ゆるふわダウナー彼女と世界も忘れて
よんこま
プロローグ
キーン、コーン……
放課後を告げるチャイムが鳴り渡ると、にわかに教室がざわめき始める。
授業中の静謐さから解放されて、これから部活に行こうとする者や、どこかに遊びに行こうとする生徒たちなんかが楽しげに談笑していた。
太一は帰り支度を済ませると、そんな雑踏の間をするりと抜けて、教室の外に出る。
廊下の窓から見える空は、すでに日が傾き始めていて、そんなことが秋の訪れを実感させた。
昇降口で靴を履き替える。
しかし太一の行く先は、彼らとは逆方向。教室棟の裏にある坂道を五分ほどかけて登ると、そこにはかなり年季の入った、二階建ての木造建築が佇んでいた。
先の部室棟を新とするなら、目の前のみすぼらしい建物は旧部室棟と呼ぶのが正しいだろう。
すでに用済みとなったこの場所に人の気配は感じられず、立地の高低差からか校舎の喧騒もかなり遠い。
カラカラと音を立てて、玄関口の引き戸を開く。すると、たちまちどこか懐かしいような香りが太一の鼻をついた。
中に入ると、かつては使用されていたのだろう空の下駄箱が並ぶ。土足厳禁は日本古来からの伝統であるが、誰も見ていないこの場所で殊更気を使う必要も無い。
スニーカーで床に上がると、ギシ……と軋む音がわずかに沈む感覚と共に訪れた。耐用年数を超えた老朽化に少し不安になるが、まだ床が抜けたりしていない辺りはなかなかしぶとい。
焼き焦げたような深い焦茶の木壁に西日が差し込む廊下を歩いていく。
ただでさえ人気のないこの建物のさらに奥の方に、目的地はあった。
『文芸部』
掠れてしまって、そうであると知っていなければ最早読むことさえ難しい文字が表札に掲げられている。そこまでたどり着くと、太一は部屋の戸を開いた。
その名を冠している割に、部屋の中は本で溢れているということもなく、むしろそれらしきものは隅の方に申し訳程度にある本棚一つしかない。
それ以外に特筆するべきものといえば、簡素な机と椅子が二つ、壁に備え付けられた小さな黒板、そして中央に陣取るソファに横たわる制服姿の少女が一人。
「うぅーん……ぅえへへ、ちょこぱふぇ……たべほうだい、だぁ〜……、むにゃむにゃ」
「はは、相変わらず幸せそうだ」
オーバーサイズの白いカーディガンを着込み、栗色のウェーブがかった長髪をソファいっぱいに散らして、すやすやと寝息を立てる少女を一瞥する。
椅子に座ってカバンから取り出した数学のテキストを机に置くと、太一はそのまま勉強を開始した。
最近は、バイトまでの放課後の時間をこんな感じで過ごしている。
「ここでyに代入して……、いや、違うな……こっちか」
相対するテキストの解法を独りごちる太一。勉強に限らず、心に思ったことをそのまま口に出すのが太一の特性である。彼なりに社会通念を気にして、なるだけボリュームは小さめにするよう心掛けているが、かえってそれがブツブツとよく分からないことを呟いているという不気味な印象を周囲に与えることもしばしばだった。
太一自身は、もはやどうにもならないものとしてそれを捉えているし、何より困窮した彼の生活環境ではそこまで他人の目を気にするような余裕もない。
今は状況を変えるためにも勉強を頑張って、将来はしっかりした職に就くのだ。
そんな気概を持って目の前のテキストに取り組んでいると、不意に目の前が真っ暗になった。柔らかな毛糸の感触が少しくすぐったい。
「だ〜れだ?」
「あれ、いつの間に起きてたんだ?」
「……だ〜れだ?」
「最近は少し冷えてきたし、寝るなら毛布でも持ってきたほうがいいと思うぞ」
「だからぁー、だ〜れだって言ってるじゃーん」
「誰だも何も、こんなとこにいるのなんて夕凪くらいしかいないだろ」
太一がそう言うと、途端に視界が開けた。
「せいかーい! 湯島くん、おはよ〜」
太一の視界にフェードインするように、夕凪と呼ばれた少女が悪戯そうな笑みを浮かべながら首を傾ける。
「おはよ〜って、もう午後四時も過ぎてるんだけど……」
「なんだぁ〜? 細かいことを気にする男はモテないんだよ、湯島くん?」
そう言うと、彼女はもう一つの机の上に置いてあったヘッドフォンをまるで眼鏡でもかけるかのような自然さで首につけた。それから再び太一の傍に寄ると、彼が取り組んでいたテキストを覗き込んでウムウムと偉そうに頷く。
「相変わらず湯島くんは勉強熱心だねぇ、関心関心」
「皮肉もほどほどにな」
「よよよ、ひどいよ湯島くん。私は純粋に君のことを労っていたというのに……」
「学年一位の夕凪さんにそんなこと言われても皮肉としか感じませんよ、と」
太一の言う通り、入学してからここまで、校舎に張り出される定期考査の成績表の一番上には、常に同じ名前が並び続けていた。
生徒の誰もがその名前を知っているけれど、誰もその姿を見たことがない。
偶然の重なりがなければ、太一も彼女のことを知らないままだったかもしれなかった。
「あはは〜、まあ私と比べてもしょうがないよぉ。どうやら私、天才ってやつらしいからさ〜」
「まさかガクネンイチノテンサイがこんな辺鄙なところに生息してたなんて、誰も思わなかっただろうな」
「そんな人のことを珍奇な生物の学術名称みたいに言わないでよぉ」
「けど、本当にどうしてこんなところにずっといるんだ?」
「だから、言ってるじゃーん。天才の私には授業なんか退屈すぎて、サボるのに最適だからだーって」
初めて太一が聞いた時から、睡はこんな風におどけながら答えていた。けれど最近は、なんとなくそれだけではないような気がしている。
「どうしたの湯島くん? そんなに見つめて」
「いや、なんとういうか、……邪魔だったりするか?」
「邪魔って?」
「ほら、ここには夕凪の方が先に居ついてたんだし、俺なんかが来て迷惑なんじゃないかと思ったり」
「ふむ」
睡は一瞬考え込むそぶりを見せた後、すぐににへらと笑った。
「大丈夫だよ、湯島くんは結構静かだし」
「静か……でも俺かなり独り言とか多い方だぞ? この間もクラスのやつにブツブツうるさいって言われたし」
「そうかなぁ? 私はあんまり気にならないけど〜。……でも、そんなこと思ってたんだねぇ」
そう言うと、睡はゆっくりとした動きでソファの方に戻り、座り込んだ。そして太一の方を見つめて何やらニヤニヤしている。
「……なんだよ」
「え〜? なんでもないよぉ」
そんな睡の反応に太一は肩をすくめると、勉強を再開しようとペンに手を伸ばした。
「ねえ、湯島くん」
「ん?」
「やっぱり教えてあげよっか。なんで私がここにいるのか」
太一が振り向くと、睡は悪戯そうな笑みを浮かべながら、ちょいちょいと手招きをしている。あまり良い予感はしないものの、耳を貸せという風に解釈した太一はペンを置いて、彼女の方に向かった。
「どうせ誰もいないんだし、内緒話なんてしなくても」
「え? 違うよ〜、この音を聞いて欲しくてさ」
太一が睡の隣に座ると、彼女は自らの首にかけているヘッドフォンを指差した。
「音?」
「そそ。ここから流れる音が、私がここにいる理由だよ」
「と言っても、何も聞こえないけど……」
「あれー? 私には聞こえてるんだけどなぁ……」
そう言うと、睡は太一の首に腕を回した。図らずも女子に抱かれるような格好となり、太一は動揺を隠しきれない。
「ゆ、夕凪、何してんだよ……!」
「いやぁ、距離遠いからかなって。……ほら」
睡がそのまま後ろ向きに倒れ込む。物理法則のままに引き込まれた太一は、抵抗する間もなく彼女の身体に覆い被さった。
突然大きく動いた視界に閉じていた目を開くと、白い首筋とヘッドフォンが映る。ふに、と頬の下部に伝わる柔らかな感触で、そこが彼女の胸元なのだということに太一はようやく気がついた。
「どう? 聞こえる?」
機先を制されて、太一は文句を言うことすらままならない。
「い、いや、何も聞こえ……」
ここまで至近距離になっても相変わらず睡のヘッドフォンからは何の音もしない。けれど代わりに、呼吸と共に上下に揺れる彼女の胸の奥で、とくん、とくん……と刻まれるリズムを太一の耳が捉えた。
「心臓……」
「へ……?」
「なんか、お前の心音っぽいのが聞こえる、んだけど……」
「……ふ、ふ〜ん? そ、そうなんだ……?」
揺れる声音から、まるで想定外の事が起きたと言わんばかりに睡の動揺が伝わる。その反応から、最初から音なんて流れていなくて、からかわれただけだったのだと太一は気づいた。
「何だかよく分からないけど、恥ずかしいからそろそろ離してくれないか……?」
「そ、そうだね……! ………………。そう、だねぇ……?」
了解の相槌を打ちながら、なぜか睡は首の後ろに回したままの腕を解こうとはしなかった。
「ゆ、夕凪……?」
「……もう少しこのままでも、私はいいけど、なぁ……?」
まるで何かを悟られまいとするように、睡にしては矢継ぎ早に言葉を付け加える。
「ほ、ほら! 人の心音ってリラックス効果があるって言うじゃない? 湯島くんも色々頑張ってるし、少し休憩したほうがいいと思って!」
「リラックス……。まあ確かに、落ち着く気はする、けど……」
ある程度時間が経過したことで、羞恥心より本音が太一の口から漏れ出ていた。
「……じゃあ、しばらくこうしててもいいか?」
「うん……。どうぞ〜」
睡の言葉に甘えて、太一はそのまま目を閉じる。
少しは慣れてきたとはいえ、連日のバイトに勉強、家事などに追われる日々は無意識のうちに小さな疲労となって心身に積み重なっていたらしい。
とくん、とくん……と聞こえる緩やかなテンポと温もりはそんな太一にひどく安らぎを与えるものだった。閉じた視界から徐々に意識も遠ざかっていくのを感じる……。
次に気づいたときには部屋の中がかなり薄暗くなっていた。完全に真っ暗になっていないあたり、だいたい一時間くらい眠ってしまっていただろうか。腕をソファに突き立ててゆっくりと身体を起こす途中で、穏やかに微笑む睡と目が合った。
「おはよ、夕凪」
「おはよって、もう午後五時も過ぎてるんだけど〜?」
「はは、細かいことを気にする奴はモテないんじゃないのか?」
「それはほら、私は例外的な美少女だからさぁ」
例の如くおどけて見せる睡を太一がしばらく無言で見つめる。
「ん〜? どうしたの〜?」
「……いや、確かに夕凪は可愛いなと思って」
「ふぇ!?」
急速に赤面する睡に、太一は満足げに笑うと今度こそしっかり身体を起こした。後を追うように睡も起きる。ジト目で見つめる睡の視線にやはり太一は笑ってしまった。
「あ、あー……! からかったでしょ〜!」
「そんなこと、ふふっ、ないぞ‥‥?」
「ほら笑ってるし〜! 悪い子にはお仕置きだよ〜?」
睡は太一に飛びかかると、脇腹をくすぐり始めた。
「ちょ、バカ、やめ……! ははっ、こら、ははは‥‥っ!!」
「ふふ! おりゃ、どうだぁ!」
「ふっ、はは……! やっぱり、くっ、ゆ、夕凪は、可愛いな……! く、はは……っ!」
「……っ! ……反省の態度が見られませんなぁ〜?」
頬を朱く染める睡が、より攻勢を強めていく。
ひとしきりくすぐられてから、ようやく解放された太一はその余韻と共に呼吸を荒げていた。
「はあ……、はあ……」
呼吸を整えながら、時計に目をやるとそろそろバイトの時間であることに気がついた。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。それこそ、世界も忘れて。
「……なんか、逃げたかったのかも」
ぽつりと、太一が呟く。
「逃げる?」
「多分、初めてここに来た時から……ふと今、そんなことを思った」
「……そっかぁ」
太一はソファから立ち上がると、机の上に出したままの勉強道具をカバンの中に入れた。
「これからバイトだから先に行くよ」
「うん。頑張ってねぇ〜」
睡がブカブカの袖をひらひらと振るのを尻目に、太一は部屋を出て行った。それを見送ると、睡はその場でぐっ、と大きく伸びをする。
「ん……っ、ふぅ〜……」
脱力したまま、こてん、と背もたれに首を預ける。ポケットから携帯を取り出すと、なんとはなしに先ほど太一が口にした言葉を打ち込んでいた。
『逃避』
「取り組むべきことから逃げて避けること……ねぇ」
暗がりにぼやっと光る電子の文字を読み上げる。字面をそのまま捉えれば、いかにも悪いことのようだ。けれど、先ほどの太一にはそんな後ろめたさのようなものは何も無いように見えた。そのことが睡には少し嬉しく感じられる。
「……一人じゃないから、かな」
見渡すと、太一のいない部屋がやけに広いような気がした。
「そろそろ帰るか〜」
緩慢とした動きで、睡がソファから立ち上がる。椅子に置いていたブラウンのリュックサックを肩にかけてから、廊下に出た。部屋を振り返ると、ヘッドフォンを首から外し、耳に被せる。
「私も、うるさいのが嫌いで、だからね〜……」
そう呟くと、睡はもう誰もいない部屋の戸を閉じた。
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