳外科医となった。その後海外を含めいくつかの病院で修業を重ね、三十六歳で今の病院に辰馬が転院すると同時に赴任し、父親の補助を務めた上で担当医となり現在に至る。
この二十九年余り、彼ら親子はまさしく辰馬を生かし続ける為に、医者としてだけでなく経済的援助者としてもずっと寄り添って来た。これまで北目黒家が費やした寄付は、軽く億を超えるだろう。
だがもちろんそれだけで補えるはずもない。主に支えたのは、かつて辰馬に助けられた人々やその知人、また彼の功績と生命維持に賛同する多くの方による、今なお絶え間なく続く寄付によるものだ。額は僅かだが、当然由美もその中の一人である。「先月来日した上野動物園のパンダの名前が一昨日発表されたばかりだから、今日はパンダのお話ね。オスはリーリー、メスはシンシンだって」
そう声をかけつつバックから本を数冊出し、その中で今月発売されたばかりの雑誌を広げ、そこに書かれた特集を由美は読み上げた。
「日本に初めてパンダがやって来たのは、一九七二年十月二十八日。それから二〇〇八年にリンリンが亡くなるまで、上野では不在になっていたジャイアントパンダがようやく、」
そこまで口にしたところで病室のドアが開いた。
「あれ。当麻さん。今日は金曜日だよね。また休みでも取ったのか」
入って来たのは担当医の準だ。後ろには女性看護師もいた。
「そう。昨日は主な大学の前期合格発表があったでしょ。合否が出揃って一段落したからね」
「ああ、そうだった。進学校の教師は大変だな。今は高三のクラス担任もしているんだろ」
「そうなの。でも今年のうちのクラスは割と成績が良いほうだったし、学年全体でも合格率が順調だから、ホッとしている。まあ、まだ進学先が決まっていない子は数人いるけどね」
「卒業式はもう終わったんだろ。あっ、でも終業式はまだか」
彼は看護師と一緒に、辰馬の容態を表示する機器の数値を確認しながら話を続けた。
「うん。でも担任していたクラスの生徒達は見送ったから、後はただ出るだけ」
「だけど四月からはまた、新しいクラスを持つんじゃないのか」
「そう。またこれからの三年間、受験に向けての指導が始まると考えたら、身が引き締まる思いよ。特に私が担当する国語は、全教科の結果を左右しかねない重要な科目だからね」
「確かに。問題文の読解力がないと駄目だからね。特に難関校になるほどその傾向は強いし」
「そうでしょ。侮られがちだけど、東大理Ⅲに現役合格した北目黒先生が言うんだから間違いないよね。成績優秀者の多くは、読書習慣が身についているってデータだってあるし、実際受け持った生徒達を見ていてもそうだから」
国語が重要なのは読解だけではない。他の科目でも、例えば英語の和訳といった記述問題は、大学受験だとよく出る。そうした問いを解く際、文を分かり易く構成することも大切だ。
また受験は人生のゴールではなく、どれだけ知識を頭に入れているかも大切だがそれだけではない。それは量や時間と質を問いつつ理解力の程度を試し、社会に出た後に発揮可能な力を計る一つの指標でしかないからだ。
優秀な大学出身者が比較的給与の高い企業に就職できるのも、期待に応えられる確率が高いと見込まれただけに過ぎない。最も大切なのは、その先にどんな働きを見せるか、だと由美は思っている。
「進学校の先生って大変ですね。ところで今日はパンダのお話ですか」
看護師にそう尋ねられた。脇に置いた本の表紙を見たのだろう。
「そう。一昨日、上野のパンダの名前が発表されたでしょ」
「ああ、リーリーとシンシン、でしたっけ。可愛いですよね。早く見に行きたいな」「今月の二十二日から一般公開される予定だけど、春休み中だし最初だからすごく混むでしょうね。人が多いのはあまり得意じゃないから、私はテレビだけでいいかな」「何を田舎もんみたいなこと、言っているんだよ。こっちへ来てもう長いだろう」
準が苦笑いを浮かべ、乱暴な口調を投げかけて来た。かつての同級生というだけではない、長く特別な付き合いならではの距離感だ。
「一七草君が前の病院に転院してからだから、もう十七年になるかな」
「もうそんなになるか」
「その間、ほぼ週に一回は枕元で色々なお話をされ続けているんですよね。凄いですよ」
その言葉に準が首を振る。最近担当になったばかりの看護師は、余り事情を把握していないらしい。だからなのか、説明をし始めた。
「いやここだけじゃない。前の病院、その前の前の病院でも、だ。彼が昏睡状態になってからの二十九年余り、ずっと続けているんだから大したもんだよ。しかも関西から東京へ転院したのを機に向こうで勤めていた学校を辞め、こっちの学校へ転職した位だからな」
初めて聞いたのだろう。目を丸くした彼女に対し、由美は自虐的に先手を打った。「そう。私って、嫁にも行きそびれて四十八まで独身を貫いている、筋金入りのストーカーなの。だからって何も悪さはしないし、害はないから気味悪がらないでね」「そ、そうですか」
と引き
「そんな事を言ったら。俺や親父はどうなる。二代続けてタッチャンの容態を見続けているんだ。それに睡眠学習みたいなことをしたら効果があるのかな、って言いだしたのは俺達だし。それを当麻さんはずっと実行してくれているだけだから」
その通りだ。最初は辰馬の目が覚めるのを祈り見舞いをしていただけだったが、やがてそれだけでは物足りず、自分に出来ることはないかと彼らに相談したのがきっかけだった。
当時高校を卒業し、地元の羽立大学文学部に入学した由美は、毎週のように病室を訪れていた。そんな様子を見かねた晋先生や、東京に住み大学へ行きながらも毎月のように羽立に戻り、同じく病室を訪ねていた準と話し合い、折角ならと考えたのが読み聞かせだ。
ベッドに横たわり動かないままの状態が長く続けば、当然、全身の筋力は衰える。その為、血行不良などを解消する為のマッサージや足腰の関節を伸ばすストレッチなど、病院では様々な方法を試みていた。
しかしそんなリハビリに素人の由美は手を出せず、出来てもせいぜい手足を
彼らは後に電気で刺激を与え筋力の
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