黄身を喰らう

固定標識

1.【インヴィジブルブラッド】

 マイスウィートハニー柏木楓子が折れ曲がって死んでいた。愛する人が折れ曲がっていた。長座体前屈の反対に。脊髄の真っ直ぐな気持ちを否定して。一人の人間が畳まれていた。

 動かない楓子を包んでいたのは、何かぶよぶよとした半透明のゼリーのかたまりで、色見はカビの生えた卵白みたいだ。そいつがべにょっと動くたびに、枯葉の上を歩くみたいな細かい音をたてて、内部に囚われた彼女の、どこかの組織が破壊されてゆく。血は出ていなかった。いや、多分とてつもない量の出血があるのだろうけれども、それらは血管の亀裂から残酷にも噴き出た瞬間、ゼリー状の物体に吸い尽くされて、色も匂いも、血液を血液と定義する全ての成分を失わされているかのように思えた。

 家鳴りが如きか細い音が、静かに部屋の中を満たしていた。

 俺の彼女がバケモンに襲われて死んでいた。


 ──────────・・・


 柏木楓子の身体に黒目が帰ってきたのは精神的衝撃の十秒後だった。

 本当に悪いタイミングで俺は帰って来たのだなと場違いにも思う。もう少し早く仕事が終わっていれば一つの命を助けられたかもしれないし、もう少し長引いたのならば、俺は彼女の中身が人類ではないことなど全く考えずに別れ話を切り出せた。多分それが一番上手いやり方だったのだ。

 けれども尋常の如く上手く行かない現実として、目の前で砕けて死んでいた人間は蘇った。彼女を覆っていたゼリー状の物体は、土くれに吸い込まれる雨みたいに、毛穴とか鼻とか口とかから彼女に入り込むと、丸ごと彼女の中に隠れてしまった。人間の中にあんな量の空洞くらやみは無いから、俺は嗚呼融合したんだって悟る。ハンバーグのタネに卵を混ぜて捏ねるみたいに、油と酢を混ぜるみたいに、もう完全に一体化してしまっていて剥がすことは不可能に近い。それよりも食ってしまった方がよっぽど理解の消化が良い類のやつだ。しかし後に俺は融合という単語が適切でないことも知る。何故なら【柏木楓子】の身体の主導権は、最早完全にスライムモンスターにあったからだ。

 楓子の折れ曲がった身体は再生し、裂けていた皮膚は繋がった。今しがたまで痛々しく赤かった裂け目は、恐らくは電子顕微鏡で観察しようと繋ぎ目を見つけることは出来ないのだろう。傷という奴は、例え治ろうと傷跡が残るから傷なのであって、じゃあ痕跡も残らないし過去を否定するコレは一体何だったのだろう。

 ──だから俺は夢を見ているのだと思ったし、もしくは幻覚に惑っているとか、更には既に俺が殺されていてin水槽の脳味噌を弄られてるんじゃあないか、とか色々な妄想に走ってみるのだけれども、彼女(彼女じゃない)は、彼女のままの顔で、しかし彼女らしからぬ清廉な動作で頭を下げた。綺麗に伸びた腕と、直角に曲がる腰は定規で引いた線みたいに整っていて、俺はも一度悟るのだ。あ、コイツ偽物だと。本物はもっと汚くて自堕落で傍若無人で怠惰が服も着ずに歩いて、いや歩いてもいないような精神的要介護者だったから。

 そいつは彼女のままの声で喋るのだけれども、何処か余所行きな感じがした。いつもよりずっと綺麗に聞こえた。コイツの声ってこんなに綺麗だったっけと、一瞬涼しい風に吹かれたような感じで呆ける俺に、言う。唱える。

「何故お助けにならなかったのですか?」

 見た目と言語は日本人だし人間だけれども、どうもやはり同じ感性を持っているわけではないらしい。殺したのはお前の癖に、なに故俺を責めるのか。サイコパス診断やってるんじゃねえのよ。連ねる文句考えつつも俺は想う。想わずにはいられない。何故助けなかったのか。何故手を伸ばさなかった? 何故一切合切を諦めたのか。

 バケモンが続ける。彼女の、過去の在り方をなぞるように。丁寧に言葉を紡ぐ。

「親しい人が亡くなった時には亡きがらに縋りついて生還を望むのが人間だと学びましたが、貴方は人間ではないのですか?」

「そんなシーン中々ねえぞ」

「環境ビデオで学びました。確か映画と呼ばれるものだったと思います」

「なるほどね……」

 間違った教材というのは得てして人に不都合を齎すものだが、まさかモンスターにも適応される法則だとは思わなんだ。

 じわじわと、安穏な雰囲気が漂ってきた。釣られてほっと息を吐くが、二酸化炭素は喉に詰まって中々漏れない。社会の首輪を外して、シャツのボタンも外す。靴下も脱ぐ。それからお菓子のパッケージだらけのベッドに尻を落ち着けて、立ったままのバケモンを見上げる。それからやっと息を吐き、滔々と説く。説明する。

「そういうのはさ、相手が人間の形を保ってたら『生きててくれ!』って思うのかもしれないけど、真っ二つに折れ曲がってたらもう、諦めるんじゃないかな」

「そうでしょうか」

「そうだよ」

 恐らくそうである。

 俺が仕事から帰り、ただいまーと虚空に向かって小規模に叫んだ。でも全く返答は無い。俺もそれに慣れていたから気にしなかった。そういうものであると、もう何年も前に了解し終えていた。

 でも今日だけは、彼女に伝えなければならないことがあったから、いつもならそのまま飯食ってシャワー浴びて寝てしまうところを、廊下を折れ曲がって彼女の寝室のドアを開けた。

 そうしたらゼリー状の化け物に呑まれて、浮いて。彼女は真っ二つに折れ曲がっていたのだ。あの状態でまず相手のことを心配できる人間なんていない。だって明らかに死んでいるんだから。俺があの場から逃げなかったのは、多分なけなしの愛情故だ。

 希望というものは、微かに片鱗が見えるからこそ希望なのであって、尻尾も見えない希望なんてものは、ただの現実逃避に過ぎないのである。見るからに死んでいる、例えば精肉店に並んだ生肉を見て、もしかしたら生き返るかもなんて妄想するのは、子どもか、生き辛い人だ。

「──でも、」

 俺の内心の納得を知らずに、彼女の形をしたバケモンが喋る。胸の前で手を握って、何かに祈る様な姿勢で控えめに唇を揺らす。細い眉が歪んでいた。真っ白な肌に困惑のシワが浮かんでいた。ガリガリのあばらがシャツの弛み越しに影を作っていた。完璧に彼女だ。全身彼女だ。全身全霊で彼女だ。完璧すぎて偽物っぽいくらいに【柏木楓子】だ。だから

 その姿が齎す言葉という名の一瞬の永遠は、俺の脳味噌を軽くシェイクするくらいの威力を帯びている。

「でも貴方の目は、最初からこの女性を諦めていたように思えました」

 殴られた衝撃は幻想だけど、確かに俺の頭を強く揺らした。ぼんやりと揺らぐ脳裏の庭で考える。その言葉の意図は、何だろう。

 糾弾のつもりなのだろうか? 善人のつもりなのか? わるいスライムじゃないとでも言いたいのか? もしくは、純粋に人間の生態についての知識欲を満たそうとしているのか──俺は知り得ない。こいつのことなど何も知らない。けれどもどちらで在ろうとも、言葉というものは何時だって受け取る側の心持で幾らでも色を変えてしまう。赤にも青にも黄色にも。そんで、全部が止まれと叫ぶ。

 自分の心臓は落ち着いていた。そう逸っているわけじゃない。ただ、その一撃、一擲が、内臓の深くまで響いていた。貫いていた。時計の針の鼓動のように思えた。タイムリミットの様に、それは刻々と鳴る。

 形而上では無く形而下の概念として、恐らくは魂とか在り方とか、そういうスピっちゃってる物を、しかし馬鹿にし切れなくって信仰して平伏している部分──が、断罪の鎖のように肉を穿つ。

 下水溝が流れた。

「俺、もうお前のこと好きでも何でも無いし」

 バケモンが目を見開いた。

 柏木楓子が捨てた八年という歳月は、何かを好きになるには十分過ぎて、同時に何かから興味を喪うのにも十分過ぎたのだ。

 高校生の頃、毎日が輝いていたあの季節に出会った【柏木楓子】という女性は、同じ大学を卒業し、同棲し、互いが社会に出た後に、ぺっきりあっさり心を手折られて、深いふかい引きこもりになった。俺は彼女が好きだったし愛していたから、可能な限り寄り添って、俺に出来ることは何でもしたつもりだった。金銭的免除も精神的介助もした。外に出られない彼女の代わりに色んな所へと走った。愛に休みは無い。そして給金も発生しない。そんな無償の献身こそが愛の証明だと信じていた。この苦労の点は、いつしか互いに繋がって、彼女を地の底から救い上げる大いなる御手になるのだと。俺は知っていた。そうなのだと分かっていた。了解していた。

 けれども彼女は立ち直ること無く、自室を怠惰な水で満たし続けた。ゴミと埃と停滞した時間だけが冷水のように溜まった部屋の中で、彼女は生き続けた。植物のように。石のように。まるで冷たい死人のように。

 俺は思う。思った。思ってしまうし思ってしまったし、今でも思っている。

 俺はもう十分に耐えた。

「今日さ、別れ話しようと思ってたんだ」

 正直。

 正直。

 正直なところ。

 バケモンにありがとう。


 ──────────・・・


 家に帰ると録画してある『おかあさんといっしょ』が常にリビングで流れている。明るい音楽と明るいおにーさんおねーさんが、子どもたちと元気いっぱいに体操している。

 偶に人波からはぐれてつまらなそうにしている子もいる。でも大体は楽しそうだ。マジョリティの本質がまざまざと報道されている。社会の縮図だなあ、とか思いながら焼き鮭をほぐし摘まんでいると、おねーさんがはぐれスライムに手を差し伸べて、その子もまんまと笑顔になった。なんだ、社会なんかではない。ここは見事な遊園地だ。俺は平和に向かって微笑む。

 そしてテレビの前を陣取って、子どもたちと一緒に体操している見かけ成人女性は、事実上のはぐれスライムであった。

 彼らは惑星間を飛び回ってはその星の種族を滅亡させる侵略的外来異空生命体である。おいじゃあ地球がピンチじゃねえかと皆思う。俺も思った。けど実は、宇宙という奴は俺たち地球人が観測出来ている領域の、ざっと十億倍の広さがあって、しかも多層的に重なっているらしい。そしてその宇宙ごとのズレが、時間という流れを生み出す──スケールのデカい宇宙の話はショート動画で見るに限るから割愛するけれども、彼らが次の目標に選んだのは地球の三十倍デカい氷の惑星で、そこには食料がわんさか生きている。地球生命体は惑星間戦争にも巻き込まれてない辺境の星の生物のくせに、なんか謎に強いので地球なんか襲ってもタイパが悪いらしい。

 宇宙人もタイパを重視する時代である。

 彼らは光に乗っかって旅をすることが出来るのだけれども、その旅路の中でうっかり足を滑らせた彼女(彼女じゃない)型スライムは、無事はぐれスライムとなり、ふわっと不時着した結果、二カ月の放浪期間を経て、腹が空いて腹が空いてしゃーなかったので楓子を喰ったのだ。

 楓子を消化し終えたら次の得物は俺だろうか、とちょっと心配したのだけれども、彼らスライムエイリアンたちが星を滅ぼすくらいに命を貪るのは、光に乗って移動する際に身体の大部分を削られてしまうから、その補強に栄養が必要なだけらしい。また、彼らの王様と王妃様は単為生殖で勝手に自己増殖し続けるものだから、子どもたちに十分な栄養を与える為にたくさんの食料が必要という意味合いもあるらしい。つまり一つの星に一人で定住する分には相当燃費が良い生物なのだ。

 どこまで信頼していいのか分からないが、楓子を消化する前に人類が滅ぶくらいの期間があると言う。

 曰く無害なスライムはぽよぽよ踊っていた。見かけは完全に人だし水っぽいところも無いのだが、激しく運動すると微かにちゃぱちゃぱぽよぽよ聞こえるのが可愛いと思う。

「結希」

「はい!」

 スライムが──結希が返事をした。元気よく。朗らかに。笑顔で。

 楓子の顔がほころんでいるところなど、俺は何年ぶりに見るだろう。

「飯美味かったわ。マジで何でも出来るんだな」

「学習能力には自信があります」

 結希というのはコイツの名前である。俺が与えた名前ではなく、自分で名乗り始めたのだが、何処でそんな大層な名前を学んだのか見当はつかない。こいつは人類の文化を映画(主に洋画)で学んでいるので、多分有名な映画の登場人物の名前から引用しているのだろうけれども、俺は映画をよく知らないし、漢字まで決まっている洋画ってこの世にどれくらいあるのだろう?

 まだ分からないことは多い。

 多いが。

「いつもありがとうな」

「はい!」

 誰かの思いやりに感謝できる日常というものは、存外心地よかった。

「皿洗っとくわ」

「よろしくです」




【リーサルコミュニケーション】に続く。





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