3.【アブソリュートゼロ】
アメリカ合衆国アラスカ州に雨が降るのかは分からないが、兎角俺の肩辺りには小雨が降り続いていた。しとしと冷たい、けれど音は無い。すべての落下音は堅い地面に吸い込まれて消えてしまう。
雨霧の最中、灰色の石畳を急ぎ足で踏む。道は永劫に続くかの様に思えたが、先は見えずとも俺は進まねばならない。何故なら俺は、とある文豪の愛した旅館に泊まる為に、小石丸滝神社という場所に向かわなければならないからだ。何故自分が傘を差していないのかとか、膝辺りに冷たさを感じないのは何故なのか、とか諸々の整合性はやはり取れていないのだけれども、兎角俺はそこへ行く気になっていた。旅行なんて久々だったから無意識の内に高揚していたのかもしれない。
俺は一人で此処へ来たはずだが何故かツレがいるようだった。俺を置いて、石畳をタップしながら歩いていくそいつに、俺は追いつこうとして足をせかせか動かす。するとなんだか滑るみたいにぐわっと加速して、むしろそいつを置いて行ってしまった。慌てて振り向くも後の祭りで、最早ツレだったその人は豆粒の如く、彼方で小さく縮んでいた。俺は追いかけることを諦めて、雨宿りの出来る屋根の下で寝転び、彼もしくは彼女を待ち続ける。うつ伏せの姿勢で片頬を木製のデッキに擦りつけながら独り言ちる。『何故こんなことになったのだろう?』
そこはどうやら喫茶店のテラス席らしい。何処からか流れてくる音楽はノリの良いポップスで、俺は無意識のうちに歌詞を口ずさむ。そういえばこんな曲流行ったな、とか思った辺りで、歌手が噛んだ。録音なのに。
苦々しい気持ちが底の方から溢れてくる。巻き上がる水中の泥みたいに『ああこいつ大事なところでミスったな』という上から目線な思考が現れた。
それが契機であったのだろう。
一人の男が近づいて来た。
そいつは調子のよい褐色に焼けた健康的な男で、快活な笑顔を貼り付けて、雨の中自転車を漕いで俺のところまでやって来ると、快活な笑顔のまま『お前だーーーーーーーーっ‼』と叫んだ。
そうか、俺だったのか。全ての元凶は俺だったんだな、と納得し、寂寞を背負うと同時に酷く、深く、納得がいった。
それからその自転車は俺へと突撃し、俺を再び雨天の下へと転がす。俺は転がされたままの姿勢で、大理石のベンチに座って向かい合っている二人の紳士を発見した。俺は叫ぶ。『ジョニー! デイビット!』。ジョニーとデイビットは俺の方へ向き直るのだが、頭の上半分が切り落とされている。絶対生きた人間ではない。曇った暗黒がモザイク処理みたいに二人の断面を塗り潰していた。俺はその姿に怯む。怯んだ刹那ジョニーとデイビットは俺へと迫る。超速度で迫る。意識し得ない速度と言うよりは意識外の速度といった感じで俺に迫る。画面の外から現れたデイビットは俺へと飛び掛かった。俺は目覚めた。
細かい汗が肌に張り付いていた。
くらくら視界が縮んで、伸びて。多分酸素が足りていない。
見慣れない天井を背景に、結希が心配そうに俺を見ていた。
アラスカ旅行一日目の目覚めは最悪だった。
──────────・・・
なんで我が家には旅行雑誌が一冊たりとも無いのでしょーかとか、俺に文句を呈されても困る。結希はぷりぷり怒っていた。
「別に最先端の雑誌じゃなくたっていいんです。当時の記憶を思い出して懐かしくなれる素晴らしい記録媒体じゃないですか。捨てなくたっていいでしょう!」
怒る結希に俺は言う。引きこもり抱えて旅行になんて行けません、と。
「本当にすみませんでした」
「怒ってないと言っているのに」
土下座の作法は多分おかあさんといっしょでは教えないと思うので、何か教育に悪い作品を見たのだと思う。
指先の方向から黒髪の流れる方向まで完璧に揃えられた土下座は、謝意よりも圧巻の意を覚えさせた。数舜その形状に感動した後に、冷たいフローリングで風邪をひかれても困るので脇の下に腕突っ込んでそのままベッドに放り投げる。おぶえぇとかよくわからない悲鳴を挙げて布団の上でゴロゴロ転がっていた。多分、楽しそうだ。
そのまま掛け布団を投網の如く放り投げ、獲物がもぞもそ動いている隙に俺も一網打尽にされにゆく。潜り込んだ薄闇の中で結希と目が合った。彼女は己に覆いかぶさる掛け布団を引っ掴み、きゅっと己を小規模に包む。それから開けた瞳孔を爛々と輝かせた。
「もしや、遊びますか?」
「寝るよー」
「あはい」
肩を寄せ合ってあたたかく眠る。一人用のベッドだけれども、狭さよりも温かさがずっと大きかった。
刻々と薄れてゆく意識の中で考えるのは、隣で嘘の寝息をたてる彼女のことだ。
結希は眠る必要が無い。
だから俺に合わせて寝たフリをしているこの間にも、何かを考え、過去の記憶と向き合ったり、明日の世界を思い描いたりしているのだろう。したいこと、やりたいこと、やってみたいこと。心の中に湧き立つ衝動を全部ぐっと我慢して、ニンゲンに合わせてくれているのだ。
一度そういう考えが自分の中に発生してしまうと、もう二度と、それを意識せずに生きていた自分には戻れない。心的疼痛に堪えられず起き上がると、やはり結希も起きた。やっぱり、寝てなんかいない。
カーテンの隙間から射しこむ冬の月光が、白い境界線となって俺たちを分かつ。
ぱっちり開いたお目目が俺を見て、不思議そうに丸くなった。俺はつい笑う。結希もへらっと笑った。
「なんでもない。おやすみ」
「はいおやすみなさい」
翌日、会社の帰りに旅行雑誌を3冊買って結希に渡した。喜んでくれるだろうかとか、初めてのプレゼントがこんなんで良いのかしらとか、俺の心臓を覆った薄手の不安を、しかし吹き飛ばすくらい結希は喜ぶ。ちょっと擬態が崩れてぽちゃぽちゃ言うくらい喜ばれた。
『今夜はこれを読みます』と意気込んで、パジャマ姿で雑誌を抱えた結希はかわいかった。リビングで彼女と別れ、久しぶりに一人で眠る。ベッドはいつもより広く、寂しく。けれども彼女が喜んでくれていると思うと、不思議と寒くはなかった。
目覚まし時計に起こされて瞼を擦りながらキッチンへ向かうと、珍しく朝食はまだ出来ていなかった。外はもう明るいのにキッチンの換気扇の明かりが点いていること、その下で頬杖を突いて雑誌を眺めている結希を見るに、彼女は灯りの下で、一晩中それらを熟読していたらしい。俺は笑う。幼い頃、親に買ってもらった図鑑をずっと読んでいたことを思い出す。
一緒に朝食を作り、一食ずつダイニングテーブルへと運ぶ。
向かい合って手を合わせ、黙々と朝の日常を過ごしてゆく。今日の朝食は冷凍しておいた白米と漬物と納豆と味噌汁だった。健康に良い発酵食品が並んでいる。
この空間に於いて、俺たちには日の下で過ごす安穏が際限無く許されていた。
結希は行儀が良いので食事中は本を読まない。彼女は、より良い人間のより良い所作を目指して、自分の衝動や思考をコントロールしている。コントロールできることが素晴らしいことなのだと信じていて、多分それは正しい。
けれども、抑えつけるばかりがコントロールではない。
そわそわと忙しない結希に厳しくする理由など、俺には元より在りはしない。
「旅行雑誌どうよ。気になる場所とかあった?」
問い掛けに結希は肩を震わせた。箸を置く。静かに。静かであって欲しいと祈る様に。静寂が望みであるかのように。
つまりは黙れと言うように。
「はい。見つけました」
俺が馬鹿であることは最早提示された公開情報で、そんな自分と四半世紀以上付き合って来て、そろそろ慣れた頃だった。俺は学習しない。過去を悔やんで涙を流すが、それを未来に活かすことは決して無い。
「えー見せて見せて」
だから平気な面で訊くのだ。結希の言葉のみを見て。俺は愚かしくも問いかける──問い詰める。無自覚で無防備で無能な狩人になる。
吐いた唾は呑めず、流した血は戻らない。訪れた冬は帰らない。溶けて消えるだけなのだ。
寂光が瞳を貫く。
桜色の唇が啼く。
「私たちは寒さに少し弱いようです。冷凍庫の氷に触って気付きました。身体が動きが鈍くなるんです。頭がぼやっとします。冷たい間ちょっとだけ、私は生きることから遠くなる」
うるさい音が鳴っていた。誰よりも近い隣人の、心臓の音が。漠とか爆とか鳴っていた。それは決して緊張とか悲しみ故の拍動ではない。精神的高揚故の血圧の上昇と赤の収縮、解放。無意識の水中に押し込めて封をしたはずのもう一人の自分。もう一つの願い。
こっちの俺は、結希と一緒に生きていければと、ただ望んでいた。
「日本よりずっと寒い場所に行けば、私は凍って死ぬのではないでしょうか」
けれども得てして俺の望みなどというものは、常に、大好きなその人の一瞬の心の傾きで、いとも容易く凍り、砕け、爆ぜては溶けて。
俺たちを彼方極氷の地、アラスカへと駆り立てたのだった。
──────────・・・
アラスカ州フェアバンクスに宿を営んでいるケヴィン・アルバートは、長旅でケツを痛めた俺を労い、宿に着くやいなや煌々と燃える暖炉に薪を継ぎ足してくれた。きちんと乾燥処理が施された薪は、火炎に放り込むと下駄みたいな音をたててから静かに燃える。火花の散る音と、乾いた気の割れる音は似ている。こういう楽器があっても良いんじゃないかってくらい理想的な火の音が、意識の背景を彩っていた。
燃える薪からは気持ちの良い香りがした。多分森の香りの一種なんだけれども、それが燃えることによって醸し出されているというのが妙な感傷を齎す。
冬の雀みたいに膨れた極々厚手のジャンパー、プラスアルファベータガンマくらいをハンガーに掛けて、俺はケヴィンの勧めでロビーのソファに横たえることにする。石油ストーブを挟んで向かい合った席では、結希とケヴィンが楽しそうにおしゃべりしていた。
一般大学卒業レベルの英語しか喋れない俺と、そもそも英語という概念をあまり知らない結希に、ケヴィンはその立派な髭を紙縒りのように捻じり上げながら、丁寧な英語を使ってくれる。ゆっくりゆっくり、一音一音、分かりやすい語彙で。そういう接し方が彼にとっては自然なようだった。
彼は英語とスペイン語と中国語が喋れて、今フランス語を勉強中らしい。『世界中の人と友達になりたい』とか、多分そういうことを言っていた。彼は世界中の人々にアラスカの文化的価値観と星空を見せて教える代わりに、そのお客が知っている一番良い言葉を一つ教えてもらうのが趣味だと言う。俺も、結希も考えておかなければならない。日本語に於いて一番綺麗で美しくて誰にでも適用できる哲学的な要素を含有する素晴らしい言葉を、一つ考えておかなければならない。
俺が美しい日本語について悩んでいる間に、結希は彼とおしゃべり出来るようになっていた。喋ると言っても英語で話すわけではない。身振り手振りとなんとなくのニュアンスで、彼と彼女はグッドとかイエスとかノーだけで楽しそうにはしゃぐ。疲れ果てた俺とは違って、流石に人間離れした生命力があった。二人の交流は明るい光を世界に零し、ダウンし切った俺にも元気をくれたように思える。思考力の根っこは少しだけやる気を取り戻し、俺を思索の世界へと引き戻す。考えるのは結希のことだ。最近はずっとそうだ。ずっと。
結希は、俺以外の人間と話すのは初めてなのではなかろうか?
テレビの中身の人が教えてくれる知識、常識は彼女の思考を支え、誰かを愛することと大切にすること、そして己を抑えることを与えた。それ自体は素晴らしいことだと思う。何も画面越しに得た知識には意味が無いなんて言うつもりは全く無い。むしろその場の空気に流されずに客観的な視点を持つという点では、液晶を挟んだ方がストレートな意見として呑み下せると思う。けれども──
──俺は結希の姿を通して、全く違う誰かのことを思う。俺が守って諦めて、最後に犠牲にした一人の女性のことを考える。
世界には俺以外にもたくさんの人がいて、たくさんの考え方があって、それは決して清らかなものだけではないし、けれどもそうしなければならない理由もあって、俺たちの腕の短さと手のひらの狭さを知る羽目になるから、大抵の場合【知る】という行為は全然幸福には繋がらない。知らなきゃよかったと頭を抱えても、記憶を消す為にそのまま両手を万力の如し、ぐしゃっと逝ける奴は少ない。てかいない。
生きる世界は綺麗なばっかりじゃない。当たり前なんだけど、恵まれていると忘れそうになる。で、乾いた部分にはよく水が沁み込むのと全く同じ原理で、幸福な楓子と俺は不幸な世界をまるきり忘却していたから、唐突に吹き付けた辛い現実でぺっきりあっさり、折れたのだ。楓子は己を監禁し、俺はそれを許した。
許したと思っていた。彼女を甘やかし、ぬるま湯に浸けて、縛る縄を緩くしたと思っていた。けれども今になって思うのだ。
あの思いやりという形状をした衝動は──もしかすると。庇護欲だとか。独占欲だとか。そういう薄紫から始まって、いつしか赤黒く染まってしまう感情に過ぎなかったのではないか。
彼女を閉じ込めていたのは、俺だったのではないか?
鈍重に沈みゆく意識の海中でケヴィンが俺へと近づく。にっこにこで横たわる俺の肩に手を添えて、彼は言うのである。スコシダケ覚えているニポン語で語る。
『上を向いて歩こう』と。
曰く、ディスイズベリーグッドスペルとか、なんとか。
なんだそれとか言う気にはならない。誰に教えてもらったんだよケヴィンとか、カジュアルに起き上がる気力も無い。ケヴィンの何でもない言葉、もしくは呪文に俺は泣きそうになる。アラスカで泣いたら涙は凍るだろうか。そしたら、多分上を向かなくても涙は零れない。埋葬された過去に向かって汚濁の雫を落とそうと、極氷の大地はやさしく受け止めてくれる──もしくは受け止める事すら許してくれない。凍り付いた温度は水分を伝って伝播し、眼球を釘付けに凍結させるのだろうか?
旅路はどちらへ向かうだろう。右方か、左方か。上か下か? 生存か死亡か。復讐か、和解か。俺にはまだ分からない。結希にも分からない。ケヴィンも知らない。アラスカの大地だけが知っている。けれども知らないからって答えが出せないわけじゃない。答えないことが許されるわけではない。
俺だけが知る事情──俺だけが発見した仮説が、仮に事実であるならば。時間が無い。
【柏木結希】という異空生命体を中心に始まった種の進化。適応? は、既に彼女の意志すら超えて世界を侵し始めている。
俺は決める。心に鍵を掛けて、そうするのだと定義する。俺はそういう存在になったのだと決めつける。明日の予定という不定形の未来を、運命なのだと再定義する。
明日オーロラが見えたのならば、その日は決意の日だ。
俺と結希と楓子と世界について、一つの解答を出さねばならない。
熾火の膂力に揺らされて眠る。微睡みの世界へ落ちてゆく。
アラスカ旅0日目、終了
黄身を喰らう 固定標識 @Oyafuco
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。黄身を喰らうの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます